毎日1,000通の手紙を読む!「お客さんの声は宝物」の誠実さ

蟹瀬宗次さんが創業されたといいますとカレーハウスCoCo壱番屋、私も時々お邪魔しています。もう皆さんもご存じだと思いますが、日本全国だけではなく、いまやハワイ、そして中国の上海、こういう所にも出店しているんですね。独立志向の強い社員をバックアップするために、独自のフランチャイズシステムというのも開発されております。

今日はいろいろお話をお伺いしたいと思うんですが、まず宗次さん、お店を始めた頃から座右の銘というのがおありだということなんですが、それから教えていただけますか?

宗次はい。座右の銘というほどのものではないのかも分かりませんが、一番大事にしてきた言葉が、一人一人のお客さまを拍手喝采でお迎えしたいという気持ちから、「お客さま 笑顔で迎え 心で拍手」。これは自作なんですが。感謝してもしきれないという気持ちから、開店当初、自然に拍手したんです。

蟹瀬お客さん、びっくりしたでしょうね。

宗次いや、ドアを開ける寸前までですけどもね。本当は席に着くまで拍手していたかった、それほどうれしかったんですよね。

蟹瀬だけどそうやって迎えられるお店というのは、客のほうからするとうれしいものですね。

愛知県一宮市にある壱番屋本部、カレーハウスCoCo壱番屋を主力に、日本全国だけでなく海外にも店舗を展開している。1974年の喫茶店開業からカレーハウス、そしてフランチャイズチェーンへと、宗次は夫婦二人三脚で経営し大成功を収めた。現在は、芸術やスポーツ、経営などで夢を追う人たちを資金面などでバックアップする活動をしている。彼が創業した壱番屋の売上高は334億円を超える。

1948年、石川県に生まれ。67年、愛知県立小牧(こまき)高等学校を卒業後、八洲(やしま)開発株式会社に入社。70年、大和ハウス株式会社に入社、そして奥さま直美さんと出会う。73年、愛知県岩倉市で不動産業を開業、不動産の仕事に従事。そして74年、名古屋市西区にて喫茶店バッカスを開業した。

蟹瀬宗次さんは、私とほぼ同じ世代で、しかも同じ石川県生まれということで、初対面なんですけど、とっても親しみを感じるんですよね。

宗次そうですか。ありがとうございます。

蟹瀬お子さんの頃はどんなお子さんだったんですか?

試練をいっぱい与えてくれた、幼少期の苦労

宗次3歳の頃に養父母に引き取られて育てられました。本来なら商売をして経済的には恵まれていた家庭だったらしいのですが、育ての親が競輪をしてまして、毎日競輪に明け暮れていました。

蟹瀬ギャンブルにお金をつぎ込んでしまった?

宗次そうです。で、商売そっちのけになりまして養父母は別れてしまって、私と父親が岡山で生活をすることになったんです。

蟹瀬そうなんですか。だけどこんなことをお聞きしていいのかどうか分かりませんけど、そういうご家庭になると、よくありていに言えば「ぐれてしまう」というようなことがありますよね。宗次さんはそういう青春時代ではなかったのですか?

宗次そうですね。とにかくそういう父親でも大好きでして、父親が言う通りに掃除をしたり用事をしたり、とにかく期待に応えようという気は強かったですね。気が弱かったのか、遊ばなかったし変な方向には行かなかったです。

宗次試練をいっぱい与えてくれましたから、今経営者としての私があるのは、その幼少年期の体験が自分自身をつくってくれたのではないかなと思っています。今、数少ない自慢にしている一つなんです。さんざんの苦労をしたおかげで、今日があるかなと思っているんですね。

蟹瀬そして高等学校を卒業されて、不動産業界のほうに入られた。これはどういうきっかけからなんですか?

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強いリーダーシップと決断力!

石丸強いリーダーシップと決断力、三木谷さんの選択の中から必ずや番組をご覧の皆さまに、多くの何かが残るはずです。森永さん、企業の経営者にとって選択というのは重要な要素だと思うんですが、いかがでしょうか?

森永サラリーマンでも誰でもその選択に直面するんですけれども、ただその経営者の選択という場合には、企業の浮沈をかけることになりますから、やっぱり孤独で厳しい選択というのに迫られると思うんですね。

石丸はい。三木谷さんは、選択という言葉を聞いて、どのようなイメージを抱かれますでしょうか?

三木谷そうですね。選択と言うべきか決断と言うべきか、やはり経営者というのはそういう大きな決断というのはわれわれ何回かやってきましたし、これからもそういうことが続くんだろうなと思います。

河合三木谷さんは1965年、兵庫県にてお生まれになりました。なんと3人兄弟の末っ子。

三木谷そうですね。

河合そして7歳のときにお父さまは神戸大学の名誉教授でいらっしゃって、海外留学をなさるのについていくという形でご家族皆さんでアメリカに?

三木谷当時は教授ですけども、はい。

河合10歳までアメリカでお過ごしになって16歳のときに明石高校に入学。

三木谷はい。その前に私立の中学に行っていたんですけども落ちこぼれてやめまして、公立に戻ってからテニスをやってましたね。

河合大学は一橋大学の商学部で、やはりこちらではテニス部の部長さん。

三木谷そうですね。キャプテンで、鬼のキャプテンで有名でした。

石丸兵庫県出身というのは最近の報道でちょっと知ったりしたんですが、海外にもいらしたんですね。

三木谷そうですね。それが結構、自分の人格形成の中では影響しているかもしれないなというふうに思います。

石丸大きい部分があると。

三木谷はい。

石丸この時期に三木谷さんにどんな選択があったのでしょうか。森永さん、よろしくお願いします。

森永はい。三木谷さんの今のこの歩みを拝見して、まず割と豊かな家庭で、しかも学者一家だったんですね。

三木谷貧乏とは言いませんけど、ただいわゆる公務員の家庭で3人子どもがいましたから、それほど裕福というほどではないと思いますね。特にこのアメリカに行ったときというのはまだ1ドル360円の時代で、今よりだからアメリカに行くと物価3倍ぐらい高いんですよね。なのでその頃はあんまり金銭的な余裕はそんなになかった感じですね。

石丸日本人学校もまだない時代ですよね?

三木谷ないですね。特にニューヘイブンなんて田舎町ですから……。

石丸現地の学校にそのまま?

三木谷現地の学校にポーンと、教えられた言葉は、ワン、ツー、スリー、イエス、ノー、あとバスルームと、トイレに行きたいときはバスルームと言えということだけ教えられて、ポーンと放り込まれたんですけども。

森永で、その中で当然授業聞いてても訳分からないですよね?

三木谷まあ、でも結構訳分かんなくてもコミュニケーションは言葉だけじゃないんだなと思ったのは、行った当日に友達を4、5人連れて家に帰ってきましたから(笑)。

森永もうその頃から社長の素養っていうのを持っていたんですね。

三木谷分からないです。とにかくちょっと変わってましたね。その後、30歳ぐらいになったときに、その学校にまたふと行ってみたんですよね。それで、「俺はこの学校出身なんだ」っていうふうに言うと、校長先生が出てきて成績表をくれたんですけども、その成績表をみる限り非常に成績悪かったんですよ。

石丸そうなんですか。

森永悪かったんですね。

三木谷でもそれがいまだに残っているのがすごいなと思いましたね、アメリカっていうのは。

森永で、日本に帰ってこられて神戸で高校に進学されて、そのとき高校生時代というのはどういう生徒だったんですか?

三木谷高校生のときは、これはもう本当にテニス一本ですね。