時代刺激人 Vol. 235
牧野 義司まきの よしじ
1943年大阪府生まれ。
いま政治不安が高まるタイで、経済にも影響が出てきて、先行きが大いに気になるが、経済自体は労働力不足が深刻で、失業率がわずか0.5%と完全雇用に近い状態だ。こんな話を聞かされたら、誰もが思わず身を乗り出して「本当なのか?」と聞き返すだろう。しかしこれは間違いない現実だ。
完全雇用という言葉は、率直に言って経済学の教科書の世界を除けば、ほとんどの国で厳しい雇用不安の現実が続いており、「死語」になった、と思っていた。中でも金融システム不安に苦しむ欧州スペイン、政治不安で混乱が続くエジプトは若者を中心に失業率が2ケタのひどさだ。それらからすれば新興アジアのタイの現実はすごいと言っていい。
そこで、今回から3回ほど、私が昨年11月にタイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマーのメコン経済圏諸国、それにシンガポールを取材した調査旅行の話をもとに、最近の情勢を補強取材して新興アジアの現場で何が起きているかを集中的にレポートしてみたい。
政治不安のタイは意外にも労働力不足で
失業率が0.5%の完全雇用状態
まず初回は、冒頭の完全雇用状態にあるタイで、現インラック政権が過去に政策的に打ち出した最低賃金引き上げが引き金になって、タイのみならずメコン経済圏全体にさまざまな問題をもたらしている点を取り上げよう。
日本では政府が民間企業の賃上げに政策的な介入など出来ず、むしろ社会政策的な意味合いで、賃金の下支えのために最低賃金額を決めているが、新興アジアの場合、日本と違って、政府の政策判断が企業現場に大きな影響を及ぼしている。
タイ政府が最低賃金水準を政策的に引き上げると、出稼ぎ労働の形でタイに集まっているカンボジア、ミャンマー、ラオスなどの国々の人たちの賃上げにつながり、それが起爆剤となって、各国に燎原(りょうげん)の火のごとく賃上げが波及する。ここ数年のタイ政府の連続的な最低賃金の引き上げで、メコン経済圏の経済が間違いなく活性化した。しかし半面で、同じメコン地域にさまざまな問題を引き起こしつつある。
タイ政権の最低賃金引き上げ政策が
労働者所得増を通じ個人消費拡大に寄与
現タイ政権のインラック首相は実兄のタクシン元首相時代からの方針である政権基盤の確立のための貧困層への政策優遇策、端的には農民の所得補てんのために、市場実勢を超えた価格でのコメの政府買い上げ、そして労働集約的な企業の労働者の所得確保のための最低賃金引き上げの政策を打ち出した。
当時、タイでの取材で聞いた話では、このうち、コメの高値買い上げは、財政負担を伴う上に政府米の在庫保管料の増大を通じて財政圧迫要因となって、政権側には重荷になっている。ところが、賃上げに関しては政権にプラスに働き、とくに労働集約的な産業・企業の多いタイで、賃上げが労働者の家計所得増を通じて個人消費の増加をもたらすと同時に、中間所得階層づくりにもつながった、という。
賃上げのプラス効果はそれにとどまらなかった。最低賃金引き上げが、全国一律実施の政策だったため、タイ北部などの農民のうち、出稼ぎ労働に出ている人たちにとっては、コメの買い上げに加えての出稼ぎでの賃上げで、家計にダブルのプラスに働いた。インラック政権にとっては、この点が政治的な狙いどころだったのだろう。
周辺国にも賃上げ連鎖をもたらしたが、
カンボジアでは政治不安を引き起こす
しかしタイの最低賃金引き上げ政策は、市場経済のもとで、すでに述べた周辺国への賃上げ連鎖を及ぼしたが、問題はそれにとどまらず、政治的な影響を与えてしまった。とくにカンボジアでは最低賃金引き上げをめぐって地元企業の現場でトラブルがエスカレートし、フン・セン政権を揺るがす問題に発展したのだ。
カンボジアで聞いた話では、フン・セン首相が昨年2013年7月の総選挙で、当時のタイの最低賃金(米国ドル換算で月額345ドル)に到底及ばないものの、月額61ドルから80ドルへの引き上げを公約したが、日本企業などが操業するプノンペン経済特区で女子工員確保のために月額100ドルを出す企業も出ていて、現地企業労組は最低賃金の一段引き上げを求めるデモを行い、それが先鋭化したため、政治不安に発展したという。
カンボジアのフン・セン政権にすればタイ政権は
『余計なことをしてくれた』?
最近、カンボジアの一部企業の労組関係者が、賃上げ要求デモで逮捕された人たちの釈放への協力を求めて、米国やフランスの現地大使館に駆け込もうとしたため、フン・セン政権が強硬姿勢に出て逮捕者を出す事態に及んだのもその1つだ。
ミャンマーはじめ他の国々でも似たような最低賃金引き上げを求める動きに発展し、それぞれの国で政治問題化しつつあることも事実だ。タイのインラック政権が保身のためにとった政策が市場経済化のもとで、周辺国に一気に波及し各国の政権を揺るがす問題に広がりつつあるというわけだ。
カンボジアのフン・セン政権からすれば、ASEAN各国は互いに加盟国の政治には不介入が原則のため、引き金となったタイのインラック政権に対しモノ申すことはできないが、「余計なことをしてくれた」といった反発が根強く存在するのは言うまでもない。
2015年のASEAN地域経済統合を前に、
ASEAN全体で共通課題にできるか
これらメコン経済圏諸国を含めたASEAN10か国は、2015年12月に地域経済統合、市場統合をスタートさせ、加盟国間の関税率の撤廃、通関業務のスムーズ化など経済的な国境を取り外し、ヒト、モノ、カネの自由な往来を促すことによって、新たに域内10か国、6億人による巨大地域経済圏をめざそうとしている。そんな重要な時に、1つの国の最低賃金引き上げ政策で、周辺国が右往左往している現実に対し、ASEAN全体でどう立ち向かうのか、共通課題にして何か対応策を講じる動きに出るのかどうかだ。
私個人は、ASEAN地域経済統合に弾みがつき、ASEANが新たな成長センターとなってくれることを期待すると同時に、日本がさまざまな分野で本格連携をすること、そして第233回コラムでも提案したASEANとの連携軸をもとに現代版三国志的な戦略展開を日本、米国、中国の3か国間で行うべきだと思っている。
タイの最低賃金引き上げが引き金になり
周辺国との生産ネットワーク化が進
私がメコン経済圏のタイ、カンボジア、ベトナムをつなぐ南部経済回廊を陸路、クルマで走り、いろいろ見聞したいくつかの問題のうち、地域横断的な生産ネットワーク化の問題も、今後、さらに広がりを見せることで、どういった展開になるかが関心事だ。
具体的に申し上げよう。タイの最低賃金引き上げ問題をきっかけに、企業経営の現場では賃金コストアップにどう対処するかが大きな経営課題となり、メコン経済圏で最大の産業集積地のタイでは、日本企業のみならずタイなどの企業が相対的に賃金レベルの低い周辺のカンボジア、ラオス、ミャンマーに分工場をつくる動きが活発化し、生産ネットワーク化が進んでいるのだ。
この動きはタイ、とくに首都バンコク周辺に立地している企業がここ1、2年ほどの間に急速にとった企業行動だ。バンコクには日本企業を中心にアジアで突出した産業集積があり、タイの地元企業を含めて、その集積メリットを享受しているが、タイ政府の連続的な最低賃金引き上げによって賃金コストが上昇したため、やむなく相対的に賃金が割安なカンボジアに分工場をつくり、1次、2次処理の工程をカンボジア工場に委ね、最終工程をタイの本来の工場に運び込んで完成品にするというやり方をとり始めた。もちろん、生産拠点をカンボジアやラオスなどに移す企業も出てきている。
水が高きから低きに流れるのと同じ行動パターンだが、私が現地カンボジアで出会った日本企業のみならずタイや中国の企業などもなだれ現象を起こすように、活発に取り組み始めていた。当然、生産ネットワークをいかに効率的に運営管理するか、分工場から親工場への半製品輸送の物流をどうするかなど、新たな問題が数多くあることがわかった。
カンボジア進出の日本企業は中国の反日ドラマの影響で
女子工員確保に苦労
カンボジアの首都プノンペン市内につくられた外国企業誘致のためのプノンペン経済特区に日本企業が進出し立地しているが、その1つ、自動車部品のワイヤハーネスなどを製造する住友電装の現地法人、SUMI(CAMBODIA) WIRING SYSTEMSの幹部から興味深い話を聞いた。
「女子工員の確保が最重要課題だ。プノンペン周辺では確保が難しく、遠隔地に足を運ばざるを得ず、ラオス国境地域まで工員募集の説明会などのためのキャラバン隊を2013年だけで10回、送り込んだ。しかし言い知れない苦労があった」という。
最初は、にわかに信じがたいことだったが、中国がカンボジアのローカルテレビで反日の映画やドラマを流し、それがカンボジア住民に「日本人は危険だ」というイメージが定着していたため、難航した。そこで、工場ですでに働く先輩女子工員や地域のリーダーの寺院の高僧らにバックアップしてもらい、日本不信の払しょくに努めたというのだ。
日本企業関係者
「カンボジアは外資100%OKの半面、電力インフラなどに課題
また、別の現地日本企業関係者は「カンボジア政府が、カンボジアに進出し立地する外資に対しては、現地企業との合弁を条件にするといった出資制限政策をとらず、100%外資の資本進出OKとしたので、タイでの賃金高騰対策でカンボジアへの立地企業が増えたことは事実だ。しかしカンボジアは電力を隣国ベトナムやタイに依存し自給体制が出来ていないうえに停電リスクあるなど、インフラ面で課題が山積し、トータルコストで見ると、進出メリットがあるかどうか、悩ましいところだ」と述べていた。
タイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマー、ラオスのメコン経済圏諸国は、南北、東西、そして南部経済回廊という形で地域横断的な国際道路網でつながっており、ASEANの地域経済統合で関税撤廃の「関税同盟」がうまく機能すれば、市場統合の効果はぐ~んと出てくるのだろうが、現実問題としては、日本企業関係者が言うように課題山積だ。このあたりが、すでに述べたように、まさに日本の出番だと思う。
中国リスクでASEANに生産拠点移しても
「タイ・プラス・ワン」の新たな課題
しかし、興味深いのは、中国経済に噴出するさまざまなリスクを回避するために、日本企業が、和製英語の「チャイナ・プラス・ワン」、つまり中国に生産拠点を残しながら賃金水準を含めて相対的に企業立地のメリットがあるタイやベトナムなどに分工場をつくって生産ネットワークを広げる動きをとった。企業によっては中国から生産拠点を親日国が多いASEANに移すところも出てきたが、今度は「タイ・プラス・ワン」という形で、産業集積メリットのあるタイだけでは新たなリスクが発生すると、今度はメコン経済圏諸国に生産ネットワークを広げざるを得なくなった。
しかし、くどいようだが、日本は、地域経済統合に踏み出すASEANとの本格連携によって、各国がこれまでの経済国境を取り外して市場統合に向かう際に抱えるさまざmな課題、とくに地域横断的なプロジェクトで協力し、日本の存在が不可欠だ、頼りになる兄貴分だ、という印象を植え付ける行動が大事だ、と思う。
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