常識破り!「前例があるといったら全部やめる」のパワー
エステー株式会社
取締役会会長兼執行役
鈴木 喬
「ものを売る前に自分を売って、それから会社を売って、それから熱意を売って」。少年時代に過ごした戦後すぐの焼け跡がを原点。どんなことをしても生きていけるという自信とともに会社を急成長させた鈴木喬の、ヒット商品を次々に生み出す秘密、経営手法とは?
鈴木何やっても食べていけるという強烈な自信を持ってますね。
蟹瀬もうどん底見たぞと。
鈴木はい。ですから大抵のことはなんとかなると思ってます。
蟹瀬大学は一橋大学のほうに進まれてますよね? 商学部。
鈴木はい。
蟹瀬これは何か特別な理由がおありだったのですか?
鈴木私の身の回りは全部商売人なんです、サラリーマンという人あいないんです。ですから当然のように一橋の商学部へ行きました。また、すぐ上の兄が東大の工学部大学院に行ってましたから、真似してはいけないと。父がいつも資金繰りなんかで苦労しているのを見て、サラリーマンなら、これ楽できるのではないかなと見ました。
蟹瀬なるほど。だけどどうなんですか、お父さまには当然ご相談なさったわけですね、就職する、実際には日本生命に入られているわけですけども、どういうふうに言われました?
鈴木私の父の信念は、会社は必ず潰れると、唯一生き残れるのが日本と名前の付いた会社なら大丈夫だろうと。
蟹瀬それも一見理屈が通っているようで通ってないですね。
鈴木はい。
蟹瀬会社が全部潰れるけど、日本が付いていれば大丈夫だと。
鈴木大丈夫と。
蟹瀬なんかよく分かりませんね。
鈴木よく分からないんですよ。私の父親というのは相当適当な人でして、大胆不敵な人なんですよ。
蟹瀬それでそのアドバイスに従って、日本の付いている会社へ?
鈴木それだけではなくて私も少しは調べまして、卒業生の名簿を見ましたら、卒業生というのはみんな銀行とか商社にクモのごとくいるんですね。で、こういう所行ったら芽が出ない、誰も行かない所ないかなと思ったら生命保険会社、産業はあんまり人行ってない。しかもそのトップのニッセイというのは大阪の会社でありまして、ナンバーワンであるのに関わらずほとんど人が行ってないと。これならやれると、人まねしない。
蟹瀬なら団体保険とかそういうのをどんどん売ってらっしゃった?
鈴木そうです。
蟹瀬新日鉄にも随分、売り込みに行かれた武勇伝があるそうですね。
鈴木はい。もう新日鉄も初めは有価証券報告書見たりスクラップブックを読んだりしてどうやろうかな、なんて思って考えて、相手にいつも問題提起をしに行ってたんです。たら「面白いやついるね」ということで「おまえ、俺のとこの社員よりもうちのことよく考えてるんじゃないの」ということになりまして、なんとなく好かれて、みんなどういうわけかたくさん保険買ってくれましたね。企業保険ですから単位はでかいですよね。
蟹瀬だって新日鉄といえば、当時で、どうですか、8万人ぐらいは社員がいたわけですね?
鈴木8万人いますね。
蟹瀬その人に一人ずついくらか売ればと計算なさったそうで。
鈴木そうです。とにかくどうせやるならでっかいことと、日本で一番の会社から狙っていくという感じですから横に並べて天下の大企業に企業保険を売りました。
蟹瀬だって手元の資料だと、ご本人は多分ご自身では言いにくいのだと思うんですが、『8万人の従業員に一人3,000万円ずつの保険に入ってもらったら、総額2兆4,000億円』なんて、こんな見積を持って行かれたと。
鈴木はい。
蟹瀬ええ。これは面白いやつだと言われますよ。
鈴木はい。みんな大体腰抜かしますよね、相手は。
蟹瀬サラリーマンとして学んだことというのは、今振り返るとなんでしょう?
鈴木企業を見る眼だと思います。いろいろ、特に私、企業関係のいろいろな仕事をしてきましたので、どうなったら会社良くなる、どうやったら悪くなるというのを非常に身をもって感じました。
蟹瀬それ、具体的にはどうでしょう? 企業を見る場合に見るポイントってありますよね? どのあたりをご覧になるんです?
鈴木私は調査と情報を自分でやる。人の言うことを信じない、必ず裏をとると。それで綿密に調べます、なんでも自分で、自分の足で。
蟹瀬なるほどね。それが大事だということですね。
鈴木はい。
1985年、エステー化学株式会社に出向、社長付部長に就任します。1986年、東証二部に上場、エステー化学株式会社に転籍、企画部長就任、取締役企画部長に就任。1991年、東証一部に上場。そして1992年、アメリカエクセル社社長に就任します。
蟹瀬エステー化学に出向されていますよね?
鈴木はい。
蟹瀬出向するにあたっての経緯というのは、どういうことがあったんですか?
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