倒産危機に「仕事が楽しくなった」見つめ直した大切なことは「世界ブランド」
株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド
代表取締役社長
寺田 和正
1994年3月10日日本の女性たちを魅了するファッションブランドが誕生した。サマンサタバサである。若き寺田和正は独自のブランド戦略を展開し日本そして世界市場へと進出を図っている。起業して数年後に会社存亡の危機に見舞われるも寺田の周到な海外戦略が功を奏しサマンサタバサはよみがえった。日本初のファッションブランド、サマンサタバサのブランド戦略は果たして世界を席巻することができるだろうか。その戦略に迫る。
寺田はい、若かったですしそういう意味ではつぶれるんではないかと皆さんには言われて、金融機関の方にも。
寺田まあ手のひらを返す、というのはこういうことなんだっていう。でも、最終的に自分が思うことは、やはり経営者として自分の未熟さであったりとかということ。金融機関の方が手のひらを返すんですけども、でもそれを作った原因は自分にあるんだということ。また自分で戻れたんでよかった。やっぱり僕を信用してくれてまだ26,7とか8歳ぐらいで4億数千万のお金を貸していただけるというのは、やはり信頼をしていただいたからです。それに対して僕が信頼を裏切った形なので。
その時に、二つ選択肢がありましてですね。1つは、とにかく自己破産しようと。で、もう一方は人として生きてきて、人に迷惑かけてそのままゼロに戻るってことはありえないですよ、と。僕を信頼をして、融資をしてくれた人たちは傷が出来るし、もしかするとそれが引き金になってその人の人生をすべて変えるかもしれないですよ、ということを言われまして。
蟹瀬それでどういう決意されたんですか?
寺田僕はつぶすつもりもなかったですし、一人一人に対して誠意をもってやっていくんだということで。まあとにかく頭を下げましてお金を返しますんで、ちょっと時間くださいと。
蟹瀬いわゆる、ここでよみがえるんだっていう、なんかヒントみたいなのあったんですか?
寺田はい、ゼロになるなったし、もっというとマイナスなんです。これから自分が本当に好きだと思うこと、もしくは自分が正しいと思うことにをやっていこうと。
蟹瀬だけども逆に追い込まれることによって、今まで見えてなかったものがね、はっきり見えてきたということもあるわけですよね?
寺田はい、見えましたし、とにかく仕事は楽しくなりましたね。
蟹瀬そしてブランドビジネスで重視してる部分というのは?
寺田よい商品とか、良い人とか、良い場所、良い宣伝、この4つをとにかく妥協しないように。海外のブランドを売っているときは、少しずつ妥協を迫られていたんですね。もっと一緒に作ってもらいたいんですけど、そう言うんですけどなかなか聞いてもらえなかったり。
とにかく自分でやるからには、このブランドに関してはとにかく妥協しない、この4つに関して妥協しない、という風に決めることもできました。そういう意味で失敗があったんでよかったなと。
蟹瀬そして最初のキーワードで、アジア進出とおっしゃった。これは具体的にはどういうような方向性なんですか?
寺田我々は世界ブランドということでやってるので、まずニューヨークからお店を出しているんです。2006年にニューヨークにお店を出して、そして2008年に実は西海岸にお店を出して、そこからロンドン、パリという形でそこからアジアへという戦略だったんです。
寺田2008年のリーマンショックを受けて世界的な都市のブランドの、ブランディングのピラミッドがあるんですけど、これがガラリと崩壊をした。どちらかというと今こうフルフラットになったと。まあこれを受けていわゆる欧米戦略からアジア戦略へぐっとシフトを変えたという。
蟹瀬最初にサマンサタバサって聞いたときは、僕はアメリカの会社だと思った。
寺田はい。
蟹瀬その戦略の一つだったったんですか?そういうのは。
寺田思いとしてはアメリカのブランドでやるか、フランスのブランドでやるか、日本のブランドでやるか、ということは関係ないですよねと。というコンセプトだったので、あえて日本のブランドと言いませんでした。あえてアメリカのブランドですよ、ということも言ってませんでした。ただどこのブランドとして見えるかっていうのがすごく重要で、それは何を目指しているのかっていうことが重要なのかなという風に考えていました。
蟹瀬そしてこのアジア市場、アジア市場っていえば当然中国ですよね、中国でビジネスをやってく、香港から入っていかれるということでしょうけど。
寺田実は香港から行く予定だったんですけど、まあちょっとパートナーとの問題もありまして1号店は上海になりました。
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