「個性を磨け、愚痴を言うな」 ゴッド・ファーザーからの遺言


東京大学
野田一夫

SOLOMON

戦後の日本経済をけん引した数多くの名経営者らと60年に渡り対話を続けた経営学者、野田一夫氏。
起業家のゴッド・ファーザーと呼ばれる名伯楽である。卒寿を迎えた今、熱いメッセージを残した。

個性がぶつかり合った60年

野田一夫氏が1962年夏、マサチューセッツ工科大学(MIT)での2年間の研究生活を終えて帰国した時、日本は池田内閣が打ち出した「所得倍増計画」による力強い経済成長過程にあった。長い占領下で散々苦しんだ旧財閥系諸企業も、元気一杯の新興企業ソニーやホンダも、それぞれが競い合い、力強く戦後日本経済の成長を先導していた。

「その現実に接し、私の頭の中に『企業成長論』と名づけた発想が自然に生まれた。それに最初に共鳴してくれた毎日新聞『エコノミスト』誌の協力で、1962年4月から12月にかけ週、毎週5~6ページにわたって連載された『企業成長の決定的瞬間』が研究者としての私の新しい出発点となった」

「毎週、一定の基準に基づき各業種から厳密に選出された急成長企業一社を選び、その最終意思決定者から、企業成長の決定的なカギとなった発想から輝かしい実績達成に至るスリルに富んだエピソードを存分に伺えた。『企業成長』を終生の研究対象にすると決心した私には、何よりの勉強であった」

野田氏は出光興産の出光佐三、西武百貨店の堤清二、ソニーの井深大、石川島播磨重工業の土光敏夫、松下電器産業の松下幸之助などそうそうたる経営者37人と次々に会った。
この連載でエコノミスト編集部の若手記者で、その才と人柄を買われて野田氏の助手になったのが高原須美子さん(第一次海部内閣の経済企画庁長官)だった。
雑誌エコノミストの連載で野田氏は「革新的成長企業こそ一国の経済成長の実質的牽引力」という確信を固めた一方で、学者として企業を外から見るだけでなく、その中にも入っていった。それが野田氏の真骨頂だった。

「企業成長をその牽引者である最高意志決定者の回顧談からのみ学び取ったことに多少不安を感じた私は、先方からの要請があれば、非常勤ではあったが、企業成長を内部からも観察したんだ」

「記憶に強く残るのはソニーと伊勢丹。ソニーは創業者の一人・盛田副社長から、伊勢丹は山中常務(共に当時)からそれぞれ依頼され、3年ずつ勤めた。ソニーは猛進撃中の新興電機メーカー、伊勢丹は(進駐米軍による接収解除後の)ハンディを早期克服しつつあった百貨店。実に働き甲斐を感じたものだ。改めて振り返ると、立教の専任講師時代に日本鋼管(現在のJFEスチール)の依頼で数年間非常勤で働いた。その経験は、後にMITに招かれて国際プロジェクトに参加した際、実に役立った。幅広い業種の会社での実体験こそ経営学者としての僕の宝だ」

多くの会社を社内外から見る過程で、個性あふれた経営者らを間近に見続けた。

非連続さが時代を大きく変える

「本田宗一郎さんが一升瓶を下げて通産省(現経産省)に乗り込み、自動車課の前で『バカヤロー、お前たち官僚が日本を弱くしている』と怒鳴ったエピソードは有名だ。当時ホンダは二輪車から四輪車への参入を狙っていた。
一方、通産省が自動車会社の統合や新規参入規制で競争力を上げようとしたことが本田さんには気に食わなかった。若い社員は自動車を作りたかったので、社長の行動で意気が上がったに違いない。素晴らしい物語だ」

松下は本田とは違った形で社員掌握に努めたようだ。1964年の東京オリンピック前後、日本経済は明から暗へと転じようとしていた。販売店の在庫が増え始めていた。何とか苦境を打開しようと販売店会社社長らを集めて開かれたのが「熱海会議」だった。

「松下さんは熱海会議で『共存共栄の心を説きながら、それを忘れ、経営悪化を招きました。今日から松下電器は生まれ変わります』と涙ながらに頭を下げた。それが功を奏し、販売店と一丸となって経営立て直しに向かうことができた。経営者が自分で考え、決断し、会社をまとめていった。」

1960年代から70年代は戦前、戦後の創業経営者が活躍した時代である。

「サラリーマン経営者は会社に一兵卒で入って、結果的にリーダーになった人たちだ。それに比べ創業経営者は小さいながらも最初からリーダーの役割を果たしてきた人たちだ。そこが大きな違いだ」

だが当時、サラリーマン経営者にも魅力的な人たちがいた。連載記事「企業成長の決定的瞬間」にも土光敏夫や田代茂樹(東レ)ら大企業のサラリーマン経営者も多く登場する。

「終戦は非常に大きなショックだった。多くの経営者がパージされ表舞台から消えていった。その時、誰に後事を託すか、と考えたとき、年功序列では選ばなかった。土光さんもまだ工場の課長クラスだった。会社を去る社長は、能力主義で後事を託す人材を見つけていった。だからあのころの優秀な若い経営者には創業経営者と同じように腹が座った人が多かったのだろう。戦前から戦後への変化は不連続だったから、がらがらとトップ人事も変えることができたのだ」

野田氏が30歳代に親交を深めた経営者らは言葉の達人でもあった。多くの宗一郎語録の中にも哲学性を感じさせるものが多い。「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である」などは理念と行動の関係性を言い得ている。

「松下さんも本田さんも尋常小学校しか出ていないが、教養がないとか、下品だとかみじんも感じさせなかった。一升瓶で通産省に乗り込んだ本田さんも粗削りだけれど下品ではなかった。創業経営者らの言葉は自分の生活の中から身に付いたもの、あるいは心の奥底から生まれ出た経営活動の中で身に付いたものだったと思う」

出演者情報

  • 野田一夫
  • 1927年
  • 愛知県
  • 東京大学

企業情報

  • 東京大学
  • 公開日 2017.07.15

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