権利は武器だ! その権利で武装しろ!! 知的財産の大切さと今後のあり方について問う
山本特許法律事務所
代表
山本 秀策
男は、知的財産のエキスパートになった。キッコーマン中央研究所の研究職から弁理士の道に進み、スタッフ200人以上の規模を誇る山本特許法律事務所を育て上げた、前代表、山本秀策。知的財産問題に関して国際的に高く評価されるにいたった経緯と、知財の権利について山本の考え方とは?!
蟹瀬山本秀策特許事務所は、知的財産問題に関して国際的に高く評価されている特許事務所の一つなのですね。山本さん、業務を進めていく上では、いろいろな決断あるいは選択をなされると思うのですけども、賢い選択って一言で言うと、どういうことですか?
山本国際的視点で先を予測するということですね。大切なことは、間違ったと思ったら躊躇(ちゅうちょ)なく引き返して、すぐにまた別の道を考えるということです。
蟹瀬なるほどですね。
山本もう少し言えば、私は直感でむしろ進めていると言うほうが、正しいか分かりませんね。
津島はい。そんな山本さんが、いかにして弁理士として成功を収めたのか、その秘密に迫ります。
大阪、中央区に本拠を置く山本秀策特許事務所。1979年に代表の山本秀策によって創立された。知的財産とは、特許、商標、実用新案、意匠、不正競争など多岐にわたる。事務所では、これらの権利化手続きやライセンス取得、相談サービスなどを行っている。スタッフは、高度な知識を持つ弁理士、弁護士、バイオ、情報通信などの専門家で構成されている。クライアントの9割は、米国をはじめとする海外からの依頼であり、世界的な信頼が高い。年間依頼件数は7,000件を超えている。
津島山本さんは、常に国際的な視点を持って仕事に臨んでいるそうです。そんな山本さんが今までどのような人生を歩んでこられたのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。1943年、奈良県奈良市に生まれます。1962年、大阪府立茨木(いばらき)高等学校卒業。1966年、大阪大学工学部醗酵工学科卒業、キッコーマン株式会社入社、第九工場配属ということです。
蟹瀬山本さんは、大変エネルギッシュでいらっしゃるのですけれども、お父さまは大変固いご商売なさっていたと? ご商売と言うと怒られるかもしれませんが。
山本そうです。
山本正直、真実一路の男でしたし、役人をしておりました。裁判所に父は勤めていたんです。
蟹瀬そうですか。そうすると山本少年は、そのお父さんから相当いろいろ厳しくしつけられたわけですか?
山本怖い父でした、すごく怖い父でした。ただ、生まれてみると、いつもおばさんたちが山ほど周りにいるんです。なんだ?と思ったら、姉なんです、姉が4人上におりまして、5番目で初めての長男でしたから、かわいがってもらったんですけど怖い父親で、母が大変優しかったです。
蟹瀬子供の頃、そうすると夢中になられたことは、どんなことがあったのですか?
山本そういうわけですから、幼稚園とか学校に行ってしまう、家が誰もいなくなる、両親はいますけど。それで近所のお兄ちゃんお姉ちゃんも学校なんかに行っていない。玄関出たところに水道のメーターのボックスがあるんですけど、鉄でできた、そこにいつも座って空を見ながら、1日が長いな、どうしてこんなに長いんだろうなってずっと思っていた子どもだったんですけど、夕方になると、お兄ちゃんとかおじちゃんが将棋をしていたんですね。
蟹瀬そうでしたね。あの頃は縁台将棋とか、外でさしていましたよね。
山本でしょう? それを見ているうちに将棋が好きになりまして、将棋に夢中になって、そのうちそのおじちゃん、お兄ちゃんを負かすようになりまして、もう将棋に本当に夢中になりました。小学校6年のときに、父が将棋の台と将棋を買ってくれて、こんなうれしかったことはないですけど。それが実は後日、大学に入ってから、今度は父が囲碁の四段だったものですから。
蟹瀬有段者?
山本ええ。で、いつも父が羽織袴で座布団に座って囲碁の前で、一人でパチッパチッと打っているのを子どもながら見ていたということもあって、大学に入ったときに、今度は囲碁を勉強した、そういうことが結局は先を何手か読むという、ビジネス上に非常に役に立っているんじゃないかなと思っています。
蟹瀬よく言われますよね、やっぱり碁とか将棋とかやっている方は、その戦略とかものの考え方が自分の仕事でもすごく役立っていると。
山本そうですね。一瞬にして何十手をそれぞれの一つの道、こうなったらこうなってと何十手、また別の道はこうだと、それが非常に多分役立っているんじゃないかと思いますけどね。
蟹瀬究極の選択をしていくという作業ですもんね。
山本そういうことです。
蟹瀬しかも複数のいろんな道のりを考えなければいけないという。
山本はい。それも直感というのが大変重要で、論理的に詰めていっても結論は直感の結論と一緒という、よくありますでしょ?
蟹瀬そうすると、そのお父さまの姿を見て、自分もじゃあお父さまのようになりたいなと、裁判官になりたいなとか、そういう感じだったのですか?
山本ええ。父は裁判官ではなかったんですけど、母が私に言っていましたことは、司法試験に挑戦していたようなんですね、父も。ところが、胸を患って断念したと。父は相撲、村の横綱だったりしてものすごく元気な大きな男だったんですよ。私は母の話を聞いて、裁判官はいいなって、よく分からずにそんなことをいつも思っていた時代があったんです。ところが時代はエンジニアの時代で、誰もが、少し数学、物理あたりができればエンジニアという時代でしたので。
蟹瀬花形でしたよね?
山本はい。で、私も当然、そういう道なんだろうな、と思って行きました。
蟹瀬もともと理科系というのは得意な科目だったのですか?
山本ええ、数学とか物理とか科学が得意だったもんですから、何も考えずにエンジニア。その裁判官の話があったにもかかわらず、はい。
蟹瀬これ、大阪大学工学部醗酵工学科という、これ醗酵工学って、われわれはあんまり聞かないところですけど。
山本そうですね。当時としては本当にマイナーな学問だったと思いますね。
蟹瀬これを選ばれた理由っていうのはどういうことだったのですか?
山本単に科学、物理、数学が好きで、
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