選択で強みを知る!「食べて感動する食材を」の信念
エム・ヴイ・エム商事株式会社
代表取締役社長
石田 希世士
ビジネスでしばしば言われるが決して容易ではない「選択と集中」。それに成功して青果物専門商社を立て直し、消費者、生産者にもメリットのあるビジネスモデルを築いた男が語る、経営ビジョンと戦略とは?
エム・ヴイ・エム商事では、青森県産を中心とする国産のりんごを使用。味や品質にはまったく問題ないが色がまばらだったり、少しキズがあるものも含め、生産者から買い上げている。
石田生産者の方からすると、従来、ジュースに使っていた原料を我々が、それよりも高い値段で買い上げることができますから、生産者にとっては非常に……。
宮川全部が商品になるというのは農家にとってもすごくうれしいことだと思いますね。
石田だと思いますね。
こちらは千葉県山武郡芝山町にある、エム・ヴイ・エム商事のカットりんご製造工場。2016年に設立されたこちらの工場では、カットフルーツとしては珍しい全自動のライン。丁寧にりんごを洗浄後、一つ一つ皮をむき、りんごが割れないよう、一気に芯をくり抜いていく。そして、食べやすい大きさに均等にカットされたりんごは同じ重さになるように機械で振り分けられる。パックにする量はりんご半個分、およそ80グラムずつをパックして完成。今後はさらに生産ラインを増やし、供給体制を拡充する予定だという。
宮川今後のりんご以外でもカットフルーツを展開する予定はあるのですか?
石田やはり、果物というのは季節感が大事ですので、季節感にあふれた商品の拡充を図っていきたいと。消費者の方はなるべく選択肢を広げたいという思いが強いので、できるだけ、りんご以外の商品もこれから増やしていって、その中から選んでいただくという展開に持っていきたいですね。
宮川そうですか。
独自技術とニッチビジネス。この二つの融合で新たな商品を生み出す。それがエム・ヴイ・エム商事のフロンティア精神。
福井さて、ここまではカットりんごのお話を中心に話してきましたけれども、もともとエム・ヴイ・エム商事さんはどのような商品を扱っていらっしゃったのでしょうか?
石田実は、私の祖母が神戸の青果市場に仲卸という、いわゆる問屋ですね、青果の。それを80年ぐらい前に立ち上げまして、そこから1970年にカット野菜、日本で初めてのカット野菜のメーカーを私の父と父の兄が共同経営で立ち上げまして、やはり、日本で野菜の供給が不安定で、そうすると海外から調達しなければいけないということで、1975年に私の父がエム・ヴイ・エム商事を立ち上げていったと。10年間ぐらいはほとんど輸入の青果物のみを扱ってまいりました。
そして、1994年にカリフォルニアから、ベビーリーフというサラダ食材がありますね、それを我々は最初に日本で初めて輸入を始めたんです。
しかし、品質が安定しないということで1996年にすべて国産化にしたんですね。そこからベビーリーフという市場が徐々に広がっていって、今はスーパーなど。
宮川どこに行ってもある。
石田どこにでもある定番アイテムにまで育っていったということです。
福田さて、石田社長のプロフィールを拝見いたしますと、大学卒業後にすぐ家業を継がれていらっしゃいますよね。もともと、家業を継ぐ予定でいらっしゃったのですか?
石田いえ、それには理由がありまして、私の父が、私が20歳のとき、大学の三回生のときですね、心臓の弁膜症という病気になりまして、大きな手術をしたんですね。お医者さんのほうから、「たぶん、長く生きても70歳までですよ」ということを言われまして、それで父が「自分の目の黒いうちに、できたら家業を継いでほしい」と話がありまして、海外との貿易、ビジネスにはちょっとした憧れもありましたので、あまり深く考えずに入社いたしました。
実は父が完治したわけですよ。すっかり治りまして、不整脈が消えて、すこぶる元気になったわけです。
宮川元気になられたのですね。
石田そうすると、私もこのまま家業を、小さい会社の中にいても、視野が狭くなると……。
石田それで、留学の道を選んだんですね。やはり、英語を学びたい、英語は絶対に必要だということと、経営の勉強をしたいということで、アメリカのビジネススクールに28歳から29歳の半ばまで、留学をいたしました。
福井戻られてからはどのような状況だったのですか?
石田実は29歳のときに会社に戻りますと、非常に会社が経営の危機に瀕しておりました。
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