リスクがあっても任せる人材育成。10兆円企業へ、先代から伝承した教えと夢
大和ハウス工業株式会社
代表取締役会長
樋口 武男
男は、創業オーナーの意志を継いで会長となった。赤字の関連会社を立て直し、本社の赤字も解消、大和ハウス工業・樋口武男(ひぐちたけお)代表取締役会長が語る、熱湯経営の哲学とは?
樋口事業家になってやろうという思いを強く持ちましたね。
蟹瀬なるほどね。そして大学を出られて、この大源という会社に勤めてらっしゃいますけども、これどういう会社だったんですか?
樋口これは3社ほど受けたんですけど、幸い三つとも通ったんですが、一番小さい会社が大源だったんです、150〜160名のですね。
蟹瀬小さいほうを選んだわけですか?
樋口小さいほうを選ぶというのは、やっぱり将来独立したいと、そうすると会社の仕組み全体を、大きな組織に入ると歯車みたいになるでしょう?
蟹瀬一部分しか見られないから。
樋口だから全体が見える会社、これは小さいほうがいいということで選んだんですよね。
蟹瀬しかしこれ、もう、すぐというか3年で辞められてますよね?2年かな?
樋口2年4カ月ですけどね。だけど、ものすごい、いい言い方をすれば苦労をしない楽な会社だったんですけども、働いても働かなくでもいいと言うとおかしいですけども、頑張っても頑張らなくても昇給も賞与も同期は全部一緒ですよ。で、非常に家庭的、アットホームな会社だったんです。そうすると、自分を鍛えてもらおうと思って行って、その思惑と全然違うわけですよね。
蟹瀬なるほど。居心地が良過ぎた?
樋口居心地がいいわけです。
樋口ぬるま湯に漬かってじっとしていると、そうすると、いつか年いったときに苦労しなければならないと、若いときの苦労はできても年いってから苦労するのはいやだ、ということで、なんか自分を一人前にしてくれる、しごいてくれる先を探さなければいけないという不安になっているときに、春に週刊誌に『猛烈会社、大和ハウス工業』というのが出てきたんですよと。
津島1963年、大和ハウス工業株式会社入社、堺工場資材課に配属されます。1971年、本社住宅事業部営業部次長に就任。1974年、山口支店長に就任。1976年、福岡支店長に就任。1981年、東京支社建築事業部長に就任。そして1984年、東京支社特権事業部長に就任ということです。
蟹瀬大和ハウスが猛烈な会社だということを雑誌でご覧になって、
蟹瀬自らそこへ飛び込まれた?
樋口そうなんです。その記事を読んで、ここで鍛えてもらったほうがいいだろうと。ところがコネがないでしょう?
蟹瀬はい。
樋口そうこうしてるうちに、縦3センチ横5センチぐらいの『歩合制セールスの募集』といって記事があったんですよ。で、前の会社、大源のとき営業してましたから、それを切り抜いて、それを持って大国町(だいこくちょう)にある大和ハウスの本社へ「こんなん出てました」と言って、これを受けに来たと。で、飛び込んだんです。
蟹瀬これは相当、期待通り厳しくしごかれましたか?
樋口仕事の厳しさより、朝、池田から堺工場まで行くのに片道2時間かかるんですよ。
蟹瀬通勤で?
樋口ええ。で、朝7時半から体操するでしょう。そしたら5時半前に家を出ないと間に合わないわけですよ。
それで、着いて作業服に着替えてラジオ体操をやる、そうすると5時半前に出なければいけない、そして5時には終わるんですけども、自分のやっぱり将来の目標があるでしょう?
独立しなければならないと、いろんな資材、他のこと勉強するじゃないですか。そうすると10時前後になりますよね。家に帰ったら12時前後でしょう、風呂入って寝たら1時前後でしょう、4時間ぐらいしか寝れないんです。
蟹瀬1日に寝られないと。
樋口しかし、それは自分が選んだ道だから続けられたんですね。
蟹瀬そしてその結果として山口支店長に抜てきされてますよね?
樋口資材8年ほどやりまして、営業をやって。
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