

「欲なくしてできぬ社会貢献」 天皇執刀医の働く極意
順天堂大学医学部付属順天堂医院
院長
天野篤
どんな苦境にもあきらめず、一途に患者の命をつないできた。心臓外科医になって執刀した患者の数は7500例を超えた。天皇陛下もその中の一人である。人間の営為とは思えぬほどの努力を続ける天野篤 氏はAI(人工知能)やロボットとの対峙をどう受け止め、医者として、そして人としてどう働くべきかと考えているのか。その極意を探った。
Chapter3 チームでより良き治療を
心臓外科医、天野篤氏は医師として目指す姿をこう言い表す。
「僕は常に、映画『七人の侍』の久蔵をイメージしています。夜中でも他の人が見ていないところでひとり、夜盗を倒すという久蔵の姿をずっと追い求めてきました」
「七人の侍」で、剣術に秀でた久蔵は危険を顧みず、黙々と自分の役割を果たし、盗賊と化した野武士たちから農民を守る役柄である。自分しか救えない心臓疾患を抱えた患者さんの命をつなぎとめるために仕事をこなしてきた天野氏にとって久蔵は永遠の憧れだった。
15 年前の2002年、順天堂大学教授として迎えられた。大学卒業後、民間病院を渡り歩き、心臓外科医として腕を上げてきた天野氏が大学病院の立て直しのために誘われたのだ。
当時の順天堂医院について天野氏は「動きが どうしようもない病院だった」と振り返る。有名大学病院としての看板は立派だが、中身が伴っていなかった。看護師や麻酔科医師など医療スタッフのレベルが必ずしも高くはないと見えた。
手術は外科医一人だけではできない。麻酔 科医師、看護師、臨床工学士などが協力し合うチームプレーが必要だ。天野氏は『あきらめない心』(新潮社)でこう書いている。
よそ者の新任教授を訝しく見ているような 雰囲気が常にあった。僕からしてみれば、周りがすべて敵に見えることすらあった。ICUの看護主任からこう言われたこともあった。「ここは組織で動いていますから」
「影の看護部長」として看護師にも厳しく注文を付けた。去っていくものも出たが、「患者さんのためだ」と鬼神と化した。だが厳しいばかりでもなかった。
天野氏が考える「患者さんが安心して通える病院」とは、いつも同じところで同じ人が同じように丁寧に対応してくれる病院だ。看護師ならばベテランも中堅も若手もくるくる変わらず、長くいてくれる。
「いったん自分たちの仲間としてチームに入ったら、長く続けられるようにしなければならない。個人として、あるいはチームとして獲得した経験値を患者さんに生かせるようにしなければなりません」
そのために天野氏は働きやすい職場環境をつくり、職員のために自分が出来ることは全力でサポートしてきたという。
仕事はすべからく顧客満足度(CS)を上げなくてはならない。そのためには、従業員満足度(ES)も上げなくてはならない。それと同じように、天野氏は「職員にはプライベートを大事にしてほしい。2番目に仲間を大切にする。それができて初めて患者さんのために治療できるのだと思います」
順天堂に来て5年が経ち、ようやく良いチームができたという。天野氏が率いる心臓血管外科だけでなく、「順天堂自身も変わっていったと思います。 『人も組織も成長しなければ責任を果たせない』という理事長の教えが大きかったのです。僕も止まらずに研鑽を積まなければという思いが強くなりました。他の先生も変わっていったと思います」
心臓血管外科の手術数は着任から4年後には 年間500例を超え、6年後の2008年には全国の大学病院では最多の640例に達した。入院期間も短縮され、「順天堂で手術をすると早く元気になって退院できる」という評価が定着した。
2012年、天皇陛下の手術を依頼された際には「天野さんを中心とした組織全体と東大 病院との協力態勢を築いてほしい」という要請があった。手術後2週間、東大チームと順天堂チームの医師、看護師は天皇陛下が入院された 特別室に交代で昼夜勤務した。
「誰も嫌だとは言わなかった。我々のチーム、個人が必要だとされているという自覚があったためだと思います」
順天堂へ赴任してすでに10年が経っていた。
天野氏がチームワークの確立とともに心がけているのはリスクマネジメント。リスクと言っても手術の失敗のリスクではない。
「自分が突然いなくなってもずっと同じ水準の医療が平然と変わらずにできるようにしな ければならないと考えています」
天野氏が急逝するという事態をリスクとして常に考えているというのだ。
実は42歳の頃、ある占い師に人生を占ってもらった。占い師が天野氏に伝えたのが「絶」という漢字だった。航空機事故か何かで突然、命が絶える、という意味だった。
天野氏は「占いを信じる方です」と言う。「あのころは患者のためと言いながら、自分のためだけに患者さんを治療していたのかもしれない。そんな自分の姿を見透かされたのではないかと思っています」と振り返る。それ以来、論文を書いたり、講演をしたりして、公的な仕事に取り組み始め、自分がいなくなった後の組織が円滑に進むようにしておかねばならないと考え始めた。卓越した技術を持つ天野氏がいなくなっても順天堂医院を持続的に運営できるかどうかが課題となった。
「最近は信頼できる部下ができ、僕がいなくても、症例数は少なくなるかもしれないが、レベルは守れるという水準には来たとは思う」そう話す天野氏が少し迷った時期がある。
2015年夏の埼玉県知事選への立候補が取り沙汰されたことがあった。
「特命の副院長として研修医を集め、教育する立場でした。3年間で結果を出すこともできた。請われるところに行くのもいいかもしれないと実は思ったのです」
天野氏は当時の心境を吐露してくれた。
〈自分がいなくなったらどうなるだろう〉と部下の将来に思いをはせた。子供の教育にお金がかかり始めた部下もいた。〈次の教授が彼らをちゃんとサポートしてくれるかどうか保証の限りではない。部下やその家族への責任が果たせないのではないか〉……。
自問自答した結果が「今後もこのチームを守り、高いレベルで働き、高いレベルの生活もで きるように全力でサポートすること」だった。 最終的に順天堂にとどまることを決心した。またそれが高いレベルの医療を求める患者のためでもあった。
「一将功なりて万骨枯る(功績が上層の幹部 のみ帰せられ、その下で犠牲になって働いた多くの人が顧みられないこと)、というわけにはいかない。僕がいなくなってもちゃんとできるようになるまで続けます」
2度同じ失敗を繰り返せばメスを握らない とずっと自戒している。
「手術中、この前も同じ状況だったなと思うことがあります。『ここでこけたらおしまいだぞ』と慎重になったり、ゆっくりになったりしながら、目の前の患者さんのために前と同じ結果を出さないぞ、と問いかけながらやっています」
65歳の定年までに次世代の組織づくりを終える考えのようだが、スピードを緩め、安定を求める様子はない。将来ある若い医師にはどんなメッセージを天野氏は遺そうとしているのか。
「自分で取り組む課題を見つけて、社会への恩返しをして欲しい。そのためには自分一人のために医者をやっているのではないと気付くタイミングを逃さないで欲しい」
「それに加えて最近は『欲』をもって欲しい、と言っています。経済的な欲でも知識欲でも多くの人間関係をつくりたいという欲でもいい。欲張らないやつは社会貢献できないぞ、45歳までは欲を全面に出せ、とね」
高みを目指す果てしない「欲」の先にしか社会貢献できる力は育たない。
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