倒産危機に「仕事が楽しくなった」見つめ直した大切なことは「世界ブランド」
株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド
代表取締役社長
寺田 和正
1994年3月10日日本の女性たちを魅了するファッションブランドが誕生した。サマンサタバサである。若き寺田和正は独自のブランド戦略を展開し日本そして世界市場へと進出を図っている。起業して数年後に会社存亡の危機に見舞われるも寺田の周到な海外戦略が功を奏しサマンサタバサはよみがえった。日本初のファッションブランド、サマンサタバサのブランド戦略は果たして世界を席巻することができるだろうか。その戦略に迫る。
蟹瀬リーダー&イノベーション賢者の選択ナビゲーターの蟹瀬誠一です。
白石白石みきです。
蟹瀬日本は戦後ね本当に世界に誇れるような素晴らしい製品を生み出してきました。工業製品、家電製品、それから自動車なんかもありますよね。
蟹瀬しかし、近年になりましてアジアのこの進行国このやっぱり力が大変強くなってきてですね日本は厳しい所に追い込まれております。そんな中で世界に通用する日本ブランド、これを生み出そうとこういう企業もあるんですね。たとえば今日ご紹介します、サマンサタバサ。まあ若い女性は白石さんを含めもうご存知でしょう。
白石大好きですね、はい。
蟹瀬そのサマンサタバサの世界戦略そちらの方に迫ってまいりたいと思います。
白石それではさっそくゲストの方をご紹介いたしましょう。株式会社サマンサタバサリミテッド代表取締役社長の寺田和正さんです。よろしくお願いします。
寺田よろしくお願いします。
蟹瀬どうぞお忙しい所ありがとうございます。ご無沙汰しています、ぜひ寺田さんの世界戦略を伺って行きたいと思います。
白石会社設立以来、ずっと持ち続けている思いがあるとお聞きしたんですけども。
寺田我々は日本のブランドなんですけど、あえて世界を目指すということで、世界を制覇しようと。
蟹瀬それは本当に大事だんですよね。
白石そうですよね、ではそのお話をじっくりお聞きしたいと思います。
蟹瀬どういう戦略なのかね、楽しみですね。
白石まずはですね寺田社長、最初の変革そのキーワードは何でしょうか。
寺田アジア進出。
蟹瀬アジア進出、どういう形で進出されるのか、じっくり伺いたいと思います、どうぞ。
株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド代表取締役社長。寺田和正は1965年に広島で誕生した。駒澤大学在学中にカナダに留学、現地で日本向けの革ジャン輸入販売で企業。大学卒業後商社勤務を得て1991年に独立して海外ブランドの輸入卸で起業。時に若干25歳。そして1994年に製造小売り業に転身しサマンサタバサを設立。現在に至る。
蟹瀬海外ブランドの輸入の卸から、製造小売りっていう風に転換されてますよね。この辺はどういう背景があったんですか。
寺田25歳で起業したんですけども、当時はブランドビジネスということで、日本でブランドを作るのはなかなか難しかったので、海外のブランド日本に入れていました。そこからブランドを日本で定着させていくいうようなことをやってたんですけども、なかなか他人の物なので一生懸命成長してもですね、どこかで卒業していったりとか。
蟹瀬やっぱ自分のものだっていう感じで、捉えられないわけですもんね。
寺田そうですね、当初はやっぱり自分の子供のように捉えてやってるんですけども。
寺田ある日突然、自分のものではないなということが気づくことが何度かあったもんですから、ちょうど気づきながら自分のブランドをつくろうとということで、サマンサタバサを作ったんです。消費税が3%から5%になるときに、大きな小売りの厳しい時代を迎えてるんですけども、その時にすべてを入れ替えて。
蟹瀬入れ替えて、まあ今お店とか拝見してると非常に順調で、成長してるって感じがしますけれども。実際にはやり始めてしばらくして、相当厳しい状況ってあったんでしょ?
寺田そうですね、海外ブランドを入れて、成長させることには成功したんですけども、17,8億ぐらいまで売り上げを伸ばすことができたんです。けどもある日突然、ガラッと時代が変わってですね。実はその前にそれはすごく自分の中で不安に思ってたことが、消費税が変わったことによって、すべてが表面化されたという。
蟹瀬その時って、負債っていいますかね、いろんなものが膨らむわけですよね、どの程度って数字はよろしいですか?
寺田確かすべて合わせると4億7,8千万ぐらいですかね。
蟹瀬その時の気持ちってどんな感じなんですか?
寺田つぶれるとも思ってないですから、ですけども周りからすると、もうつぶれてもおかしくないという風な状況です。
出演者情報
企業情報
関連コンテンツ
カテゴリー別特集
リンク