世界シェア8割の根幹!「オープンでフェア」な判断が、結束と対話をつくる
株式会社堀場製作所
代表取締役会長兼社長
堀場 厚
目まぐるしく変化する社会情勢。そんな時代にこそ、その先を読み、己の信念と緻密な戦略のもと、大胆な決断をくだす賢者たち。人生のさまざまな局面で、彼らは何を考え、どんな選択をしてきたのか。分析機器メーカー、株式会社堀場製作所の選択、堀場厚社長の決断とは?
堀場理科の実験とかそういうものが好きでしたし、レンズで遊んだりいろいろしましたけども、そんなこともあって光関係のほうが非常に興味があって、そのレーザーの研究ができるということで、その理学部のほうへ進んだ……。
蟹瀬そうか、レーザーですね。
堀場はい。
蟹瀬なるほど。で、そういう大学時代は勉強以外には何をなさったんですか?
堀場そうですね。私は京都から神戸のほうに通っていましたから、なかなか勉強もそれなりでしたけれども、高校が山城だったものですから、やはりサッカーが非常に、小中も附属でしたのでサッカーが盛んだったんですけども、そんなこともあって社会人リーグのチームを自分たちでつくりまして、青城クラブというのを、多分覚えておられると思うんですが……。
蟹瀬あの城を付けて?
堀場そうなんですね、ブルーシャトーと ブルーコメッツのですね。
津島ブルーコメッツ、当時?
蟹瀬森と泉の世界ですね(笑)。
堀場そうですね。で、それでユニフォームをつくりまして、CBって入れまして、格好だけは良かったのですが、チームはあまり強くなかったですけど。
津島(笑)。
蟹瀬よくあるパターンですけど(笑)。もう大学時代に当然のことながらおじいさんはそういう方で、お父さまがやっぱり会社をやっていらっしゃって、というと自分がそのお父さんの会社に入って、これからいずれ社長になるなという感じというのはあったわけですかね?
堀場そうですね。社長になるかどうかは別にして、やはり好きな分野でしたので、父の会社に勤めるというのはごく自然でしたし、周りもそういう空気ではありましたですね。
津島この後、堀場さんはアメリカへ行くこととなります。1971年、オルソン・ホリバ社入社。1972年、株式会社堀場製作所入社、ホリバ・インターナショナル社出向。1973年、ホリバ・インスツルメンツ社出向、カリフォルニア大学工学部電気工学科編入。1975年、カリフォルニア大学工学部電気工学科卒業。そして1977年、カリフォルニア大学大学院工学部電子工学科修了ということです。
蟹瀬この年表ですと、会社に入られてすぐにアメリカへ行かれた?
堀場そうですね。
蟹瀬これはご自身の意志なんですか?
堀場はい、私自体はそのときに合弁会社がアメリカでできるということで、ぜひアメリカへ行きたいと。すごく高いターゲットがあったわけではなくて、子どもの頃からこれも父に西部劇に連れて行かれて、字幕が読めないときから、隣の人大変だったろうと思いますが、ずっと字幕読んでくれまして……。
蟹瀬本当ですか(笑)。
堀場で、そういうのでやはり西部劇といいますか西部に憧れてまして。
蟹瀬西部劇の奥にアメリカがあって、そのアメリカへの憧れ。
堀場それからジョン・ウェインとかですね。それで、そういう機会があるというので、ぜひそのアメリカへ行きたいということで、堀場の中で最初のサービスマン、いわゆる計測器を修理する担当ですか……。
蟹瀬メンテナンスの?
堀場はい。で、サービスマンとして行く予定だったんですが、4月に卒業して4月に行く予定だったんですが、ニクソンショックでワーキングビザがおりなかったんです。
蟹瀬あれはもう世界経済揺るがしましたからね、やっぱり金とドルの交換というのをやめてしまったわけですからね。
堀場で、11月まで延びたんですね。ただ11月に延びたおかげで、結局本社のほうの製造ラインで勉強をしたり、国内のサービスマンについて自動車メーカーに行ったり、いろんな経験を社内で経験することができて、意外とそのときに人脈ができたんですね。
ですから今、ちょうど同期はもう定年の頃ですけども、だから結果的にはそれがすごくラッキーで、何も知らないでアメリカに行ったら、「君、何ができるの?」ってやられるところだったんですけど。
蟹瀬お手上げになってたわけですよね?
堀場日本だと社長の息子ですから、一応奉られるわけですけど、アメリカへ行くとただの堀場ですから、たまたま会社と名前が一緒という以外、何もないんですよね。ですからそれはすごくラッキーでしたね。
蟹瀬そうすると現地ではそういう、主にメンテナンスの仕事を?
堀場最初はしてたんです。で、そのときに経験したのが、現地の、行くと工場のずっとうちの分析器が並んでるんです。全部、ほとんど故障してるんです。なぜかというと、飛行機で運んだものですから、検出器の中のガスが抜けたりネジが緩んだりしてまして、それをずっと修理するんですけれども、そういうことは日本で起こっていないんですね、飛行機で運んでません。
それで、一度テレックスといって、紙に穴を開けてカチャカチャ、これで連絡しても最初に返ってきた返事が、日本ではそんなことは起こっていないと。で、それ以来、私はアンチ本社になりまして。
津島なるほど。
堀場本社というところは本当にフロントラインというか現場を知らないで対応する部署だなということで……。
蟹瀬なるほどですね。
堀場今も本社の一番上にいますけど、最もアンチ本社でオペレーションしていますけど(笑)。
蟹瀬でもやっぱり企業、特に企業は大きくなるとそういう問題というのは起きる共通の僕は要素だと思いますけども、ただ、それでアメリカへ行かれて結構早く、今度は大学のほうへ行かれていますよね? これはどういう理由から?
堀場そのサービスの後、あちらでいう設計部隊に入ったんですけど、私、専門物理だったんですが。
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