ローマ法王にも愛された! 日本発!! 世界に負けないブライダルデザイナーの裏側に迫る
株式会社ユミカツラインターナショナル
代表取締役社長
結城 由美(桂 由美)
幼い頃は夢見る少女、おとぎ話の世界に浸り、やがて彼女は世界的なファッションデザイナーになった。日本にブライダルという言葉を定着させた、株式会社ユミカツラインターナショナルの代表取締役社長・結城由美(桂由美)。世界の桂由美の成功を支えているものとは何か。いくつものチャンスをものにした彼女の思いとは。
桂店を作ってしまうと、なかなかそういう旅に出られないので、なにしろ1ドル400円時代なので、そうたびたびは行かれないでしょう? 私の一生が、その旅で決まったと思うんですね。
桂まずブライダルの専門店を、日本に作らなきゃ駄目だとか、それからそしたらウェディングドレスだけのショーを、最後に1点ウェディングドレスが出てくるのではなくて、いわゆるブライダルショーをやらなければいけないとか、ブライダルの、私は教科書がなかったんですね、勉強するときに。だからブライダルのバイブルみたいな本を1冊書かなければ駄目だとかですね。
津島そこから。
桂それから東京は私がいるからいいけど、各地方にブライダルコンサルタントを配置しなければいけない、そのための教育機関を作らなければいけないとか、それからさっきの話ですけどアクセサリーだとか手袋だとか靴だとか、トータルにデザインやっていかなければならないと、することがダーっとその手帳に、あの手帳なくしてしまったんですが、書いたんですよ。
蟹瀬 津島あら、もったいない。
桂そして今の乃木坂のあの主なデザイン、例えばタワーを作ってそこに1点ずつ、そのとき流行のウェディングドレスがいつも5、6点飾ってあると、そういう構想もその手帳に書いたんですね。
蟹瀬まさにそれを実現されて、あの桂由美ブライダルサロンが出来上がったと?
桂はい。だからまだその延長をやっているみたいな感じですよね。
蟹瀬当時、だけど本当に結婚式といったら、ほとんどの方がお着物ですよね?
桂そうですね、神前で。
蟹瀬何パーセントぐらいですかね?
桂97パーセントでした、調べたときに。
蟹瀬9割以上。
蟹瀬そんな中で、だけどそういうお仕事を立ち上げるというのは、結構大変なリスクですよね?
桂そうですね。最初の年は1カ月に2、3人のお客様。
蟹瀬1カ月に2、3人ですか?
桂そうです、1年で30人ぐらいしかいなかったですから、それは大赤字ですよね(笑)。だから私、始めて10年ぐらい1銭も給与がもらえなかったんですね。取れなかったんですよ、生地を仕入れると。
蟹瀬そうでしょうね。
桂4人ぐらい社員がいますから、それ払うのでいっぱいいっぱいで。それで何で生きていたかというと、その母のやっている学校、月、水、金、3クラス、午前組、午後組、夜間組と3クラス受け持って、月、水、金は学校行くんですよ。それで給与をもらってそれで生活していましたね(笑)。
蟹瀬へえ!日本で初めてブライダルコレクションというのをやられて、ブライダルって言葉自体も最初に使われたのが桂さんと。
桂本当に。その10カ月回って歩いている間に、そうか、なるほど、ウェディングというのは結婚式全体を総称していうときにウェディングというけれども、ブライダルというのは『花嫁の』という形容詞ですよね? だから女性側にウエートのかかっている、例えばブライダルビューティーとかそういう店をブライダルサロンというとか、というふうなこと、ブライダルという言葉があるということを発見して、自分の店をブライダルサロン、桂由美ブライダルサロンという名前付けて、私はブライダルコンサルタントと、何でも相談に応じますよと、花嫁さんのね。
蟹瀬そもそもその言葉がまだなかった時代でしょう?
桂そうです。
蟹瀬そうすると、ブライダルコレクションといったって、これ、要するにウェディングドレスばかり見せるわけですよね?
桂そうです。
蟹瀬「こんなものやったって成功するはずない!」と言われたのではないですか?
桂それはやっぱりファッションの関係の人というのは、その当時ファッション評論家の方に相談したんですけど、変えようと思ったんですよね。というのは、マスコミの人が毎日毎日「ブライダルコレクションって何を見せるの?」とか「何やるの?」、毎日電話が鳴りっぱなしだったんですよ。で、マスコミの人がこうだったら一般の人は、なお分からないわけだから、来ないのではないかと、お客さまが。それでファッション評論家の方に相談したら、「とんでもない! 新しい職業を、あなたやろうと思うときに「これはなんだろう?」ってみんなが思うネーミングができているってのすごい、絶対変えるべきじゃないよ!」と言われて、私は、ウェディングドレスショップとかなんかにしなければ駄目かな?と思ったんですけどね。
蟹瀬ではショーは大成功だったわけですか?
桂そうですね。新しい職業みたいなことで紹介されたり、それからうちしかそういうウェディングドレスを毎年50点も出すなんていうところはないので。
津島この後、桂さんはアメリカの舞台で活躍することとなります。1980年、ライセンス事業を開始します。1981年、ニューヨークで「ブライダルショー」を開催。そして1986年、中国初の「ブライダルショー」を開催ということです。
蟹瀬このへんの年表を拝見すると、お母さまから受け継いだビジネスセンスというのが、表のほうへ出てきている感じはしますけれども、事業化というときはいくつかのポイントを考えられたそうですね?
桂そうですね。
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