生活の代弁者として提案するアイリスオーヤマのアイデアの源泉とは
アイリスオーヤマ株式会社
代表取締役社長
大山 健太郎
プラスチックがまだ新素材としてもてはやされていた頃、業界で初めて透明なプラスチック、ポリプロピレン樹脂を開発したのが、アイリスオーヤマ株式会社。メーカーベンダーという新しい業態を提唱した代表取締役社長 大山健太郎が語るものづくりとアイデアの源泉とはどのようなものか。グローバルな視点から語る。
津島今回の賢者の選択は、19歳の時、父親の経営していたプラスチック成型の工業所代表となり、その後、園芸用品やペット用品などで規模を拡大していきました、アイリスオーヤマ・大山健太郎(おおやまけんたろう)社長です。
蟹瀬アイリスオーヤマは、ガーデン、ペット、そして収納用品など、総アイテム数、およそ1万3,000点の生活用品を提案なさっています。社長に冒頭ですけどもズバリお伺いしたいのは、ビジネスをいろいろやっていく上で成功と失敗、繰り返しがあると思うのですが、成功の秘訣というのはなんですか?
大山そうですね。常にユーザーイン発想、生活者の目線で商品開発なり、あるいはサービスの提供ということが一番大事だと思います。
蟹瀬なるほど。
宮城県仙台市に本社がある、アイリスオーヤマ。会社は1971年に大阪で設立された。現在社長の大山健太郎が父親の経営していたプラスチック成型の事業所を継承、現在はガーデン用品、ペット用品、収納用品など、およそ1万3,000点の生活用品を製造し、ホームセンターに卸している。生活者の視点に立った商品開発で、多くのオンリーワン商品を提案、アメリカや中国にも展開しているグローバル企業である。グループ売上高はおよそ1,610億円。
津島グローバル企業として成功されている大山さん。大山さんの選択と決断に満ちた人生を年表にまとめました。ご覧ください。1945年、大阪府布施市に生まれます。1958年、父、森佑(もりすけ)氏が大山ブロー工業所を創業。そして1964年、大阪府立布施高等学校卒業ということです。
蟹瀬大山さんは8人兄弟ということを伺っておりますけども、ご兄弟8人いると、これは大変だったでしょうね? ご長男だったのですか?
大山上に姉がおりましたけど、ですから2番目で長男ということで、大体二つ違いずつで、兄弟がおりましたので、まさに兄弟をお互いが面倒見合うことで、家族が成り立っておったと、そんなような家庭だったですね。
蟹瀬そしてお父さまですけども、中学生のときに会社を立ち上げられたと?
大山そうですね。父親はそれまでいろんな事業をしていたのですけど、その当時プラスチックというのは新資材でありましたので、大阪はプラスチックというか軽工業の街でごさいますし、家電メーカーとか機械メーカーがたくさんおられましたので、そういうことで、そのプラスチックの下請け工場やらないかというところから、自宅の裏にあったのですが、そこを壊しまして工場を建てたというとこからのスタートでございますね。
蟹瀬じゃあ子供の頃はそこが遊び場だったわけですか?
大山そうなんです。ですから逆に言うと遊び場がなくなったのですけど、逆に工場がまたある意味での遊び場っていうよりか、家族経営ですからね、休みの日だとか忙しいときには借り出されてお手伝いをするというような環境でしたね。
蟹瀬でも、今振り返るとどうなのでしょうかね? アイリスオーヤマで作っていらっしゃるいろんな製品、プラスチックのものもありますよね? 子供の頃に、やっぱりそういうプラスチックっていうものが、いろんな形に変わっていく、それをご覧になっていたっていうのは、やっぱり今につながっているような気もしますね。
大山そうですね。そういう点では非常に父親はいい業種を創業いただいたと、このように思っていますし、逆に鉄工所であれば多分こんな会社になってなかっただろうと(笑)このように思いますね。
蟹瀬なんか高校時代は、ものすごく熱中したものがあるというふうに伺っていますけど。
大山そうですね。映画にはまってしまいまして、本当に毎月のように見ていたのですが、ピークになると月に50本近く。で、これは映画の研究部っていう、学校にクラブがありましてね、そこの代表をさせていただいたおかげで、いろんな映画を見ては書評を書いて、それを東大阪の高等学校等に配信していましたので、一種の職業みたいな感じですね。
蟹瀬本格的だったのですね。
大山そうですね。ですからおかげさまでその当時どこの映画館でも、私の所属することを話せばただで(笑)だだで(笑)。
蟹瀬(笑)そうですか?
大山それだけでは……。
津島いいですね。
蟹瀬今、さらりとおっしゃったけど、月に50本って、一月って30日しかないわけですよね?
大山そうなんです。
蟹瀬1日に1本以上?
大山それは一番ピークのときですから、大体20本近く、日に2、3本立ての時代がありましたしね。
蟹瀬そうすると、やっぱり自分が映画監督になってみたいとか、映画関連の仕事に就きたいとか、そういう思いはなかったのですか?
大山事業っていうよりも憧れですね。やっぱり映画っていうのは総合芸術ですからね。演劇があり音楽があり、あるいは写真がありということで、若い者にとってみれば、そしてきれいな女優さんとも近付けるということで(笑)。
蟹瀬だけど進路の選択ということになったときに、どういう方面を目指されたのですか?
大山私は本来は理系が好きだったのですけど、いずれ社会に出て経済活動をしなきゃならないのだと思って、その当時経済学部と思っていたんですけど、心の中ではやっぱり映画監督になりたいなと、父親に相談すると「ばか!」(一同笑い)一喝されまして。
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