世界シェア8割の根幹!「オープンでフェア」な判断が、結束と対話をつくる
株式会社堀場製作所
代表取締役会長兼社長
堀場 厚
目まぐるしく変化する社会情勢。そんな時代にこそ、その先を読み、己の信念と緻密な戦略のもと、大胆な決断をくだす賢者たち。人生のさまざまな局面で、彼らは何を考え、どんな選択をしてきたのか。分析機器メーカー、株式会社堀場製作所の選択、堀場厚社長の決断とは?
1977年、帰国後、株式会社堀場製作所海外技術部長に就任します。1981年、海外本部長就任。1982年、取締役海外本部長就任。1988年、専務取締役営業本部長就任。そして1991年、専務取締役営業本部長兼生産本部長就任ということです。
蟹瀬アメリカから帰られて、トントンと昇進されているわけですけど、本当は帰りたくなかったというのは本当なんですか?
堀場そうですね。JPLというNASA関連の仕事がありまして。
蟹瀬Jet Propulsion Laboratoryですね。
堀場はい。で、そこに研究の仕事だったんですけれども、その話がありまして、私の結局大学の卒業生というのは、ほとんど海軍の研究所とかロックウェルとか、みんなそういうところに行くわけですね。
私もやっぱりちょっとそういうところへ行けるなら行ってみたいなというのをごく自然に思ったんですけども、なかなかそういうわけにはいかなかったということで。
蟹瀬だけどチャレンジ精神で。
堀場そうですね。でも多分二度と日本に帰らないだろうというのを誰かが思ったんだと思いますね(笑)。
蟹瀬お父さまが。
津島何か(笑)。
蟹瀬そうすると戦略としてはどういう戦略を使われたんですか?
堀場兵糧攻めみたいなものでしょうかね(笑)。
蟹瀬仕送りがない?
堀場なかなか資金的にも苦しい時代でしたから、もちろんそれだけではないんですけども、でも私はそのときに、やはり日本に帰って良かったと思います。会社の状態も含めてですね。特に海外のオペレーションはそれなりに7、8年やってきたんですけども、日本サイドからのサポートがやはりきっちりできてない、このまま行けば空中分解するというふうに思ってましたので、日本に帰って特に技術サポートをしようということを……。
蟹瀬お父さまもそういうことが必要だということは十分理解されて、あいつはあっちで勉強したいだろうけども帰ってこいと。
堀場そうです。
蟹瀬で、帰ってこられてどういうことをやられたんですか?
堀場すごいポジションがあったんですよ、部長職が、まだ20歳代のですね。で、課長さん1人、女性1人の一番大きい部だったんですけど。
(一同笑い)
堀場何をしていいか、何ももちろんアサインメントはなくて、勝手にせいと。
蟹瀬海外技術部長って、総勢3人だったんですか?
堀場総勢3人です。だから最も効率のいい、それ以来、人が少なくてもいい仕事できるというのをここで勉強したんですけども。
蟹瀬仕事はなんだったんですか?具体的には。
堀場結局、ドキュメンテーションですね、日本から資料送ってくれと言っても現地にいる日本人向けに日本の資料をバサっと送るんですけど、結局そこで翻訳したりしないと、すごく労力がかかっていまして。
蟹瀬マニュアルなんかも英語のものはなかったと?
堀場そうです。ですから、そういうものを、あったんですけど非常に不親切だったんですね。ですから、そういうものをまず対応するところからスタートしまして、それから開発担当者を海外のお客さんのところに行って、私が通訳して、われわれの製品のいいところを直接お客さんにアピールするというようなこともやりましたね。
津島この後、堀場さんは社長に就任します。1992年、代表取締役社長に就任します。1996年、フランスのABX社を買収し、医用分野を強化。1997年、フランスのジョバンイボン社を買収、半導体、科学分野を強化。1998年、フランスより国家功労章オフィシエを受章。2005年、代表取締役会長兼社長に就任、ドイツのカールシェンク社の計測部門を買収、自動車分野を強化ということです。
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