「やっぱり夢を発信する企業にしたい」。通信販売にかけた男の気迫。
株式会社ジャパネットたかた
代表取締役社長
高田 明
「ショッピングはエンターテインメント性を持たなければ駄目だ」。観光写真撮影販売からスタートし、通信販売事業に乗り出し年商1,000億円を超えるまでに至ることができた理由がどこにあるのか。自らスタジオを作り番組製作にまで乗り出した高田明が語る販売の秘密とは?
高田そうですね。大学時代は英語はやっぱり好きでですね。とにかく私の大学時代というのは、あまり授業に真面目に行く青年ではなかった、学生ではなかったし、結構ちゃらんぽらんという言葉かもしれませんけど、とにかくでも英語だけはESSに入りまして4年間。英語研究部というので、当時文化部では100人以上の大きい部でしたから、そこでやっぱりディベーティングコンテストとか、そういうのをやって英語をとにかくしゃべるようになりたいという思いがすごく強くて、英語だけの4年間だったような気がしますね。
蟹瀬そしてお仕事が機械メーカーを選ばれた? これはどういう理由からなんですか?
高田機械メーカーですね。それは貿易部がございまして、阪村機械製作所、これはネジをつくる機械で、ワイヤーから全部ボルトとかナットをつくる、1台で大きい機械では100トンぐらいする、それで輸出をしていました、当時。COMECON(コメコン)とか共産圏なんかすごく……。
蟹瀬共産圏にも?
高田はい。だからそういう所に輸出をするものですから貿易部があったんですよ。そこで英語が使えるのではないかというので。
蟹瀬なるほど、英語が使えるから。
高田はい。
蟹瀬それでメーカーへと?
高田はい。
蟹瀬そしてすぐ海外へ行かれてますよね?
高田まあ、ラッキーでしょうね。
蟹瀬だって1年ぐらいでしょう?
高田そうです……はい。これは本当、23~24のときに。
高田海外というのはしょっちゅう皆さん行かれますけども、当時、30年ぐらい前といいましたら、35年ぐらい前は本当にいい経験をさせていただいて、デュッセルドルフにホテルの部屋を置いて、ほとんどそこから、もう300回ぐらいポーランドとかチェコ(スロバキア)とかハンガリーも飛んで、また戻ってくる。
蟹瀬ではヨーロッパはほとんど行かれた?
高田そうですね、ほとんど行きましたですね。
蟹瀬お仕事のほうも相当大変だった?
高田いや、でも、そんなに言ったら怒られてしまいますけど、結構楽しまさせていただいた、その海外にいること自体が感動してますからね。だからそこで好きな語学を使って仕事をさせていただけるという、非常に今、阪村機械の社長、会長にはもう感謝感謝ですね、本当ありがたいと思いますね。
蟹瀬そこで世界へ羽ばたくかと思えば、ちょっと違うんですよね。
1973年、株式会社阪村機械製作所退職、友人と翻訳会社を立ち上げます。1974年、有限会社カメラのたかた入社。そして1986年、株式会社たかた設立、代表取締役に就任し家業から独立します。
蟹瀬しかし、英語が好きで、その英語が使える会社に行って、ヨーロッパにまで行けるようになった、そしたらそこでずっと頑張ろうというのが普通だという気がするのですが、これ、突然お辞めになっている?
高田それが普通ですよね? だから不思議なんですね。で、これ私自身の生き方かもしれませんけど、あまりものでもなんでも固執しないんですね。だからそのときにしたいことをして、その場所場所を一生懸命努力すればという、いつの間にかそういう生き方になってきたんですね。だから本当にヨーロッパまで行かせていただいて、そこでお返しをしなければいけないというのが普通なんですけれども、当時、仲のいい友達がいまして、翻訳会社というのはそんな立派なものじゃない。「二人でなんか翻訳の仕事なんかしようか」なんて言いまして、「じゃあ、俺も辞めるから一緒にやろうか」という、そういういきさつでポッと辞めてしまったんですよ。
蟹瀬今でいう起業ですよね?
高田はい。そして二人でちょっと何社か回って「翻訳いただけませんか?」といって。でもそれで食べていけるわけもないし、半年近くやってましたら、こんなに甘いもんじゃないなと。それで友達も別の道を行く、で、私はじゃあ平戸に帰ってみるかと、たまたま帰りました、平戸に。そしたら当時、父の会社、兄も弟も一生懸命カラー写真がすごく出てきたころでして……。
蟹瀬白黒からカラーへ変わる時期ですよね。
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