なぜ原発周辺住民は取り残される? 事故時に国、東電とも緊急避難連絡怠る


時代刺激人 Vol. 181

牧野 義司まきの よしじ

経済ジャーナリスト
1943年大阪府生まれ。
今はメディアオフィス「時代刺戟人」代表。毎日新聞20年、ロイター通信15年の経済記者経験をベースに「生涯現役の経済ジャーナリスト」を公言して現場取材に走り回る。先進モデル事例となる人物などをメディア媒体で取り上げ、閉そく状況の日本を変えることがジャーナリストの役割という立場。1968年早稲田大学大学院卒。

<最初に、おわびしなければならない。毎週書いている時代刺激人コラムを4月下旬から2回にわたってお休みさせていただいたことだ。よほどのことがない限り、私はコラムを書き続けることが大事と、日ごろから健康に留意するように心がけているのだが、この時期に運悪く、2つの問題が重なって起きてしまった。
1つは、不節制をさらけ出すような痛風の再発があり、痛み止めで対応したものの、一時は歩くのも大変だったこと。もう1つは右頸動脈の血管狭さく、早い話が血管のパイプが詰まって放置すると脳こうそくや脳血栓になりかねないため、手術が必要で、入院したことだ。いずれも早期対応で何とか回復できたが、この間、身動きがとれず、コラムをお休みさせていただいた。この場をお借りして、重ねて、おわびしたい>

二本松市と会津若松市で避難住民の人たちから
生々しい現場の実態

今回は、東電福島第1原発事故で突然、避難を余儀なくされた原発立地自治体の福島県双葉郡大熊町、そして隣接する原発周辺自治体の浪江町の人たちの話を取り上げたい。
4月21日に同じ福島県内の二本松市に避難した浪江町の人たち、そして22日には会津若松市に避難した大熊町の人たちに、それぞれ事故直後の危機対応から現在までの避難生活状況を聞くため、国会の東電事故調査委員会が開催した公開ヒアリング会合があった。

そこで、私は再発した痛風の足を引きずりながら、現場重視の精神で、話を聞きに行った。事故直後の実態をいろいろ聞いてみると、メディア報道で伝わるものとは違って、意外な事実も多く、それを踏まえて、新たな問題意識も生じる。現場で確かめることの重要性だ。現場に行く価値が十分にあったので、時代刺激人目線でレポートしてみる。

重大リスク情報や緊急避難連絡が十分に行われず、
半ば放置同然

結論から先に申し上げれば、大地震、それに続く大津波によって原発サイトで全電源喪失というあり得ない事態が現実化し、原子炉の炉心溶融のリスクが高まったこと、爆発回避のためにベント(排気)の形で放射能を大気中に出さざるを得なくなることなどが起きていたにもかかわらず、原発と半ば隣り合わせでいる大熊町、浪江町の人たちには、その重大リスクの情報連絡、それに伴う緊急避難連絡が、国、県、東電のいずれからも十分に行われず、半ば放置同然の状態だったことだ。

問題は、同じ原発立地もしくは周辺自治体で情報連絡に格差を指摘する声があったことだ。東電の原発が立地する大熊町に対しては、さすがに国や東電からの連絡は比較的あった。それでも後で述べるように、その大熊町でも情報連絡が遅すぎるという声が多かったが、問題は、隣接する浪江町が厳しい状況下に置かれたことだ。直接立地の自治体でない、という理由からなのかどうか、情報連絡にかなりの格差があったようだ。現に、今回の公開の場での意見交換では、とくに浪江町の人たちから、不満が噴出していた。

浪江町長「バンソウコウ落ちても通報に来た東電が
肝心な時に対応ゼロ」

論より証拠。まずは、町長ら行政サイドの人たち、そして住民の人たちの声を紹介しよう。緊急避難連絡の点で不満が強かった浪江町の馬場有町長はこう述べている。
「1年前の3月11日夕方に、福島第1原発で爆発事故につながる問題が起きているなど、想像もしていなかった。平成10年(1998年)に県や東電と安全協定を結び、原発に何か問題が生じたら、すべて連絡する、という協定内容だったはず。ところが町当局には通報や連絡が事故当初、全くなかった。大変な事態というのはテレビを見て知った。事故当日の早い段階から連絡があれば、もっと迅速な避難対応が行えていた」と。

さらに、馬場町長は興味深いことを述べた。「協定にもとづいて、東電は平時には、ほぼ毎日のように、たとえばバンソウコウが落ちた、というだけで連絡をしてきた。それが肝心の事故が起きた際にはいっさい連絡なしだ。原発サイトからは歩いてでも町役場に来ることができる距離だというのに、信じられない」という。バンソウコウの話は笑いで済まされない。肝心な時の危機対応ができなかったのだから、浪江町の東電不信は強まる。

国のSPEEEDI情報知らされず、
住民は放射性物質の風向き方向に避難

また、同じ浪江町の行政区長会の鈴木充会長が述べたSPEEDI情報連絡なしに対する反発も、いざ現場で聞いていると、身につまされる。鈴木さんは「国のSPEEDIのデータ公表が行われなかったため、浪江町の住民は、放射能の高い方向に向けてどんどん避難してしまい、長時間、放射能汚染にさらされる結果となった。原発事故処理も重要だろうが、最優先されるべきは原発周辺の住民の生命だったのでないかと言いたい」と。

このSPEEDIは、今回の原発事故で、その存在がすっかり知れ渡ったが、もともとは、原子炉爆発など緊急時に放出される放射能の拡散状況がどうなるか、原発周辺の地形や風向きをもとに予測するシステムのことだ。
今回の場合、炉心溶融に伴うリスク回避のため、首相官邸や東電福島第1原発の現場判断で、格納容器内の放射性物質を原子炉の外に排気するベント作業を行ったが、それによって放出される放射能の拡散状況を原発周辺の自治体や住民に公表するかどうかがポイントだった。ところが、所管する文部科学省が公表を遅らせて大問題になった。

福島県当局でSPEEDIデータ消失事件、
情報が必要な浪江町に届かず

SPEEDIに関しては、まだ、問題があった。私が福島入りした4月21日付け朝刊の福島民報や福島民友の地元紙で、「福島県当局、SPEEDIデータの電子メール65通を誤って消去、住民避難に活用できず」といった見出しで大きく報じていた点だ。情報管理の面で何ともお粗末な話なのだが、要はこういう話だ。

昨年3月12日夜に、福島県庁内に設置のSPEEDI専用端末が大震災直後から不具合で受信できなくなっていたため、県の原子力安全対策課が、SPEEDIに関与する財団法人原子力安全技術センターに対して、パソコンの電子メールで福島第1原発事故に関する放射性物質の拡散試算データを送ってほしいと要請し、データ受信した。
ところが、担当者間のコミュニケーションがうまくいっていなかったため、何も聞かされていなかった職員が電子メールの受信容量を大きくするため、SPEEDI関係のメール86通のうち65通を誤って消去してしまった、というのだ。緊急避難中の当時の浪江町にとってはノドから手が出るほどほしかった情報であったのに、ここでも見放されたのだ。

「東電が原発は安全というのならば、
電力消費地の東京につくれば、、、」と辛らつ

浪江町の住民が会場で手を上げて窮状を訴えたあとの発言がズシリと響いたので、ご紹介したい。「東電はこれまで、われわれに対して、『原発は絶対に安全で、事故などは決して起きない』と言っていたが、そんなに言うのならば、(電力消費地の)東京につくればいいでないか」という言葉だ。鬱(うっ)積とした不満の発露だが、なかなか辛らつだ。

原発安全神話と合わせて、国、そして東電は地元への利益還元という形で補助金を通じての財政支援を含め、さまざまな支援を行ってきた。消費地の大都市で拒否反応にあうリスクを回避して原発建設できるメリットは何ものにも代えがたく、支援はある面で当然との発想だろう。一方で、原発立地町村など地元自治体も財政面で潤う。住民だって同じだ。原発サイトでの雇用の場を得るのみならず、所得確保もできる。まさに共存共栄だ。その枠組みが今回の原発事故で大きく崩れてしまい、上述のような不満の発言となったのだ。
同じ二本松市の会場で、浪江町の住民の1人も「国だって、東電と同様に責任は重い。さまざまな情報を得ておきながら、それらの情報を伝えず、われわれを見殺しにした。何も信頼、信用できない国家になってしまってはダメだ」と手厳しかった。

国は原発立地の大熊町への避難バス手配早かったが、
「7時間の空白」に不満

次に、会津若松市での大熊町当局や住民のヒアリングのことも述べよう。こちらも現場に来なくては知りえない問題が数多くあった。原発が立地する自治体だけあって、確かに、国や県、東電の情報連絡度合いは、隣接する浪江町とは格段の差があるのは事実だった。しかし驚いたのは、国土交通省が茨城県のバス会社のバスを避難住民輸送用にチャーター契約して、いち早く、大熊町に対し、それらのバスを送り込んでいたことだ。

大熊町行政区長会の仲野孝男会長はヒアリングの中で、「私が3月12日午前4時半に、避難連絡に従って大熊町の第2体育館へ行ったら、茨城ナンバーのバスがずらりと来ていて、運転手さんによると、7時間前に茨城県から来た、という。裏返せば、7時間前の3月11日午後9時過ぎには原発事故が判明していたのだ。そんなことならば、もっと国はわれわれに緊急避難指示を出していてくれればよかったではないか。7時間の空白は大きい」と述べていた。確かに、そのとおりだ。

「東電社員の奥さん連中が避難場所にも
集会場にも姿見せず違和感」との声

ただ、大熊町の石田仁生活環境課長が公開会場で述べた事故当時の課題点のうち、興味深かったのは、原発事故時の代替司令塔となるはずのオフサイトセンターが原発サイトと同様、機能マヒに陥ってしまったことだ、という。石田さんによると、オフサイトセンターの電源が確保できないため、関係者が集まってのテレビ会議も立ち上げられなかった。町役場では衛星電話も非常時対応で1台、配備していたが、なぜか接続ができず、すべてがちぐはぐだった、という。

また、現場でしか知り得なかった話のうち、興味深かったのは、石田さんが「地元勤務の警官の子供が親から話を聞いていたのか、3月11日午後9時の段階では大熊町から逃げていた」という話を持ち出したら、仲野さんが「東電の社員の奥さん連中も同じだ。早々と原発事故情報を聞いていたようで、彼ら東電の奥さん連中は避難場所や集会場などにはまったく誰の姿もなかった」と、違和感を述べたことだ。確かに、原発立地住民の人たちを置き去りにして、立ち去ったとなれば、東電も別な意味で問われよう。

周辺住民の安全確保や緊急避難対応などが
今回の原発事故の教訓の1つ

今回のコラムで取り上げたのは原発立地の大熊町、それと隣接する原発周辺自治体の浪江町の2つの自治体、そして住民が経験した予想もしなかった数々の現実だ。これらの人たちの話を聞いていると、今回の東電原発事故の教訓は計り知れないほど大きい。  大熊町の住民が言っていた言葉で印象的だったのは、「政府は、本当に正しい情報を、われわれ現場住民に伝えているのだろうか、不信感が拭い去れない。SPEEDIデータの公表の遅れ1つとってもそうだ。1年たった今でも政府への不信感は消えておらず、引きずっている感じだ」と。なかなか重いメッセージだ。

原発爆発事故から26年間の長きにわたって後遺症が続くチェルノブイリの教訓を踏まえると、まずは原発周辺住民への機敏な情報連絡、さらには放射性物質にさらされるリスク回避のために、緊急避難指示を的確に行うことなど、被害にあいかねない人たちへの目線が改めて重要だと思える。これも教訓の1つであることは間違いない。

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