人類を救う がん治療法の開発者 「創りたい」と思わないと何も生まれない
米国立がん研究所
主任研究員
小林 久隆
人体には無害の近赤外線という光をがんに当ててがん細胞を壊す新しい治療法の臨床試験(治験)が米国で進んでいる。副作用はほとんどなく、がん治療の大変革を起こすと期待されている。この人類を救う治療法を開発したのは小林久隆・米国立がん研究所主任研究員。これまでヨノン化になかった治療法がもうすぐ実現しそうだという。イノベーションはいつ、どんな環境で生まれるのか――。小林さんの30年におよぶ研究から探ってみた。
近赤外線光免疫治療法の米国での治験は最終段階に入っている。
「米国ではフェーズ3まで進んでいます。早期承認制度も適用される見通しです。結果しだいでいつ承認されてもおかしくない段階です」
小林さんが開発した画期的な治療法の実現は間近に迫っているのだ。
京大助手から2001年にNIHに転じ、17年が経った。日米の研究環境にはどのような違いがあるのだろうか。NIHへの留学後、なぜ再び米国に渡ったのだろうか。
98年に助手になり、教育と診療を担うことになった。午後5時までは学生への教育と大学病院での診療に時間を使い、午後5時から深夜までを研究に振り向けた。NIH時代は昼間の8時間がすべて研究に費やせたことを考えると、日本で研究時間を捻出するには相当の努力がいる。助手時代の給料は少なく、他病院へのアルバイト勤務も必要だった。
「アルバイトをすれば実験する時間が減り、実験のためにアルバイトを辞めれば、貯金が減るという状態でした」
小林さんはそう振り返る。米国の研究者たちは研究に専念しているのに日本ではそうはいかない現実があった。研究に集中できる環境を手にするには再び、渡米せざるを得なかった。
研究者の報酬自体は日米で大きな差はないという。だが日本の医学部の若手研究者は教育、臨床、研究の3つの仕事を任され、研究に専念できないといわれる。世界と研究でしのぎを削ろうとすれば、研究時間の確保がカギを握る。
だが日米の研究環境について小林さんはこうも指摘する。「米国の研究環境と日本のトップの研究所や研究室を比べると今はもう大した差はありません。例えばIPS細胞を研究されている京大の山中伸弥先生の研究所は200人の陣容。私は10人ですから日本にもすごい研究環境が整い始めました」
小林さんが米国で研究を続けている理由は極めてシンプルだ。「私が米国の研究所でこの治療を開発し、その研究所は米国政府の機関。知的財産権は米国政府が持っている。それをライセンスする時に米国のベンチャー企業にライセンスした、ということ以外に米国で研究している理由はありません」と言う。もしも日本で治療法を開発し、知的財産権が日本にあれば日本で研究したということである。米国でないと研究ができないわけではない。
ただ「日本の研究室ではなかなか良いアイデアがあっても良い上司に恵まれない限りそれを現実のものにするのは難しい」(小林さん)。
米国でも同じような問題はあるようだが、小林さんが所属するNIHは比較的柔軟性のある研究ができる場だという。自由な発想を認め、柔軟な組織運営ができることが良い研究環境をつくるのだ。
研究費に関して日米の間で違いはあるのだろうか。日本の科学研究費(科研費)は14年度以降、2200億円とほぼ横ばいだ。限られた予算の中で「選択と集中」が進む。政府が重要だと判断した分野などの研究にお金が流れ込む。そんな状況を小林さんは少し心配している。
「私が日本にいたころは言い方が悪いですが、非常にバラマキ型でいろいろな小さな研究にもお金が回ってきました。ところが最近は何人かの有力者のプロジェクトに多くのお金が流れ込み、柔軟性のある新しい研究がやりにくい傾向があります。新しい研究の萌芽が育ちにくくなっているかもしれません」
世界の多くの研究者が競い合う遺伝子治療など流行りの研究を「捨て」、独自の研究に没頭してきた小林さんならでは指摘だ。研究の「選択と集中」という名のもとの一極集中は、光免疫療法のような画期的な治療法を生みにくくする恐れがある。研究分野にも多様性が必要なのだ。
米国でも同じような問題がある。NIHの研究費は比較的自由でいろんな研究ができるらしいが、一般的には政府の研究費の使途は日本よりも厳しく制限されているという。
また企業との共同研究に関しても米国は契約社会。契約で定められた研究だけに資金が振り向けられ、成果が出れば、企業に権利が譲渡されると決められることが多い。新しいアイデアが生まれ、少し脇道の研究に手を出すという柔軟性に欠ける面がありそうだ。
小林さんが開発した治療法も資金の調達に苦労した時があった。2013年に米国で治験を始めようとしていたが、資金がなかった。政府の資金を使うには手続きで手間暇がかかる。そんな時、楽天の三木谷浩史さんと出会った。
三木谷さんのお父さんにすい臓がんが見つかり、三木谷さんはがんの治療法を必死で調べた。その中で小林さんの治療法に関心を持ち、13年4月に二人は会った。三木谷さんは小林さんに資金がないことを知り、600万ドル(当時7億2000万円)を、出会いから一週間後にポンと出した。
「本当に助かりました。政府資金で治験をしようとすると一度にお金は集まらず、治験はステップバイステップです。ゴールまでの時間はもっとかかったはずです」
三木谷さんからの資金提供がなかったならば、光免疫療法はまだ最終段階に至っていなかっただろう。ある意味、小林さんの治療法は予期せぬ幸運に助けられた。
研究資金の柔軟な投入は必要だが現実には難しい。税金や企業のお金を投入する限り、日本でも米国でも法令や契約に縛られる。欲しい時に欲しいだけの資金を得る難しさは日米に共通している。米国だからたやすくて、日本だから難しいという単純な構図ではない。
小林さんががん治療のゴールに近づきつつあるのは様々な「融合」が存在したからでもある。「臨床」と「研究」の経験、「化学」と光エネルギーを使おうとした「物理」の知識、そして「米国」で研究する「日本人」としての2面性である。
「光」を使うことを構想し始めた15年前、島津製作所の服部重彦社長(当時、現相談役)との出会いがあった。NIHで研究している日本人だったことから服部さんが小林さんを訪問し、「『光』ってどうなんですか」と問いかけた。小林さんの説明を受け、服部さんは「サポートしましょう」とその場で申し出て、その関係は今も続いている。
「米国企業のように契約にがちがちに縛られず、人と人との関係を重視し、柔軟に対応していただいた」と小林さんは言う。島津製作所などの日本メーカーには素晴らしい分析技術がある。小林さんの研究を進めるには日本メーカーの助けがなくてはならなかった。
「日本には新しい医療開発を支える土壌があります。メーカーとの柔軟な関係を築けば日本の研究環境はもっと良くなるのではないでしょうか」
光免疫療法が臨床応用されるゴールにたどり着けば、小林さんは次に何を目指すのだろうか。
「あと2、3年で仕上げたい。これ以外の治療法をまた一から研究するのは私の能力では難しい。この治療を世界で一番知っているのは私です。医師免許のある日本に戻り、医師として治療し、一人でも多くの患者さんを救うような貢献をしたいです」
再び臨床医にもどり現場に立つのが小林さんの願いである。
「何か食べない、何かだけ食べる」はダメ
とにかく体調を整え、免疫機能を落とさないこと。風邪などにかからないためにも必要ですが、がんにできるだけならないためにも免疫機能を落とさないことは重要です。食事はバランスよく食べる。糖質を全くとらないというように何かを食べない、何かだけを食べるという食生活はからだにダメージを与えると思います。個人も会社もそうですが、リスク分散が大切です。
笑うことも大事。精神的に落ち込む期間はからだにストレスを与えています。笑う時はストレスの中にはいません。ストレス発散を心がけてください。灘中高ではテニス部。関西ジュニアでベスト16に入るほどがんばりましたが、今は忙しくてテニスはできません。X JAPANの歌を日本ではカラオケで歌っていましたが、米国にはカラオケがなくて歌えない。残念です。
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