ガン患者にQOLを!自らの罹患と大臣経験を経た問題意識と挑戦【前編】
免疫の力でがんを治す患者の会
会長
坂口 力
免疫の力でがんを治す患者の会。2016年9月医師であり元厚生労働大臣でもある坂口力が設立。大腸がんの坂口が選択した治療は患者自身の免疫の力を利用するがん免疫療法。がん免疫療法を身近な医療として患者に提供したい。坂口が目指すいつでもどこでも誰でも受けられる治療法として、その普及への取り組みとは。
宮川 衆議院総選挙にお出になったのは1972年。
坂口 そうですね。
宮川 なぜそう言った医療から政界ということでした。
坂口 これが一番難しいんですね。説明するのが。
坂口 私自身は大学へ行ってそして研究をずっと続けてということをやりたいと思っていました。そうしましたら政治の方の話が出まして、そしてみんながやれよやれよとだんだんの声が大きくなりました。正直言って断りきれない環境に立ち入ったということなんです。ある私の先輩、私が所属していた党の代表にもなった人ですけれども、その人が私に言いましたことは、坂口、君も立派な医学者かもしれないだけど君がやれる研究には限りがある。だからそれよりももっと優秀な人達にたくさん研究費を出して、その立派な人たちにより多くの仕事をしてもらう政治こそ今大事だとは思わないかと。これが殺し文句だったんです。
宮川 そうですか。
坂口 その時にですね、言われてみればその通りなんですね。
宮川 そうですね。そして大臣になられた訳なんですけれど。2001年、厚生省と労働省が一緒になって厚生労働省になった。ですから厚生労働大臣としては初代の大臣ということですよね。
坂口 その前の年の12月にですね、森内閣の閣僚として私は入ったのですが1月の6日から厚生省と労働省が一つになりまして、そして厚生労働大臣という名を改めてもらい直した。それでその4月の25日になりましたら小泉内閣が誕生したと。もうここで降ろしてもらえるのかと思ったらお前引き続いてやれと。こういう話になった。
小泉内閣で大臣を続投となった坂口。
しかしその後厚生労働省のトップとして極めて重要な決断を迫られることになる。
坂口 それで5月の11日というのが忘れもしない熊本地裁の判決が出た日なんですね。
坂口 ハンセン病に対する。前々からこのことがあるぞということをですね私に色々と言ってくれた先輩がいた。それは官僚の中にもいました。その時にきちっと処理ができるのは君の仕事だと。医者である君ができなくて他の者はできないということを言われていたんですね。
宮川 どういうお気持ちでいらしたんですか。
坂口 私の気持ちとしては長い間隔離政策を続けてきて、もう病気が治るようになって、隔離政策が必要なくなってからもまだ隔離を続けてきた。だから諸外国に比べますとだいたい50年位遅れたんですよ。隔離政策を止めましたのは。50年というと一生じゃないですか。だからその人たちを一生苦しめた、あるいはまたそのご家族も含めて親戚縁者の方も含めて非常に苦しめた。これに対してはやはり謝罪をする以外にないというふうに心を決めて、そして各施設ですね、九州の熊本にあります裁判が起こりましたところを皮切りにして頭を下げたと。
宮川 しかしまあ本当に現在もまだハンセン病患者の皆さんから色々訴訟も続いたり完全に解決はしていませんけれども、やはりこの流れを大きく変えられたのは坂口さんだと。
坂口 いやいやそんなことも思わないですけれども。まあ一つの曲がり角を曲がったということだけは言えると。
宮川 そうですよね。
その後、坂口はBSE問題、鳥インフルエンザなど相次ぐ問題の陣頭指揮をとるも2004年厚生労働大臣を退官した。
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