「欲なくしてできぬ社会貢献」 天皇執刀医の働く極意
順天堂大学医学部付属順天堂医院
院長
天野篤
どんな苦境にもあきらめず、一途に患者の命をつないできた。心臓外科医になって執刀した患者の数は7500例を超えた。天皇陛下もその中の一人である。人間の営為とは思えぬほどの努力を続ける天野篤 氏はAI(人工知能)やロボットとの対峙をどう受け止め、医者として、そして人としてどう働くべきかと考えているのか。その極意を探った。
Chapter 1 ロボットは人を超えるのか?
心臓外科医の天野篤氏は「神の手」と自らのことを言われると、「私はそう呼んでいません。 みんなが言うだけ」とやや不満そうな表情をみせる。本人にしてみれば、ひたむきにひたすら 努力し、世界でも類を見ないほどの手術数をこなし、その経験の中で腕を磨いてきたにすぎないという思いがあるのだろう。人智を越えた「神の手」というよりも、あくまでも「人の手」を磨き、鍛錬して出来たのが天野氏の「手」だと言うべきである。
手術数が2000例を超えるころまでは、予想外の事態にあわてたり、先が読めなかった りした経験があったという。3000例を超えたころから大局観のようなものが身に付き、「技が身に付いたと思えるようになったのは、5000例あたりから」と言う。27歳で医者となり25年が過ぎた52、53歳のころだった。今では7500例を超え、前人未到の領域に入った。
「僕が見ている世界はまだ誰も見たことがない世界。100メートル競走ならば、ウサイン・ボルトが見た世界のようなものかなあ」
多数の命を救うために必死になって立ち向かった手術の中で得た技について、天野氏は素直に自負心を持っている。天野氏の手術では無用な出血はないという。柔らかい組織に力を込めればメスが深く入り、傷つけてはいけない部分を傷つける。メスを入れる組織の色や様子を見て、メスにかける力を 微妙に調整する能力を、天野氏は手術例が増えるにつれて身に付けた。
自著『あきらめない心』(新潮文庫)の中で「僕の握力は45キログラムだが、瞬時に20グラムの力に切り替えることができる。どういうことかというと、45 キログラムという自分にとっては最大の力で何かをグッと握った後に、パッと20グラムのごく軽いものに握り替えても、手がぶれないし、震えない」と書いている。天野氏は自らの手に外科医としての大きな武器を持っている。
本人は「神の手」を否定するが、天野氏の技は心臓外科医としては最高水準に達しているのは確かである。
様々な分野でAI(人工知能)やAIを活用したロボットへの期待が高まっている。AIは将棋の羽生善治さんに勝てるのか?AIの知能が人類を超える「シンギュラリティ」はいつ来るのか?人とAIとの競争が今、始まっている。
外科手術の世界でも手術支援ロボット「ダビンチ」を始めとして、手術ロボットの開発が進んでいる。この状況を天野氏はどう見ているのだろうか。
天野氏は「AIについて詳しくはない」と断ったうえで、人とAIの違いについてまず語り始めた。
「人間は人間同士で戦ったり、自己を犠牲にしたりして、成長してきました。自己犠牲だけでなくチームとしても犠牲を顧みず、成長、進化してきたのが人間です。だがAIやロボットは自分を犠牲にしてまで進化しようとするでしょうか」
天野氏は人とAIの根源的な違いを指摘する。患者のために寝食を忘れて、ひたすら努力 を重ねてきた天野氏がようやく、たどり着いた領域にAIはそう簡単に追いつけまいというプライドがあるにちがいない。
手術中には予期せぬ事態が発生し、天野氏は 患者を前に心が折れそうになったこともある。だが、その苦境を乗り越えられたのは、「自分の命と取り替えてもいい、とにかく命を助けたい」という思いと、それを支える同僚医師や看護師、臨床工学士などとのチームの力だった。天野氏は「突然変異的な発展が人間にはある」と人間の力を信じている。
現時点でのAIの利用について、天野氏はこう見ている。
「どういう症状ならどういう治療法が適しているというエビデンスが蓄積されている例ならAIは結論を出せます。だがエビデンスがない症例では答えは出せない。そのボーダーな部分の医療は現時点では人間が判断するしかありません。患者の希望を聞き、患者が置かれている状況を踏まえ、手術をするかどうかの微妙な判断はAIにはまだできないでしょう。もちろんAIの予測の範囲が将来、時間的、空間的に広がり持つようになれば、そういう微妙な答えも出せるかもしれませんが」
一方、天野氏は手術を支援するロボットの活用についてこれまでは消極的だったが、導入に 向けて舵を切った。順天堂医院でも米国で開発された手術支援ロボット「ダビンチ」を導入し、ダビンチを使える外科医の育成を始めた。
天野氏は手術支援ロボットを巡る現状をパソコンの歴史に例えて「Windows95が出てきた95年ごろに匹敵する」と見ている。それまでのパソコンは少数のマニアだけが使う代物だったのが、Windows95の出現で一気にユーザーが増え、メーカーの競争も激しくなり、使い勝手も格段に良くなった。
「さらにいいものが出てから使い始めては後れを取ります。今始めなければ今後のハードの進化を受け入れられなくなると考え、ギアを切り替えました。実は、僕は順天堂にロボットを入れようとしている院長なのです」
手術支援ロボットを使えばどんな効用があるのか。今のロボットは腹や胸の何カ所かに小さな穴をあけ、そこにアームを差し込む。アームの先にはカメラやメスなどがついている。外科医はロボットの脇で組織の周辺の3次元画像を見ながら操作する。外科医が直接メスを握るよりも手ぶれがないという。
「外科手術の大きな課題は手術後の合併症をいかに減らすかです。人よりもロボットの方が管理型の手術が可能で合併症を減らせるかもしれません。そうなれば患者にとっても病院にとってもメリットがあります」
天野氏のような手術の名手は組織をむやみに傷つけず、結果的に合併症も引きこさない。それほどの名手でなくても手術支援ロボットを使えば同じレベルの手術ができるようになるということか。天野氏が手掛ける高度な手術が将来はいろんな病院でできるようになるのだろうか。
「僕しかできない手術は減るかもしれません。それは患者さんにとってはいいことだと思います。でも僕しか対応ができない何かが残るようにしたいと思って、もがく自分がいるんですよ」
手術支援ロボットの使用には効用があるかもしれないが、現状は医療費の高騰を招く恐れがある。天野氏は「費用対効果の検証が必要だ」と指摘する。
「低侵襲(患者の体をあまり傷つけないこと)手術といわれるもので低価格を実現したものは多くはありません。その中で僕が手掛けてきたオフポンプ手術は医療費を大幅に削減しました。人工心肺装置(ポンプ)を使わず、心臓を拍動させたまま手術をします。人間本来の血液循環を保ったままの手術なので術後の回復も早い。ポンプが不要なので医療費も安くなる。ロボット活用で低侵襲を実現したとしても医療費が高くなっては問題です。ロボットを活用しながら人にメリットを与え、低価格も実現するという知恵が必要です」
発展しつつある手術支援ロボットは「マスター・スレーブ型」という。外科医が主人で、 ロボットはその奴隷というタイプである。ロボットは人と対峙する存在ではないはずだ。ロボットは人が使いこなし、人に優しい手術を実現し、しかも安い医療を実現する術にすぎない。天野氏が考えるロボット活用はあくまでも 患者のためになるかが基本にある。
順天堂大学の教授となり、附属病院の順天堂医院の院長になった天野篤氏は医学生や若い 医者を教育する立場になった。最近の医学部ブームで模擬試験の偏差値が高い学生が医学部に多く入り始めた。医学生や若い医者に最近、繰り返し話すのが、医師になるまでに誰に支えられ、育てられているかということだ。
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