ホンモノの働き方改革を実践中。理念のない会社も経営者も存在意義がない
サイボウズ株式会社
代表取締役社長
青野 慶久
「働き方改革」がブームになっている。
そうしたなかで注目されているのが、早くから働き方改革に取り組んできたサイボウズである。
しかし、世の中のブームとサイボウズが取り組んできたものとは、まるで別物でしかない。
サイボウズの働き方改革は失敗のなかから生まれてきた。
世の中のブームは、理念のない経営と同じで意味がない。
ネットワーク環境を利用してスケジュールやファイル、電子メールなどの情報を共有することで会社内やチームでの作業を効率化するための情報共有ソフトが「グループウェア」だ。 その有効性は急速に認知され、導入企業も増えつづけている。そのグループウェア市場で圧倒的なシェアを誇るのが、青野慶久氏が社長を務めるサイボウズである。
青野氏から手渡された彼の名刺は、創業20周年の特別バージョンになっていた。それは2つ折りになっており、裏には、20周年を迎えての決意を示す文章が綴られている。冒頭には次のようにある。
「誰でも使えるグループウェアを作りたい。20年前、そんな動機で会社を辞め、3人でサイボウズを設立しました。2DKのマンションでした。給料はゼロでした」
サイボウズの創業は1997年で、最初のオフィスは四国の愛媛県松山市に置いた。青野氏と創業メンバーで初代社長を務めた高須賀宣氏が愛媛県出身であり、もう一人の創業メンバーである畑慎也氏も徳島県に本社のある会社に就職していたので四国には土地勘があるということで松山市に決めたのだ。家賃が7万円だったことも、大きな理由だったに違いない。
たった3人で始まった会社は、またたくまに成長していく。
思い描くソフトがあったら創業しなかった
サイボウズも存在しなかった
青野氏は1994年に松下電工(現・パナソニック)に入社しているので、創業は3年後のことになる。創業のきっかけは、「ウェブ」という新しいインターネット技術が1995年ごろから普及してきたことだった。 「それを使ってモノを売ったり、メディアをつくるなど様々なアイデアがあったはずです。しかし私は、そんなことに興味がなかった。
この技術を使って情報を共有できるようにしたら、もっと効率よく、そして楽しく働けるだろうな、と考えていました」
当時、私が思い描いたソフトが市販されていれば、それを松下電工に導入して終わりだったはずです。サイボウズの創業はなかった」
創業からわずか2カ月後の1997年10月には、サイボウズ初の製品となるグループウェア・ソフト「サイボウズ Office」が発売される。使いやすくて手軽に情報共有を実現できるまさに青野氏の思い描いたソフトだった。
売れ行きは好調で、グループウェアのニーズを実感することになる。その年の12月は単月で黒字化、翌年の3月の売上は1000万円を超えるという、まさに「うなぎ登り」だった。
勢いは止まらず、売上が増えて、人手不足が深刻な状況になっていく。人材確保のために、1998年に大阪市へ移転する。そして1年間で社員を15人増やし、1999年に市場投入した「サイボウズ Office4」が大ヒットとなる。マンパワーが功を奏したのだ。
2000年には東京オフィスを開設し、東京証券取引所(東証)マザーズへの上場も果たした。2年後には東証二部へ市場変更する。創業から約4年7カ月後での二部上場は、史上最短だった。ただし、順風満帆とはいかない。
2005年に、青野氏は社長に就任する。彼は、世の多くの経営者と同じく、会社を大きくして名経営者と呼ばれることに取り憑かれた。そして次々とM&Aを実行、その数は1年半で9社にものぼった。売上は短期間で4倍になったが、買収した会社の実態は最悪だった。 「規模を大きくすることだけ考えて、買収した会社の実情を見ていなかった。M&Aに本気ではなかったんですね」
2006年には、業績の下方修正を発表しなければならないところまで追い込まれた。
「ネット上でも『バカ社長』とか、ボロクソに言われました。自信もなくし、本気で死のうと思っていました」
そんなとき、ふと目にしたのが、松下幸之助の言葉だった。それが、「本気になって真剣に志を立てよう」
目が覚める思いだった。真剣に命をかけられるものだけやろう、と決意した。売上が減ることも怖くなくなり、命をかけられない事業は売却した。
命をかけられるもの、それを真剣に考えた。答えは簡単だった。
「グループウェア」
チームが楽しく生産性よく働けるソフトをつくる、創業の志である。以来、青野氏の志にブレはない。それが、20周年名刺に記された「グループウェアを作りたい」に表れている。
ブラック企業から人が去る それには理由がある
2017年9月13日付の『日本経済新聞』に、サイボウズは一面広告を載せている。製品を宣伝する広告ではない。
「働き方改革に関するお詫び」
これがタイトルである。安倍晋三内閣は2016年9月、内閣官房に「働き方改革実現推進室」を設置し、働き方改革を提唱した。以来、「働き方改革」が大きな関心事になっている。
その働き方改革については、安倍内閣が提唱するずっと前から、サイボウズは実行してきている。そのため、「働き方改革といえばサイボウズ」との評価も受けてきた。しかし自分たちが実行してきた働き方改革と世間のそれとは大きなズレがある、と青野氏は違和感を感じていた。そこで、先の「お詫び広告」だった。「お詫び」となっていたが、実はサイボウズからの「苦言」といったほうが正しい。
サイボウズの「お詫び広告」は、「この国に『働き方改革ブーム』が到来し、私たちの活動に広く注目していただけるまでになりました」と述べ、その後に次のように続けている。
「ところが、ところがです。私たちの意思はまったく伝わっておりません。とにかく残業はさせまいとオフィスから社員を追い出す職場、深夜残業を禁止して早朝出勤を黙認する職場、働き方改革の号令だけかけて職場に丸投げする職場。なんですか、そのありがた迷惑なプレミアムフライデーとやらは・・・」
痛烈である。それだけ世の中の働き方改革についてサイボウズは、誰よりも青野氏は怒っているのだ。世の中の働き方改革とはまるで違うサイボウズの働き方改革を知るには、まず、なぜサイボウズで働き方改革が始まったのか、について知っておく必要がある。青野氏が語った。
「私が社長になって約1年後の2006年1月期に、サイボウズ社員の離職率は過去最高の28%になっていました。4人に1人が入社して1年以内に辞めていた。さすがに、この状況は変えなければならない、と考えました」
そこまで離職率が高かったのはなぜなのか、その質問に青野氏はきっぱりと答える。
「ブラックな働き方を社員に強いていたからです」
さらに、「ブラックな働き方が当然だと思っていましたからね。ITベンチャーでブラックなんて普通だろう、と考えていました」とも言って笑った。そういう働き方を青野氏自身がやってきたからでもある。
創業したころの青野氏の退社時刻は、夜中の1時や2時が普通だった。しかも、給料はゼロである。そんな働き方を続けていたある日、アパートに帰るや前向きに倒れ、心臓はバクバクと異常を示し、気を失ってしまった。幸い、12時間くらい後に意識を取り戻したが、まさに過労死寸前である。本人も、「死ぬのか」と思った。
だから、「ブラックで普通だ」という感覚にもなる。自分の経験からしか発想できず、時代の流れを読めない世の経営者たちと、青野氏も同じだったことになる。
そういう組織では、不満や文句ばかりが飛び交う。そして、辞めていくのだ。かつてのサイボウズが、まさしく、その状態だった。
多くの経営者は、社員の不満や文句を無視してしまう。「仕事とは、そういうものだ」で済ませてしまうのだ。辞めていく社員を止めることは絶対にできない。
青野氏が違っていたのは、辞めていく社員がいる現実を直視し、辞めさせない具体策を考え、実行したことだ。それをやっていなければ、いまごろサイボウズはブラック企業の烙印を押されていたかもしれない。
その前に、現在のような一目置かれる業績をあげられていたかも疑わしい。社員が辞めない会社をつくるために、青野氏は何をやったのか。
「一人ひとりの我が儘を受け入れることでした。それこそが本当の働き方改革です。
残業をしたくないなら、残業をしなくていい。短時間しか働きたくなかったら、そうすればいい。在宅勤務をやりたければ、在宅でいい。そんな働き方を選べる改革を進めました。そういう働き方ができて、はじめて楽しく働けます。楽しい会社なら、社員は辞めません」
とはいっても、社員それぞれが望む働き方は違っている。それを、すべて聞き入れていては収拾がつかなくなるはずだ。その疑問を青野氏に向けると、笑いながら答えた。
「いっぺんにはできません。だから、こっちを先にやるから待ってね、と順番でやっていく。それでも、要望を無視することはしない。必ず実現できる体制を整えて実行してきました」
社員目線での働き方改革なのだ。そこが世の中の働き方改革とは大きく違う。青野氏が「お詫び広告」ならず「苦言広告」を行った理由が、そこにある。
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