「知財は武器」 経営トップが
知財戦略のかじを取り
戦い挑め
山本特許法律事務所
弁理士
山本 秀策
「毎日、怒涛の如くアメリカから仕事がやってくるのです」
弁理士の山本秀策氏はJR大阪駅の北側に立ち並ぶ高層ビルの中にある事務所で明るく笑う。山本特許法律事務所のクライアントの8割は海外の企業や大学が占め、その9割がアメリカである。野村総研特許データベースによると、米国企業・大学がその特許を日本で出願した件数は、山本特許法律事務所(2014年までは山本秀策特許事務所)が03年から18年までの16年間、2位を寄せ付けないトップであった。
アメリカは合衆国憲法第1章第8条で「著作者および発明者に対し、その著作および発見に関する独占的権利を保障することにより、科学および有益な技芸の進歩を促進する」と明記している。建国時から市民の権利保障を念頭に知的財産に対する高度な問題意識を持っていた。それがアメリカである。知財を武器にビジネス社会を戦う歴史が長いアメリカの企業や大学が、日本での特許申請で山本氏を指名し、パートナーとして選んでいるのだ。
日本企業のライバルでもある海外勢の代理人として多くの特許を出願している山本氏は日本政府にとっても企業にとっても気になる存在だったようだ。かつて通産省(現経産省)の官僚に呼ばれ、「日本が行う特許性の判断に国内案件と外国からの案件とで差を感じますか」「なぜ山本さんはアメリカのクライアントの案件に力を入れるのか」というような主旨の問いかけがあった。
山本氏の答えはこうだった。
「明らかに差があります」「アメリカ企業の優れた研究成果を特許にしてこそ、それをさらに越えようとみんなが研究するのです。それが日本の国際競争力に繋がります。アメリカのそんな研究を日本で特許として認めないのはむしろ日本企業を甘やかせ、競争力を損ないます」
山本氏は官僚たちの疑問にこう答え、わかってもらったことを記憶している。草創期にも達していない日本のバイオ産業を国策として保護すべきとの立場は全く正しい。ただ、国際競争の推進という観点からはどうか、という問題でもあった。
山本氏の考え方は明快で正論である。だがそれならば、なぜ日本企業は山本氏の事務所に知財戦略の助言を求めないのだろうか。山本氏に問うてみた。
「昔は日本の大手電機メーカーや食品メーカーもクライアントでした。しかし最近はお断りしています。昔に比べれば知財戦略の重要性は理解されてはいますが、海外勢にくらべればまだまだです」
山本氏は近著『知財がひらく未来/山本秀策 仕事の哲学』(朝日新聞出版)の第一章の冒頭でもこう書いている。
「知財の世界に身をおいて四十五年になる。
振り返ってみれば、それは〝戦いの人生〞だった。特許をめぐる相手方との戦いだけではない。日本における知財の認識とその取扱いは、欧米諸国に比べれば周回遅れと呼ばれる状況だった。」
確かに日本の大手メーカーは数多くの特許を出願してくれるから特許事務所にしてみればいいクライアントである。しかも社内に特許部などを設置し、弁理士を抱えている。多くは新しい技術の概要をすでに書類にし、それを特許申請書類に書き換えるという「代書屋」のような仕事を特許事務所に持ってくるのが実情である。
特許事務所にとっては楽な仕事ではあるが、クライアントに本当に利益をもたらす仕事になるかは疑問である。なぜならば代書屋的な仕事では、企業にとって強い武器になる特許にはならないことが多いからだ。
山本氏は「特許はバズーカ砲のような武器にならないとダメ。自動小銃や鉄砲ならまだ使えるが、水鉄砲や紙風船みたいな特許では何の役にも立ちません」と言う。日本企業が持つ多くの特許は水鉄砲のようなものだという思いが山本氏にはある。「いい研究をしてもいい特許にはならない」。価値ある研究成果を「いい特許」にできるかが弁理士の腕であると信じ、実践してきた45年だった。
自分たちの開発した技術の本質を見抜き、逃げ道の無いような堅固な特許とし、ライバル企業が同じような製品やサービスを提供するにはその特許を使わざるを得ないようなものにしなければならない。弁理士は常にバズーカ砲のような武器となる特許をつくり上げなければならない所以である。
特許出願は発明とそれを文章にした明細書からなっている。明細書の書き方が不十分ならば、権利範囲が狭く解釈されたり、もぬけの殻になっていたりする。
弁理士は単に技術が理解できるだけではダメだ。事業目的や経営戦略を理解したうえで、特許庁の考えを推測し、裁判所の判例を考慮し、そのうえでクライアントの権利を最大に強くする方策を考え抜くことが必須なのだ。その技を磨くにはたくさんの多様な実践経験がなくてはならない。
「知財の世界は底のない世界。この道に入って45年、76歳の私がまだ飽きずにやろうとしている世界です。3年、5年で分かる世界ではありません。大企業が抱えている弁理士だけで戦おうとするのは、生兵法は大けがのもとの類です」
日本の多くの企業は知財戦略を実行するための厳しさがまだ分かっていないようだ。山本氏はクライアントのために技術者だけでなく、経営者に「この技術をつかってどのような製品、サービスを市場に提供し、どのように収益化しようとしているのか」といった経営戦略を詳しく聞き出したうえで、戦える武器に仕上げるという。しかし多くの日本企業は技術者だけの面談や社内弁理士の書いた書類をもとにして申請書類を書かそうとする。これでは戦える武器はつくれないと「丁重にお断りしているのです」と山本氏は言う。
山本氏が知財という奥深い世界に足を踏み入れたのは大阪大学工学部発酵工学科を卒業し入社したキッコーマン醤油(現キッコーマン)での出来事がきっかけだった。
キッコーマン本社がある千葉県野田市の工場と中央研究所で勤務した後、関西工場に転勤した山本氏が開発したのは「二六二菌」と呼ばれた麹菌。アミノ酸の濃度が高くなり、うまみの強い醤油がつくれる麹菌だった。
この麹菌を特許申請する際に外部の特許事務所が作成した書類を見て、山本氏は「書かれた内容は僕の研究に似ているが、大事なポイントがちょっと違うな」と感じたという。今、思えば、書類を作成した弁理士が研究成果を十分理解していなかったために、研究成果の本質が権利化から外れ、武器として強くない特許申請になっていたのだろう。
山本氏はその時まで特許制度の存在や弁理士という職業をまったく知らなかったが、その一件が契機となり、キッコーマンで働きながら知財の勉強にのめり込んでいく。1972年、29歳の時に弁理士に合格した。 当時のキッコーマンは良くも悪くも極めて「日本的な会社」だった。社宅は完備され、制服が貸与される。社員は家族の様に扱われ、直属の上司ばかりか経営幹部も目をかけ、世話をしてくれた。山本氏はすでに結婚し、生まれて間もない長男を抱えていた。ある意味、居心地が良すぎる職場だった。
一方で山本氏は知財の世界に魅力を感じ始めていた。「これからは知財の時代がくるのではないか。知財のスペシャリストはますます求められるようになるはずだ」(『知財がひらく未来』36頁)という思いが募ったものの、知財の世界に飛び込む決意が固まるまで2年の年月を要した。
弁理士として最初に働いたのは大阪市内の小さな特許事務所だった。海外展開を目指していた大手家電メーカーの仕事を引き受けていた。当時も知財の最先端はアメリカだった。アメリカをはじめとする海外の知財案件にかかわれると期待した。
だが現実は違った。大手メーカーから毎日届く案件を「代書屋」的に申請書類にする業務に追われる日々であった。
山本氏が知財の勉強を始めて夢見た世界はもっとエキサイティングな世界だった。研究成果を単に文書化するのではなく、その企業の将来のビジネスの方向性をにらみながら、成果を武器に磨き上げるという作業のはずだった。海外の案件に関わっているといえども、海外の代理人の指示以上のものではなかった。
「アメリカで学ぶしかない」
山本氏の結論だった。乳飲み子を抱えた妻を日本に残し、単身アメリカへと旅立ったのが78年春だった。初めての海外である。
研修先はワシントンDCの知財専門の法律家、ジェームス・E・アームストロング三世の事務所。アームストロング氏が講演のために来日した際、講演に感銘し、「報酬はいらないから知財の勉強のために研修生として受け入れて欲しい」と直談判したことが功を奏した。
ある意味、退路を断った「背水の陣」だった。妻は教師として働きながら山本氏に仕送りを続けた。アメリカでの1年5カ月に及ぶ研修は山本氏のその後の仕事を形づくった。それが今も海外から信頼される弁理士としての実績を支えている。
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