「成功につながる失敗」とは?三自の精神から始まるクリエイティブな革命たち
キヤノン電子株式会社
代表取締役社長
酒巻 久
目まぐるしく変化する社会情勢。そんな時代にこそ、その先を読み、己の信念と緻密な戦略のもと、大胆な決断をくだす賢者たち。
人生のさまざまな局面で、彼らは何を考え、どんな選択をしてきたのか。
親会社のキヤノンから、再建を任されたキヤノン電子株式会社の酒巻久。独特のアイデアと手法で、次々と改革を行った、その戦略とは。
津島今回の賢者の選択は、キヤノン時代にVTRや複写機など、さまざまな製品を研究開発した、キヤノン電子株式会社の酒巻久(さかまきひさし)社長です。
蟹瀬酒巻さんは、親会社のキヤノンに30年以上いらっしゃったということで、まず私ちょっとお伺いしたいなと思うのは、今、経団連の会長なさってる御手洗さん、どういう方ですかね?
酒巻ゴルフがうまいというのが一番目ですね。それから勘が鋭いですかね。
蟹瀬勘?
酒巻勘というのは天性ですよね。同じようなテーマを3種類ぐらい言うと、自分が迷っていると相談に行くと、不思議と当たるんですよね。これは別にお世辞ではなくて、その勘の鋭さっていうのは天下一品ですね。
蟹瀬酒巻さんご自身も今、経営者なさってて、やっぱり座右の銘というものおありだと思いますけど、ご紹介いただけますか。
受けた恩は石に刻め。与えた恩は水に流せ
酒巻受けた恩は石に刻めということですね。それと与えた恩は水に流せと。これは疲れたときに、長野のほうのお寺さんに行ったとき、入り口にそれがありまして、それがヒントになりましたね。要するに、部下を面倒見てるのに、結構裏切るというのは、自分はこんなに面倒見たのに返ってくることが違うってありますよね?
で、これが結構多いんですよね。そうすると、結局自分としてはこういう人間関係ができないのではないかという悩むときが必ずあるんです、技術系の場合はですね。で、そのときにこれを見て、そんなに聞いて、ああ、私は間違ってたんじゃないかと。やっぱり自分がそんなに指導したから、やったからと言っているから、それに期待をしているので、最初から期待しなければですね(笑)。
蟹瀬なるほど。
津島期待しないでですね。
蟹瀬その姿勢が経営にどういうふうに生かされてるのか、お話伺ってまいりたいと思います。
津島はい。ビジネスに関する著書が多数おありな酒巻さん、その経験をどのように培ったのか、この後詳しくお伺いしていきます。親会社のキヤノンから、赤字だったキヤノン電子の会社再建を任され、見事に黒字転換を果たした酒巻さん、これまでにどのような歩みがあったのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。
1940年、栃木県佐野(さの)市に生まれます。1963年、芝浦工業大学工学部電子工学科卒業。そして1967年、キヤノン株式会社入社、研究開発部門に配属ということです。
蟹瀬1940年お生まれということですと、私とちょうど10年違いまして先輩なわけですけれども、資料を拝見すると、お父さまとお兄さまは職業軍人でいらっしゃった?
酒巻そういう感じですね。
蟹瀬相当、そうすると厳しいご家庭だったんですか?
酒巻いえ、そんなことないです、自由で。
蟹瀬子供の頃はどういうことを言われながら酒巻少年は育ったんですか?
酒巻子供の頃は、とにかく母親しかいませんので、母親がとにかくこれから世の中で、そういう戦争とかいろいろあるときに、絶対に生き延びなければいけないと。そのためには何をやるかというと、全部自分でものができなければいけないということ、それを教わりましたね。ですから、縫い物ですね、私、いまだにズボンの修理から全部自分でやってしまいますよね。
蟹瀬意外ですね、裁縫ができるんですか?
酒巻ええ、ボタン付けなんか左手で、電話しながら左手でやってますね。
津島頼もしい、うらやましいです(笑)。
酒巻ズボンの広げたり縮めたりするのも全部自分で、それは親から全部教えられてたものですね。他にもご飯も炊き料理、お菓子づくりから、徹底的に、とにかくどこへ行っても生活ができるようにと教わりました。それと、一つを上手になるよりも、たくさん上手になりなさいって。
蟹瀬オールラウンダー?
酒巻ええ、だから水泳ができなければいけません、走るのもある程度速くなければいけない。要するに逃げるときに(笑)絶対に水があったら逃げられないとか……。
蟹瀬そういうことのないようにと?
酒巻ないように、全部ができるようにというのがあれですね。
蟹瀬それと、随分本を読めと言われて……?
酒巻ええ。本は読みなさいですね。
酒巻漫画本でもなんでもいいから子供のときから本だけは読みなさいと。
蟹瀬どんな本をお読みになりました?
酒巻子供の頃ですから、一番学校でいけなかったと言われたのが『金色夜叉』ですね、中学校のとき読みました。
蟹瀬尾崎紅葉(おざきこうよう)の?
酒巻ええ、これが意外と面白くて。高校のとき一番好きだったのは田山花袋(たやまかたい)ですね。田山花袋の『田舎教師』、このシリーズが大好きでして。田舎が似ている所なんですね。ちょうど私も住んでる頃の所がバックグラウンドになっていますので。
蟹瀬そして電子工学科という、また随分、僕らから見ると分野の違うところへ進まれたんですが、もともとこういう理科系はお好きだったんですか?
酒巻それは昔のあれというのは、意外と先生と兄弟の上の者とか、そういう周囲の人の影響って受けやすかったんです、情報が今ほどないですからね。
私の小学校の先生が電気が好きで、まずそのモーター、そういうものがあるものをつくる、電車をつくる、そういうのをずっと放課後教えてもらって。
自分でも電車をつくってみようというので電車をつくったり。それから鉱石ラジオですね。フィードバックが返ってくるラジオなんですが、今はそんなのありませんけど、そういうのを自分でつくるという、そういうのに熱中してましたね。
蟹瀬キヤノンという会社を結局選ばれたというのは、どういう関係からなんですか?
酒巻他に行くところがなかったという(笑)。
蟹瀬(笑)それはご謙遜だと思いますけれども、他にも動機は当然おありだったと思いますが。
酒巻ここは、今亡くなった前の社長が来ないかっていうことで、かなり食事までごちそうして呼んでくれたもので、じゃあ行くかなってそういう気持ちで行きましたね。
蟹瀬今そうおっしゃってるけど、われわれの調べでは、日本で初めて完全週休2日を導入したから遊べると思って行った、そんなことかないですか?
酒巻それが本当ですね。
(一同笑い)
津島そちらでしたか、本音は(笑)。
蟹瀬これはあまり言いたくないことだったんですか?
酒巻やっぱりメンツがありますので(笑)。
津島あえてそこを。
蟹瀬社員の方も見てますのでね。
酒巻そう、後でですね。
蟹瀬なんだうちの社長は、ということになるとですね。
酒巻そう、まずいですからね(笑)。
蟹瀬だけどやっぱりそういう意味では先駆的な会社だったということは間違いないわけですよね?
津島はい、そうですよね。
酒巻そうです。キヤノンは土日休みになった最初ですよね。だから非常によかったですよね。
蟹瀬そこから発想も生まれると。
津島はい。この後、酒巻さんはさまざまな製品の研究開発を行います。
津島1967年から1987年、VTRの基礎研究、複写機、ファックス、ワープロ、パソコンなどの開発に従事します。
1987年、システム事業部長に就任。1989年、取締役システム事業本部長兼ソフトウェア事業推進本部長に就任。1991年、取締役総合企画担当兼ソフト事業推進本部長に就任。1992年、取締役生産担当兼環境保証担当兼生産本部長に就任。そして1996年、常務取締役生産本部長に就任ということです。
蟹瀬この年表拝見してますと、なんとか兼なんとか兼なんとか、酒巻さん以外に仕事をしてる方いらっしゃらなかったのかな?と思ってしまうぐらいですけどもね。
酒巻いえ、そんなことないんですけどね。
蟹瀬先ほどお伺いしたところによれば、週休2日だから入ったという社員だったんですよね?
酒巻そうですね。
蟹瀬それでこれだけお仕事をやってる、実際入られたときはどういう社員だったんですか?
酒巻いろいろありますが、どっちかというと自分の思ったように、やりたいようにしかやらない社員でしたね。
蟹瀬使いにくい社員ですね。
酒巻それはそうだと思いますね。だから時々、今でも部下に私も怒ってるけど、私もどっちかというと不良社員に近くて。
津島あらま!
酒巻それで、気が向かないと絶対仕事しないタイプなんですよね。
津島怒られてしまいますね。
酒巻「今日は酒巻くん、機嫌がいいか聞いて来い」と言ってました。
(一同笑い)
津島普通、逆ですよね?お互いの関わりが。
酒巻で、機嫌がいいというと、「じゃあ呼んでこい」っていくんですね。結構、自分が気に入らないとやらないという、そういう、どっちかというとわがままな社員だった。
酒巻本当にわがままな社員でしたね。私は今の部下には絶対許しませんけど。
蟹瀬立場が変わるとそんなものですね。
津島そうですか。
酒巻そう、だから昔の人は意外とおおらかな人が多かったということですね。
蟹瀬だけどそんな中で、さまざまな研究開発をやってこられたわけですよね。
酒巻ええ。
蟹瀬当然成功したものもあれば、失敗したものもあると思うんですけど、大失敗したのってどんなのがあったんですか?
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