業界の革新!「私どものお店は、潜在顧客を開拓するんだ」の創造性
ピーアークホールディングス株式会社
代表取締役社長
庄司 正英
銀行マンからパチンコホール経営者への転身。庄司は周囲の反対を押し切って大胆な改革に乗り出し、新しいパチンコホールの流れをつくりだす。「私どものDNAを、もっといろんなところに移植したい」。その発想の根源とノウハウとは?
庄司その意識はあったかどうかは別にしても、たまたまそこに入ったというのは本音です。ただその当時、われわれの憧れは、グローバルな仕事、商社か銀行、英語ペラペラになりたいと、こういうパターンですから、そこの延長線上に青学(青山学院)があったんだと思います。
蟹瀬そしてその延長線上に、三和銀行ということになるわけですか?
庄司これもたまたま三和だったんですが、大学時代はほとんど勉強というよりはクラブ活動。ジャズのビッグバンドをやってまして、大体アルトサックスをやってましたが、アルバイトです。アルバイトもキャバレーバンドで2時間ぐらい座ってるだけで1万円もらえました。
蟹瀬お金が入ってきたと。
庄司ええ。あの当時アルバイトで、例えば配送とか百貨店の配達、朝から晩までやっても3000円、5000円。これが1万円、しかもチップももらえると。このスペシャリティーがあるというは、何か人と違う一つのことをやれば、その当時の単価で計算したら10倍の、今で言う格差ではないですけど格差の価格があると、つくづく私は思います。
蟹瀬結構そういうのを体験の中から意識なさってた。
庄司はい。
蟹瀬銀行マンになられて、また銀行マンを辞められてますよね?
庄司はい。
蟹瀬これはどういう経緯なんですか?
庄司これは私自身が、そういった割と固い職種、それから今言ったグローバル目指していたんですが、2年ぐらいしてから父が倒れまして、脳溢血で倒れて闘病生活、会社もかなり際どいところまで追い込まれた。ちょうどその頃、オイルショックだったんですね。ですから金利が5パーセントから8パーセント、9パーセントまで上がりました。
蟹瀬ポーンと上がっていったと。
庄司売り上げ3億で、貸金が同じぐらいありましたから、もう大変な状況の中で、母親は一切そういうことを言わないんです、あえて言わない。私自身も当然、大変だからという話だと思ったのがなかったんですね。結果的には銀行を辞める選択をしたんですが、そのとき思ったのが、自分の、例えば損得よりも、大きな決断は貸借対照表でしようと、借りがあると、親に。ちょっとかっこよすぎますけども浪花節的に……。
蟹瀬ここでちょっとバランスシートを、バランスを取っていこうと?
庄司そうなんです。やっぱり貸借対照表で判断した思いは、経営者としてもいくつかの目に遭ってますが、後で悔いの不良債権が残らないんですよ。
蟹瀬なるほど。
1983年、辰巳商事株式会社設立。1984年、代表取締役社長に就任。1989年、日本遊技関連事業協会発足、理事に就任。そして1990年、「ピーアーク溝の口」をオープンします。
蟹瀬お父さまの家業をお継ぎになって、しかし内情を見てみたら、これはもう大変な状況。借入金とかどのぐらいだったのでしょうか?
庄司その当時で5億近くありました。ですからある程度リストラをせざるを得ませんから、千住のお店を閉めたりですね。そのとき、やはり社員に辞めてもらうというのはこのぐらい苦しい部分もありましたね。それで結局、結論的に、パチンコに傾斜して早く返そうと。
蟹瀬いわゆる集中していくということですよね?
庄司そうですね。そういった中で、私自身もかなり一生懸命やった中で、ここで時間消費型レジャーとしての、いわゆる新しいモデル転換を自分自身で考えました。
蟹瀬時間消費型というのは、これは具体的にはどういう意味なんですか?
庄司いわゆる結果でなくて、結果に至るまでのプロセスや、やっている間の快適性、お店の快適性、それから接客レベルとか、そういったことでお客さまが付加価値を感じていただいて、そして最後は結果、こういう一つのビジネスモデルを希求(ききゅう)いたしました。
蟹瀬なるほど。具体的には、この溝の口のお店では、どういうことをなさっているんですか?
庄司それを具現化した第1号店が、川崎市の溝の口にございます。アメニティーといえば、まず入り口入った瞬間にパチンコ店の様相ではありません。ホテルのフロントがございまして、スタッフは全員が「いらっしゃいませ」と。それからそこには冷蔵ロッカーとか、お客さまがたまたま隣がスーパーでしたから、生鮮食品を買ってもプレイできるように、そこに冷蔵ロッカーを置いとくとかですね。
蟹瀬なるほど。
庄司もっと一番すごかったのは、外車のディーラーと協力して外車を店頭に飾ったんです。なんとなくセンスといいますか、醸し出す一つの、ある意味では夢を感じていただく。で、その後ろにパチンココーナーがあって、ある意味ではプレイモードと、その切り替えができる。大変お客さまの支持を頂いたし、たまたまそこがプリペイドカードの第1号店でしたから、非常に話題性がありました。アルビン・トフラーさんがテレビの取材に来ていただきました。
蟹瀬そうですか。
庄司憧れのあの『第三の波』のアルビン・トフラーさんと直接お話できるとは思いませんでしたから、そこでもやはり、人のやらない、今までできなかったことをやることの価値を、ものすごく私どももスタッフも会社も感じました。その革新性の一つの付加価値をわれわれも感じました。で、そのお店で、初めてピーアークという概念を打ち出しました。
蟹瀬なるほど。経営の神様のドラッカーの言葉などもいろいろ考えられたそうで?
庄司はい。私どもがお店を出す際に、必ず地域の既存店とか、いろんな形である程度いろんなやりとりでパイの取り合いになってしまうわけですね。そうではなくて、私どもの新しいタイプのお店は、潜在顧客を開拓するんだと。ドラッカーの言うビジネスというのは需要の創造だと、これを私どもの一つのテーゼにして、いろんな形のところで言わせていただきました。
1991年、ピーアーク株式会社に社名を変更します。「ピーアーク谷中」オープン。1993年、ニュービジネス協議会アントレプレナー大賞部門 最優秀賞受賞、「ピーアーク相模原」オープン。1995年、「ピーアーク銀座」オープン。そして1999年、企業内起業制度「08ベンチャー」をスタートしました。
蟹瀬社名を『ピーアーク』というのに変えられてますよね? これはなんか特別に意味がおありなんですか?
庄司はい。意味はピーのアーク、ノアズアークってありますね?
蟹瀬はい、ノアの方舟。
庄司はい、ノアの方舟で、新世紀創造のために、そこに必要なものを載せて出航すると。全く考え方が一緒で、P、パチンコのPでもあるんですが、
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