電子部品の歩みを支える「FYT」の合言葉!24歳起業から一部上場への歩み


加賀電子株式会社
代表取締役会長兼社長
塚本 勲

特選インタビュー

故郷金沢から16歳で上京し、24歳で電子部品商社を創業した塚本勲(つかもといさお)。しかし、商品を仕入れる資金がなかった。

運転資金0円

塚本仕入れ先は現金でなければ売ってくれないわけですよね。

蟹瀬それはそうですよね。

塚本登記もしてない、会社もできてないんだから。

苦肉の策

塚本で、やむを得ないので、私、お客さんに出向きまして、事情をご説明して、先にお金いただいたんですよ。

無借金経営を貫き、東証一部上場を果たした塚本会長の経営哲学に迫る。

賢者の選択 A Shrewd Man’s Choice

津島今回の賢者の選択は、24歳で電子部品商社を創業し、1代で東証一部上場を成し遂げた、加賀電子株式会社の塚本勲会長です。

蟹瀬突然で申し訳ないんですけども、会長はご自身のことをオコゼと呼んでらっしゃると伺ったんですが、これ、どういう理由なんですか?

塚本顔を見れば大体分かりますね。魚のオコゼから来ておりまして……。

蟹瀬食べるとおいしい魚ですよね?

塚本ええ、グロテスクな顔をしてますけど、お刺身で食べるとおいしいと。で、私も同じ顔をしてて、気持ちはいい男ですよという意味からオコゼにさせてもらったと(笑)。

蟹瀬あと、仕事をしていく上で、あるいは生きていく上で、座右の銘というのがもしおありだったら、まず教えていただきたいんですけど。

塚本たまたま今日、私持ってまいったんですけども。

蟹瀬お持ちいただいてますけども。

塚本これ、私がビジネスを始めたときに、お袋がちょうど遊びに来てまして、『怠るな 子どもの手本に 歳はなし』というのが、いつまでもいい親でなければ駄目だよ、いい社長でなければ駄目だよっていう言葉がここに含まれている。
で、もう一つはこの『われ人生に怠らず 枯らしてならぬ あすなろの木』と、いつも上を目指して努力しないさいよっていうことを散々お袋に言われまして、ですからそういった意味ではこの二つが私の座右の銘と言いましょうか、こういうことにしているんです。

蟹瀬これを菓子箱の裏に書いてこられたそうです。

津島温かさが伝わりますね。

塚本これ、私の代の我が家の宝物です。

津島故郷金沢から上京し、兄弟で会社を立ち上げた塚本さん、どのような歩みなのか、お知らせの後、じっくり伺っていきます。

1968年に電子部品商社として設立された加賀電子。創業は秋葉原から少し外れた小さな建物の2階だった。父親から借りた20万円は準備費用に消え、資金ゼロからのスタート。苦肉の索としてお客から前金をもらい、仕入れ先に発注する方法を思い付いた塚本、以来加賀電子は在庫を持たず、無借金経営を貫いている。

その後、電子部品だけでなく、オリジナルブランドを立ち上げ、メーカーの分野にも進出し、パソコンのモニターやカメラなどを自社生産。1997年に東証一部に上場を果たした。今や電子部品商社から総合商社へと成長し、2008年3月期の売上高は、およそ3,000億円だ。加賀電子の特徴の一つが関連会社。社員からの起業提案に、塚本は反対したことがないという。

奥山個人個人が経営者だと、1から10までの仕事をやらせてもらうので、経営者養成会社みたいな。

こうした起業文化は、塚本自身がチャレンジ精神を持って独立、起業したこととつながっている。創業以来、会社を支えている会長塚本とはどんな人柄なのか。

相良経営者としてのオーラもさることながら、あとは人を大事にしてるので、そういった意味でのきさくさ、新人でも気軽に話し掛けていただけると、そういった気さくさもある会長ですね。

5年後の売上高5,000億円を目指している加賀電子、塚本会長にその戦略を聞く。

津島故郷金沢から上京し、兄弟で会社を立ち上げた塚本さん。2007年には創業40周年を迎えました。これまでにどのような歩みがあったのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。1943年、石川県金沢市に生まれます。1959年、金沢市立工業高等学校電気科入学。1960年、金沢市立工業高等学校退学、ヴァイオレット電機入社。そして1967年、ヴァイオレット電機退社、サンコー電機に転職ということです。

蟹瀬はい、今ちょっとお話を伺っていたら、塚本さんと私は隣町で生まれたということが分かりまして、私が津幡で塚本さんが森本でということ。なんか急に気持ちが近くなって。

(一同笑い)

蟹瀬年齢はちょっと違いますけどもね。さて、塚本さんのところのお父さまは国鉄にお勤めになっていた?

塚本線路工夫でした。

蟹瀬お母さまもやっぱり働いていらっしゃった?

塚本ええ。お袋はカニ網を作る会社へ勤めていましたね。

蟹瀬そうですか。そうするとご兄弟はやっぱり多かったんですかね?

塚本7人生まれまして男ばかり5人残ったんですね。その真ん中が私でして、戸籍上は四男、実際には、ですから5人兄弟の真ん中ですね。

蟹瀬じゃあもう幼い頃からやっぱり家の仕事なんかお手伝いはなさったんでしょうね?

塚本そうですね。いろいろさせられました。農家ではなかったんですけど、いろんな野菜をつくったりなんかはよくやらされましたね。

蟹瀬どんなお子さんだったんですか。結構やんちゃだったのですか?

幼少時代

塚本まあ、大体やんちゃですね。

(一同笑い)

塚本顔に合ったやんちゃ坊主です(笑)。先生にもよく怒られました。

蟹瀬工業高校に入られて、わずか1年で退学されてますよね?

塚本ええ。

蟹瀬これはよっぽどひどいことをやったんですか?

高校を自主退学

塚本いや、首になったわけではなくて、自主退学です。

津島自主退学ですか?

蟹瀬ご自身でやめられた?

塚本ええ。

蟹瀬私は大体、こういう高校時代に退学といったら、あんまりテレビで言えないようなことをやって(笑)

津島先生ですしね、一応、やっぱり(笑)。

蟹瀬かな、と思ったらそうではない? 失礼いたしました。

塚本私は中学時代までは、どうでしょうか、クラス300人中概ね10番以内ぐらいに入ってて、まずまずの成績だったんですね。それで地方ではかなり難しい、この金沢市立工業っていうとこから進学させてもらったんですけど。

蟹瀬そうですよね。

塚本入った途端に学校行くのが非常に、学校行くよりも、まず自分で小遣いぐらいは稼ぎたいなと、早く勤めたいなということで、自分からやめさせてもらったんですけど、先生には随分、説得されたんですけどね、自宅へ10回以上……。

蟹瀬それはだって成績は良かった、それで素行のほうでちょっと問題があった程度ですから、先生としてはきちんと卒業してほしかったって思いはあるでしょうけど、そして上京されてるんですね?

塚本そうですね。

蟹瀬これまた、だけどご両親、やっぱり反対されたでしょう?

上京・就職

塚本ええ。私、金沢にいたのでは多分悪い方向に行くだろうなと自分で感じまして、それで親父とお袋に、東京か大阪に出してもらいたいという話をさせてもらったときに、親父が間髪入れず、やめるならしょうがないと、決めたんなら。その代わり東京に行けということで親父に言われたんですね。

蟹瀬今思えば先見の明あったわけですね。

塚本そうですね。やはり自分の兄貴、おじさんが東京におりましたものですから、おじさんに頼んでご紹介いただいたのが、実はヴァイオレット電機という名の電子部品のメーカーでございましてね。

蟹瀬そうですか。そこではどういうお仕事をなさってたんですか。

塚本もちろん高校1年中退の男ですから、普通の仕事には就けませんよね、事務職等には。ですからそれこそペンチを持って現場のベルトコンベヤーの前で2年間ぐらい電子部品の組み立てをやりましてね。

蟹瀬そうですか。

塚本それで、2年それを経験して、3年目に営業に配属になったということなんです。

蟹瀬その間、やっぱり辞めたいとか思わなかったんですか?

塚本辞めたいということよりも、望郷心が出てきましたね、金沢に一旦帰りたいなというときはありましたね。

蟹瀬それはそうでしょうね、まだ若かったわけですからね。

塚本そうですね。それで金沢に戻るにあたっては、せめて車の免許ぐらいは取ってこいと親父に言われまして、それでお金もないのに一生懸命取りに行きまして、何回か落ちて4回目ぐらいで免許を取った、ちょうどそのタイミングのときに、そのヴァイオレット電機さんで営業の欠員が出たということで、こういう性格ですから、おまえ営業に向いてるんじゃないか、車も運転したいだろうと。だから……。

蟹瀬なるほど、ちゃんと免許も取っているし。

塚本ええ、自分としては望郷心なんかどこかへ行ってしまいまして、営業なら車に乗りたいし、じゃあやってみようっていうことが営業に転属になった理由ですね。

蟹瀬そういう意味では万事塞翁が馬(ばんじさいおうがうま)という感じでしたね、それだとね。

塚本そうですね。

蟹瀬そしてやっぱり営業に出ればいろんな方と外でお付き合いができる、人脈が築かれていくということですもんね。

塚本そうですね。ですから、そういった意味では当時でいいますと、大手の電子機器メーカーさんにその電子部品を販売に行くとか、それから秋葉原の問屋さんといいますか、そういう部品を取り扱っていらっしゃるところへセールスに行ってまして、これを約6年間続けました。

蟹瀬このサンコー電機に移られたきっかけというのはなんだったんですか?

転職

塚本一つのメーカーの部品だけをセールス、営業するということではなくて、同じ電子機器をつくるためにはいろんな電子部品が要るわけですね。

蟹瀬はい。

塚本真空管も要ればトランジスタもあれば、だからそういうものに非常に若いですから興味持ち始めまして、それを全部取り扱えるような事業に携わったらいいなということになってきたんですね、興味が湧いてきたと。
それであえて私のセールス仲間だったサンコー電機の社長さんにお願いをして、それで転職を決意したと、もちろん反対されましたよね。だけど非常にありがたかったのは、ヴァイオレット電機さんの社長さんに、自分のところの商品を、じゃあ販売する代理店の仕事も一緒にやってくれというふうに言われまして、これはありがたかったですね。

蟹瀬それは円満退職ということになりますよね?

津島そうですよね。はい。この後、知人と会社を設立した塚本さんですが、しばらくして会社を退職します。一体何があったのでしょう。1968年2月、サンコー電機を退職し独立します。9月、加賀電子株式会社設立。12月、結婚。1973年、CBトランシーバーブームに乗って成長。1978年、インベーダーゲームのIC取扱いで業績拡大。1981年、アメリカでTAXAN(たくさん)ブランド設立。1982年、アメリカアップル用のCRTディスプレイが大ヒット。1983年、ファミコンソフトを生産。そして1986年、東証二部に上場ということです。

蟹瀬このせっかく熱い思いを持って移られたサンコー電機、あっさり退職されて独立しているんですけども、これは背景にどんなことがあったんですか?

出演者情報

  • 塚本 勲
  • 1943年
  • 石川県
  • 金沢市立工業高等学校

企業情報

  • 加賀電子株式会社
  • 放送日 2008.07.19
  • 業種:
  • 商社 電子・電気・OA機器 ソフトウエア・情報処理・ネット関連
  • 本社:
  • 東京都
  • 所在地住所:
  • 〒101-8629 東京都千代田区神田松永町20番地
  • 資本金:
  • 121億3,300万円(2016年3月31日現在)
  • 売上高:
  • 756億円(2017年3月期実績)
  • 従業員:
  • 603名(2017月3月31日現在)

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