「たじろがずに自分をかえていく」200年企業が次に乗り越える時代の潮流
鈴与株式会社
取締役社長
鈴木 与平
目まぐるしく変化する世界経済と地球環境。かつてない変化とスピードの違いに我々はどう向き合う。時代を牽引する賢者のターニングポイント賢者の選択。静岡県清水区。江戸時代の終わり頃に創業し、この港を拠点にして港湾物流事業を中心に発展してきた鈴与株式会社。鈴与は次々と新たな事業分野を開拓し、現在では140社を要するグループ企業へと成長してきた。1991年に参入した航空事業では富士山静岡空港の開港によって静岡発のエアラインが加速度的に充実しつつある。鈴与は港で発展してきた。これから空の港で発展する。創業200周年の節目を担う老舗企業8代目鈴木与平の未来戦略に迫る。
鈴木最後の最後までそれはすごく葛藤がありましてですね。最後に父からお前が本当に嫌なら継がなくてもいいよという話をされて、なんとなく根負けしたと言うか。親父の愛情を感じたと言うか。それでその気になったんですけど。
蟹瀬その直接代々継がれてきた会社というよりは一旦出向と言うので日本郵船ですか。行かれてますよね?
鈴木これはもう出向というよりも、直接入社させていただいたのと同じように同期の新社員と同じ研修を受けて同じような形で使っていただきましたので、大変日本郵船さんには感謝を表しております。
蟹瀬どういう事業に携わりたんですか?
鈴木最初は港の現場ですね。神戸支店に配属になりました。そちらで勉強してその後で本社に参りまして。ちょうど日本でコンテナ船というのが導入されて始まったばかりで、その本社のセクションに配属されました。
蟹瀬物流の現場でね、初めてそうやって立たれたわけですよね。物流っていうものの何かインパクトとか何かそういったものありましたか?
鈴木ちょうど変わり目だったものですから、ものすごく労務の問題だとか現場が厳しい時だったんで、残業ももう200時間近くやったり色々な経験しましたですね。それが今ものすごく勉強になってると思いますけども。
蟹瀬鈴与という企業が誕生したのが1801年。すごいですね。
鈴木元々は清水から甲斐、山梨県の甲府ですね。あそこに藤川という川がありますけれど。あそこを伝って塩を運ぶ廻船問屋をというのがスタートなんですけれども。明治になってそういう問屋の制度が廃止になりまして、仕事がなくなってしまったわけですね。
その時にちょうど清水からお茶が世界中に輸出されるんで。それこそ日本郵船や色んな船会社を誘致してそれで港の船積みの仕事が始まったわけですね。そのうちに東海道が通るようになって、石炭を取り扱うようになりました。石炭を取り扱うことから今度は売り買いの方に入り。一時は石炭商としても割合大きな仕事をやってたんですけども。
鈴木それが油に変わりガスに変わりという形で、ひとつの我々の事業の流れとなっているわけですね。
石田江戸時代に創業して209年ということですが、現在どのような事業を行っているのか地元静岡清水区で取材してきました。ご覧ください。
静岡県清水港。この港のそばに鈴与の本社がある。鈴与という屋号は創業者鈴木与平の名にちなんでつけられた。歴代の継承者は創業者の名を襲名してきた。鈴与は清水港を中心とした港湾物流で発展してきたが、物流事業をのみならずエネルギーなどを扱う商流事業、ビルメンテナンスまで含む建設事業、食品事業、情報事業、地域開発事業、そして2009年に運行を開始したフジドリームエアラインズをはじめとする航空事業を手がけている。陸海空に関わる物流事業とコンシューマー事業を総合的に出かける鈴与グループはおよそ140社を数える。
蟹瀬こういう風に拝見すると物流というイメージがあったのですけど、そうじゃなくて本当に多角化されてるということなんですね。
鈴木そうですね。まあ物流が本業なんですけれども。特にエネルギー関係の取り扱いも結構。売上ではそちらの方が今大きくなってますね。
蟹瀬そうですか。まあその辺の詳しい話を伺う前にですね。実はこの番組では賢者の数字という経営の指針になさってるような数字っていうのをゲストの方に書いていただいていており、ぜひお願いしたいと思います。
石田お願いいたします。
鈴木あまりそういう数字を考えたことないですけれど。
蟹瀬8。これはどういう意味ですか?
鈴木私八代目なんです。
蟹瀬はいはいはい。
鈴木それから。私の生まれた年がですね昭和16年。8が二つですね。8月8日生まれなんです。
蟹瀬なるほど。
石田縁があるんですね。
鈴木末広がりと言われてるわけなんですけれど。
蟹瀬そうですね。
鈴木数字ってお話を伺ってパッと頭に浮かんだのがやっぱり8という数字が浮かびますけれども。
蟹瀬何かすごく幸せな感じがしますね。さてその日本郵船に行かれた日本郵船で色々な基礎的な知識と言うか経験というのを積まれて戻ってこられたのが1974年。
蟹瀬その頃の鈴与の状況というのはどのような状況だったんですか?
鈴木ちょうど高度成長期が朝鮮戦争からずっと続いた高度成長が終わりの頃で、オイルショックでドカンときたわけですね。
蟹瀬73年オイルショックでしたね。
鈴木そこへちょうど私どもの両親も年を取ってきて、それから両親を支えてくれた番頭さん達も年を取ってきて。ちょうど変わり目のところだったんで非常に大変な時だったですね。今までやってたことと違うことをやらなきゃなりませんから。なかなかそれがこう変えられないとかですね。古い人たちが多いですからその頭の切り替えが難しいというのが。
蟹瀬具体的にはどの辺りが難しいんですか?
鈴木そうですね。やはり人事政策それから関係会社がやはり赤字の会社が創業以来一度も黒字になったことない会社とかですね。赤旗飾ってる会社とか色々あって、帰ってきてちょっとびっくりしたんですけど。
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