今や被災地で復興よりも新興が大事 津波対策で海辺に人工の生活島を

「復興よりも新興を」――最近、これはいい、さすが言葉を大事にするノンフィクション作家だなと思ったキーワードだ。「メタルカラーの時代」のタイトルで鉄鋼などのモノづくりの現場の人たちの生き方を描いた山根一真さんが、新聞で被災地支援問題に関して、この言葉を使っておられたのが目に入った。その瞬間、時代刺激人を標榜する私にとっても、思わず「参った」と思うほど、このメッセージは新鮮で、説得力を持つものだった。
宮城、福島、岩手県の東日本地域一帯に、自然の猛威によって大きな爪痕を残した東日本大震災、さらに大津波による東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされた人たちの復興、再建は、1年以上たった今も遅々として進んでいない。その現実を、被災地現場で何度も目の当たりにして、私はずっと苛立っていた。

そんな矢先、この「復興よりも新興を」という言葉に出会った。直感的に「そうか、復旧、復興というと、元に戻すことに、いろいろな人のこだわりが出る。とくに区画整理では利害が錯そうして権利調整に苦しみ、物事が前に進まない。加えて政争に明け暮れる政治、行政機関の縄張り争い的なタテ割り行政の弊害がカベになる。しかし、もし、新興という全く新しい制度枠組みで『一からやってみようや』と、取り組めばやれるかもしれない。思い切った発想の転換が事態を大きく変える起爆剤になる」と思うようになった。

東北スカイビレッジ構想が新興にぴったり、
元旦NHKスペシャルで奥山さんも紹介

この新興というキーワードにふさわしいプロジェクトがあるので、今回のコラムで、ぜひ取り上げてみたい。ご存じの方もおられるかもしれないが、東北スカイビレッジ構想だ。実は、今年1月元旦のNHKスペシャルの特集番組「目指せ、ニッポン復活」で、私の友人で工業デザイナーの奥山清行さんが、建築家の迫(さこ)慶一郎さんらと一緒に、東日本大震災で被災した沿岸部の平野部に、高さ20メートルぐらいの津波が押し寄せても大丈夫な、自然と共生する新たなコンパクトシティをつくりあげたくて計画している話がある、と言っていたのが、そのプロジェクトだ。

たまたま最近、東京都内で、この東北スカイビレッジ構想の詳細を聞くと同時に、リーダーの迫さんに会うチャンスがあった。迫さんは、若さを感じさせる建築デザイナーで、何と北京に拠点を置き、新興中国の都市再開発などのプロジェクトを手掛ける構想力のある人であることがわかった。話を聞いてみると、思わずわくわくする話だった。

建築家の迫さんが構想、内陸部の高台への移転よりも
海辺近くの平野部に居住を

迫さんは、北京と東京との往復の生活中に、たまたま昨年3月の東日本大震災に出会ったが、その1か月後の4月に、当時の菅直人首相が、津波対策のために高台に住宅移転を、という構想を打ち出したのを耳にし、それまで温めていた東北スカイビレッジ構想を具体化させようと決断したという。

奥山さんがNHKスペシャル番組で、その一端を紹介したように、津波を回避するための高台がない平野部の被災地に高さ20メートル、直径200メートルの、コンクリートでつくった東京ドームぐらいの大きさの巨大な島のような人工の構造物をつくりあげる。そして、構造物の上の平らな広いスペースに住宅や学校、病院、商店などを立ち上げ、そして、島の内部には半導体はじめ、さまざまなサプライチェーンとなる工場、それに付随する会社の事務所スペース、さらには野菜などを生産する植物工場も設置するものだ。

中国政治が社会不安に過敏 間違いなく地殻変動の予兆

 中国で最近、起きている政治のさまざまな動きは、ずばり興味津々だ。中国経済を定点観測している中国ウオッチャーの私から見ても、それらの動きは、政治の世界の権力闘争とは違って中国の政治、そして経済や社会の地殻変動につながる動きのように見える。
具体的に言えば、経済の急成長をきっかけに進んできた都市化が引き金となって、巨大な人口移動が進み、都市部と農村部の格差、所得格差などがますます顕在化していることが大いに関係する。社会の底辺にいて、これまで不自由な生活を強いられた地域住民の不満が一気に爆発し、格差是正を求めるデモや暴動が着実に大きな広がりを持ち始めた。社会不安になりつつある。しかも、共産党幹部の汚職や不正蓄財の問題が生じるたびに、それらが住民の不満を増幅させている。

格差拡大や共産党幹部汚職・不正蓄財が引き金、
ネットも情報波及で影響力

以前ならば、中国では共産党の国家権力を行使し、表現が悪いが、さまざまな住民運動やデモを踏み潰し、何もなかったかのように振る舞っていた。ところが、インターネットなどソーシャルネットワークを通じて、あっという間に中国国内のみならず、グローバルに波及する展開となったこのため、北京中央の政治指導部も、社会不安が政治不安につながらないように真正面から取り組まざるを得なくなったのだ。

早い話、中国の政治が社会不安に過敏になり、その不安が拡大しないように、政治指導者が直接、不安の現場に入り、問題解決に取り組み始めている。これは明らかに、地殻変動の予兆と言っていい。そこで、今回のコラムでは、それをレポートしてみたい。

広東省鳥坎(うーかん)村で共産党地方書記の不正が
住民を立ち上がらせる

まず、具体的な事例を申し上げよう。メディアの報道で、ご記憶の方もおられるかもしれないが、中国沿海部の広東省鳥坎(うーかん)村での共産党書記ら指導層の不正への住民の抗議行動をめぐる問題がそれだ。
村の政治リーダーの共産党書記が何と、村民の土地使用権を勝手にリゾート開発業者に売却して蓄財したのだ。これが引き金となって、昨年9月、住民の抗議行動が大規模デモにとどまらず、問題の書記を追い出し、住民による自主選挙で村民委員会という自治組織をつくったのだ。

この動きに危機感を抱いた公安当局が、政治介入してリーダーの1人を逮捕し、結果的に死亡させた。そればかりか、公安当局は、電気やガスなどの供給を止める形で締め付けを図った。日本では考えられないことだが、現代中国では秩序維持という国家目的のために、平然と権力を行使し、それが弾圧に近い形で行われたのだ。ところが、今回は違った。

今秋の共産党大会で指導部入り有力の広東省党書記が
村の直接選挙容認

広東省トップの政治リーダーの共産党書記で、今年秋の共産党大会で指導部入りが有力視される汪洋氏が現場で村民との話し合いに乗り出した。そして、汪洋氏は、その話し合いの中で、不正幹部の追放、公平な村長選挙を約束したのだ。

広東省全体を取り仕切る共産党の党書記が、わざわざ沿海部の特定の、わずか1万3000人ほどの人口の小さな村の騒ぎに乗り込んで、しかも村民の自治への動きに大きな理解を示したこと自体が、これまでにないことだ。裏返せば、この鳥坎村の処理を誤れば、中国全土に問題が飛び火するリスクを察知した結果と言っていい。

問われる官邸の危機管理能力 原発対応の議事概要もお粗末

 東日本を突然、襲った昨年3月の大震災、それに続く大津波、東京電力福島第1原発事故から1年。日本のみならず世界中を震撼させたが、いまだに、この重い現実が続く。さまざまな現場で、苦労を強いられている人たちのことを考えると、どういった形で貢献ができるか思い悩む。そんな時こそ、政治リーダーたちの出番なのだろうが、政治の現場では解散・総選挙をからませて復興開発予算、税・社会保障の一体改革などの法案取扱いをめぐり、与野党が政争を繰り広げている。ここにも信じられない現実があるのだ。
そんな矢先、与党民主党政権下にある首相官邸の危機管理能力、とくに東電原発事故対応をめぐる危機対応を問う報告書、さらには事故当時、原子力災害に関する緊急災害対策本部で何が議論され政策対応したかを後で検証するための議事録がほとんどつくられておらず、あわてて関係者のメモなどをもとに、まさに作文のような危機管理報告ともいえる議事概要が世の中の批判に応える形でつくられ、相次いで発表になった。

日本の政治中枢の危機管理能力をどう高めたらいいのか、最大の難題

読んでみると、政治の中枢の機能低下が目を覆わんばかりの状況で、いまだに災害からの復旧でもがいている人たちもいる厳しい現実との落差を、思わず感じてしまう。そこで、今回のコラムでは、現場で見るいくつかの動きを交えながら、日本の政治中枢の危機管理能力をどう高めたらいいのか、考えてみたいと思う。

まず、東電福島原発事故当時の首相官邸の危機管理能力を厳しく問うたのが、民間の専門家でつくる「福島原発事故独立検証委会」(一般財団法人・日本再建イニシアティブ刊)が最近、発表した調査・検証報告書だ。400ページにのぼる分厚い報告書だが、なかなか読みごたえがある。ぜひ、一読をお勧めする。

福島原発事故を調査・検証した民間事故調の報告書は読みごたえある

この委員会は、政府事故調、それに政府から独立して独自調査のために超党派の議員立法でつくられた国会事故調と並ぶもので、俗に民間事故調と呼ばれている。朝日新聞主筆を経て現在、日本再建イニシアティブの理事長を務める船橋洋一さんが北澤宏一前科学技術振興財団理事長らに働きかけて、この民間事故調を立ち上げた。北澤委員長を軸に野中郁次郎一橋大名誉教授ら5氏の委員を交えた6人委員会だ。

問題の首相官邸能力に関しては、野中さんが中心になって調査・検証を行っているので、そのレポート「現実直視を欠いた政府の危機管理」という野中さん自身の問題提起レポートを引用させていただこう。

危機管理分析の野中さん
「情報伝達の階層が多すぎて組織的連携の遅れ」

それによると、閉鎖的なコミュニティがもたらした知の劣化が、福島第1原発事故による人災を引き起こした、という。かつての日本軍を含めた組織の失敗の研究では第1人者の野中さんらしい言い方だが、首相官邸チームにも、東電側にも危機管対応リーダーシップと覚悟が欠如し十分な機能が果たせなかった、という。

菅首相(当時)は現場感覚抜きのバーチャルな分析に終始。しかも現場との接点であった首相官邸地下の危機管理センターと、首相のいる官邸5階との間でリアルな共感の場がなかった。情報伝達の階層が多すぎて、組織的な連携の遅れ、データ隠ぺいや相互不信を生んだ。菅首相は、特定の側近を重視し、衆知を集めて全体を判断する迅速性も発揮できなかった、という。トップリーダーに決定的な指導力、組織力が欠けていたのだ。

企業年金消失させたAIJ許せない 旧社保庁OBも関与、基金巻き込む

かなりの中小企業の人たちが今、独立系投資顧問会社の許せない行動で、一気に苦しい状況に追い込まれている。そればかりか、それら企業加入の厚生年金基金の破たんリスクが表面化する可能性もあって、年金が受け取れるかどうかも危うい。さらに、加入の中小企業自体が損失穴埋め負担に耐え切れず、連鎖倒産に巻き込まれかねない、というのだ。
連日のメディア報道で、ご存じだろう。日経新聞が1月24日付の朝刊でスクープした「年金2000億円が大半消失 AIJ投資顧問『高収益』と虚偽 100超す企業から受託 金融庁が業務停止命令へ」の話だ。いろいろなことが明るみに出てきて、とても看過できない話ばかりなので、今回のコラムで取り上げたい。

「消えた年金」は旧社保庁の年金保険料入力ミスでも発生

「消えた年金」というのは、今回に限ったことでない。われわれの記憶にいまだに鮮明なのは、旧自民党政権末期の2007年に発覚した社会保険庁(当時、以下社保庁、現日本年金機構)での膨大な年金記録の消失がまさにそれだ。あれもひどかった。国民年金など公的年金保険料の納付記録漏れが5000万件も見つかり、その原因が何と担当者の単純な入力ミスなどだったからだ。このずさんな人的管理をしていた旧社保庁に対する国民の怒りが当時、爆発したのは言うまでもない。いまだに解決できず、尾を引いており、旧社保庁は理解しがたい問題官庁だ。

そこで本題だが、今回の最大の元凶はAIJ投資顧問で、大いに問題にすべきであることは間違いない。しかし、その前に、今回の問題の陰で、旧社保庁のOBが関与していたばかりか、彼らが、民間の厚生年金基金に天下った同じ旧社保庁の後輩OBに対しAIJ投資顧問への年金の運用委託を巧みに勧誘して、事態を悪化させたことが判明している。そこで、話の流れとして、まず、こちらから問題を追ってみたい。

AIJは年金基金に影響力行使できる旧社保庁OBと
コンサルティング契約

複数のメディアがタイミングよく、問題の旧社保庁OB関与の話を報じているので、それを引用させていただこう。その報道によると、旧社保庁OBは退官後、よくあるパターンだが、ある厚生年金基金に常務理事で天下りした。そのOBは年金基金の運用にかかわり、ヘッジファンド投資も手掛けた。8年ほどで基金を退任後、在任中に培った投資運用のノウハウを活用するため、コンサルティングビジネスにかかわった。

ここから問題が始まる。AIJ投資顧問(以下AIJ)が見逃さなかった。旧社保庁時代のキャリア、それに厚生年金基金時代の投資運用ノウハウは活用できると判断したのだ。そこでコンサルティング契約を結び、厚生年金基金の豊富な年金資金をAIJへの運用委託するように依頼した。コンサルタントは、同じ旧社保庁の後輩OBが天下った数多くの厚生年金基金に対し、セミナーなどの場を通じてAIJへの運用委託を強力に勧めた。

旧社保庁OBが先輩―後輩関係を活用、
厚生年金基金に運用委託させる

旧社保庁時代からの先輩―後輩の関係は意外に強い。報道によると、天下りポストを得ながらも勉強していなかった後輩OBたちにとっては、この先輩OBの巧みな勧誘に違和感を持たず、巨額の年金基金を躊躇なくAIJに運用委託する手続きをとった、という。
厚生労働省によると、旧社保庁の幹部23人が最近11年間で、さまざまな企業のかかわる厚生年金基金に天下っていた、というから、AIJとコンサルティング契約を結んだ先輩OBにとっては、宝の山同然だったのだろう。

もう1つ、厚生労働省がメディアに明らかにした事実によると、AIJに運用委託していた厚生年金基金は何と54もの数にのぼった、という。これまた驚きだ。何のことはない。「消えた年金」に旧社保庁OBが加担して、コンサルティング報酬を得ていたのだから罪深い話だ。

エルピーダ破たんは製造業全体のテーマ 韓国や新興アジアとの競争に勝つ対策を

 半導体大手のエルピーダメモリが2月27日、突然、4480億円の巨額負債を背負って経営が破たん、東京地裁に会社更生法の適用申請を行った、というニュースを聞いて、思わず耳を疑った。なにしろ、パソコンや携帯電話などのエレクトロニクス製品に必須と言われる半導体メモリーのうち、DRAM(随時読み出しや書き込みを行える汎用性の高い半導体メモリー)では日本でただ1社のメーカーのうえ、世界第3位の企業の突然の破たんなのだから、ただただ驚きだ。
メディアの世界に何度も登場し、半導体の世界の話に及ぶと力強いメッセージ発信で人気もあった坂本幸雄社長。テレビに映った坂本社長が一転、東京証券取引所の記者会見で深々と頭を下げて、破たん理由や今後の再建取り組みに関して必死で説明する姿は、往時からみると、想像もできない姿で、何とも痛々しかった。さぞや無念だったことだろう。改めて、競争の激しい半導体メモリーの世界のすさまじさを見る思いだった。

日立など3社半導体DRAM部門を統合した技術力ある企業なのに…

とはいえ、オリンパスの時と同様、時代刺激人ジャーナリストの立場でなぜ、なぜという疑問がいろいろ湧く。なにしろ、エルピーダメモリは日立製作所、NEC、そして、あとになって三菱電機の半導体部門が加わって統合した企業だ。DRAMの半導体メモリーでは、日本でただ1つのメーカーでもあり、技術力という点でも群を抜いていたはず。

まさか大手3社の半導体部門が統合したものの、互いの大組織病の悪い部分が出たとも思えないし、半導体分野では長い経験を持つ坂本社長の経営手腕に疑問符がつくような状況でもなかったはず。それよりも、問題なのは、エルピーダメモリが2009年、リーマンショック後に半導体メモリー需要が落ち込む中で、厳しい競争を強いられていた際、経済産業省主導で、改正産業再生法を背景に公的資金の注入を受けた。その公的支援を受けた企業が、産業再生という大義名分にもかかわらず、なぜわずか3年で会社更生法の申請をせざるを得ない事態になったのかだ。やはり、なぜなのかと思ってしまう。

坂本社長「ライバル韓国に技術開発で立ち遅れ為替でも
競争力失った」

坂本社長が記者会見で、こう述べている。「半導体の日本勢のシェアがピーク時の70%から15%にまで落ち込んでしまった。最大の問題は、ライバルの韓国に勝つための日本の技術開発が遅れたこと、為替が円高に振れたため、韓国メーカーがウォン安を武器に攻勢を強め、日本側は為替面での競争力も失ったことなどが原因だ」と。坂本社長によると、この1年の円高にシフトした為替変動で競争力を失った。為替変動の大きさは、1企業の努力ではカバーしきれない、という。

今後の再建見通しに関して、坂本社長は会見で、現在進めていた米マイクロン・テクノロジーや台湾の南亜科技の2つの半導体大手企業との資本業務提携交渉次第としたうえで、「何としても再建したい。DRAMで生き残るには30%シェアの確保だ。必要な投資額は年間400億円ほど。技術開発を加速させ、韓国がつくっていないものをつくる」という。

277億円の国民負担が発生すれば追加の公的資金注入は到底無理

今回の経営破たんで公的資金のうち277億円が回収困難となり、産業再生のために政策金融で道筋をつけたはずのものが生かされなかった。そればかりか税金で損失補てんをせざるを得ない。率直に言って、今の財政状況のもとで、さすがに、追加で公的資金を、ということはまず無理だろう。エルピーダメモリとしては、何としても独自に、必死の再建努力をめざすしか、道がない。

坂本社長が最大の期待を抱いていた米半導体大手、マイクロン・テクノロジーの社長が自ら操縦する飛行機の事故で急死したため、交渉が頓挫しているのも不運といえば不運だ。ただ、米マイクロン社も、経営トップの不慮の事故とはいえ、マネージメントは動き続けねばならない。その新経営陣が、巨額の債務を背負って経営破たんしたエルピーダメモリとの資本提携に踏み切れるか、といえば、正直、非常に厳しいだろう。

日本の製造業には今が試練の時 超円高嘆くよりも構造問題に目を

エレクトロニクス、自動車など日本の成長を底上げしてきた輸出競争力あるものづくり産業群の企業決算が最近、急速に悪化したことをきっかけに、メディアの現場報道は危機感をあおっている。主要な新聞の経済面の見出しを拾い出しても、おどろおどろしい表現が目立つ。「ものづくり大国の危機 製造業決算総崩れ 技術優位性にかげり」(読売新聞)、「電機産業 興亡の岐路 世界市場 主導権失う 生き残りをかけ事業再編成を」(日経新聞)といった新聞記事の見出しがそれだ。

超円高などは過去に何度も経験、
むしろ足元揺るがす構造変化の見極め重要

確かに、これら輸出産業の「めぐる情勢」を見た場合、為替1つとっても、デフレにあえぐ日本経済の実体とかけ離れたレベルでの円高によって、否応なしに価格競争力がもぎとられている。輸出先市場の欧州や米国の先進国市場が金融システム不安による経済失速のあおりで輸出額の伸びが確保できない。東日本大震災やタイ洪水などでものづくりの現場での、いわゆるサプライチェーンが寸断された。また、技術開発力の力が落ちたのか、世界の市場シェアをとれる決定的な新製品を生み出せないことなども重なっている。

しかし、こうした業績や収益の悪化はいずれも、過去に何度かあったことで、総悲観に陥る話ではないはず。極端な話、たとえば為替1つとっても、時計の振り子と同じで、円高の行き過ぎの反動がいずれ外国為替市場にやってきて、円安に大きく逆振れするリスクが否定できない。また、欧米経済などがダウンサイドリスクを抱えて、このままズルズルと奈落の底へ落ち込んでいくとも思えない。そういった意味で、一喜一憂する必要はない。むしろ、製造業の将来を揺るがす構造問題がないかどうかの見極めこそが、企業経営に課せられた課題だ。そこへの対応を怠れば、それこそ奈落の底に落ち込むことになると思う。

旺盛な内需消費市場にさまざまな問題、
優れもの企業が消耗戦からどう脱却?

そこで、今回は、前回コラムで何も手を打たなければ超人口減少社会に陥るリスクにからめて、日本の製造業、ものづくり産業に構造問題があるとすれば、どういったものなのか、ぜひテーマにしてみたい。

私からすれば、日本の製造業にはさまざまな課題があり、それぞれの企業がどう課題解決に取り組むか、成功モデル事例をもとに、文字どおりの企業革新力で取り組んでほしい。日本の製造業はまだまだ潜在的なパワーを持っており、衰退の淵にあるなどとは思っていない。ただ、現実問題として、人口減少に伴う内需の先細りに加えて、内需そのものが成熟社会の消費構造に新たな問題が出てきていること、そうした旺盛な内需とは違った日本の市場構造のもとで、優れものの企業が、エネルギーをすり減らして消耗戦を繰り広げるリスクの問題が出てきている。まず、この現実にどう対処すべきかが課題だと思う。

蛭田さん
「成功体験もとに1億人市場での勝利にとどまっていてはダメだ」

ずっと以前の89回コラムで取り上げた旭化成前社長の蛭田史郎さんの話を、ご記憶かどうか、わからないが、今回の私の問題提起にぴったりなので、再度、ご紹介したい。蛭田さんが経済産業研究所セミナーで「ポートフォリオ転換の経営から見たケミカル産業の将来」という話をされたのを、たまたま聞くチャンスがあって、経済ジャーナリストの感覚から言って、いま日本の製造業が直面する問題はこれだ、と思った。

蛭田さんは「これまでの日本の産業の成功パターンは、1億人のうるさ型消費人口の国内市場で勝ち抜き、それを武器に欧米中心の10億人の世界の商品市場に進出しシェアを勝ち取ってきた」という。確かに、そのとおり。しかし蛭田さんは「今や世界は新興国の消費購買力を含めた40億人の市場を軸に急拡大しているのに、日本産業は過去の成功体験をもとに1億人市場での勝利にとどまっていて、経営資源のすべてをグローバル基準で対応する態勢にない」と指摘した。今や当たり前ともいえるが、なかなか鋭い分析だ。

蛭田さんはグローバル市場でシェアとるように事業の枠組み替えを提案

そして、ポートフォリオ転換の経営、というセミナーでのテーマにからめて、蛭田さんは、「日本産業が1億人の日本国内市場で勝ってもドメスティックな勝利にすぎない。ポートフォリオ転換の経営からすれば、今や40億人のグローバル市場を対象に、すべての事業の枠組みを組み替え、世界でのシェアをとる戦略展開が必要だ」というのだ。

率直に言って、企業にはそれぞれ固有の特性があり、すべての企業がこのビジネスモデルで一気に地方区や国内区から一気に、国際区に行ってグローバル競争の場でシェアをとる、という戦略転換が可能かどうかむずかしいだろう。しかし間違いなく、大きな流れはグローバル競争に比重をかけざるを得ない。あとは個別企業のマネージメントの判断だ。

私が、蛭田さんの話の中で、とても興味を持ったのは「日本産業の過去の成功パターンが、1億人のうるさ型消費人口の国内市場で勝ち抜き、それを武器に欧米中心の10億人の世界の商品市場に進出してシェアを勝ち取ってきたが、もはや、その成功モデルにこだわっている時代でない」という部分だ。

先細る内需に1業種5、6社がしがみつくように消耗戦の競争は考えもの

日本の製造業の現状を見た場合、エレクトロニクスしかり、自動車しかり、化学しかり、どの産業を見ても、5ないし6つの企業がひしめき合って熾烈な競争を繰り広げている。
いずれも優れものの企業ばかりで、「わが社だけは勝ち残る、生き残る」と言いながら、激しい競争に巻き込まれている。
しかも、その競争は、バブル崩壊後の失われた10年、そして20年と長く続くデフレ状況のもとで、表現悪いが、ユニクロ型、あるいは牛丼チェーン型の低価格競争に、まるで蟻地獄のように吸い込まれてしまい、利益を上げきれない不毛の闘いに終始してしまっている。

言うまでもないことだが、中国など新興国で低い賃金労働でつくられた製品が日本市場に輸入され、それが国内企業の製品価格を押し下げていることも大きい。日本のデザインを中国などに持ち込み低コストの現地生産でつくりあげた製品を日本に輸出するユニクロのようなビジネス展開の企業の影響もあるが、中国などの現地企業も、日本の成熟市場をターゲットに安値の輸出攻勢をかけていることがさらに競争に拍車をかけている。日本の製造業企業のほとんどがこの競争に巻き込まれて経営体力をすり減らしてしまうジレンマに陥っているのが現実だ。

1億人成熟市場の消費構造が変化、
大量生産・大量消費型企業には合わない

そればかりでない。日本国内の1億人の内需市場の消費構造にも大きな問題が生じてきた。当然、おわかりだと思うが、高齢化の「化」がとれて、高齢社会化するに従って、大半の高齢層は身の回りにさまざまなものを持っているため、仮にモノに対する購買意欲が出ても、それは買い替え需要でしかない。新製品が出ても、自分には無関係とばかり、見向きもしないケースも多い。

言ってみれば典型的な成熟社会の消費構造に変わりつつある。もちろん、医療や介護がらみで、新たな需要創出のチャンスがあるが、エレクトロニクスや自動車などの大量生産・大量消費を基軸にした企業にとっては、内需の先細りに加えて消費構造に大きな変化の出てきた日本の1億人市場に、いつまでも安住するということは考えにくい、ということをわかってきている。しかし、蛭田さんの問題指摘どおり、過去の成功体験もあって、まだ1億人という巨大な成熟市場の魅力にこだわっているのが現実だ。

かつては品質要求高い消費者に鍛えられて製品開発し
先進国市場でも評価

かつては、この1億人市場が企業にはプラスに働いた。品質要求が高い、また安全・安心を求める消費者のニーズにこたえて、企業側がさまざまな工夫をこらして製品開発を続けるうちに、その製品は着実に消費者の購買意欲をそそって着実に売り上げ増、利益増につながった。企業間での競争も好循環で、品質競争の競い合いがいつしか、海外、とりわけ先進国の成熟市場に輸出しても、需要増につながり、日本のブランド評価も得た。

一方で、新興国市場でも経済成長に伴う都市化、中間層の広がりで、これら品質の高い日本製品に対する需要が見込めた。新興国向けには同じブランド製品ながら、不必要な機能を外して、買い求めやすいように低価格で販売した。いわゆる先進国市場向けにハイエンド、新興国市場向けにはローエンドという価格政策でうまくすみわけができた。

アジア金融危機で1業種2社体制に切り替えた韓国の追い上げで
身動きとれず

この日本の製造業の枠組みに、大きくくさびを打ち込んだのがサムソンエレクトロニクスなどの韓国企業の攻勢だ。すでに以前のコラムでも取り上げたが、彼らは人口4800万人の狭い内需市場を見限って、むしろ経営資源の大半をグローバル市場に移し、ブランド戦略はじめさまざまなマーケッティング手法を使うのみならず、デジタル技術を巧みに活用して、進出先の現地市場にニーズに合う製品を独自に開発して、しかも低価格で売るというビジネスモデルで一気にグローバル市場のシェアを握った。

1997年のアジア金融危機で韓国経済が厳しい危機に陥った教訓のもとに、国家の産業政策の一環で、1業種2社体制に、いわゆる管理淘汰し、逆に過当競争体質に歯止めをかけた。今では、エレクトロニクスで言えば、サムスンエレクトロニクスとLGの2社が国内、そしてグローバル市場の双方でうまく競争しながらプラス志向で活動している。

日本は1億人市場にいつまで安住できるか、
グローバル型、国内型で棲み分け?

議論仲間のある大学教授の友人は「韓国企業の1業種2社体制のような大胆な管理淘汰の産業政策は、日本では到底とりえない。経済産業省がそんなことでも計画しようものなら、総スカンだし、今の経済産業省の行政体質からしても、とる気がない」という。 そして、その友人教授は「それよりも、日本の製造業が、どの企業も自分だけ別とタカをくくって、この1億人市場に安住したままでいるリスクだ。韓国企業みたいに、4800万の人口ならば、狭い内需ということで否応なしに国際区に活路を求めるが、日本企業にとっては、今や1億人市場が中途半端に捨てきれないのが問題だ」という。

私は、蛭田さんの指摘したように、グローバル市場に大きく経営の舵を切る企業が必ず必要になってくるのは間違いないと思う。しかし同時に、その企業の特性からして、徹底した国内市場重視の経営で行く国内型企業があってもいい。いずれにしても、表現がよくないが、管理淘汰はあり得ないにしても、1業種5、6社も存在する状態がいつまでも続くわけがなく、どこかで厳しい自然淘汰の時期が来る可能性がある。その時までに、経営がどういった選択をするかだろうか。厳しい時代に入ったことだけは間違いない。

異常高騰の原油価格を反落に追い込む「チャンス」 投機マネー規制や中国など新興経済国の需要減が引き金に

どう考えても今の原油価格の高騰は異常過ぎる。誰もが、そう思いながらも、ここ数年、あれよあれよという間に、原油の価格はぐんぐん上昇し、日本のみならず世界経済に大きな打撃を与えてきた。株式の世界で「山高ければ谷深し」という言葉があるように、行き過ぎの反動は必ず出てくるはずだ。原油を高値づかみしている投機筋にとっても、もしや暴落、という高所恐怖症に陥る状況があるのでないだろうか。
そういった矢先、最近、ニューヨーク原油先物市場(NYMEX)の投機マネーに異変が起きつつある。米当局の規制の動きに対して、投機マネーに動揺や狼狽が見え、結果的に、高騰原油に反落の動きが出てきたのだ。GOOD NEWSと言っていい。

当局の規制の動きというのは、具体的には、米商品先物取引委員会(CFTC)が原油先物市場での投機マネーの監視強化に乗り出す一方で、米議会は原油ビジネスに直接関係しない投資家の原油先物取引を制限する動きに出たこと、また米証券取引委員会(SEC)も株式市場に対する空売り規制に踏み出すなど、当局がニラミをきかせたのだ。

ドル資金逃避恐れ規制に慎重だった米国が返信

これまで米国の当局は、規制を厳しくすると、米国からマネーが外へ逃避、流出してしまいかねず、それはそのままドル下落を誘発しかねない、との判断から、今年の洞爺湖サミット前の財務大臣会合時にも、欧州などからの投機マネー規制要求に対し米国は慎重だった。それが一転、規制強化に踏み出したのは、原油高騰の影響が米国経済にボディブローとなってきたからだとみていい。それにしても、動き出すと米国の当局の行動は素早い。スピードの時代に対応したもので、日本の当局も、こういった点では見習うべきだ。

ただ、原油先物市場を食い物にしていた投機マネーもしたたかであり、抜け道を早くも準備しているかもしれない。規制の手を緩めず、矢継ぎ早に行うことを期待したい。

この投機マネーの動揺に揺さぶりをかけるもう1つの材料がある。需要が旺盛と言われた中国やインドの新興経済国でも最近、高値原油に対して需要減退の動きがあるのだ。中国などの需要が堅調で、先行き値崩れがないと見て強気の投資をしていた投機マネーも、基本的にはマネーを大事にするという意味では保守的なのだ。もし中国などの先行き需要が減退するとなれば、これら投機マネーが、あわてて先物取引を手仕舞う可能性もあり得る。これも高騰原油反落のチャンスといえる。

この新興経済国での需要減退というのは、高騰原油の輸入に外貨支払いが多くなり、インドでは自国通貨も下落、あおりで輸入物価の値上がりを招いて需要がダウンし始めている。また中国では、政府が国民からの反発覚悟でガソリン価格の18%値上げを行った。これまで財政で必需品物資の価格を財政補助で補てんしていたが、次第に限界が出てきたのだ。原油輸入国に転落したインドネシアも、この財政補てんでまかない切れずに苦しんでいるのを見ても、中国にも同じ問題が起きる可能性さえあるのだ。

ここで、ぜひ申し上げたいのは、2000年代に入っての原油高騰をもたらしたのは、中国など新興経済国の旺盛な需要もあったが、投機的マネーという、国籍もない、国家的な戦略なども持ち合わせていない、ただ利益だけを求めて動き回る曲者マネー集団が値上げを演出していることだ。

08年に入ってからは、極めて荒っぽい値動きで、わずか1週間で5ドル、10ドルといった跳ね上がり方をしている。需給要因がメインであれば、時間をかけて、小刻みに、じっくりと値固めされていくものだ。そうでない荒っぽい値動きは、間違いなく投機がもたらす典型パターンだからだ。

米金融不安で行き場のないマネーが原油などの商品市場に

なぜ、原油先物市場に投機マネーが入り込んだのか。すでにご存じのとおり、米サブプライム・ローン・ショックをきっかけに、米国内に金融不安が広がっており、投機マネーはすっかり行き場を失い、金融市場から商品市場に舞台を移したのだ。穀物などの商品市場も、格好の投機マネーの利益ねん出の場になったのだ。この中にはヘッジファンドだけでなく、年金基金といった長期の資金運用をめざすファンドも加わっている。

「時代刺激人」の立場で言わせてもらえば、原油価格の高騰で、それに影響を受けるさまざまなモノやサービスの価格がいったいどうなるのか、どこで落ちつくのか、いわゆる新価格体系の落ちつきどころがまったく読めない、ということが最大の問題だ、と思う。

7月15日に、日本国内の20万隻の漁船が燃料費高騰に伴う廃業危機に抗議する形で一斉休漁したのは、よく理解できる。政治の問題として、短期的かつ一時的に何らかの燃費補助などを検討せざるを得ないだろう。

しかし、それを始めると、農業の現場のみならずトラック運送業、果ては製造業全般、サービス流通業までと、際限ない対策が求められることになってしまう。減税で対処するのか、財政赤字拡大を一時的に覚悟してでもやるのかどうか、といった問題も出てくる。やはりグローバルなところで、原油高騰をもたらす投機マネーを抑えることが先決だ。

それに、代替エネルギー、新エネルギー開発も大胆に進めるべきだろう。

マネー資本主義に歯止めかけ「新価格体系」の落ちつき所を探れ

ここまで申し上げれば、こうした世界中を混乱に陥れている投機マネーに何らかの歯止め策、規制を加えることに賛成いただけるはずだ。問題はどういった対策があるのかだ。

1つは米当局が重い腰をあげた厳しい監視、それに原油取引と無関係の企業などの思惑的な原油取引に規制を加えること、ヘッジファンドなどに情報開示を求めることだろう。

また、サブプライムローン関連でのさまざまな債権の証券化商品が金融システム不安をもたらした「学習効果」を踏まえ、投機的な動きを助長する金融派生商品にブレーキをかけることも必要だ。

マネー資本主義といわれる思惑で動く投機マネーに対し世界中の当局が歯止めをかけること、それによって原油価格の高騰に伴う新価格体系の落ち着きどころを探ることだ。状況を放置することは許されない。企業経営の現場におられるビジネスリーダーの方々も同じ気持でないだろうか。

 

業界の革新!「私どものお店は、潜在顧客を開拓するんだ」の創造性

蟹瀬ピーアークホールディングスは、パチンコホールを運営している会社です。都内を中心に38店舗、去年の売り上げはおよそ1,500億円に上っているんだそうですね。庄司さんは経歴拝見すると、銀行マンからこのパチンコホールの経営に入られた。大変異色ですよね?

庄司そうですね。少数派、かなり少数派です。

蟹瀬そういう中で、経営者として心掛けていることというのは、どういうことございますか?

業態改革

庄司私どもは、パチンコの業態改革をしようということで、新しい、明るく楽しいパチンコをつくっていこうと思っています。そういう中で、企業としては普通の企業、いわゆる、将来はIP を目指す会社として、そういった会社づくりを心掛けて、お客さん、顧客志向で、新しい業態創造をしたいと思っております。

ピーアークホールディングス株式会社は、パチンコホールを運営。従来のパチンコホールの持つイメージを打ち破り、禁煙席やプリペイドカードの導入など、時代の先を行くコンセプトを次々と打ち出し注目を集めている。現在運営している店舗は38、東京、埼玉、千葉、神奈川など関東に展開している。父親から会社を受け継いだ庄司社長は、常に新しいビジネスモデルにチャレンジして会社を急成長させた。昨年の連結売上高はおよそ1,500億年。パチンコホール業界のリーディングカンパニーを目指して、日々挑戦し続けている。

1951年、東京都台東区に生まれます。1967年、「辰巳屋靴店」パチンコ店経営を始めます。1975年、青山学院大学経営学部卒業、三和銀行入行。そして1978年、三和銀行退行。株式会社辰巳に入社しました。

蟹瀬ご両親は東京の下町で靴屋さんをやってらっしゃった?

庄司はい。

少年時代

庄司台東区谷中(やなか)という所は本当に下町の下町です。確か至近の日暮里(にっぽり)とか下町情緒の中で、しかもかなり近所のリレーション、いわゆる商売人と生活が密接に、一対になった生活です。

蟹瀬いい所ですよね。

庄司ええ。本当に夫婦で親父とお袋が靴の小売りをやって、ほとんど社員も、社員というか従業員というか住み込みの社員も私と一緒に同じ部屋で寝泊まりしたり、食事も一緒。隣の、確か焼き鳥屋さんとかのご主人に怒られたり。それから隣近所の何々ちゃんとは小学校、中学校一緒に行ったり、本当に地域のコミュニケーションの中で商売をやっていると。

蟹瀬その頃の庄司少年というのはどんな少年だったんですか?

庄司私は、ある意味ではそういった商店の中でリレーションを楽しんでましたね。隣のおじさんに怒られたり、おばさんに駄菓子をもらったり。そういう中で非常に私自身の考えに刷り込まれているのは、やっぱり商いのリレーション、地域密着、これがものすごく商売やるときの楽しみと感じてます。

蟹瀬そんな中で、お父さまがこのパチンコの業界へ仕事を広げていかれたわけですね?

庄司はい。

蟹瀬それに対しては、お子さんのときはどういう反応だったんですか?

庄司それはかなり後ですが、最初はとにかく靴屋さんというのは割と小さいですから、シャッターを叩かれて、起こされて、大体起こされるシーズンが運動会のシーズン。うちの子供に新しい運動靴を……。

蟹瀬買いたいと。

庄司はい。たった180円か160円の靴を一足売るのに、お袋が飛び上がって喜んでお客さんと商売するんですね。私もそれはすごく不思議に思っているんですが、これがやっぱり商いの喜び。で、帰りにお客さまが寄ってきて「1等賞取った」と。「おまえのこの靴のおかげで1等賞取った」と、このコミュニケーションが、売り手と買い手の、やはり商いの喜びなんだなと思いました。
 そういった谷中商店街、谷中の小さな商店街で閉塞感もあります。多分父は若い店主として、もっと大きな規模拡大を狙っていたんだと。しかしながら商店街のいろんな活動で制約をされる、従って次の新天地をかなり狙っていました。そういったときに、足立区に新しい新天地として移りました。

蟹瀬なるほど。

庄司その中の一環としてパチンコ店もやってみようということになったのだと思います。私は全然無関心で家族も大反対。お袋なんかは「離婚する」と言いだしたぐらい大反対です。しかし思い切ってやってみて、残念ながら、はやったパチンコだとはあまり言い難い雰囲気でしたが、やったことは大したもんだと私も思ってます。

蟹瀬そんな中、青山学院の、これ経営学部のほうへ進まれた。やはりご自身もそういう経営に携わりたいという思いというのは強かったんですか?

庄司そうですね。

常識破り!「前例があるといったら全部やめる」のパワー

蟹瀬鈴木さんが会長を務めるエステーは、今年8月にエステー化学から社名を変更しましてエステーとなりました。開発のエステーと言われるぐらいで、消臭芳香剤など数々のヒット商品を生んでいるんですね。まず最初にお伺いしたいなと思ったんですけども、そのアイデアの源泉、次から次に出てきますよね。どのあたりにあるんですか?

やわらかあたまをつくる

鈴木やわらかあたまをつくることなんです。ですから真面目すぎるのもまずいんです。で、不真面目でも駄目なんです。ひ
真面目ぐらいでですね。ですから社内でも冗談だとか大ぼらが通じるような会社じゃないと駄目なんです。

蟹瀬だけどほらばかり吹いてたら駄目だと。

鈴木ええ、それはほら吹きですから。

東京新宿区に本社があるエステー、創業は1946年、防虫剤や家庭用手袋の製造からスタート、1971年に消臭芳香剤『エアーシャルダン』でエアケアの分野に進出、その後、湿気ケア、ホームケアなどの分野で数々のヒット商品を生んでいる。
1991年東証一部上場、2007年8月に社名が『エステー』に変わり、『ここちよさへの新工夫。』を掲げ、世にないことをやる会社として新たな一歩を踏み出した。売上高は452億円。
1935年、東京都渋谷区に生まれます。1954年、東京都立新宿高等学校卒業、1959年、一橋大学商学部卒業、日本生命保険相互会社に入社しました。

蟹瀬今日、鈴木会長とお会いできるというので、我が家の中にどのぐらいエステーの商品があるか、ちょっと見て回ったんですけど結構ありますね。

鈴木うれしいですね。

蟹瀬そういうふうに、やっぱり日用品って普段気が付かないんだけどたくさん身の回りにあるというものが多い。

津島そうなんです。

蟹瀬そういうものをやっぱり作ってらっしゃるというのは、僕は素晴らしいなと思うんですけれども、また生い立ちからこの番組はお伺いするのですが、ご家庭もやはりご商売をなさってたんでしょうか?

家庭環境

鈴木ええ。私の家業は東京の原宿で、今でいうディスカウンターやってたんですね。

蟹瀬日用品をやっぱり売っておられた?

鈴木そうです。私の父がなんとか成功者の部類に入ったところで戦争で爆撃されて、また無一文になったと、こういうことでございます。

蟹瀬そうすると、お子さんの頃の記憶というのはやっぱり結構暗いものが多いんですか?

鈴木ええ。真っ暗けと言ったほうがいいと思います。ちょうど今のイラクの子どもたちを思うと胸が痛いですね。小学校1年のとき太平洋戦争が始まって、3年、4年生と縁故疎開しまして、帰ってきて父が掘っ建て小屋つくって私が唯一の働き手で売り子でして、5年生6年生、青空教室と。それから新制中学第1回生でこれまた青空教室と、学校行ったことないですね。

蟹瀬要するにあまり勉強してなかったという。

鈴木そうです、学校なし。

蟹瀬勉強する場所がなかったということですよね。

鈴木場所なし、それから教科書なし、先生もいない、食べるものもない。

蟹瀬そのときに、そのご商売というか売られていたわけですね、何かを。でも売るものって仕入れてこなければいけないですよね、どういうふうになさったんでしょう?

鈴木父がいろいろな所に行って仕入れてくるんです。で、私は雨戸にそれ並べて、要するに露店ですよ。露店やって食いつないでました。

蟹瀬どうなんでしょう、今振り返って、その子どもの頃に学んで、今のお仕事にも影響を与えていることとかものとかというのはありますかね?

「やっぱり夢を発信する企業にしたい」。通信販売にかけた男の気迫。

蟹瀬ジャパネットたかたは、高田社長自らが出演するテレビショッピングをはじめとした、通信販売で有名です。皆さんご存じだと思いますけども、やっぱりものを販売する仕事をしていて、その販売の一種の哲学みたいなものというのはおそらくお持ちだと思うのですが、まずそれをちょっとお聞かせ願えますか?

感動を伝える

高田結構難しいんですよね、でも。販売というのは、販売する人と買っていただく方というのがいらっしゃいますから、やっぱり心で伝えるという。で、伝えるということも、ただ単に伝えるのではなくやっぱり感動を伝える。その感動を通してお客さまとわれわれが一緒になったときに初めて販売につながるというふうに思っているんですけど、やっぱり感動、ショッピングという、これが私の一番販売の基本だと考えています。

長崎県佐世保市、ここに本社があるジャパネットたかたは、ラジオショッピングやテレビショッピング、新聞折込やダイレクトメール、インターネットなど、さまざまなメディアで通信販売を行っている。高田社長や社員たちが出演するスタイルで知られている。商品の向こうにある感動や楽しさを提供、商品の仕入れ、番組制作、注文受付、発送やアフターフォローまで、全て自社内で業務をするという自前主義を貫いている。売上高は1,080億円を超える。
1948年、長崎県平戸市に生まれます。1964年、長崎県立猶興館高等学校入学。1967年、大阪経済大学経済学部入学。1971年、大阪経済大学経済学部卒業、株式会社阪村(さかむら)機会製作所入社。そして1972年、西ドイツ(当時)デュッセルドルフ駐在となります。

蟹瀬高田さんといいますと、日本国中知らない方がいらっしゃらないのではないかという気がするんですが、コミュニケーションのエキスパートですよね。なんか犬とも目で話ができるというお話伺いました。

高田そうですよね。犬はかわいいですね。もうミニチュアダックスフンドも3歳なんですけど、本当犬は表情で分かりますね、何を言いたいかというのがですね。

蟹瀬バリー君という?

高田バリーです。本当にかわいいです、一緒に寝てますから。

蟹瀬そんな高田さんですけども、ご兄弟も結構多かったというお話伺ってますが。

少年時代

高田はい。私は四人兄弟で、私次男なんですね。で、長男、次男、三男がいまして、一番下に妹がいます、四人兄弟でございます。

蟹瀬お父さまは相当写真に凝っておられた?

高田ええ、凝ったというよりものすごく好きで、それが趣味がやっぱり高じて写真の道に父が入っていったと。で、母と二人で写真屋さんという、カメラ店というより写真屋さんって、皆、町の仲間が集まってくるというようなオールウェイズみたいなあんな感じですよね。

蟹瀬そうなんですか。そうすると、そこで育った高田少年、これは結構お茶目な人気者という感じだった?

高田いや、そんなじゃないですけど、やっぱり父の友達がしょっちゅう祭りのときに写真を撮って、それを展示して、写真をいかにしたらいい写真が撮れるかという、そのときに父が30代でしょうか、たくさん、多いときは30人40人集まってこられてましたから、そういう中でやっぱり育ちましたので、人見知りせずに結構かわいがられたのかな、という気はしますけどね。

蟹瀬いろんな人とそこでもまれてきたというの、あるでしょうね。お子さんの頃、これが一番好きだったというものあります?

高田子どもの頃ですか。そうですね……。

蟹瀬歌も相当お好きだったという話を聞いてますけど。

高田歌は本当好きだったんですよね。歌ってるというのも、私の父の弟、おじさんなんかが、やっぱり古い歌を歌ってましたので、私は私の年代に似つかわしくない古い歌がよく好きでですね。『上海帰りのリル』とか、本当にそういう軍歌でも、やっぱりすごく覚えてるんですね、今も、『青い山脈』とか。

蟹瀬一世代前の歌を。

高田そうです、一世代前の歌をよく、なんで覚えてるんだろうと言われ。だからカラオケやってますけど、古い歌はよく知ってるんですけど、最近の歌は知らないので困ってるんですけどね(笑)。

蟹瀬歌はずっと歌ってらっしゃったんでしょうが、それ以外にも興味おありだったものというと?