これこそベンチャー!「決めたらリスクをとって一歩を踏み出す」迫力
イー・アクセス株式会社
代表取締役会長兼CEO
千本 倖生
ADSLで日本をブロードバンド大国に押し上げた男は、さらにモバイルのブロードバンド化を目指していた。正統派のベンチャー企業とは何か、起業家とは何かを身をもって示そうとしている男の、ビジネスへのスタンスとは?
津島今回の賢者は、イー・アクセス株式会社の千本倖生(せんもとさちお)会長兼CEOです。ご存じの方のほうが多いと思いますけれども、千本さんが創業されましたこのイー・アクセス、これはADSLで日本のブロードバンドを世界トップクラスへと牽引(けんいん)してきた会社なんですね。そんな千本さんに最初に一言お伺いしたいんですけど、今はベンチャーというとたくさん会社ありますけども、実際にベンチャーを立ち上げていく、そしてそれを成功させるときにこれが大事だというのは?
千本非常に大きなことは、やっぱりどれくらいその新しいマーケットがあるのか、あるいはそのマーケットをつくれるのかというのが一つね。もう一つは、やっぱり一旦決めたらリスクをとって果敢に、うじうじしては駄目なんですね、やっぱり決めたらリスクをとって一歩を踏み出すと。
蟹瀬思い切ってやると。
千本それから三つめは、やっぱり今のいろいろなところを見ていても実業から程遠いベンチャーが多いので、というんだけれども、やっぱり真面目に、忍耐心をもってあきらめずにやると、この三つですかね。
蟹瀬それは本当に大事なポイントばかりですね。
東京、虎ノ門に本社があるイー・アクセス。創業は1999年、『すべての人に新たなブロードバンドライフを。』という企業理念を掲げ、ADSLの普及を通じて、日本をブロードバンド大国に押し上げた。また子会社には携帯電話のブロードバンド化を目指すイー・モバイルがある。イー・アクセスは2004年11月に、創業5年目にして事実上史上最速で東証一部上場を果たした。売上高は579億円を超える。
1942年大阪に生まれ、すぐに疎開し奈良で育つ。そして1962年、京都大学工学部電子工学科入学。
蟹瀬千本さん、疎開なんて言葉も最近はなかなか聞かなくなりましたけども、お父さまも仕事を立ち上げた、要するに起業家でいらっしゃった?
千本いや、起業家ほどのあれではないですけど、もともとはエンジニアで工業高専で航空機なんかのエンジニアやったんですよ。だから昔の秘密の飛行機をつくったりする技術者だったんですけどね。
蟹瀬じゃ、最先端のものをつくってらっしゃった?
千本戦時中ですからね。それで奈良で密かにつくってた。だからそれの会社が第二次大戦で負けて平和産業に変わって、そこの役員なんかやったんですけど、その会社が、例の朝鮮戦争のあの動乱のときに倒産したんですよね。
蟹瀬そうですか。
千本で、中小企業、まさに零細企業を自ら立ち上げた。だから僕が小さい頃っていうのはよきサラリーマンのときから、それからゼロから自分と2、3人で会社始めたんだと思うんですけど、それで税務署に追いかけられたりお金がなくなったりとか、そういう意味ではやっぱり中小企業の苦労というのを目のあたりにして、その中でどのようにしてよじ登っていってるのかというのを見てましたからね。だからそういう意味ではアントレプレナーシップという起業家精神というのは、結構アメリカで見ても、自分の親父が自家営業の人がものすごく多いんですよ。
蟹瀬そうですよね。だからもう子供の頃からそういう意味では……。
千本見てましたね。
蟹瀬起業していく姿……。
千本姿、苦労ね。
蟹瀬苦労している部分、それからそれが結実して何らかの形になる……。
千本親父の場合は結実してないですけどね。
蟹瀬(笑)そうなんですか。
千本中途半端に死んでしまったんですけどね。
蟹瀬でも千本さんご自身はどんなお子さんだった? お勉強のほうは随分できたというお話伺ってますけど、成績は。
千本まあ田舎の進学校ですから、奈良高校とかね。奈良県立奈良高校なんてのは東京の開成とかあんなのから見たら、本当に田舎っぺだから。だけどそういう学校で古都の静かな町で勉強させてもらって、やんちゃ坊主だったけれども。あんまり僕勉強しなかったんですよ。勉強しなかったんだけど、成績だけ良かった、田舎でね。そういうの、時々いるじゃないですか。
蟹瀬いやいや、だけどそれはやっぱり本物が、中身が優秀だという意味だと思うんですけれど。
千本いや、本物ではないんだけれど。だからそういうので、でも結構学芸会なんかで主役を回されると、絶対やらない、その他大勢、後ろでコーラス歌っているという。
蟹瀬へえー。
千本皆さん、今になると信用しないんだけど結構引っ込み思案なんです。
蟹瀬だけど奈良、京都、特に奈良という日本の伝統をずっと受け継いできている町で育って、考古学にもご興味があった?
千本そうですね。だって私が育ったのはなんと七大寺の一つの、だから今はもうないですけども、そこの境内の遺跡の跡に。今の奈良市なんてもう遺跡の上に建っているような町ですから、だから千数百年とかっていうような歴史というのは、常に目の周りにあるわけですよね。だから東京に来て、うちの家内東京っ子なんですけれども、彼女らの古いというのは鎌倉時代が古いわけ。僕らからいうと……。
蟹瀬(笑)尺度が違う?
千本違う。「何言ってんの」と。「そんな新しい時代物は古いと言わないんだ」と。だから僕らにとって、やっぱり1200年とか白鳳(はくほう)とか天平(てんぴょう)とか、そういうものがいつも身の回りにあった。
蟹瀬だけどそういう環境で育った千本さんが、言ってみれば現代よりも未来を見つめるような先端的なところへ進んでいったというのは、なんかそこに一つのエネルギーというか反発心というか、なんかそういうものがあったんですか?
千本結構やっぱりそうですね。やっぱりああいうところは非常に伝統でいろんなつながりがありすぎてね。
蟹瀬しがらみもありますもんね。
千本そう、そういうものからやっぱり解き放ちたいということあったでしょうね。
津島大学の電子工学科の中では優秀な成績を収めていた千本さんなんですが、この後大学院進学か就職かで悩んだ結果、就職を選択することになりました。
1966年、日本電信電話公社(現NTT)に入社。1967年、フルブライト留学生として、フロリダ大学大学院修士課程に留学。1968年、日本電信電話公社に復職。1969年、フロリダ大学大学院博士課程留学。1971年、フロリダ大学大学院、博士課程終了、日本電信電話公社に復職。そして1983年、日本電信電話公社退社。
蟹瀬先ほどもありましたけど、その進学か就職かという選択、これはやっぱり相当その当時は大変だったんですか?
千本いや。当時はアメリカの教育なんか僕結構関心あったですから、周りで結構アメリカに留学してた人もいたので。
千本日本はまだ学部中心の教育だったんです、大学院というのは付け足しでね。アメリカの場合には、大学院がもうその頃メインで、学部というのはその準備過程。だから大学院教育が高等教育の中心に移っていた。ところが日本の、京都大学、東大を見ていてもまだ学部で、大学院のほうは付け足しで先生が教える。そういうのを見ていて、これは大学院行くとしたら日本ではないなと、アメリカにいずれ行けなければいけないなと。そういうこともあって、当時まだ貧乏な学生でしたから、ともかく一遍(いっぺん)就職してみようと。で、世の中をちゃんと一応は見て、それから大学院に行くのがいいのではなかと。
蟹瀬電電公社という会社を選ばれた。もっとそういうメーカーへ行くのかなと思ったらそうでもない?
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