時代刺激人 Vol. 36
牧野 義司まきの よしじ
1943年大阪府生まれ。
あっという間に新型インフルエンザが世界的な広がりを見せ、緊迫度を強めている。国連の世界保健機関(WHO)が4月29日夜、緊急会見し、世界的な感染拡大もあり得る、と警戒レベルを最悪レベル一歩手前の「フェーズ5」に引き上げると発表したためだ。目に見えないウイルスがどういった経路で感染拡大して最悪の場合、人の命を奪うのか、予測ができない。それだけに、パニックのような形で恐怖のシンドロームとなることだけは避けねばならず、危機管理策が重要課題となる。
そこで、今回は、新型インフルエンザの問題をきっかけに、いくつか危機管理のテーマが見えてきたので、それを考えてみよう。
意外に重要なのが今回のインフルエンザの呼称だ。当初、「豚インフルエンザ」という名称でメディアに出ていたが、ある日突然、新型インフルエンザに呼称が変わった。お気づきかどうかわからないが、朝日新聞が5月1日付の朝刊から、それまで使っていた「豚インフル」という呼称を新型インフルエンザに切り替えた。毎日新聞、読売新聞、日経新聞など主要新聞が数日前から足並みをそろえて変更していただけに、朝日新聞がいったい何にこだわりがあるのだろうか、と思っていたほどだ。
朝日新聞が5月1日付け朝刊から呼称変え新型インフルエンザに統一
朝日新聞2面の「ニュースがわからん! 新型インフルエンザって何?」で呼称変更した理由をやんわりと問答形式で書いている。参考になるので、そのやりとりを紹介しよう。 ――新型インフルエンザって、どういうものなの? A 人間が初めて出会うインフルエンザのウイルスで、人から人に感染するタイプだ ――豚インフルエンザという呼び方もあるみたいだね。 A 豚が持っていたウイルスが変化したものが、患者から見つかったからだ。インフルエンザは人だけでなく、鳥や豚など多くの動物が感染し、それぞれの動物になじんだものがある。豚は人と鳥の両方のウイルスに感染する性質があり、今回は豚の体内で、豚と人と鳥のウイルスの遺伝子が混ざったようだ。 ――厚労省は新型インフルエンザと言っている。豚インフルエンザじゃダメなの? A 厚労省が呼んでいるのは感染症予防法にもとづいた名前だ。ウイルス自体が最初に見つかったのは人間の患者で、豚ではないため、豚インフルエンザと呼ぶのは学術的にも正しくないのでないかと指摘している。 ――外国ではどう? A 米国でも農務長官が「病気が豚肉で伝染するとの誤解が広がっている」として、(風評被害がらみで)豚という言葉を使わないよう求めた。オバマ大統領も「H1N1」というウイルスの型の名前で呼んでいる。
イスラム教はコーランで豚を食べること禁止、宗教的トラブル避けるのは重要
豚インフルエンザの呼称が学術的に正しいかどうか、科学的な根拠がどうかは二の次にして、危機管理がらみで言えば、意外に無視できないのは宗教のからみだ。豚はイスラム教コーランで不浄のものとされ、忌み嫌われている。食べることは、もとより禁じられている。ユダヤ教も同じく豚を悪魔の化身のように扱っているが、イスラム教国のエジプトで、この新型インフルエンザ問題をきっかけに宗教対立に発展している。少数派のキリスト教系コプト教徒が飼育する豚35万頭を全部処分する、という政府命令をめぐって警官隊との激しい衝突騒ぎに発展したためだ。複雑な背景があるだけにウオッチが必要だ。
世界最大の宗教人口を擁するイスラム教からグローバルなレベルでクレームがついたりすれば、もっと事態はおおごとになりかねない。ご記憶だろうか。日本の大手食品メーカーがインドネシアで現地生産していた化学調味料に豚由来の酵素が入っていた問題で、イスラム教関係者から強い反発が出て、そのメーカーは一時、苦境に立たされたことがある。
こういったことを勘案すれば、センシティブな問題に首を突っ込む必要はない、との判断が厚生労働省のみならず国際機関でも出てくるのは当然だ。WHOはいち早く呼称を新型インフルエンザに統一した。日本の厚生労働省も同様だった。イスラム移民人口が多い欧州連合(EU)も最近、宗教の問題とは別に、EU域内の養豚、食肉産業に及ぼす風評被害を最小限に食い止めるため、という理由で、豚インフルエンザの呼称を止め、新型インフルエンザに統一しようと呼びかけた。いずれにしても、危機管理という観点でみれば、感染予防対策に素早い対応をするといった問題とは別に、豚インフルエンザという呼称1つをとっても、重要な危機管理テーマがある、ということだ。
厚労省はめずらしく機動的対処、ただ過剰反応による不必要なパニックは回避を
日ごろは年金や医療などの問題対応で、何かと批判にさらされる厚生労働省が今回の局面ではめずらしく機動的に動いている。世界的に感染拡大が懸念されたこともあって、舛添厚労相が危機感を強め、政治的なリーダーシップを発揮したのだろう。この点は、危機管理面でも重要なことで、率直に評価したい。
舛添厚労相は記者会見で、「危機に陥ってから対処では手遅れになる。その前にあらゆる予防的な措置をとることが危機管理だ」と述べていたが、その判断は極めて正しい。とくに今回のような感染性がどこまで強いのか見極めがつかないものの、確実に広がりを見せている状況に対して、早め早めに対処して、ピークの最悪時に備えることは必要だ。
ただ、俗に言う水際でのチェックという形で、空港などで海外から帰国した旅行客に厳しい検疫体制を敷くのは重要だが、過剰な検査でトラブルを起こすリスクもある。とくに検査で陽性反応が出た人に対して、それがほかのインフルエンザなのか、今回の新型のものなのかの見極めに数日かかるため、空港周辺の施設に隔離する。メディアがこれに過剰反応し大騒ぎしたりすると、場合によっては世の中全体をパニック状態に誘導するリスクが出てくる。この点は冷静な対応が必要だ。
中国のメキシコ人旅行客隔離で外交摩擦に発展、SARSの「学習効果」が災い
ところが、逆に過剰反応が災いして、国同士の摩擦や対立に発展しかねない事態に陥っているのが中国での対処だ。上海経由で香港を訪れたメキシコ人旅行客の男性の感染が確認され、香港当局が男性の宿泊しているホテルを隔離状態にした。これを見て、中国政府がメキシコ――上海の直行便の到着受け入れ停止を決めると同時に、すでに到着しているメキシコ人旅行客約70人を強制的に隔離してしまった。これに対して、当然ながら、メキシコのエスピノサ外相が「科学的根拠のない差別的な人権侵害は問題だ」と反発した。
中国政府は「WHOの規定にもとづき感染防止のための予防的な措置だ。理解してほしい」と弁明した。中国が水際作戦で神経質になるのは、2002年から03年にかけて広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)の「学習効果」があるからだが、これも過剰反応がもたらした結果と言える。
中国当局はSARSが表面化した当時、社会不安から政治不安に発展するリスクの回避のため、意図的に情報開示を遅らせた面がある。これが被害を大きくし、経済混乱を引き起こした。そういった教訓を生かし、関係国が情報を共有できるようにすべきだ。
今回の局面では、メキシコに別の問題があった。国際報道をもとにしたもので、最終的なチェックは出来ていないが、それら報道によると、メキシコには十分な検疫、病原菌検査体制がなかったため、まず初期対応が遅れたこと、事態の異常さに気づき、急きょ、米国やカナダなど周辺国の検査機関に検査を依頼したが、それまでの間、感染予防体制がとれていなかったことなどだ。
裏返せば、他の新興国でもし、感染力の強い新型インフルエンザが発症した場合、検査体制のみならず危機管理体制にも課題を残すようなことがあるとしたら、空恐ろしい事態にもなりかねない、ということでもある。
発熱外来の窓口開設を要請されても医者不足で対応できないという自治体も
日本で今回、意外なもろさをさらけ出したのは、厚労省が各自治体に対して、発熱外来という形で発熱して症状がおかしい、という住民の相談窓口をつくって下支えしてほしい、と要請をしたところ、医師不足で対応ができないといった自治体が出てきたことだ。まだ非常事態にはなっていないものの、もし、そういった医療制度のほころび部分が原因で大きな感染を未然に防止できなかった、という事態になったら、いったい危機管理はどうなっているのかということになりかねない。
そればかりでない。東京都内の病院で、発熱などの症状がある患者の診察を拒否されるというケースが相次ぎ、問題になった。毎日新聞が報じたところでは、東京都によると、病院側の対応にはいくつかパターンがあって、1つは患者が発熱したというだけでは診察対応できないこと、2つが感染者の出ていない国からの帰国で発熱したと言われても対応しきれないこと――などだ、という。ある病院関係者によると、新型インフルエンザかどうか、その感染に危惧がある場合には保健所がまず、対応するのが先決、同時に関係機関で必要なワクチン開発に取り組むべきで、発熱外来という形ですべて一般病院が対応するには限界がある、という。
何とも悩ましい問題だが、まだ、水際で何とか食い止めておれる段階でこそ、最悪の事態を想定して、危機管理体制をどうしたらいいか、しっかり検討すべきだろう。
インターネットは情報入手に有効な半面、過度に不安情報が飛び交うリスク
危機管理面で功罪相半ばするのがインターネットの存在だ。かつて1918年にスペイン風邪で4000万人、1957年のアジア風邪では200万人、1968年の香港風邪では100万人の人たちが大流行で不幸にも亡くなった時期は、必要なワクチンの開発が遅れたりといった問題以外に、関係国間で情報の伝達が遅れたりとか、故意に不利な情報が隔絶されて事態の悪化を避けることができなかったとか、いろいろなことが重なった。
ところが現代のインターネットの時代には、情報がさまざまなルートで行きかうため、情報の入手も早く、当局の対応が遅れていれば、突き上げて最悪の事態回避に持ち込むことも可能だ。しかし、その半面であやふやな情報、不安をあおる情報などが飛び交い混乱に拍車をかけるリスクもある。
それと、さきほども述べたが、中国でのSARS発生時には、中国当局が社会不安から政治不安に発展するリスク回避のために、意図的に情報開示を遅らせたことが被害を大きくしたり、経済混乱を引き起こした問題は、中国にとっては、それなりの教訓となっている。しかし、さまざまな問題を抱える他の新興国で、仮に初期対応が遅れたりとか、事態の重要性に気づかなかったりとか、さらに最悪なのは情報開示を頑なに拒んだ結果、グローバルリスクに発展する。
危機管理の面で日米に大きな差、米国は「事故は起き得るもの」との前提
最後に、危機管理という面で、興味深い話をしておこう。米国と日本では原子力発電所事故に対する危機管理意識、対策の打ち方が全く異なる。具体的には、日本では原子力に対するトラウマも加わって、原発事故はあってはならない、起こしてはならないという前提に立ち、行政当局は厳しい規制を加える。これに対して米国の場合、原発事故といえども事故が起きないということはあり得ない、むしろ起き得るものとして、それに見合った危機管理体制を組む。
ある原発危機管理シンポジウムで、米国の危機管理専門家が、この日米の違いを指摘して、極めて参考になった。つまり原発事故に限らずさまざまな事故への対応に関して、事故の未然防止に過敏な対応をするよりも、むしろ、事故は起きるものという前提で対応準備をしておくと、仮に事故が起きても機敏に対応しやすい。日本のように、事故は起きてはならないという前提で、行政が法規制し、現場もそれに沿った対応していると、もし事故が現実になると、あってはならないことが起きたとパニックに陥りやすい。
米国はその点、事故後の対応にもさまざまなマニュアルをつくっておくので、あわてず、パニックになることもない、というのだ。さまざまな民族、人種が同居する移民国家だけに、危機管理をフレキシブルにしておく方が対応しやすいということなのだろうか。そういえば、今回の局面でも、メキシコと隣接するにもかかわらず、米国は危機管理の面で柔軟対応でおり、大丈夫なのだろうかと思ったが、そういう背景があってのことだろうか。
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