これこそベンチャー!「決めたらリスクをとって一歩を踏み出す」迫力
イー・アクセス株式会社
代表取締役会長兼CEO
千本 倖生
ADSLで日本をブロードバンド大国に押し上げた男は、さらにモバイルのブロードバンド化を目指していた。正統派のベンチャー企業とは何か、起業家とは何かを身をもって示そうとしている男の、ビジネスへのスタンスとは?
千本だから私が 1年で戻ってきて、引き戻されて、それでNTTの本社でごちゃごちゃやったんですけども。
蟹瀬そしてそこで、博士論文も、またこれ早く 1年半ぐらいで書き上げられて。
千本それは先生とラッキーだったんですけど、やっぱりいい生徒を出していい論文を書かせて、それで彼らに博士号を取らせるというのが、有力な先生かどうか、つまり良い先生につかないとそういうことにならない。
蟹瀬だけどそうなると、今度アメリカの企業というのはそういう才能のある若者というのはなるべく逃さないようにということで。
千本そう、特にドクター取ったら、すぐアメリカの移民局から、グリーンカードがもらえる。
蟹瀬もうずっといていいよと、働いてもいいよと、アメリカで。
千本残りなさいと。それでアメリカの当時の研究所というのは 2つ、世界に冠たる研究所があって、これはベル研究所というノーベル賞をいっぱい出した研究所。
蟹瀬AT&Tの。
千本AT&T、今なくなったんですけどね、もう。それからIBMのワトソン研究所、この二つから優秀なドクターにはすぐ誘いが来るわけです。で、NTTにこのまま帰ったら、当時で1,500ドルぐらい、年収。ところが1,500ドルというのは向こうにおけるひと月の給料、オファーがですね。だから迷うんですよ。
蟹瀬10倍位の給料をアメリカにいればもらえたと。
千本10倍以上だったですよ、で、家はでかいのあるしきれいな環境で。当時日本はまだごちゃごちゃしてて、今の東京は世界に冠たる素晴らしい街になったと思うんですけど、当時の60年代、70年代の東京なんかまだごちゃごちゃですよ。
蟹瀬そんな状況だったら、どうして日本に帰ってきてしまったんですか?
千本そうですね。それはやっぱりそれは面白かった。
千本僕の主任教授というのはものすごく先見性のある人で、今アメリカはこうだけれども、71年の日本というのは、まだトヨタの車が高速道路でちょろちょろと走ってすぐエンコする、2時間位走ると、もうボンネット開けなければ駄目なんです。それがちょうど5時間ぐらい走れるようになってきました。だからそれをあの先生というのは、日本の将来というのはこれからすごいということを、まだ赤ん坊の日本の発展段階のときに見てたわけですね。
蟹瀬先を見てたと。
千本良くなると、「日本というのは絶対良くなる」と。「だから今アメリカでおまえがやるよりは、日本で活躍したほうがはるかに社会的に大きなことできる」と。で、「NTTに帰れ!」とこう言われてですね。
蟹瀬だから目の前のアメリカの可能性よりも、日本の可能性のほうがはるかに大きい。そのほうが千本さんの能力がそこで開花すると。
千本社会のためになると、国の為にもなると。
1984年、京セラ・稲盛和夫社長とともに第二電電株式会社を共同創業、専務取締役に就任。そして1995年、第二電電株式会社を退社。
蟹瀬さあ、いよいよやめて第二電電を立ち上げなければいけないということになったわけですけど、これはしかし相当大変な仕事ですよね?
千本大変だったですよ。ベンチャーでもやっぱりNTTというのはやっぱり非常にエリート、当時のエリート組織で、いろんなインフラもしっかりしてて、社宅とか年金とか。
蟹瀬京セラの稲盛さんとはどういうふうにお会いになったんですか?
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