「神の魚」しょっつる復活(vol.11)

秋田県に「しょっつる」と呼ばれる伝統調味料がある。魚を数年間塩漬けにして作る調味料で、特に秋田県では冬にハタハタのしょっつるが仕込まれてきたが、現代の醤油(しょうゆ)文化に押されて一時消えかけていた。

しかし、このほど〝漁師のかあちゃん〟9人が結成したグループ「ひより会」の努力で見事に復活。
しかも新しい秋田の名産として、全国に販路を拡大しているという。

岡本➖➖秋田の漁師の味を守りたかったのです。消えかかった理由は、私たちの次の世代が面倒なものを嫌うだろう、ということでした。ならば面倒でないしょっつるを作れば、きっと残ると思いました。

と「ひより会」代表の岡本リセ子さん(68)。

ハタハタは神の魚「鰰」と書く。
秋田県八森地方では冬場の貴重なタンパク源になることから、「神様が遣わした魚」として尊重され、塩焼き、煮付けなど、さまざまな調理法で余すところなく食べられている。

しょっつるも保存食として塩漬けにする際、発酵してできる魚醤を指す。
つまり、神の魚を完全に食べ尽くすという秋田の食文化が生んだ独特の調味料なのである。
それが食生活が豊かになって、次第に作られなくなったというわけである。

そんなとき、秋田県の指導で漁業関係者の女性部が結成された。
〝漁師のかあちゃん〟たちに漁業を活性化してもらおうという県の施策である。
そしてリーダーとなった岡本さんが最初に手がけたのがしょっつるの復活だった。

岡本➖➖できるだけ面倒にならないようにと、昔は大きな樽に漬け込んでいましたが、その樽を小ぶりなものに変え、手軽に作れるようにしました。

ほどなく岡本さんを代表に、1人5万円の出資金で「ひより会」が立ち上がった。

岡本➖➖今年でもう9年目になりますが、おかげさまで全国から買いに来られる方が増え、現在はハタハタ1トンを漬け込んで作っています。

同時に、ほっけや鯵(あじ)などをブレンドしたしょっつるも開発した。

岡本➖➖しょっつるはコクがあって、鍋やみそ汁に入れたらとても美味しくなります。一度食べたらその味が忘れられないのか、何度もご注文いただくのですよ。

と岡本さん。

地元に古くから伝わる伝統の味を受け継ぐのは、どの地方にとっても大きな課題である。
そうしないことには、現代の便利な食生活が伝統食をどんどん押し流してしまう。

岡本➖➖地元の食文化はまず、地元が守らなければ残りません。ビジネスばかりに目がいくとうまくいかないと思います。しょっつるが再び注目されてきたのも、私たち地元の者が積極的に食べているからですよ。

と岡本さん。
いま一度、食文化を考えたいものである。

地デジ支える「はんだ」技術(vol.13)

「はんだ付け」に光を!―そう訴え続けている“はんだ付け職人”が25日、日本で初めて一般の人を対象にした「はんだ付け検定」を実施する。
「はんだ付け」技術に世間の注目を集めようというねらいだ。

野瀬➖➖25日はテレビが地上デジタル放送に移行する最初の日。地デジは誰でも知っていますが、その地デジを陰で支えているはんだ付けには誰も気づいてくれません。

と、NPO法人・日本はんだ付け協会理事長の野瀬昌治さん(44)。

このため、7月25日を「はんだ付けの日」として日本記念日協会に申請し、認定された。
野瀬さんにとっては、この地味だが重要な役目を果たしている「はんだ付け」技術こそ、“ものづくり日本”の象徴であり、なんとかそこに光を当てたいとかねてから思っていた。

野瀬さんが「はんだ付け」にこだわり始めたのには辛い過去がある。
約8年前、父親が経営していた部品加工会社が、25年間部品を納め続けた大手電機メーカーから、「海外に生産拠点を移す」という理由であっさり引導を渡された。

野瀬➖➖その会社に100%依存していましたから、代わりの仕事を探すのは大変でした。食べていくためにどんな安い仕事も受けましたし、まったく違う仕事にも手を出しました。

仕事をすればするほど赤字が膨らむ地獄のような日々が3年間ほど続いたという。
そんなとき、長年培った「はんだ付け」技術のDVDを作ってホームぺージで紹介したところ、驚くほどの反響があり、マスコミの取材も相次いだ。

野瀬➖➖これだと思いました。多くの人たちがはんだ付けの方法を知りたかったんです。

そんな声に答えるために2009年12月、NPO法人・日本はんだ付け協会を立ち上げた。
さっそく野瀬さんは協会のホームぺージをつくり、はんだ付けの技術や知識を惜しみなく紹介していった。そうしているうちに、いつしか「はんだ付けの専門家」と呼ばれるようになっていた。

これまで商品ばかりに気をとられていたが、長年育んだ技術にこそ価値があったのである。

野瀬➖➖それからは、正しいはんだ付けをいかに広めるかに力を注ぎました。そして、はんだ付けを個人に広めるためのビジネスを模索しました。

狙いは当たった。問い合わせは日ごとに増え、はんだ付け技術のDVDも売れ始めた。その一連の活動がこの「はんだ付け検定」につながった。

野瀬➖➖検定当日、受験生はDVDによる講習を視聴したあと、筆記試験と実技試験を受けてもらいます。合格者には認定証とかわいい認定バッジを進呈します。

と野瀬さん。縁の下で活躍してきた技術に光が当たるその日を心待ちにしている。

主婦のアイデア陶器に人気(vol.14)

美濃焼窯元・カネコ小兵製陶所(岐阜県土岐市)の〝ある陶器〟が熱い視線を浴びている。窯元夫人の伊藤久子さんが作った小物に、全国から注文が殺到しているのだ。
その〝ある陶器〟とは「味見お玉たて」。文字通り、味見をするために使う調理具「お玉」を立てるためのキッチン用品である。
あまりの人気に、窯元では専用化粧箱まで作ったほどだ。

伊藤ーー料理をしていて、いつも困っていたのが、味見をした後、お玉を置く場所でした。鍋に入れたままにもできないし、コンロや流し台に置くと汚れるし…そこで、お玉を立てる陶器を作ってみたんです。

と久子さん。

そういわれると、ユニークな形の意味がよく分かる。
お玉をスッポリ包む丸みを帯びた底に、お玉を支える取っ手。その取っ手を持てば、そのまま味見皿にもなるというわけだ。
久子さん自身、これほど注目されるとは思いもしなかったという。

伊藤ーー日ごろ、あったらいいなと思っているものを、毎日触れている土で作ってみただけ。軽い気持ちでした。

という。

人気を呼ぶきっかけになったのが、3年前に東京ドームで開催された「テーブルウェア・フェスティバル2008」。
地元商社が美濃焼のブースを出すことになり、この「味見お玉たて」を並べてみないかと話をもってきた。
毎年開催されているイベントだけに、定着した人気があり、ブースには〝鮮度〟の高い器を並べる必要があったのだ。

白くて丸みを帯びた陶器は、キッチン用品として、食器と並列しても違和感がない。
しかも「味見皿」と「お玉立て」の2つの機能を兼ね備えながら、洗うときは1度ですみ、使い勝手も良い。

来場者の目は、たちまちこの白い陶器に集まった。機能性とファッション性に加え、価格も1,050円と手ごろである。
終了後も口コミで注文が続き、あっという間に約2000個が売れた。
そして、その人気に注目したバイヤーが「母の日ギフト」として全国に紹介。これで注文に火がついたのである。

それだけではない。北海道など遠方からも引き合いが来るなど、口コミが口コミを呼び、どんどん販路も広がった。
陶器に限らず、伝統工芸品はいずれも新市場の開拓が大きな課題だ。行き詰まりの状況を突破するのは、何気ない主婦のアイデアかもしれない。思わず拍手したくなるケースである。

故人仕様の仏壇で供養(vol.15)

8月、日本で初めての自分仕様の仏壇「プロデュース仏壇」が発売される。
パステルカラーの明るい仏壇に、故人が好きだった風景や故人の部屋などを再現し、故人と一緒に暮らしている感覚を演出できる。

愛媛県宇和島市で創業101年の歴史を持つ老舗仏壇店「立花仏壇店」が開発した。

立花➖➖家族を亡くされた方々のお気持ちを、明るい仏壇で少しでも癒すことができればと思いました。故人の面影を残す空間がそのまま仏壇に蘇ることで、一緒にいると思ってもらえれば本望です。

と3代目社長の立花孝文さん(54)。

立花さんは仏壇店を継いで以来、斬新な仏壇を次々と考案、今回の「プロデュース仏壇」の開発も手がけた。現在、愛媛県内に2店舗を展開し、仏壇を企画製造、販売している。

立花➖➖創業当時は製造専門だったんです。でも、それではお客さんの顔が見えず、つまらないので、思い切って小売も始めました。それ以来、お客さんの声を聞くことが一番大切だと思うようになりました。

そもそも、立花さんは人の言いなりに働くことが嫌いな性質で、流通会社の傘下で仏壇作りだけをする従来の仕事は受け入れられなかった。そのため、若い頃は家業を継ぐことを拒み、家から飛び出してトラックの運転手をしていた。

しかし、結婚を機に妻の実家の真珠養殖業を手伝うようになって、顧客に直接販売する仕事の楽しさを知ったという。

立花➖➖自分が作ったものを自分の手で販売することこそ、商売の喜びだと知りました。だったら仏壇も自分の手で販売していいのではないかと思って、家業を継ぐ決心をしたんです。

以来、従来の仏壇店とは一線を画す斬新な取り組みを次々に手がけた。

たとえば、店構えはモダンでオシャレなレイアウトに。
愛宕町にある本店には、若い頃に乗っていたナナハンをピカピカに磨き上げて飾った。
奇想天外な仏壇と大型バイクの〝競演〟だったが、妙にマッチしていると評判になった。

また、墓石の販売にも事業を拡大し、『夢SO(むそう』というブランド名をつけ、真っ赤な仏壇を発表した。まるで化粧台のようなデザインで、洋風建築にもマッチ。
市松模様など多様なデザインとともにシリーズ化し、都市部の展示会に出品したら飛ぶように売れた。

立花➖➖すべてお客さまの声を聞いて作った商品です。故人を供養したいと思う気持ちは、昔も今も変わりません。ただ、供養する環境が変わってきたので、それに合わせた仏壇を作っているんです。

と立花さん。

もうすぐお盆やお彼岸の季節。
今年もパステルカラーの仏壇が、故人を偲ぶ心を明るく、温かく包みそうだ。

「無農薬カラフル野菜」売り上げ3倍 (vol.16)

無農薬でカラフルな野菜の栽培を始めて、売り上げを3年間で3倍に跳ね上げた女性がいる。
三重県鈴鹿市で女性だけの無農薬農場「近藤けいこ ナチュラルベジタブル」を営む近藤啓子さん(51)。

ごく普通の野菜を栽培していたが、顧客から「小ぶりでかわいい野菜がほしい」と言われたのをきっかけに野菜の色に着目し、「カラフル野菜」の栽培に乗り出した。

近藤➖➖無農薬栽培は手がかかるので、どうせ手がかかるのなら、カラフルな野菜を作ってみようと始めたんです。

農園のスタッフは8人。
全員女性で、ひとつひとつの野菜を撫でるように育てている。

しかも珍しいものが多く、「カラフルピーマン」や「ホワイトキュウリ」「白なす」のほか、UFOの形をした「UFOズッキーニ」、長くて細い「ひもなす」、小さくてカラフルなたまねぎ「ベコロス」などが色とりどりに旬を迎えている。味も野菜本来の風味が生きていておいしいと好評だ。

それにしても、3年間で売り上げ3倍とはすごい。どんな秘密があるのだろうか。

近藤➖➖販売はまったくの素人。カラフル野菜を始めた4年前、どう売ったらいいのかわかりませんでした。それで地元で開かれた『三重ブランドアカデミー』に参加したんです。

「三重ブランドアカデミー」とは、三重県が実施している地元産業を支援する事業で、販路開拓やブランドアップなどを専門にするコーディネーターに直接相談できる。
近藤さんはその道のプロのアドバイスに従って商標を「近藤ファーム」から「近藤けいこ ナチュラルベジタブル」に変え、パッケージデザインも変更。さらにホームページにネットショップ機能も加えた。

その取り組みを三重県が発信し、地元のテレビや新聞に取り上げられたことから、顧客がうなぎ昇りに増えていった。

近藤➖➖お客様は商標を見ただけで、女性が作っている無農薬野菜だから安心とおっしゃってくださいます。私たちが毎日、子供を育てるように丁寧に栽培していることが、お客様に伝わったのだと思います。

最近では東京や関西の大手ホテルやレストランからの注文が増えている。
無農薬野菜を使ったオーガニック料理を求める客が多いため、無農薬で料理映えのする近藤さんの野菜に注目が集まっているのだ。

近藤➖➖注文の件数は個人のお客様が多いのですが、売り上げはホテルやレストランからのものが全体の6割を占めるようになりました。これからもお客様の要望に沿った野菜を作り続けたいです。

この農園がこれからどんな野菜を生み、どう成長していくのか、楽しみである。

のれんで「町の心」を表現(vol.17)

岡山県の県北に広がる山間の町・勝山で行われている「のれんの町づくり」が熱い注目を集めている。
きっかけは昨年7月に開催された「瀬戸内国際芸術祭2010」で、勝山の染織作家・加納容子さん(62)が展開した「のれんプロジェクト」が評判を呼んでいるのだ。

加納➖➖勝山では15年ほど前、たまたま実家の酒屋に草木染めののれんを掛けたことから始まりました。現在では95軒にのれんを掛けさせていただいています。

と加納さん。東京の女子美大を卒業後、ふるさとの勝山に帰って「のれんの町づくり」を始めた経緯を話してくれた。

加納➖➖実家の酒屋ののれんを見て、最初に注文をいただいたのは、地元企業の社長さんでした。事務をされている奥様が玄関に差し込む光が眩しいとおっしゃったことで、私が作ったのれんを会社にかけようと声をかけてくださったのです。

この社長さんは、現在「かつやま町並み保存事業を応援する会」の会長を務める行藤公典(ゆきとうきみのり)さんである。
行藤さんは加納さんが作るのれんが大層気に入り、自分の会社にかけるだけでなく、町中に加納さんののれんを広めようと助成金を申請して実質的な「のれんの町づくり」の陣頭指揮をとっていった。

現在、町中ののれんが加納さんの作品に統一されていることも、行藤さんの“統一感が感じられるのれんの景観づくり”を狙った作戦という。
加納さんのプロデューサー的存在といえるだろう。

加納➖➖私は行藤さんのおかげで様々な店や家ののれんを作らせていただきましたが、ただ作るだけでは意味がないと思いました。なので、それぞれの家や店の心を表すように心がけて、のれんで町の心を表現しようと思ったんです。

加納さんが言うように、勝山ののれんの景観は、それぞれが語り合っているような雰囲気を醸している。

たとえば自慢の愛車を入れるガレージには、車が語りかけるようなのれんがかかり、履物屋ののれんには、客を歓迎する笑顔のような丸い下駄の鼻緒のデザインが施されている。
加納さんが言う“町の心”とは、住む人々の心が集まってこそ表現できるものなのかもしれない。

しかし、博覧会で注目を集めたら、全国から加納さんへの注文が来て、勝山の町づくりに専念することはできなくなるのではないだろうか。

加納➖➖確かに、いろんな地域から町づくりに関する問い合わせや打診をいただきました。でも今はお断りしています。町づくりは、押し付けたり、コピーしたりするものではなく、その町に住む人が無理なく楽しんでこそ成功するものだと確信しているからです。

そして今、加納さんは、自分のまちを盛り上げようと訪れる染織家たちを指導している。勝山で成功したノウハウをそのまま教えるのではなく、「無理なく楽しむ」という“町づくりの心”を伝えているという。

勝山の「のれんの町づくり」は、日本の町づくりの概念を変えていくかもしれない。

アートとエコを融合(vol.18)

瓶などの廃ガラスを美しく蘇らせる技術「ガラスおこし」を発明し、地方活性化に取り組んでいる“技術系アーティスト”がいる。
大阪市を拠点に活動する岡本覚(さとる)さん(56)で、アーティストとともに大阪工業大学客員教授、大阪府立大学客員研究員など錚々たる肩書を持つ。
廃ガラスのリサイクル技術を研究し続けた所以である。

岡本ーーアートは付加価値の魂といわれ、不景気の世の中では真っ先に反古にされてしまいます。
それでアートとエコをくっつけることによって、新たな価値を見出していけたらと思いました。

と岡本さん。
“アートとエコの融合”という言葉だけでは、よく見かける“廃材アート”と同じに聞こえるが、岡本さんの場合はレベルが違う。

アートに仕上げる以前に、廃ガラスを美しい素材にする技術にこだわっているからだ。
その結果、現在までに3種類の特許と1つの実用新案を取得した。

岡本ーー一般の人のガラスに対する考え方とは少し異なる観点で作品を制作しています。
たとえば、ガラスは壊れやすいと思われていますが、ビー玉をコンクリートに思いっきりぶつけたところで割れません。
実はガラスには石の7倍の強度があるのです。だからこそ薄いガラスコップやめがねのレンズができるということを知って欲しいと思っています。

およそ30年前、アメリカに留学し、日本にステンドグラスを紹介すべく創作作家として工房を設立した。以来、次々と新しい技術を開発し、特許だけでなく毒物・劇物を扱う国家資格も取得した。

現在、活動の中心になっている技術は「ガラスおこし」だ。廃ガラスから立体的な網目構造のガラスを作る技法で2008年に特許を取得した。
この技術を使うと、現在大半の市町村で廃棄処分の対象になってしまう色付ガラスについて、特に色を分別しなくてもリサイクルが可能になる。

岡本さんはこの技術を使って奈良県大和郡山市の人々とともに、道路の舗装に使われるブロックの一種「インターロッキング」を制作した。
子どもたちと商店街の人々がリサイクルできないワイン瓶などを収集し、大人たちが焼成して完成したインターロッキングを土木業の人々がきれいな道路に施工した。
本来、廃棄するしかなかったガラスが“みんなで作った道路”に変わり、人々の温かな笑顔を誘った。

岡本ーー最近では、子どもたちが色分けされた廃ガラスを砂絵の具のように使ってガラスタイルを作り、川べりやフェンスなどに飾ったりしていますよ。

そして今春、岡本さんはこれまで発明した技術を結集して大阪中之島に巨大なオブジェを制作した。ガラスの「船首」を持つ「水都大阪」をイメージした作品だ。

岡本ーー現在ガラス瓶は年間流通量の30%にあたる47万トンが廃棄されています。私はそのガラスを使って地方を活性化していきたい。その想いを表現しました。

と岡本さん。
ガラスの「船首」に、地方の船出が象徴されているようだ。

本当に必要な地域医療(vol.19)

〝本当に必要な地域医療〟を提供するため、全国でも珍しい医療を導入している病院がある。
奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市にある「医療法人青心会 郡山青藍(せいらん)病院」である。

法隆寺に近い閑静な住宅街にあり、一見何の変哲もない地方病院だが、診療科目が変わっている。
内科や外科、総合診療科などと並んで「その他の診療」という科目がある。
そこには「椎間板ヘルニアレーザー手術」を筆頭に、「高濃度ビタミンC療法」「遺伝子検査」など、あまり耳にしない名前が並んでいる。
なぜ、地方都市の病院に、このような手術や検査が必要なのだろうか。

野中ーー林業を営む人が多いからですよ。

と専務理事の野中壮介さん(68)。

野中ーー林業の人たちは職業柄、よく腰を痛めてヘルニアになるのですが、そう簡単に仕事を休むことはできません。

と説明してくれた。

野中ーーそれで海外で行われている『椎間板ヘルニアレーザー手術』を導入しました。日本では保険適用外なので費用は38万円と高いのですが、日帰り手術で少なくとも3カ月間は元の体に戻ります。

しかし、斬新な医療には専門の技術や機械が必要になる。しかも全額自己負担となると、人口が少ない地域では患者も限られ、採算が合わないのではないかと心配になった。

開院したのは26年前。徳島大学医学部を卒業した野中家久院長が大和郡山に来たとき、奈良の救急車が大阪へ走っていくのを見て驚いたことが開院のきっかけだったという。
大学で教え込まれた医師としての理念「患者のための医療」から、「奈良の患者は奈良で診るべき」という想いを強くし、この地で開業することを決意。
徳島で親しんだ藍染めの青藍と大和郡山の地名をとって「郡山青藍病院」と名付けた。

野中ーー以来、24時間365日救急対応を続け、『困った時の青藍病院』といわれています。

しかし、地域医療のニーズは救急対応だけではない。
高齢化が進む地方では高齢者ケアが必要で、介護老人施設「ピュアネス藍」も併設した。
病院で治療した高齢者のリハビリテーション施設として80人を受け入れている。

ところが、それでは病院経営が成り立たない。ここに一役買っているのが、この斬新な手術や検査である。

野中ーー『椎間板ヘルニアレーザー手術』は全国でも珍しい手術なので、都心から多くの患者を受け入れています。地域のために斬新な治療を導入し、都心の患者も受け入れ、その利益を地域に還元しているんです。

過疎化と高齢化に悩む地方都市。そこで必要な医療を提供し続けるための、病院の1つのあり方を示している。

本物の「おふくろ料理」(vol.20)

「どんなに女性が忙しくなっても、私ができたてのおふくろ料理を食べさせてあげる」
そんな信念のもと、自分が作った家庭料理をそのまま冷凍食品にしてビジネスを成功させた女性がいる。名古屋の食品加工会社ライフメイトの社長、那須公子さん(61)だ。

冷凍した料理は肉じゃがやハンバーグなど定番の家庭料理から、タンシチュー、グラタンなど手の込んだものまで50種類以上になる。
『はなうたキッチン』というブランドをつけて売り出したところ、高級ホテルや百貨店などから次々と引き合いがきて飛ぶように売れた。

那須➖➖皆さん、心からおいしいと言ってくださるんです。きっと保存料など添加物を使わない、純粋な〝おふくろ料理〟だからでしょう。

と那須さん。その笑顔は〝昭和のおふくろ〟そのままである。

那須さんは戦後の復興めざましいころ、老舗のそば屋の娘に生まれ、「食」と「味」にとことんこだわる環境で育った。
大学も食物科に進み、卒業後は料理研究家の助手として活躍するなど、「食」を追求する仕事に就いた。

そんな中で一時期、セールスの仕事をする機会があり、男性と肩を並べて営業に回る現場を体験した。

那須➖➖これから女性はどんどん外へ出て行くだろうと思いました。そんな中で私ができることは、できたてのおふくろの味を伝えていくことだと確信したんです。

〝できたて〟にこだわった那須さんが考えたのが、料理を冷凍すること。
当時は珍しかった冷凍麺をつくって販売し、高級ホテルや大手百貨店との取引を開拓した。
その上で〝おふくろ料理〟のレシピを整備し、本格的な冷凍食品の製造販売に乗り出した。

那須➖➖冷凍食品はスーパーの特価商品といったイメージでしたが、無添加のできたてを提供するためには、どうしても冷凍にしなくてはいけません。それで品質水準の高い冷凍商品を作りました。そしたら地元の百貨店が特設売場まで作って売ってくれたんですよ。

その後、そのおいしさが口コミで広がり、「売ってほしい」という声が相次ぐようになった。
「多くの人が私の料理を待ってくれているんだと思いました」と十分な手応えを感じ、この8月から本格的なインターネット直販を始めた。

通販サイト『はなうたキッチン』には、どこか懐かしい洋風の家庭料理が並ぶ。
価格も千円以下が多い。

那須➖➖食べるだけでなく、自分で作ることにも挑戦してもらいたいと思って、サイトには私の料理風景を動画で公開しています。料理を作る楽しさも合わせて伝えていきたいと思っています。

那須さんの〝おふくろの味〟は心まで温めてくれそうだ。

元ボクサーが造る「食酢」(vol.21)

徹底した〝体づくり〟を経験した元プロボクサーが造る「食酢」が人気を呼んでいる。
和歌山県岩出市の蔵元「九重雑賀」の社長、雑賀俊光さん(43)。
16年前までリングに上がっていた元プロボクサーである。

雑賀➖➖高校生のときにボクシングを始め、東京の大学に通っていたころには東京の代表選手にも選んでいただきました。いずれ実家を継ぐことになっていたのですが、それまで精一杯、戦いました。

と雑賀さん。

「勝つことがすべて」というボクシングの世界では、体づくりは何より大切な〝仕事〟。
勝つために自分の体を徹底的に管理したという。

雑賀➖➖ボクシングでは減量がよく注目されますが、減量はあくまでも勝つための手段です。食べる量を減らしてもスタミナを落とさず、体のキレを研ぎ澄ましていくには、どの時期にどのような食事をとらないといけないかを意識していました。ボクシングを通し、食べることの大切さを知りました。

28歳で引退して家業を継いだが、以来、「より良い酸を食卓へ」をテーマに、食酢のもつ「酢酸」や日本酒で仕込んだ梅酒の「クエン酸」などを通して「食べることの大切さ」を伝えていくようになった。

そして誕生したのが、現在、全国から注文が絶えない「柚子寿司召し酢」。
和歌山県南紀地方出身の母親が造った寿司酢が好評だったことを受けて発売した商品で、地方の食文化を残したいとの思いを込めた。

それが国にも認められ、「中小企業地域資源活用促進法」に基づく「地域産業活用事業計画」にも認定された。

発売してまもなく口コミで評判に。
「柚子の皮が入っている酢は珍しい」「この酢を使うと、寿司からほのかに柚子の香りが漂い、寿司酢の甘味と柚子の皮の酸味と苦味のバランスが絶妙」…などなど。

雑賀➖➖実はこの寿司酢、フランスにも輸出しているんです。柚子の皮を使った酢はドレッシングにもなるんですよ。私たちの蔵で造った食酢がフランス料理にも使われているというのはうれしいですね。

そして昨年、「原材料からの一貫造り」を実現するため、農家と契約して「特別栽培の米づくり」を始めた。
現在の家業が「酒蔵」なのは、酢の原材料である酒粕づくりを始めたからだが、それだけでは納得できなかったのだ。

雑賀➖➖自ら手にかけた米で、どんなおいしい日本酒や酢ができるのか…。
そして何より、より良い酸を通して、飲むことと食べることの楽しさを知ってほしいです。

プロボクサーの体づくりの知恵とノウハウが今、雑賀さんの手によって、多くの人たちの健康づくりに生かされている。