社会的矛盾あるところにビジネスあり 千本倖生氏の起業道


株式会社レノバ
代表取締役会長
千本 倖生

SOLOMON

Chapter Two 連続起業家、千本倖生の人生とは
「存亡の危機」が生み出す企業を育てるイノベーション

1983年、たった一人の退職者
電電公社を辞め、起業家に

千本倖生氏が日本電信電話公社(現NTT)を辞めたのは1983年だった。当時のNTTは通信業界を独占していた国策会社だった。その年、いわゆる「天下り」ではなく自分の意志で退職したのは千本氏一人だった。将来が保証され、安定した職を放り投げるという当時では考えられない行動だった。その行動の源流は電電公社に入った翌年、67年にさかのぼる。25歳の時に米国のフロリダ大学に留学した。学生寮で同室になったジョン・ヒスロップ氏の口から出た言葉に千本氏は驚いた。
「Damn(ダム)!」直訳すれば「くそったれ」という、口汚い言葉。南部育ちで敬虔なクリスチャンだったヒスロップ氏の口から出た言葉とは到底思えなかった。なぜヒスロップ氏は千本氏にそんな言葉を投げつけたのか。
それは仕事について聞かれた千本氏が「政府が100%出資している通信の超一流の独占企業、電電公社で働いている」と答えたからだった。
「その語気には『すごい会社に勤めている』という雰囲気が漂っていたのではないか」と千本氏は振り返る。日本的な価値観ではその通りでも米国人にとっては「安定した大企業に就職して胸を張るような奴は〝くそったれ〟」としか見えなかった。ヒスロップ氏から投げかけられた言葉は千本氏の心の中にその後もずっと突き刺さっていた。米国生活で学んだ「自由、公正、競争」の大切さや多くの日本人の価値観とはまったく違う価値観が世界にはあることを教えられたからだ。

帰国後、千本氏は仕事に忙殺された。米国で学んだ新しい価値観を、すぐに具体的な行動に移すことができたわけではない。それにはもう一つの出会いが必要だった。

人生を変えた
稲盛和夫氏との出会い

それは83年9月、京セラの創業者・稲盛和夫氏との出会いだった。
独占企業体の電電公社も80年代に入り、技術の発展と自由化を求める時代のうねりの中できしみ始めていた。
83年1月、千本氏は電電公社の近畿電気通信局技術調査部長となり、大阪に赴任。関西財界の経営者らに情報通信革命の時代に何をなすべきかを説いて回った。次第に関西地区での「INS(高度情報通信システム)構想の伝道師」と呼ばれるようになった。松下電器(現パナソニック)の創業者、松下幸之助氏やサントリーの佐治敬三氏、ワコールの塚本幸一氏との親交が深まったのはこの頃だった。
電電公社の民営化議論も進んでいた。民間企業として切磋琢磨している経営者たちを目にして、千本氏は「単に民営化すれば、それでいいのだろうか」という疑問を持つようになった。千本氏はINS構想について講演するたびに、経営者たちにこう呼びかけた。
「ただ巨大企業が民営化するだけでは、お客様のためにはならない。複数の企業による健全な競争があってこそお客様のためになり、業界の発展にもつながる。電電公社に対抗する純粋な民間資本の会社をつくらねばなりません」
京都商工会議所で開かれた講演会でもそう呼びかけた千本氏の前に現れたのが稲盛氏だった。講演会をきっかけに、稲盛氏の経営哲学や経営手腕に惹かれていった。83年の晩秋、稲盛氏に「電電公社に対抗する、民間の通信会社をつくりませんか」と提案したのだ。それが第二電電(DDI、現KDDI)の設立につながり、千本氏の人生のターニングポイントとなった。起業家人生の始まりだった。

電電公社の民営化
競争相手あってこそ 消費者に利益

米国で大企業の安定した人生を「Damn!」と罵られ、それまでの価値観が揺らぎ始めたことが、千本氏を起業家としての道にいざなった。 しかも千本氏の起業スタイルは社会的矛盾、課題を解決するビジネスを興すというものだ。DDIの創業は「電電公社が民営化されるだけでは強いものが強くなるだけ。競争相手があってこそ消費者は自由化の果実を手にする」という確信が後押しした。
千本氏が念願だった大学教授のポスト、慶應義塾大学大学院教授の座を捨てて、99年にブロードバンド会社、イー・アクセスをつくったのも、日米のインターネット環境間には雲泥の差があったからだ。当時は大学の教授をしながら、複数の米国ベンチャー企業の社外取締役を務めていた。取締役会に参加するためにたびたび米国へ渡り、そのつどインターネット環境の格差を思い知らされた。
90年代後半、米国ではすでに大容量の通信回線を用いた常時接続が普及していたのに、日本ではまだ常時接続は普及しておらず、固定電話の回線を使う、ダイヤルアップ接続が一般的だった。
ビジネスや生活をするうえで、インターネットの利用が不可欠になる時代は目の前に来ていた。日本が立ち遅れている事実を前にして、千本氏は「インターネット環境の悪さを放置していては、日本の経済成長は見込めない」とブロードバンド会社の起業に踏み出した。
レノバへの経営参画も社会的矛盾の存在が切っ掛けだった。日本の再生可能エネルギーは欧州に比べて普及が10年遅れている。各地の電力会社が地域経済の中心に座り、原子力発電といった巨大発電システムに頼り過ぎていることが再生可能エネルギーの普及を遅らせているという見方もある。エネルギー分野でも社会的な矛盾や課題が横たわっているのだ。それを解決しなければ日本の豊かな未来を描くことはできないと千本氏は考えている。

10倍苦労し、10倍失敗した起業家人生

社会の課題を解決するために起業するという行為は確かに素晴らしい。千本氏の真骨頂はそれだけではない。一回の起業にとどまらず、何度も新しい事業に挑戦してきたことだ。「私の人生を振り返ると人の10倍ぐらい苦労し、10倍ぐらいの失敗もしてきた。苦難と失敗の歴史が私の人生です。でも多くの苦難と失敗があったから今がある」千本氏はこう述懐する。
何度も失敗し、倒産の危機に直面したこともあるが、そのつど難題を解決してきたのが千本氏の人生だった。千本氏が稲盛和夫氏に学んだ経営の神髄でずっと心がけたのは「始めたらやめるな」という言葉だった。第二電電の創業直後で、問題は山積していた。そんなころ稲盛氏は千本氏にこう言った。
「千本君、苦しいだろう。だけど、新しい事業というのは一度始めたら、簡単にやめてはいけない。筋のいい事業だと信じるならば、石にかじりついてでもやり抜く。競争相手がどうであろうと、知力を尽くして考え抜いて、勝負をあきらめてはならない。やめた時が失敗だ」この言葉は、千本氏の起業家人生を貫く指針となった。事業をゼロから立ち上げる起業家にとって、最初は困難な問題が次々に現れるのが普通である。しかし、その事業が社会のためになる「筋のいい事業」であれば、必ずどこかに解決策があり、進むべき道があるはずだ。道を見つけるには、考え抜くしかない。そして、簡単にはあきらめないことだ。

「始めたらやめるな」稲盛和夫氏の教え

「始めたらやめるな」という言葉の意味を千本氏は何度も噛みしめた。
99年にイー・アクセスを創業し、00年ころになるとブロードバンド事業はすさまじい伸びを示した。しかし、好機であればあるほど、強力な競争相手が現れる。
ソフトバンクが01年6月、「Yahoo ! BB」と銘打ち、ADSL事業への参入を発表した。通信用モデムを無料で配り、月額料金は一般的なADSLの料金のおおよそ半額の2000円台という衝撃的な事業を始めたのだ。
当時のイー・アクセスの料金は月額5000円台。ソフトバンクの破壊的なマーケティング戦略はイー・アクセスの事業を根本から揺るがした。社内には「事業が立ちゆかなくなるのでは」という絶望的な危機感が漂った。
千本氏はソフトバンクの発表を受け、自宅に戻り、必死に未明まで対抗策を考えた。「人生で一番長い夜だったように思う」と千本氏。不思議なことに「存亡の危機」を前にして考え抜くと、それまで「完璧」と思っていた自分たちのプランにも改善の余地が見えてきた。
翌朝、千本氏は全社員へ「天は我々に好機を与えてくれた」とひと際明るい顔で宣言し、こう続けたという。
「正直言って、2000円台の料金など考えもしなかった。しかし、価格が下がれば、それだけサービスへの理解が深まり、普及する。ADSLの全国への普及に、私はここから3年はかかると見込んでいたが、それが1年になるかもしれない。ソフトバンクで2000円台が妥当になるのなら、私たちもそれを実現すべく、コスト構造を再構築しようじゃないか。彼らにできるのであれば、私たちにできないはずはない」
全社員の頑張りで数週間後には改善点を抽出し、設備費用の削減策や業務の見直しを決定した。ソフトバンクと競争できる月額2000円台の料金を実現することができた。

「危機」で生まれた 知恵と行動力

だが危機は続いた。何とかソフトバンクショックを切り抜けたと思ったら、今度は資金が底をつきそうになった。当時、米国ではネットバブルが崩壊し、米投資会社カーライルがいったん出資すると約束したにもかかわらず、出資拒否を通告してきた。新たな資金調達ができなければ会社は即刻破綻する瀬戸際に追い込まれた。
ニューヨークのカーライル本部に乗り込んだ。だが担当者や幹部社員はつれない返事に終始した。最後の手段として考えたのが、当時のカーライルのトップであるビル・コンウェイ氏に直談判することだった。
アポは取れていない。千本氏は無理を言って、コンウェイ氏のオフィス前の廊下で待たせてもらった。2時間待ち、部屋から出てきたコンウェイ氏を捕まえ、「10分でいいから話を聞いてほしい、そのために日本からわざわざやって来た」と懇願した。
そんな無謀な背水の陣で臨んだトップへの待ち伏せ作戦が功を奏し、追加出資にカーライルは動き、経営破綻を免れた。
「アポもないまま相手のオフィスに乗り込むのは、ビジネスマナーとしては問題であり、まったくスマートではない。だが、あの時、私たちが生き残るにはそれしかなかった。どの国の人が相手であろうと、なりふり構わぬ必死さは伝わるものだ」千本氏はこう当時を振り返った。

「一番先に潰れるのはDDI」
世間の見方を覆したDDI

格好の悪いことだからしない、やっても無駄だろうからしない、などと「できない理由」を挙げる者は多い。しかし、そこで立ち止まっていては、スタートアップ企業は潰れてしまう。
大きなリスクを抱えた起業家にとっては、稲盛氏が千本氏に話したように「やめた時が失敗だ」なのだ。
第二電電をつくった際、国鉄(現JR)や道路公団など、大きな資本をバックに持つ通信会社も新規参入した。
NTTだけが手ごわいライバルではなかった。「一番先に潰れるのは第二電電だ」と散々、新聞に書かれたのを千本氏は覚えている。
しかし、他の会社のいくつかはDDIに吸収合併されることになり、KDDIが唯一勝ち残った。大方の予想を裏切ったのだ。
千本氏は「デスパレート(絶望的)なところが多いほど、イノベーションが起こりやすいと思う。厳しい局面に押し込まれ、危機的な状況に陥った時に、価値ある知恵が生まれる」と指摘する。リスクに満ちた起業家人生を歩んできた千本氏の教訓である。

出演者情報

  • 千本 倖生
  • 1942年
  • 大阪府
  • 京都大学

企業情報

  • 株式会社レノバ
  • 公開日 2018.10.30

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