アメリカからロシア料理にも!?
「万能調味料」醤油で開く
「挑戦」の経営
キッコーマン株式会社
代表取締役会長
茂木 友三郎
目まぐるしく変化する世界経済と地球環境。かつてない変化とスピードの違いに我々はどう向き合う。時代を牽引する賢者のターニングポイント賢者の選択。日本の食卓には欠かせない醤油を世界ブランドに育て上げた企業がある。老舗醤油メーカーキッコーマン。戦後日本企業の中でもいち早く国際化戦略を打ち出し、1951年のアメリカ市場に進出。それからおよそ半世紀頃現在では世界100カ国以上にその販路を広げている。グローバル展開を加速させ更なる成長戦略を描くキッコーマン株式会社会長茂木友三郎、その経営理念とは。
蟹瀬ターニングポイント賢者の選択。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。
石田アシスタントの石田紗英子です。
蟹瀬私は仕事柄世界各国ねまることがあるんですけどもそんな時にねこの日本製品があってよかったなと思うものがひとつあるんです。世界のいろんなところでいろんな料理を食べるんですがお醤油をかけた途端にね美味しくなる。醤油という伝統的な調味料がですね、グローバル、つまり世界にどうしてこんなに広がっているのか、ここのところ今日はですね是非じっくりと伺って参りたいと思っております。今回は日本の醤油をどのように世界の味へとして行ったのか、そのグローバル経営についてキッコーマンのあの方にお聞きします。
石田それでは今日のゲストです。キッコーマン株式会社代表取締役会長CEOの茂木友三郎さんです。
茂木ありがとうございます。
蟹瀬どうもはじめまして。今日はよろしくお願いいたします。茂木さんって言うとねビジネス界で知らない方いらっしゃらないかと思います。本当でしたら天下国家の話もね実は伺いたいとこなんですが、今日はやっぱり世界の味となった日本のキッコーマンの醤油の話をですね、じっくりとお伺いしたいと思うんですけれども、まずはプロフィールをお願いします。
石田はい、ご紹介いたします。キッコーマン株式会社代表取締役会長CEOの茂木友三郎さん。1935年千葉県でお生まれになりました。1958年に慶應義塾大学法学部を卒業後、キッコーマン株式会社に入社、入社後アメリカのコロンビア大学経営大学院に留学されて、1961年に経営学修士課程を卒業。主に海外事業部門を担当され1995年2月に代表取締役社長CEOに就任。2004年6月に代表取締役会長CEOに就任。になります。
蟹瀬この経歴拝見してますとね、1961年に既にアメリカでMBAを取られて、80年代なったらみんなMBAMBAってなったんですけども、61年でMBAってもう草分けですよね。
茂木コロンビアのMBAとしてはですね日本人で初めてなんですね。
蟹瀬そうなんですか。
茂木当時ね、ビジネススクールという言葉が日本で通じなかったんですよ。
蟹瀬そうですよね。
茂木私がねビジネススクールに留学するといったら、友達がタイプ習いに行くのか?と。
蟹瀬タイプライター。今、タイプというのも死語になりつつありますけどね。
茂木そういうことやろうとしたね。私は慶応大学2年の時にピータードラッカーさんのザ・プラクティス・オブ・マネジメントという本。あれがね現代の経営ということで日本語に訳されたんですね。その本を読みましてね。アメリカの経営学は素晴らしいなとということで感激しました。それでもう一つね、3年の時にノースカロライナ大学というのがありましてね。そこの教授で、今でも名前覚えているんですけど、ホワイトヒルさんっていう交換教授ですね慶応に見えたんですよ。それで1年間講義されたんですね。その時聞きましてね、ますますアメリカでビジネス勉強したいなという気になったんですね。
蟹瀬それまでビジネスっていうのは商売だったんですよ。学校で勉強するもんじゃなかったんですよね。
茂木それはやっぱりそういうひとつの科学って言いますか、ディスプリントして考えられるようになったってのも凄いことなんですよ。
蟹瀬まあ、なり始めですよね。
茂木日本ではね。
蟹瀬はじめっていう点ではですね、キッコーマンというお醤油もこれ明治からですか?もうすでにあの海外に進出されてる。
茂木明治元年ですね日本から初めての移民船がハワイに出て行ったそうですよ。その時に私どものキッコーマンブランドの醤油がね、かなり大量に樽詰めで船積みされたという記録があるんですね。
蟹瀬これだけは持って行きたいというのがあったんですかね。
茂木その後日本からの移民が増える、あるいは日本人が外国に住むと、それに従って私どものの醤油もだんだん輸出が増えていったということなのですが、輸出はするけれどもお客さんはやっぱり日系人、日本人だったんですね。
蟹瀬そうでしょうね。
茂木それが戦後変わったわけですよ。
蟹瀬なんでそんなに変わったんですかね。
茂木それはね、戦後アメリカ人がたくさん日本にきましたね。これはビジネスマンもいましたし、ジャーナリストもいましたし、役人もいましたね。学校の先生もいた。日本の街の中に住んでしばらくして醤油の味を覚えたわけですよ。これをねその日本料理に醤油使うの当たり前なんですけどね、アメリカ料理に醤油使い始めたんですね。彼ら彼女らが。それで当時の先輩たちが見てまして、これならばねアメリカ人のなかにも潜在市場があるんじゃないかということを感じたんですね。それでアメリカでアメリカ人を対象に商売しようと、言う事になりまして。
蟹瀬だけどそれってすごく決断としてはリスクがある決断じゃなかったですか?
茂木それはねあったんですけど、実はね、実はねその昭和30年頃になってですね、日本の国内で醤油の需要が伸び悩んできたんです。それはなぜかと言いますとね、途中に他の業界も同じですけどね、その原材料が不足するとか、あるいは労働力が不足すると、いうことでね、生産がガタ目に減ったんですね。昭和20年代はそれを回復する時期ですから、作れば売れたんです。ところが昭和30年ごろになると、有名な経済白書の言葉にもはや戦後は終わったという表現がありますよね。醤油業界も戦後終わりましてね、戦前の生産力に戻ったんですよ
。
蟹瀬なるほど。
茂木そうするとね、醤油というのは日常必需品ですから、そんなに増えないわけですね。人口の伸びぐらいしか増えない。ところが一方ね、日本経済どうだったといいますとね、高度経済成長期の前夜ですよ。日本が非常に明るい、みんな希望に燃えてたんですね。そんな中でね、私どもは主力商品の醤油、当時売上の8割は醤油です。その醤油の需要が伸び悩むというのはこれはもう一大事ですよね。
茂木当時の経営者がいろいろ考えて、2つの戦略を考えたわけですね。1つはその醤油が売れなければ他のものを作って売ろうよと、もひとつは国内で醤油が売れなければ海外で売ろうよと、国際化戦略ですね。この2つですね。国際化戦略を展開するためにアメリカでマーケティングを始めたと。
蟹瀬実際にそのアメリカから来られた片が醤油の味を覚えて帰られたとかありますけど、商売としてマーケットとして考えた時に、これが行けるっていう判断はどの辺りがキーポイントなったんですかね?
出演者情報
企業情報
関連コンテンツ
カテゴリー別特集
リンク