「凡事を極め、100年企業へ」


大和ハウス工業株式会社
会長
樋口武男

SOLOMON

会社の寿命は30年と言われる。会社を取り巻く環境はますます変化が激しく、業績が急激に悪化する例も多くなった。
そんな荒波の中で、大和ハウス工業は100年企業を目指し、成長し続けようとしている。祖業の住宅事業の強化とともに新規事業に邁進する。社長、会長として20年近く会社を引っ張る樋口武男会長は創業者、石橋信夫氏の経営理念を固く守り、なすべき当たり前の「凡事」を極めた人である。長く持続する経営の要諦を聞いた。

社是を体現した人生「事業を通じて人を育てる」

勤め人の人生は多くの人に育てられる人生である。社内の上司や同僚、社外の取引先やお客様…。仕事を通じて交わる様々な人から学び、成長するかどうかで勤め人の人生は良くも悪くもなる。
樋口武男氏は「私には3人のオヤジがいる」と言う。実の親である樋口富太郎氏がまず1人。「全財産を預けるから独立して会社を興したらどうですか」と勧められるほどに信頼してもらった資産家の小田弥之亮氏と、創業者の石橋信夫氏である。

三人三様にお世話になった「オヤジ」であるが、会社人生の中で濃密な時間を過ごし、経営者となった樋口氏を育てたのはもちろん石橋氏だった。
石橋氏が1955年に大和ハウス工業を創業したと同時に定めた社是で第一番目に掲げたのが「事業を通じて人を育てる」こと。会社が持続的に成長し、社会に貢献するには、まず人づくりなくしては、不可能だという企業理念がそこにはある。

樋口氏の会社人生を振り返ると、まさに社是を体現した人生だったと言える。
大和ハウス工業の本社住宅事業部営業部次長から36歳で山口支店長になった。初めての地方勤務だった。すでに社長賞も受賞し、頭角を現していた。日経新聞の「私の履歴書」ではそのころの自分をこう書いている。

「鬼」と呼ばれ孤立した山口支店長時代初めての石橋氏の教え

「営業目標を大幅に狂わせた管理職、確認や指示がいいかげんな管理職も容赦しない。胸ぐらをつかんで責め立てた。一刻も早く業績を上げようと焦り、肩に力が入った。『鬼』と呼ばれた」

今ならパワハラの類であろう。部下の心は離れ、支店長の樋口氏は孤立した。だが樋口氏にしてみれば必死に支店の業績をあげようとする当たり前の行動だった。
そんな時、石橋氏が山口支店を訪れた。樋口氏が赴任から短いうちに地元の有力者と懇意になっていることは石橋氏にもすぐに分かった。

宿泊先の旅館で樋口氏は石橋氏と一緒に風呂に入った。思わず樋口氏は愚痴を漏らした。
「一生懸命にやっているのにこんな目に遭うとは思わなかった」「全力疾走して後ろを振り向いたら誰もいない」静かに聞いていた石橋氏はこう答える。

「長たる者、一番大切なのは決断やで」

その一言で樋口氏は自分の愚痴を恥じたという。最も重要な決断を下さずに、ささいなことにこだわっていたと気付いたからだ。

それを機に樋口氏は夜の10、11時になっても部下の帰りを支店で待ち、時間を見つけては社員一人ひとりとの対話を始めた。支店の雰囲気は一転し、翌年は営業一人あたりで日本一の業績を上げる支店に変わった。

山口支店での経験は、樋口氏が石橋氏から直接、授かった初めての教えだった。
樋口氏は、山口支店の経営を軌道に乗せると、次は赤字の福岡支店へと赴任した。
電話のベルが何度鳴っても受話器を取らないような支店だった。1度のベルで受話器を取り、「はい、大和ハウス工業福岡支店でございます」と答え、担当者につなぐ…。当たり前のことを当たり前にやる「凡事徹底」をここから始めた。

3人のオヤジの一人、学者で資産家でもあった小田氏とは福岡支店時代に会った。樋口氏の若いころからの夢は会社を設立して事業家になることだった。小田氏はその資金を出してくれるという。樋口氏は独立しようかと悩んだ。
樋口氏はそのころを振り返り、「石橋オーナーは『人の道を外してはいかん』とよく言っていた。自分の欲だけでお世話になった会社に後ろ足で砂をかけるようなことはしてはいかん、と思い直し、小田さんには丁重にお断りした」と言う。

その直後、樋口氏は胆嚢炎などで2度も入院する。「もしもあの時、独立していたら失敗やった。結果から考えると、運もあったなあと思う」と樋口氏。
「人の道を外してはいかん」という教えは自分の欲だけで経営してはいけないということでもある。経営者に私利私欲があってはいけないことを樋口氏は石橋氏から学んだ。

「会社は公器」会社を潰す私利私欲の経営

「最後の試験」大和団地社長への打診「君の宿命や」

大和ハウス工業の社長に上りつめる樋口氏にとって「最後の試験」だったのは、大和団地の再建だ。バブルが崩壊した後の1993年のことだった。大和ハウス工業の専務から債務超過寸前の大和団地の社長に転じる「晴天の霹靂」だった。
石橋氏から大和団地への転出を打診された折、最初は「勘弁してください」と断ったが、石橋氏は厳命した。

「わしがゼロからつくって上場までさせた大和団地をつぶすわけにはいかない。それで頼んどるのに何が不服や」君の宿命やと思うてくれ」

石橋氏の「会社をつぶすわけにはいかん」という発言にも「私利私欲はない」と樋口氏は言う。社員ばかりか家族、取引先も路頭に迷わせるわけにはいけない、という思いが込められているからだ。「会社は公器」という石橋氏の強い信念は長男の処遇にも貫かれた。

会社のため、泣いて馬謖を切られた創業者の長男

石橋氏の長男、伸康氏は1996年に大和ハウス工業社長に就任するが、業績不振で99年には社長から取締役に降格される。我が子可愛さで会社をつぶすわけにはいかないという冷徹さがあった。樋口氏が社長に就任した01年、石橋氏は樋口氏に長男を取締役からも外すように求めた。「泣いて馬謖を斬る」そのものだった。

「石橋オーナーにとって、会社も息子も可愛いのは当然ですが、石橋オーナーには息子のせいで会社をつぶし、社員やその家族に苦労をかけるわけにはいかないという強い思いがあった。それほど私利私欲を排除した人でした」と樋口氏は振り返る。

現場に知恵あり。直感に根差せば良い経営に

「現場に知恵あり」という現場主義も石橋氏から学んだ。石橋氏は創業時からすべての現場を自分の目で確かめた。現場から現場へと夜汽車で向かい、駅のベンチで仮眠をとったという。

樋口氏が大和団地に移った時、マンション用地購入のための分厚い稟議書が回ってきた。担当役員の判が押してある。その役員に「土地は見たのか」と聞くと「見ていない」という。
樋口氏は「これでは不良資産が増えたはずだ」と思った。ちゃんと現場に足を運び、土地を見極めれば「これは売れない」と判断できたはずだからだ。

「現場の状況から自分で何を感じるかが大切だ。現場に行かなければ何も感じない」

石橋氏から樋口氏が引き継いだ経営哲学である。頭だけで経営するのではない。現場におもむき全身で感じた直感を大事にすることがより良い経営判断につながっていく。

会社はどんな仕事に取り組むべきなのか。難しそうな経営判断にみえるが、大和ハウス工業の判断基準は「世の中の多くの人の役に立ち、喜んでもらえるか」。現在の新規事業への取り組みである「ア・ス・フ・カ・ケ・ツ・ノ」の判断基準もそうであることはすでに述べたが、大和ハウス工業の初期の事業も同じだった。
樋口氏が講演や取材で話す創業期のエピソードがある。

①1950年に関西地区を襲ったジェーン台風。吉野川や紀ノ川、十津川の流域は土砂に埋まり、多くの住宅が被災した。吉野出身の石橋氏はその時、田んぼの稲や竹が折れずに立っているのを見て、気がついた。「丸くて中空だから強靭なのだ!」。それが鉄パイプを建物の主要構造にするアイデアにつながり、大和ハウス工業を創業した。

②鮎釣りが趣味だった石橋氏は日暮れまで川べりにいた。子供たちが帰宅せずに遊び続けているので「はよ帰らんと」と注意すると「帰ってもおるとこないねん」の返事。それをヒントにミゼットハウスと名付けた勉強部屋を発売した。

③結婚した息子夫婦のための部屋を敷地内につくりたいという声を聞いた。ミゼットハウスにトイレや台所をつけてスーパーミゼットハウスに。別名「新婚ハウス」と人気になった。

今回の取材でも樋口氏はエピソードを披露したうえで、「つまり目の前の課題を次々に解決していったのが石橋オーナーです」と付け加えた。
最近の企業経営者が良く口にする「社会課題の解決」である。世の中の人が困っていることを、解決し、喜んでもらう、という仕事を目指すという会社の在り様は大和ハウス工業の原点である。

社会課題解決とスピードで100年企業に

現場主義にもとづいて「先の先を読み」、見つけ出した社会課題を解決する会社は、おそらく消費者に受け入れられ、持続的な成長が可能になるだろう。100年企業を目指すなら、愚直に実行していくしかない。

だが現場主義で社会課題を解決するだけではまだ十分ではない。樋口氏が石橋氏の教えとして一番にあげる「スピードは最大のサービスである」が重要だ。
よく考えてみれば当たり前のことである。いくら世の中のためになる事業だとしても、スピードが遅くてはライバル企業に後れを取ってしまう。会社が長く生き残るには、良いことを早くしなければならないのだ。

樋口氏は大和団地時代に社員に向けたスローガンは「SANAGI」。スピーディー(S)、明るく(A)、逃げずに(N)、諦めずに(A)、ごまかさずに(G)、言い訳をせず(I)、を呼びかけたが、第一にスピードを上げた。大和ハウス工業の社長、会長になって使った言葉である「3G&3S」、「DASHプロジェクト」、「ア・ス・フ・カ・ケ・ツ・ノ」にもすべてスピードというキーワードが入っている。

2011年3月11日の東日本大震災への対応でも「スピード」が決め手だった。岩手県陸前高田市の市立第一中学校校庭に最初の仮設住宅36戸を着工したのは3月19日。2週間弱で完成させた。日頃からスピードが大事と号令をかけていたことが功を奏した。

樋口氏の勤め人人生をみると、石橋氏のさまざまな教えを直接伝授され、仕事の中で確認し、実行に移すという繰り返しだったと言える。それをさらに仕事をしながら自分の血肉にして、新たなスローガンとして昇華させてきたのではないだろうか。まさに「事業を通じて人を育てること。」という社是を一身に受け、経営者としての土台を築いたのが樋口氏である。

成長発展の原動力は創業者精神の継承

樋口氏は「成長発展の原動力は創業者精神。100年企業になるためにも創業者精神を継承しなければならない」と言う。大和ハウス工業の中で、石橋氏の謦咳に接して、直に多くを教わったのは樋口氏しか残っていない。

その樋口氏も今年、80歳になる。いずれは経営の一線から退く時期が来る。そのためにも創業者精神を次世代の経営者、社員にも引き継がねばならない。
現在、石橋氏の胸像を国内の事業所、グループ会社など100カ所余りに設置しつつある。「一番目立つところに置くように言っている。事務所の入り口に置けば、日々、胸像を目にし、創業の精神が継承される」。樋口氏は100周年に向けて、余念はない。

創業者精神を永遠に。ゼロを1にする人財づくりを

防がねばならぬ、マンネリ招く「大組織病」

大和ハウス工業は100周年を迎える2055年に連結で10兆円の売上高を目指している。現在の売上高は4兆円足らずなので、目標への道はなお遠い。だが樋口武男会長はこうも言う。

「ゼロから1兆円にするのと、1兆円から10兆円にするのとどっちが難しいか。もちろん難しいのはゼロから1兆円にすることや」

10兆円という高い目標をこれから現れる後継者の手腕に託すことになるのだが、考えてみれば創業者の石橋信夫氏の労苦の方が格段に多かったはずである。後継社長らは弱音を吐かず、頑張れ、ということだろう。

その際に気をつけなくてはならないのは大企業にありがちな「大組織病」である。大企業になってしまうと社員一人ひとりが「ゼロから1」をつくらなくても会社の業務はそれなりに流れていく。実は大和ハウス工業も大組織病になりかかった時期があった。

大和団地の社長から8年ぶりに大和ハウス工業に戻り社長となった2001年4月1日。樋口氏は会社の変質を感じた。全体朝礼で訓示をし、それを各部門の朝礼でどのように伝えているか見て回った。担当役員が話しているのだが、声は小さく、後ろの方の社員には聞こえていない。樋口氏が最後部から大きな声で怒鳴った。

「しゃべっている人間も聞いている人間もなんのために朝礼をやっとんのや。こんなもんは形式主義やないか。誰もかれもマンネリ化しとる。マンネリの塊や」

組織の体質を早急に立て直さなければならなかった。新しい事業に挑戦し続ける社風を取り戻さなければ、100年企業になる前に死に絶えてしまう。矢継ぎ早に対策を打った。中央集権的な事業部制を廃止し、権限を支店に委譲。役員の任期を2年から1年にし、緊張感を持たせた。

だが、もっと大切だったのは挑戦する社員を育てる根本的な対策だった。

能動的に提案し、仕事を勝ち取る仕組みづくり

2005年から始まった「支店長公募制」であり、「社内FA制」だった。
受け身で仕事を与えられるのではなくて、能動的に仕事を提案し、勝ち取っていく仕組みである。FA制は同一部署に5年以上在籍した者なら異なる部門への異動を希望できる。支店長公募制も課長クラス以上ならだれでも手を上げられる。

ダイワハウスマレーシアの宇杉大介社長は30歳代後半のころ会長の樋口氏に直談判し、「マレーシアで住宅を売りたい」と熱心に訴えた。「現地の社長になる覚悟があるならやらせる」と言う樋口氏に「やります」と答えたという。宇杉氏はそれから現地で5年間、奮闘し事業化を実現した。

売上高10兆円を実現するためには、日本から海外に飛び出したり、既存事業以外の新規事業に挑戦したりする第2、第3の宇杉氏のような人財を輩出しなければならない。
樋口氏は石橋氏の人財育成について「ほめられたことはほとんどなかった。でも怒るときには愛情を感じた。それが分かる人と分からん人がいたけどな」と言う。樋口氏によると石橋氏は二人きりになったら優しかったり、本人がいないところでは「複眼でモノを見とるのは樋口くんだけや」と陰で褒めたりしたという。

今の若い社員にはなかなか分かりにくい人心掌握術かもしれない。
「怒るのは難しい。怒る前に考える」とも言う樋口氏である。石橋氏とは違った、今の時代に合う人財育成をしなければ、育つものも育たない。その工夫がFA制度や支店長の公募制であり、2008年から始まった「大和ハウス塾」という次世代リーダーの養成計画である。塾にはすでに330人超が参加し、多くの役員を輩出しているという。

樋口氏は、求められる「リーダーの品性」は公正公平、無私、ロマン、使命感の四カ条だという。さらに品性に加えて、先見力、統率力、判断力、人間力の「四つの力」がなくてはリーダーにはなれないとみている。
このリーダー像は樋口氏が石橋氏の背中から学んだことである。ゼロから事業を立ち上げた創業者の精神を次世代の経営陣らに継承していくことは、石橋氏の謦咳に触れた樋口氏が自らに課す使命なのだろう。

「頭の回転が遅くなったり、体力がきついなあと感じたりしたら、自分で決断する」

樋口氏は出処進退にこう語りつつ、「まだしばらくは大丈夫だがね」と言う。100年企業への挑戦に向けた「壮心(激しい心)」は衰えてはいない。

出演者情報

  • 樋口武男
  • 1938年
  • 兵庫県
  • 関西学院大学

企業情報

  • 大和ハウス工業株式会社
  • 公開日 2018.01.20
  • 業種:
  • 建設、設備関連
  • 本社:
  • 大阪府
  • 所在地住所:
  • 大阪府大阪市北区梅田3丁目3番5号
  • 資本金:
  • 1,616億9,920万1,496円
  • 従業員:
  • 15,725名

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