世界シェア8割の根幹!「オープンでフェア」な判断が、結束と対話をつくる
株式会社堀場製作所
代表取締役会長兼社長
堀場 厚
目まぐるしく変化する社会情勢。そんな時代にこそ、その先を読み、己の信念と緻密な戦略のもと、大胆な決断をくだす賢者たち。人生のさまざまな局面で、彼らは何を考え、どんな選択をしてきたのか。分析機器メーカー、株式会社堀場製作所の選択、堀場厚社長の決断とは?
津島今回の賢者の選択は、自動車の排気ガスや環境計測などの分析機器メーカー、株式会社堀場製作所の堀場厚社長です。
蟹瀬堀場さんの経営する堀場製作所は、車の排気ガス計測機器の分野では世界シェアのなんと8割ですね、本当にグローバルに展開するメーカーということが言えると思います。堀場さん、冒頭で伺いたいのですけども、そのグローバルに展開するというときに重要なポイントというのはどのあたりにありますかね?
堀場やはりマネージメントの中で、遠く1万キロ離れた社員、あるいはお客さんとコンタクトしながらビジネスをしていこうとすると、あるスピリットが大事だと思うんですね。
堀場オープンアンドフェアということで、常にやはり自分たちの立場とか考え方をオープンにする、そしてそのジャージングすることは非常にフェアにしていくと、これがやはりオペレーションをうまくやっていく一つのポイントだと思いますね。
蟹瀬なるほどですね。これはなかなか言うは易く行うは難しの分野なんですけどね。
津島はい。堀場さんが、どのようにして成功を収めたのか、お知らせを挟んでお話を伺っていきます。
京都府京都市に本社がある堀場製作所。自動車の排気ガス計測や環境計測などの分析機器メーカーとしてグローバル展開している。1945年、京都大学の学生だった堀場雅夫が堀場無線研究所を創業、50年代には酸とアルカリを計測するphメーターがヒットした。その後、「おもしろおかしく」を社是(しゃぜ)として多くの機器を開発している。
堀場やっぱりおもしろおかしい、死ぬまでおもしろおかしい人生を送らないといけないし、私の経験として、おもしろおかしくやったときは物事の成功率がものすごく高い。で、なんか義務感とか、嫌だけどこの人からだとしょうがないかな、と思ったやつは、やっぱり成功率低いんですよ。
だから会社の仕事でも遊びにしても、やっぱり面白いやつは自分で勝手にどんどん新しい発想も出るし疲れないし、面白くないやつは疲れるし発想は出ないし、結果的にうまくいかないということから、結構おもしろおかしくというのは、実利的に企業経営のやっぱり僕は基本だと思うんですよね。みんな社員がおもしろおかしく仕事をしてくれるような環境をつくるというのが、やっぱり経営者の一番大事なところです。
津島堀場さんは、京都に本社があることが、グローバル展開成功要因の一つだとお考えです。そんな堀場さんが、今までどのような人生を歩んでこられたのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。1948年、京都府京都市に生まれます。1961年、京都教育大学附属京都小学校卒業。1964年、京都教育大学附属京都中学校卒業。1967年、京都府立山城高等学校卒業。そして1971年、甲南大学理学部応用物理学科卒業。株式会社堀場製作所が大証二部に上場ということです。
蟹瀬堀場さんというお名前を伺うと、私はどうしても今、大学の教師もやっているものですから、おじいさまの、大変有名な物理学者でいらっしゃいましたよね?
蟹瀬なにかそういう研究分野にいらっしゃったと思うんですけど。
堀場そうですね。祖父のほうは京大の教授で、ドイツのほうに8年ほど
堀場もともと化学(ばけがく)をやってまして、その化の世界に量子力学、いわゆる物理化学というジャンルを開いた学者だと……。
蟹瀬パイオニア的な存在でいらっしゃいましたよね。
堀場そうですね。父も京大でして原子核物理のほうをやっていまして、やはり多分教授になりたかったんだろうと思うんですけども、ちょうど第二次世界大戦が終わったところで、先輩のかたがたが帰ってきて、数えてみると定年までに講師にもなれないということもあったかもしれませんが、いずれにしてもそんなことがあって、会社というか研究をまた……。
蟹瀬堀場無線研究所ってつくられましたよね?
堀場研究所というのを始めたんですね。
蟹瀬そこでなんかすごいものも作られましたよね?
堀場そうですね。酸、アルカリを測るphメーターというのを国産で最初に開発したということですね。
蟹瀬そういう環境の中で、堀場少年はどんな少年だったんですかね?
堀場そうですね。ですから私が三つか四つ、幼稚園行く前に、その一軒家のところで仕事を始めましたんで、その中に住んでおりましたし、それから工場を新しく買って、そのときもその工場の中に住んでました。ただその工場は精密機械を作っているにもかかわらず、もともと製粉工場でして、その工場の中をバタバタと走ると粉がパーっと舞い上がっていたのを今でも覚えていますけれど。
蟹瀬ということは、働く場所と、それからそういう生活の場所と、堀場さんにとっては遊ぶ場所も一緒だったということですか?
堀場そうですね。小学校の2年までは工場の中に住んでいましたので、そういう面ではお弁当を作ってもらったり、だるまストーブの上にそれを載せて会社の人と一緒に食事したりというのは経験してますね。
蟹瀬いろんな部品が転がってて、それで遊べたわけでしょう?
堀場はい。ガラス細工とか、それから今だと大変なんですけど水銀で遊んだりもしてまして……。
蟹瀬本当、すごい危険ですね。
津島ちょっとね。
堀場だから結構強くなったのかもしれません、それで。
蟹瀬そして、その堀場少年、青年にもなってくるんですけれども、なりたかった職業とうのはなんだったんですかね?
堀場小学校のときに、京都の千本三条というところから北大路、新町というところまで市電に乗って通ってたんです。ですから毎朝、市電の運転手の横に行きまして、その操作の仕方、ブレーキのやり方とか、これ全部覚えまして……。
津島すごい(笑)。
堀場自分は絶対大人になったら市電の運転手になろうと決心してました。
蟹瀬それはいまだになれない?
堀場なれない(笑)。
蟹瀬残念でしたね(笑)。
堀場なれないことがたくさんありますけれども。
蟹瀬で、大学のほうでは応用物理学科という、やはり言葉を聞くだけでとても難しそうな。
津島難しそうですね。
蟹瀬やっぱりこういう方面へ進みたいという気持ちが強かったんですか?
堀場はい、やはり小学校のときも。
出演者情報
企業情報
関連コンテンツ
カテゴリー別特集
リンク