世界の街や建物、そして人間も。社会の血管をつくる事業は遠回りが近道!?
日本システム企画株式会社
代表取締役社長
熊野 活行
ビルやマンションの給水および空調配管に装着する「NMRパイプテクター」。独自の技術で建物の血管を治療、健康にしていく。その先には、文字どおり人の健康への寄与。そんな事業たちを通して見えてきた、社会課題への着実な成果。事業と社会貢献は企業にとって相反するもの、ということが、昨今では共存すべきものである、と変わってきた。「事業そのものが社会貢献」と先駆的に唱え、想像をはるかに超えたスケールで実現した代表取締役・熊野活行の道のりとは?
坪井建物だけではなく、健康面への取り組みもお考えということですが、どのように応用されていくのでしょうか?
熊野建物の中の配管の酸化を止めるわけですね、このパイプテクターの技術は。それで、建物内の配管、人間の体でいうと血管になるんです。「人は血管とともに老いる」という言葉がありますように、血管の酸化が止まれば老いも止まる、という研究をしています。
実は2010年、今から8年前に世界の臨床医と薬理学のジョイントの学会がございまして、デンマークのコペンハーゲンで行われた世界大会で、世界で初めて、血管内の活性酸素を抑制する研究発表をしました。
日本システム企画との共同研究を進めてきた、奥羽大学薬学部 山本正雅(なおまさ)教授は2018年7月、京都で行われる国際薬理学・臨床薬理学会議で新たな研究発表を予定しているという。
山本10年くらい前にやった仕事は指を輪の所に10分間入れると、(血液中の)酸化ストレスが下がるということで国際学会に発表いたしました。その後、なぜ、そういうことが起きるのかということの研究を進めた結果、血圧を下げるということが分かってきました。
脳波に及ぼす影響、それから心拍変動について研究をしていまして、両方ともリラックスをもたらす効果があるということが分かってきております。リラックスすることによって心拍数が下がってくるし、血圧も下がってくるメカニズムだと思っています。最終的にはこれを医療機器としていきたいと考えておりまして、そこまでなんとかできればと思っております。
宮川熊野社長はこのパイプテクターを今後、どのように利用していこうとお考えでしょうか?
熊野パイプテクターを使って、社会貢献をしていきたいと思っています。水道インフラも配管が劣化します。そのようなインフラ劣化対策、メンテナンスのための費用というのは非生産的な経費なのです。ですから、生産性がないコストを削減して、浮いたコストで未来に投資できるように、そういう意味での社会貢献がしたいということが一つあります。
それから、人の肉体の劣化を遅くできる可能性が非常にあります。そうすると今、日本の一番大きな問題は労働人口の減少なんですね。40年働いてリタイヤする社会が現状ですから、それを仮に60年働けるようにすれば労働人口の減少問題を解決できます。
熊野また、医療費の抑制、年金問題、あるいは税収問題、そういった社会的課題を解決する部分で社会貢献ができるのかなと思っています。
坪井熊野社長はなぜ、社会貢献をしようと思われるようになったのでしょうか?
熊野私は大学を出てしばらくはサラリーマンをやっていましたが、バブル経済の真っ盛りで「利益が出れば何をやってもよい」という社会風潮がありました。皆さん、資産運用ばかりやっていて、日本がおかしくなっていました。あまりにも利益追求型で結局はその後、バブル崩壊、失われた20年、30年ということで、国際社会から遅れを取ってしまう。もし、企業が「事業そのものが社会貢献であるべきだ!」ということをやっていたら、日本はもっともっと発展した国になっていたのではないかと思います。
自ら開発した技術をただ利益のためだけではなく、インフラの整備や医療機器として役立てる。それが、事業活動そのもので社会に貢献する、日本システム企画の進む道。
宮川ここまでは事業活動の中での社会貢献について伺いましたが、それ以外の社会貢献はどういうものをやっていらっしゃるのでしょうか?
熊野日本赤十字社の協力を得て、1992年からモンゴルにおける支援活動をやっております。
1992年、モンゴルへの支援活動を始めた熊野にある運命的な出会いが訪れる。当時のモンゴル外務次官で、のちに駐日モンゴル国特命全権大使に任命されるドルジンツェレン氏。二人はすぐに意気投合し、親交を深めていった。
坪井ドルジンツェレンさんはどんな方だったのですか?
熊野駐日大使に来てから、実は毎週土曜日に時間があるので、私どもの会社に遊びに来るわけです。毎週ですから参りましたけど(笑)非常に怖い顔をしているのですが、内心はお茶目で、僕にとっては世界広しといえども一番心を許せる間柄でした。モンゴルは共産圏から市場経済になりました。金融を教える大学がなかったのです。それで、「金融を教える大学を作ろう」ということで、1997年、モンゴル国際経済商科大学を二人で共同創立しました。
モンゴルの首都 ウランバートル。こちらは1997年に熊野とドルジンツェレン氏によって設立されたモンゴル国際経済商科大学。この日、行われたのは熊野が支援し、2011年から始まったモンゴル全国大学学力コンテスト。実はこのコンテスト、熊野とドルジンツェレン氏の「モンゴルの教育水準を国際的に高めたい」という思いから始まった。
モンゴル国際経済商科大学は当初、成績が振るわなかったものの2015年に行われた前回のコンテストでは国立モンゴル大学をおさえ初優勝。
創立当時、100人ほどしかいなかった学生も、現在では2000人を超え、また、2017年には国際的なビジネススクールとして認められるなど、名実ともにモンゴル最大の私立大学になるまでに成長した。しかし、熊野とともに大学を創設し、大学の発展に大きく貢献したドルジンツェレン氏は2014年に逝去。
熊野彼とは一緒にやった夢がありますから、「代わりにやってあげるよ」ということを(天国の彼に)伝えました。
熊野とドルジンツェレン氏が目指したもう一つの夢。それは「日本とモンゴルの相互支援」。日本がモンゴルの自立を助ける代わりに、将来、モンゴルは資源の乏しい日本を助けるというもの。熊野とドルジンツェレン氏の育んだ友情がモンゴル国際経済商科大学を成長させたように、日本とモンゴルの間でも相互支援の輪が広がることが二人の願いだという。
出演者情報
企業情報
関連コンテンツ
カテゴリー別特集
リンク