「不趨浮利」に象徴する住友の真髄、無私の精神と「透明なピラミッド型組織」
住友電気工業株式会社
取締役会長
松本 正義
住友電気工業株式会社。同社の起源は400年以上前に始まった、銅の精錬事業。これがのちに、愛媛県の別子銅山の開発へとつながる。そこで採掘した銅から、棒や板などを加工する事業を始める。現在、住友電工は自動車関連、情報通信、エレクトロニクス、環境エネルギー、産業素材など、幅広く事業を展開する。2017年に120周年を迎えた住友電工をけん引する、取締役会長、松本正義に、成長し続ける企業の取組みを聞いた。
竹内賢者の選択Leaders、ナビゲーターの竹内香苗です。今回は400年以上の歴史を持つ、住友グループの中核企業として成長し続けるある非鉄金属メーカーの取り組みに迫ります。
松本ワンステップ高いリーダーの資質は無私の心なんですよ。自分よりも他人のことを思う気持ちがないと部下はついてこないですよ。
竹内こんにちは。
松本こんにちは。住友電気工業の松本です。今日はよろしくお願いいたします。
竹内2017年に120周年を迎えられまして、おめでとうございます。
松本そうですね。ありがとうございます。
竹内その節目の年に社長から会長に就任されまして、なぜ、このタイミングで、このタイミングにはどういった意味があるのでしょうか?
松本そうですね。2004年、社長になって、足掛け13年、その間に売り上げも順調に伸びてきましたし、グローバルの戦略も効果が出てきましたし、このあたりでとは思っておったのですけれども。
2017年5月、松本は関西経済連合会の会長に就任。これを機に、社長職を井上治新社長に譲り、会長職に就くことに決めた。
松本社長と会長、これは両立はしないだろうと、時間的にも無理だなと思ったことが大きな原因なんですよね。この際、思い切って、世のために、人のために尽くそうと。大袈裟ですけれども、そういうことを考えたのが、会長になった理由なんですね。
竹内まず、入社後はどんなお仕事から、最初はされたのですか?
松本当時、一番小さな事業部があったんです。それは粉末合金事業部と言いまして、粉末を焼き固めて、それで硬い金属にして、旋盤に乗せて、金属を削るような刃先の工具を作っている事業部がありまして、そこに入りました。
竹内松本新入社員はどんな社員だったのですか?
松本それは、ちょっとコントロールしにくい男だったでしょうね、上司にとって。かなり批判精神が強くてね。「これはちょっとやり方がまずいんじゃないでしょうか」って、入って、すぐ言うわけですよね。若いときはもう言いたい放題だったから、「勝手にやれ!」「海外へお前行け、お前はとにかくうるさい!」って感じでしょうね。それで、シカゴ駐在になるんですよ。シカゴ駐在で、今までやっていた事業部の製品を売ると。
ドーキンズ1973年、オイルショックの年、入社7年目だった松本会長はまだ、拠点がなかったアメリカ、シカゴにたった一人、駐在員として赴任することになりました。しかし、このアメリカでの経験が、その後の松本会長の仕事人生のベースになったそうです。
シカゴに赴任した松本はある商社のオフィスの片隅を間借りし、そこを拠点に粉末合金製の切削工具を営業して回った。
竹内現地でのコミュニケーションはどうしていたのですか?
松本英語ですよ。日本語ではモノを売れませんから。
竹内それでは、事前に勉強されて。
松本全然、なし。
竹内独学というか、仕事の中で。
松本現場で。初めは全然ダメ。だって、コミュニケーションができないんだもの。大学のときに、もちろん、体育会ですから勉強はしていませんわ。住友電工だって、駐在なんて、世界にはほとんどいないから、あの当時。それで一人ですもの。
竹内どのようなお仕事をどのようにすすめていかれたのですか?
松本一人でモノを売りにいかないといけない。シカゴからニューヨーク。だいたい行ったら、十日間ぐらい帰って来られませんよ。インディアナポリスからデトロイトからずっとペンシルベニアとか回って、ニューヨークへ行って、また戻ってくるわけです、自動車で。どうするかって、行く前に何を売るかということをまず考える。そして、そのモノを自動車のトランクに詰め込んで、それで、お客様のところに行って、テストをして、よければチェックをもらう。
というような生活ですね。ですから、企画、現場での売り込み、回収等を一人で全部やるわけです。そういう生活を5年間やりましたね。日本からの援助なんてあまりないんですね。「勝手にやれ!」ってことですよ。27歳ぐらいだったかな。
竹内27歳で。もう会社を辞めようとか、本当につらいなとか、心が折れるようなことは、どうしていたのですか?
松本自分の心を支えてくれた詩があるわけです。
松本ロングフェローという人がいて、日本では明治時代。A Psalm of Life、人生讃歌という詩があるんですよ。僕はあの詩に会ったときに、この精神で行こうと思ったことと、いったん、やり出したことをここで、すごすごと逃げてしまうというのはよくないと思っていたし。
ドーキンズ工具を買ってもらうために、さまざまな工場に足を運んだ松本会長でしたが、1970年代のアメリカの会社は日本製品メード・イン・ジャパンというだけで、住友電工の製品に見向きもしなかったそうです。落胆する松本会長でしたが、そんな松本会長の様子を見た、あるアメリカ人が声をかけてくれました。
松本ミルウォーキーとシカゴの真ん中にケノーシャという町があります。アメリカン・モーターズがあって、フォルクスワーゲンのビートルみたいな車を作ってたんですよ。そこへ売り込みに行くんですけれども、一つの製品を売るのに、大体2年間かかりましたね。
竹内その2年でターニングポイントというか。
松本それはやはり、誠実に事を運んでいけば、必ずそれを見ていてくれる人がいる。「なんか、一生懸命やっているな」と。初めて、そこの購買課長さん、だいぶ年配でしたけれども、「お前はよく来てるけど、一つも売れないじゃないか」「売れないんじゃなくて、買ってくれないんですよ」。その人は現場からデータをもらっていたようです。私どもの製品は決して、アメリカの一流品と劣ってない、同格であると言うので、「じゃあ、一つ、ラインに入れてあげよう」って言ったのが、そのマネージャーだったんですね。
仲良しになって、最後、彼がリタイアするときに、一緒に飲みましたけどね。もう、本当、楽しかったですね。それが2年間、続いたんですね。いろいろな条件が重なって、最後までやり遂げたということです。
ドーキンズ4年半に及ぶアメリカ駐在を終え、1978年に帰国。アメリカでの経験と実績を買われ、帰国後、粉末合金事業部の海外戦略担当に抜擢(ばってき)されました。
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