「個性を磨け、愚痴を言うな」 ゴッド・ファーザーからの遺言
東京大学
野田一夫
戦後の日本経済をけん引した数多くの名経営者らと60年に渡り対話を続けた経営学者、野田一夫氏。
起業家のゴッド・ファーザーと呼ばれる名伯楽である。卒寿を迎えた今、熱いメッセージを残した。
経営者らとの幅広いネットワークを持ち、誰であろうと物おじせず言い放つ。類まれな経営学者となり、3大学の学長を務めた野田一夫氏だが、見た目はすこぶる若い。90歳になった今もすっと背筋が伸びてダンディーに背広を着こなす。どうすればこのように格好良く年をとれるのか。
「僕の人生は父、哲夫がつくったと言っていい。とても個性が強い人で僕はおやじを憧れた。年生きているが、僕の人生の中で一番魅力的だったと思う人物もおやじなんだよ」
子供がこれほどまでに憧れる父に誰しもなりたいものだが、父哲夫は確かに傑物だった。野田家の先祖は南部藩士。明治維新後、祖父は裁判官となり、長男だった哲夫は盛岡で生まれ、育った。中学時代にライト兄弟の世界初飛行を知り、物理学を志し、東京大学物理学科に進む。卒業後は海軍技術研究所に入った。
「おやじはドイツに留学し、日本人で初めて航空工学を学んで帰国した。三菱財閥に招かれ、航空機製造の責任者になった。ゼロ戦の設計主任の堀越二郎さんはおやじの部下で、おやじを師事していた。当時は少し元気のいい少年はみんな航空少年。僕もおやじを誇りに思い、憧れて、航空技術者になるのが夢だった」
父哲夫はまさに凛とした「明治の男」だったようだ。野田氏は哲夫が畳やソファーで寝転んでいる姿を見たことはなく、いつもきちんとした服装で椅子に座っていた。
「おやじは、僕に『陰口を言うな』『愚痴を言うな』と叱責した。曲がったことが嫌いな人だった」
野田氏が小学校5年生だった頃の話も面白い。夕食を囲みながら「友達がクラスの悪がきにいじめられ可哀そうだった」とポツリと話すと、哲夫は「可哀そうだと思ったら、その場でなぜ助けなかった。明日、戦ってこい」と叱られた。
「僕は翌日、僕一人では勝てそうにないので、5人の仲のいい友達と一緒に悪がきをトイレの横に呼び出して、切々と仲良くしようと呼びかけた。すると悪ガキも非を認め『、みんなで楽しい学校生活にしよう』と肩を組んで泣いたもんだ。それをおやじに伝えると、『よくやった』と頭をなでられながらほめられたのを覚えているよ」
一方、哲夫は1941年12月から始まった太平洋戦争の戦況を冷静に見ていたようだ。「戦争は一機対一機のその場の戦いではない。大量生産の技術と研究開発のスピードで、アメリカと日本では天と地ほどの差がある。日本は長くは戦えないだろう」と幼い野田氏に語っていたという。哲夫の予測は的中する。1945年8月15日、敗戦。野田氏は旧制高校2年生だった。
「GHQの占領政策で『日本における航空機の製造ならびに保有の永久禁止』という通達があった。おやじは仕事がなくなり失業した。僕が進学したかった東大工学部航空学科も廃止となり、夢が消えてしまったんだ」
「その時はさすがに、おやじの口から愚痴が出るかと思ったが、愚痴一つこぼさなかった。おやじのもとには航空機製造の重要書類がたくさんあった。僕も手伝って、その書類を自宅の庭で燃やしたんだよ。悲しい顔でもするのかと思っていたら、『ほう、よく燃える』と平然としていた」
憧れの「明治男」、追い求める90歳
終戦直後、2週間ほどしたら自宅近くの図書館が開いた。失業者となった哲夫は毎日、弁当を持って図書館に通い始めた。
「なぜ図書館に行くのかとおやじに尋ねたら『お父さんは昔から科学技術の歴史を調べたかったが、今までは忙しすぎた。やっと暇ができたから本を書く』と言いながら悠々と家を出て行った。僕は呆然と見送るしかなかった」
その後、哲夫の書斎の机にはメモや資料が増えていき、およそ20年後の1969年、丸善から『科学世界史』(上・下巻)が出版された。「学者が書いたわけではない。技術者が、しかも失業者が書いた本だったんだよ。すごいだろう」
野田氏は父哲夫の労作を手にして今も誇らしげだ。愚痴も言わず、淡々とやるべきこと、やりたいことをやる。
時代とともに環境や状況は変わる。変化を嘆き、愚痴っても、何も生まれはしない。淡然と生きていく術を野田氏は父から学び取ったのだろう。戦前は旧制高等学校の理科で学んだ野田氏は悩みはしたが、戦後1年遅れで文系に変わり、東大文学部社会学科に進む。
「学者になりたかったわけではない。翌年に卒業を控えた秋、お世話になった尾高邦雄先生に呼ばれ『大学院特別研究生』として大学に残れとお達しを受けた。いったんはお断りしたが、『君は山岳部だろう。研究室に残った方がずっと山に登り続けられるぞ…』という言葉が殺し文句になり、社会人としての進路を決めてしまったんだ。人生すべて塞翁が馬だよ」
とはいえ野田氏の人生は順風満帆で進んだわけではない。
終戦後、10年も経っていない時代の大学は、「世間離れした愚かしい価値観と、それと無縁でないひどく時代錯誤的な制度や慣習に強い反発を感じた」と野田氏は後に東大時代を振り返っている。3年間が期限の「特別研究生」が終わるころ、立教大学助教授のポストを運よく手にした。
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