「やっぱり夢を発信する企業にしたい」。通信販売にかけた男の気迫。

蟹瀬ジャパネットたかたは、高田社長自らが出演するテレビショッピングをはじめとした、通信販売で有名です。皆さんご存じだと思いますけども、やっぱりものを販売する仕事をしていて、その販売の一種の哲学みたいなものというのはおそらくお持ちだと思うのですが、まずそれをちょっとお聞かせ願えますか?

感動を伝える

高田結構難しいんですよね、でも。販売というのは、販売する人と買っていただく方というのがいらっしゃいますから、やっぱり心で伝えるという。で、伝えるということも、ただ単に伝えるのではなくやっぱり感動を伝える。その感動を通してお客さまとわれわれが一緒になったときに初めて販売につながるというふうに思っているんですけど、やっぱり感動、ショッピングという、これが私の一番販売の基本だと考えています。

長崎県佐世保市、ここに本社があるジャパネットたかたは、ラジオショッピングやテレビショッピング、新聞折込やダイレクトメール、インターネットなど、さまざまなメディアで通信販売を行っている。高田社長や社員たちが出演するスタイルで知られている。商品の向こうにある感動や楽しさを提供、商品の仕入れ、番組制作、注文受付、発送やアフターフォローまで、全て自社内で業務をするという自前主義を貫いている。売上高は1,080億円を超える。
1948年、長崎県平戸市に生まれます。1964年、長崎県立猶興館高等学校入学。1967年、大阪経済大学経済学部入学。1971年、大阪経済大学経済学部卒業、株式会社阪村(さかむら)機会製作所入社。そして1972年、西ドイツ(当時)デュッセルドルフ駐在となります。

蟹瀬高田さんといいますと、日本国中知らない方がいらっしゃらないのではないかという気がするんですが、コミュニケーションのエキスパートですよね。なんか犬とも目で話ができるというお話伺いました。

高田そうですよね。犬はかわいいですね。もうミニチュアダックスフンドも3歳なんですけど、本当犬は表情で分かりますね、何を言いたいかというのがですね。

蟹瀬バリー君という?

高田バリーです。本当にかわいいです、一緒に寝てますから。

蟹瀬そんな高田さんですけども、ご兄弟も結構多かったというお話伺ってますが。

少年時代

高田はい。私は四人兄弟で、私次男なんですね。で、長男、次男、三男がいまして、一番下に妹がいます、四人兄弟でございます。

蟹瀬お父さまは相当写真に凝っておられた?

高田ええ、凝ったというよりものすごく好きで、それが趣味がやっぱり高じて写真の道に父が入っていったと。で、母と二人で写真屋さんという、カメラ店というより写真屋さんって、皆、町の仲間が集まってくるというようなオールウェイズみたいなあんな感じですよね。

蟹瀬そうなんですか。そうすると、そこで育った高田少年、これは結構お茶目な人気者という感じだった?

高田いや、そんなじゃないですけど、やっぱり父の友達がしょっちゅう祭りのときに写真を撮って、それを展示して、写真をいかにしたらいい写真が撮れるかという、そのときに父が30代でしょうか、たくさん、多いときは30人40人集まってこられてましたから、そういう中でやっぱり育ちましたので、人見知りせずに結構かわいがられたのかな、という気はしますけどね。

蟹瀬いろんな人とそこでもまれてきたというの、あるでしょうね。お子さんの頃、これが一番好きだったというものあります?

高田子どもの頃ですか。そうですね……。

蟹瀬歌も相当お好きだったという話を聞いてますけど。

高田歌は本当好きだったんですよね。歌ってるというのも、私の父の弟、おじさんなんかが、やっぱり古い歌を歌ってましたので、私は私の年代に似つかわしくない古い歌がよく好きでですね。『上海帰りのリル』とか、本当にそういう軍歌でも、やっぱりすごく覚えてるんですね、今も、『青い山脈』とか。

蟹瀬一世代前の歌を。

高田そうです、一世代前の歌をよく、なんで覚えてるんだろうと言われ。だからカラオケやってますけど、古い歌はよく知ってるんですけど、最近の歌は知らないので困ってるんですけどね(笑)。

蟹瀬歌はずっと歌ってらっしゃったんでしょうが、それ以外にも興味おありだったものというと?

毎日1,000通の手紙を読む!「お客さんの声は宝物」の誠実さ

蟹瀬宗次さんが創業されたといいますとカレーハウスCoCo壱番屋、私も時々お邪魔しています。もう皆さんもご存じだと思いますが、日本全国だけではなく、いまやハワイ、そして中国の上海、こういう所にも出店しているんですね。独立志向の強い社員をバックアップするために、独自のフランチャイズシステムというのも開発されております。

今日はいろいろお話をお伺いしたいと思うんですが、まず宗次さん、お店を始めた頃から座右の銘というのがおありだということなんですが、それから教えていただけますか?

宗次はい。座右の銘というほどのものではないのかも分かりませんが、一番大事にしてきた言葉が、一人一人のお客さまを拍手喝采でお迎えしたいという気持ちから、「お客さま 笑顔で迎え 心で拍手」。これは自作なんですが。感謝してもしきれないという気持ちから、開店当初、自然に拍手したんです。

蟹瀬お客さん、びっくりしたでしょうね。

宗次いや、ドアを開ける寸前までですけどもね。本当は席に着くまで拍手していたかった、それほどうれしかったんですよね。

蟹瀬だけどそうやって迎えられるお店というのは、客のほうからするとうれしいものですね。

愛知県一宮市にある壱番屋本部、カレーハウスCoCo壱番屋を主力に、日本全国だけでなく海外にも店舗を展開している。1974年の喫茶店開業からカレーハウス、そしてフランチャイズチェーンへと、宗次は夫婦二人三脚で経営し大成功を収めた。現在は、芸術やスポーツ、経営などで夢を追う人たちを資金面などでバックアップする活動をしている。彼が創業した壱番屋の売上高は334億円を超える。

1948年、石川県に生まれ。67年、愛知県立小牧(こまき)高等学校を卒業後、八洲(やしま)開発株式会社に入社。70年、大和ハウス株式会社に入社、そして奥さま直美さんと出会う。73年、愛知県岩倉市で不動産業を開業、不動産の仕事に従事。そして74年、名古屋市西区にて喫茶店バッカスを開業した。

蟹瀬宗次さんは、私とほぼ同じ世代で、しかも同じ石川県生まれということで、初対面なんですけど、とっても親しみを感じるんですよね。

宗次そうですか。ありがとうございます。

蟹瀬お子さんの頃はどんなお子さんだったんですか?

試練をいっぱい与えてくれた、幼少期の苦労

宗次3歳の頃に養父母に引き取られて育てられました。本来なら商売をして経済的には恵まれていた家庭だったらしいのですが、育ての親が競輪をしてまして、毎日競輪に明け暮れていました。

蟹瀬ギャンブルにお金をつぎ込んでしまった?

宗次そうです。で、商売そっちのけになりまして養父母は別れてしまって、私と父親が岡山で生活をすることになったんです。

蟹瀬そうなんですか。だけどこんなことをお聞きしていいのかどうか分かりませんけど、そういうご家庭になると、よくありていに言えば「ぐれてしまう」というようなことがありますよね。宗次さんはそういう青春時代ではなかったのですか?

宗次そうですね。とにかくそういう父親でも大好きでして、父親が言う通りに掃除をしたり用事をしたり、とにかく期待に応えようという気は強かったですね。気が弱かったのか、遊ばなかったし変な方向には行かなかったです。

宗次試練をいっぱい与えてくれましたから、今経営者としての私があるのは、その幼少年期の体験が自分自身をつくってくれたのではないかなと思っています。今、数少ない自慢にしている一つなんです。さんざんの苦労をしたおかげで、今日があるかなと思っているんですね。

蟹瀬そして高等学校を卒業されて、不動産業界のほうに入られた。これはどういうきっかけからなんですか?

失敗とは無縁!?「最大のリスクは後悔することだ」の前進力

強いリーダーシップと決断力!

石丸強いリーダーシップと決断力、三木谷さんの選択の中から必ずや番組をご覧の皆さまに、多くの何かが残るはずです。森永さん、企業の経営者にとって選択というのは重要な要素だと思うんですが、いかがでしょうか?

森永サラリーマンでも誰でもその選択に直面するんですけれども、ただその経営者の選択という場合には、企業の浮沈をかけることになりますから、やっぱり孤独で厳しい選択というのに迫られると思うんですね。

石丸はい。三木谷さんは、選択という言葉を聞いて、どのようなイメージを抱かれますでしょうか?

三木谷そうですね。選択と言うべきか決断と言うべきか、やはり経営者というのはそういう大きな決断というのはわれわれ何回かやってきましたし、これからもそういうことが続くんだろうなと思います。

河合三木谷さんは1965年、兵庫県にてお生まれになりました。なんと3人兄弟の末っ子。

三木谷そうですね。

河合そして7歳のときにお父さまは神戸大学の名誉教授でいらっしゃって、海外留学をなさるのについていくという形でご家族皆さんでアメリカに?

三木谷当時は教授ですけども、はい。

河合10歳までアメリカでお過ごしになって16歳のときに明石高校に入学。

三木谷はい。その前に私立の中学に行っていたんですけども落ちこぼれてやめまして、公立に戻ってからテニスをやってましたね。

河合大学は一橋大学の商学部で、やはりこちらではテニス部の部長さん。

三木谷そうですね。キャプテンで、鬼のキャプテンで有名でした。

石丸兵庫県出身というのは最近の報道でちょっと知ったりしたんですが、海外にもいらしたんですね。

三木谷そうですね。それが結構、自分の人格形成の中では影響しているかもしれないなというふうに思います。

石丸大きい部分があると。

三木谷はい。

石丸この時期に三木谷さんにどんな選択があったのでしょうか。森永さん、よろしくお願いします。

森永はい。三木谷さんの今のこの歩みを拝見して、まず割と豊かな家庭で、しかも学者一家だったんですね。

三木谷貧乏とは言いませんけど、ただいわゆる公務員の家庭で3人子どもがいましたから、それほど裕福というほどではないと思いますね。特にこのアメリカに行ったときというのはまだ1ドル360円の時代で、今よりだからアメリカに行くと物価3倍ぐらい高いんですよね。なのでその頃はあんまり金銭的な余裕はそんなになかった感じですね。

石丸日本人学校もまだない時代ですよね?

三木谷ないですね。特にニューヘイブンなんて田舎町ですから……。

石丸現地の学校にそのまま?

三木谷現地の学校にポーンと、教えられた言葉は、ワン、ツー、スリー、イエス、ノー、あとバスルームと、トイレに行きたいときはバスルームと言えということだけ教えられて、ポーンと放り込まれたんですけども。

森永で、その中で当然授業聞いてても訳分からないですよね?

三木谷まあ、でも結構訳分かんなくてもコミュニケーションは言葉だけじゃないんだなと思ったのは、行った当日に友達を4、5人連れて家に帰ってきましたから(笑)。

森永もうその頃から社長の素養っていうのを持っていたんですね。

三木谷分からないです。とにかくちょっと変わってましたね。その後、30歳ぐらいになったときに、その学校にまたふと行ってみたんですよね。それで、「俺はこの学校出身なんだ」っていうふうに言うと、校長先生が出てきて成績表をくれたんですけども、その成績表をみる限り非常に成績悪かったんですよ。

石丸そうなんですか。

森永悪かったんですね。

三木谷でもそれがいまだに残っているのがすごいなと思いましたね、アメリカっていうのは。

森永で、日本に帰ってこられて神戸で高校に進学されて、そのとき高校生時代というのはどういう生徒だったんですか?

三木谷高校生のときは、これはもう本当にテニス一本ですね。