27兆円の追加経済対策、主要国の需要喚起案への足並み揃えが重要 政局型政治など2の次、まずは与野党で「100年に1度の危機」共有を

麻生首相もやっと、米国が震源地のケタ外れの金融および経済の重大危機に対し素早く、かつ大胆な対策の手を打たねば日本経済が大変な事態になると判断したようだ。この判断は正しい。10月30日夜の緊急記者会見で、政府として、事業規模27兆円の追加緊急経済対策を打ち出したのはOKだ。中身を見れば、政治的なばらまき政策という感じもあるが、率直に言って、いまはそれどころでない。グローバルなリスクの連鎖がいつ再燃するか見えない中で、欧米、それに中国までが一斉に需要喚起のための緊急経済対策を打ち出しており、それに日本も足並みを揃えて対応することは極めて重要だ。
 それにしても、政治のサイド、とりわけ衆院解散総選挙がいつなのか、そのことに躍起になっている与野党政治家の動きを見ていると、気持ちはわからないでもないが、政局型政治にうつつをぬかしている状況ではないのでないか、この国がいま非常事態に陥りかねないという時に政治家の見識が問われるぞ、と言いたくなる。
まずは、与野党で「100年に1度の危機」の予兆が世界中で随所に出ている現状を踏まえ、危機意識を共有して追加の緊急経済対策にとどまらず、制度改革を含めた抜本対策に関して、与野党共同で対応することが必要でないだろうか。

「真水」部分がわずか5兆円かといった議論よりも今はスピードが肝心
 今回の政府の追加の緊急経済対策は、中小企業向けの緊急保証枠と政府系金融機関の貸付枠を追加的に21兆円拡大したことなどで、全体の対策事業規模が26兆9000億円、数字を切り上げて約27兆円になった。
国の政策費ベースでの実質の財政支出、よく言われる「真水(まみず)」部分は5兆円でしかないが、中小企業向けの貸付に関する保証枠の拡大などは民間金融機関の貸し渋りなどの信用収縮が見られる中で、中小企業の経営者らにとっては重要なこと。その意味でトータルの27兆円の数字はそれなりに意味がある。
 知り合いの大手企業の経営トップは「うちは、厳しい経営環境下でもがんばって比較的、高収益を続けてきたのに、ここ1ヶ月ほどの米国発の株安に連動した東京市場の株価急落に巻き込まれてズルズルと値下がりしてしまい、振り回されている。企業業績と無関係に株価が落ち込むのは問題だ。投資家の不安心理が先行して市場混乱し、それが企業マインドを萎えさせたりしたら、それこそ問題だ」と嘆いている。
そういった意味で、政府が、投資家のみならず企業、さらに消費者はじめさまざまな経済主体の弱気に陥りかねない心理を変える対策を早め早めに打ち出すことが大事だ。マーケット関係者や一部のメディアは、「真水」5兆円程度では実効性は薄いといった評価だが、まずは対策のスピードがきわめて重要、そのあと実体経済の状況次第で、新たな内需創出につながる改革を含めた抜本対策を矢継ぎ早に打ち出せばいい。

高速料金値下げ案などは民主党対策を拝借?政権交代への道筋と思えば、、、
 ただ、今回の追加の緊急経済対策の中身を見て、エッと思ったのは、野党の民主党が主張していた政策を少し形変えて拝借?したのかな、と感じられる部分があったことだ。
具体的には、高速道路料金の大幅引き下げは民主党が主張していた「すべて無料化」に近づいたものだが、もともと自民党は、料金値下げをすれば建設投資資金の回収が進まず問題多いと強硬に反対していたこと。また財源対策として特別会計の積立金など、いわゆる「埋蔵金」を活用する案に関しても、自民党では中川秀直元幹事長が主張していたが、民主党も「税金や保険料を財源とする特別会計の積立金約204兆円や積立金の運用収入を国民生活のために活用する」とし、端的には財政投融資特別会計の運用収入、さらに当面使う見込みのない積立金の一部の活用を挙げていた。
 しかし、ここは目くじらを立てることはない。民主党の菅直人代表代行は今回の政府・与党の対策について「選挙目当てのばらまきだ」と批判したが、民主党だって高速道路無料化のみならず農家所得補償制度など似たようなばらまき政策提案をしてきたことだし、批判は大人げない。むしろ、自民、民主両党で似たような政策が出始めることは、政権交代につながる道筋、と有権者の国民は感じるかもしれない。とりわけ今回のような危機の時期の政策運営は、非常事態という危機感を共有し、与野党で互いに知恵を出し合うことが重要だ。そう思えば、やはり目くじらを立てることではない。

株式市場は反応せず依然不安定な動き、外国人投資家の受け止め方がカギ
 問題は、この追加の緊急経済対策が株式市場などマーケットで、どう受け止められるかだ。前述の企業経営トップが言うように、市場の不安心理を少しでもなくすことにつながらないと意味がない。
と思って株価など市場の動きを注目していたが、10月31日の東京株式市場では朝方、日経平均株価が4日ぶりに反落し一時は300円超の下げ幅となって不安定な動きを見せた。あまり一喜一憂せず、少し長い目で冷静にみることが必要だ。
 以前、このコラムの第11回のところでも書いたが、東京株式市場の場合、外国人投資家の株式保有比率が60%を占めており、彼らの投資行動によって株価が左右される。最大の問題は、彼らが、今回の日本政府の経済対策をどこまで理解し評価するのかどうかだ。
外資系証券のマーケット・ストラテジストの1人は「彼らの行動は極めてドライで、相場動向をみながら、株価指数先物を売買する。円高は日本経済に長期的にはプラスなのだが、そんなことはお構いなし。日本の場合、輸出企業や投資家を中心に円高恐怖症があるのを見てとり、円高の兆候が見られれば、日本株の先物売りに走る。現物株はそれに引っ張られて売りが続くのだ。しかもニューヨーク市場で株価下落が大きいと保有株の損失リスクとのからみで、東京市場で日本株を処分売りしたりする。だから、彼らは日本政府の緊急対策に無関心ではないが、どちらかと言えば大きな関心事でない」という。
これがグローバル時代のマーケットの現実なのだ。それも踏まえて、日本政府としても株式などの市場対策対応をせざるを得ないところが辛いところだ。

首相官邸の危機判断は評価するが、主要国との緊密連携が危機回避に
 米国の経済学者、ジョン・K・ガルブレイス氏(故人)は「大暴落1929」(日経BPクラシックス版)で、大恐慌に至る市場の動きに無関心だった政治家の「罪」について、こう書いている。
「クーリッジ大統領は市場で何が起きているか知らなかったし、気にもかけていなかった。1929年3月にホワイトハウスを去る数日前にも、状況が『まったく健全』で株価は『割安だ』と上機嫌で語っている。大統領は以前から、投機が抑制できなくなってきたと報告されるたびに、第1の責任者は(米中央銀行の)FRB(連邦準備制度理事会)なのだからと考え、心を落ち着けてきた」
今のように、米国が世界のマネーセンターとなり、リスクの連鎖があっという間に世界中に広がり、グローバルな危機に及ぶ確率が高い中では許されないことだが、日本の首相官邸が麻生首相を中心に危機感を強めたことだけは、評価する。あとは、世界の主要国との緊密な連携、協調行動が危機回避につながっていくことを申し上げたい。

事業家精神旺盛に62歳から起業、3社株式上場し黒字経営 高齢社会生き方モデルの廣瀬さん、「志あるビジネス」にワクワク感

みなさんと思わずワクワク感を共有したくなるような、志を持って素晴らしい生き方をされている71歳の事業家がいる。廣瀬光雄さんだ。バンドエイドなどで知名度のある製薬および医療機器の米国企業、ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)をリタイアしたあと、閉そく状況に陥った日本を変えたいという気持ちから62歳で事業家精神旺盛に、志のあるビジネスを立ち上げ、それらがいずれも成功している。生き方そのものが今後の高齢社会のモデルになるのは間違いないので、ぜひ、今回取り上げてみたい。

まずは廣瀬さんがどういった人か、プロフィールを紹介しよう。1937年生まれ。慶応大学卒業後、米国ボストンカレッジ大学院で経営学を終え64年から88年まで大日本印刷に勤務、米国現地法人社長も務めた。88年にヘッドハンティングでジョンソン・エンド・ジョンソン・メディカル社長に転出、その後J&J日本法人の社長を務めた。このJ&Jでのビジネス体験が、廣瀬さん自身のその後の生き方に強い影響を与えた。

米J&Jの4つの経営責任、株式配当は最後という「我が信条」に感動

廣瀬さんによると、J&Jのすごさは、経営の信念から無借金経営を続け、ずっと増収増益企業でいること。今回の米国金融危機で米自動車大手、ゼネラル・モーターズ(GM)が過大な借金などで株価急落し、一時は2ドル台に落ち込んだのとは対照的で、J&Jは金融危機の荒波もかぶらず株価ダウンは小幅にとどまっている。しかし影響を受けたのはJ&Jの「我が信条」という企業のコア・バリュー。具体的には経営の責任を置く先が4つあり、最初が医師、看護師、患者で、2番目が全社員、3番目が地域社会、そして最後が株主。配当責任が一番最後というのはすごい。大半の米国企業が株主やマーケットの評価を得るため短期的な利益稼ぎに走るのとは100%異なる。これに惚れ込んだという。

廣瀬さんが起業に意欲を示すきっかけは、在日米商工会議所の役員をやっていた際、昼食会での米国の著名な経営学者、ピーター・ドラッカー氏(故人)からのアドバイスだ、という。「さまざまなものが変化する時代になる。こういったときは経営のコンサルティングがいい。新しいビジネスチャンスが何かをつかむきっかけになる」と。

ドラッカーのアドバイスと日本の閉そく状況打破の気持ちが起業のきっかけ

そこで、廣瀬さんは99年に、その後のビジネス立ち上げの中核となるマベリックというコンサルティング会社を創設した。マベリックの語源は、異端児、一匹オオカミ的なものから来ているとか。廣瀬さんは「62歳でJ&Jを退職した時に、まだ自分自身に体力があったこともあったが、日本は、さまざまな制度設計が古くなっているのに、過去のビジネスモデルや過去の成功体験にこだわっていることが気になっていた。そこで、新しい社会の枠組みづくりに、自らやれる範囲内でチャレンジしよう。それには事業を起こすしかないと。言ってみれば大きな夢を描く小さな会社をつくってみようと思った」という。

廣瀬さんは創業当時、友人4人で7つのテーマを考えた。そのうち3つが早くも実現しいずれも事業立ち上げ後に株式上場にこぎつけ、黒字経営している。ビジネスモデルの基本は、会社立ち上げと同時に事業計画をつくり、事業に興味を持つ投資家を探して資金を集める、また経営のプロを招いて経営をゆだねるやり方なのだ。「事業のアイディアを持つ人は多い。

しかし問題は、ビジネスプランにして投資してもらうこと、そして経営のプロを呼んできて経営をまかせることが大事だ。そこが起業のポイントだ」という。

文科省に対抗しネット上で会社経営による大学院大学、大前研一氏が学長

3プロジェクトのうち、株式会社経営による修士課程のみの2年制専門職大学院がその1つ。ビジネス・ブレークスルー大学院大学がそれだ。廣瀬さんによると、いま企業ではしっかりとした経営戦略論などを学びたい、そのため米国の大学で経営学修士(MBA)を修得したい、といったニーズが強いが、休職するか悩ましいうえ授業料の費用負担も大きく、二の足を踏むケースが多い。そこで、インターネット上などのサイバーネットワークを活用し、企業などに在籍したまま、24時間、自由にいつでもどこからでも授業に参加できる経営大学院を株式会社による経営でやることを思いついた、という。

廣瀬さんは「案の定、文部科学省が難色を示した。日本の教育官僚の発想でいくと、まずは教育現場の学校を含めたキャンパスを持つことが要件だという。学校という巨大な教育設備を持って勉強させるというコンセプトが古い」という。ところが、身動きとれないでいた時に、運がひらけてきた。小泉政権の時に、規制改革の1つとして特区構想が具体化し、しかもマベリックの所在地の東京千代田区が呼応して教育推進特区を打ち出したのだ。そこで、廣瀬さんは株式会社経営によるネット空間を使うバーチャルな経営大学院を申請した。設置が認められたので、その名も「エア・キャンパス」とした。

「投資家に働き掛けたら、11人がカネを出そうと応じてくれ、資本金1億円はすぐに集まった。経営のプロは友人の大前研一さんに頼んだらすぐOK。学長も買って出てくれた。教授陣もゼネラル・エレクトリック経営者だったジャック・ウエルチさんらが名前を連ね教育内容も充実している」と廣瀬さんは語る。株式上場も果たし黒字経営だという。

倒産したゴルフ場を買い取り見事に再生、最終300コース経営が目標

しかし圧巻は、ゴルフ場再生会社パシフイックゴルフマネージメントの立ち上げだ。廣瀬さんは無類のゴルフ好きだが、日本国内で会員権を持っていたゴルフコース7つのうち、バブル崩壊時に4つが倒産、2つが原っぱで放置状態となった。何とかしなくてはと事業再生に取り組むことにした。要は不良債権を買い取って再生するのだが、米国時代に聞いていたゴルフ場経営システムを取り入れ、投資ファンドから資金を得て見事に再生した。152のゴルフ場を経営するまでに至っている。プロゴルファー、ジャック・ニクラウスのアドバイスで、コースを増やせば増やすほど運営コストが下がり経営的に成り立つ、ということだったので、全国で300コースが最終目標。経営のプロを招いて委ねているが、こちらも株式上場し、黒字経営でいる。

廣瀬さんは、このゴルフ場再生ビジネスに関してビジネスモデルをつくり、必用資金を得るため、友人が経営陣にいる国内の3つのメガバンクの1つに持ちかけたら「倒産したゴルフ場に資金をつぎ込んだら、当局ににらまれる。悪いが協力できない」と門前払い。そこで、在日米商工会議所時代のメンバーだった米国系投資ファンドに話を持ち込んだら、あまり時間をかけずスタート時1280億円の融資を無担保でOKというからびっくり。ただし金利はリスクを織り込んで高く、長期に借りるとリスクが大きい。だから早く運用して収益を上げたらすかさず返済することがコツだという。

J&J経営の学習効果生かし全盲の人たちにゴルフ場開放も

ところが、事業再生が軌道に乗った途端、門前払いしたメガバンクが「そろそろお取引を」という話があり、さすがの廣瀬さんも激怒し「ふざけるな。当時の頭取らが来るならいざしらず、どういうことだ」と突き返した、という。廣瀬さんは「いま米国が金融危機で、傷が浅い日本のメガバンクに出資支援などで熱い視線が集まっているが、リスクをとるべき時にとらないようなビジネスモデルだと、グローバルな競争には勝てないのでないか」と冷ややかだ。

その廣瀬さんは、これらゴルフ場で誰もが気軽にリーズナブルな値段でゴルフを楽しめるようにするのが経営のポイントで、しかも春秋の年2回、全盲の人たちのうち、ゴルフ好きの人たちにアシスタントをつけて無料開放している。「J&Jで学んだことを実践している」という。

この2つのプロジェクト以外に、廣瀬さんは、国内の医師らが病院などでの治療などに追われて十分な研究時間がなく、国内外の新しい医療技術や情報に接し得ないことのリスク対応として、株式会社ケア・ネットを立ち上げ、医療情報やノウハウを習得できるサービスを行っている。株式上場を済ませ、経営は軌道に乗っている。

医療情報提供「ケア・ネット」も軌道に、企業の次のCSRは健康管理とビジネス化

また、廣瀬さんにとっての最初の会社であるマベリックでいま、企業の健康管理のサポートビジネスを展開している。「社員の元気が会社の元気」というあるPR会社のコピーメッセージでないが、いま企業にとっては役員のみならず社員の病気やストレス性疾患などが経営のリスクになっているうえ、医療費負担で健康保険組合の閉鎖に追い込まれる事例も出ている。企業の社会的責任(CSR)という点では今後、環境対応に続いて、健康管理がCSR課題になるし、ビジネスチャンスでもある、という。

いま、廣瀬さんは事業を構想し、人を動かし組織を動かしてビジネスを立ち上げていく。ビジネスプランに「投資価値あり」と判断した投資家から資金が集まる。最後は経営のプロを呼んできて経営をゆだねる。
廣瀬さんの原点は、J&J経営だそうだが、気取らず、背伸びせずに淡々と語る廣瀬さんにはこれまでの経営の足跡がくっきりと残っているだけに、言動にはすごさがある。高齢化の「化」がとれた日本の高齢社会の生き方のモデルと言ってもいいのでないだろうか。

日本での新型インフル感染防止めぐる危機管理で「失敗の研究」が必要 水際対策にこだわり過ぎ、封じ込めではなく感染拡大の速度抑制策を

 ご記憶だろうと思うが、国連の世界保健機関(WHO)がメキシコ発の新型インフルエンザに関して、4月29日夜の緊急会見で、世界的な感染拡大があり得ると発表し緊張が一気に高まった。日本では水際(みずぎわ)作戦と称して、成田空港などで北米から帰国もしくは日本を訪れる旅行客を対象に厳しい検疫調査を続けた。そして5月9日になって初の感染者が確認され、それからほどなくして神戸市や大阪府の高校生を中心に感染拡大が確認された。1か月たって、発症はやっと下火になったが、一時は、関西地区を中心に、見えないウイルスによる感染拡大リスクに対して、一種のパニック状態になり、さまざまな課題を残した。専門家の話では今年秋に、再び新型インフルエンザが流行して感染リスクが拡大する可能性がある、ということなので、この際、感染防止をめぐる危機管理策で「失敗の研究」が必要だと思う。

ここでいう「失敗の研究」というのは、過去のさまざまな事故事例を検証し、なぜその事故が起きたのか、現場のヒューマンエラーだったのか、それともエラーを引き起こす組織上の問題があったのかどうかなど、再発を防ぐために事例研究を行うことだ。私自身、NPO「失敗学会」のメンバーとして、いろいろな分野の人たちと一緒に研究をしており、今回も、新型インフルエンザの感染防止をめぐる厚生労働省当局のみならず医療現場の問題、メディアの報道の問題などについて、単なるジャーナリスト目線とは別に、興味を持っていたので、ぜひ取り上げてみたい。

小松医師の「新型インフル対策の問題点」指摘は極めて参考になる

まず、医療に携わる専門家の人たちがつくる医療ガバナンス学会のメンバーの1人、虎の門病院の小松秀樹氏が「新型インフルエンザ対策の問題点」という形で問題点を整理されている。いろいろ調べているうちに、とても参考になったので、一部を転載する形で紹介させていただき、何が問題で課題かを浮き彫りにしたい。

<新型インフルエンザ対策の問題点>
1)水際撃退作戦
厚生労働省が今年2月17日に出した「新型インフルエンザ対策ガイドライン」は高原病性鳥インフルエンザを想定したもので、しかも水際撃退作戦を想定した関係機関、地方自治体向けのいわば行政機関向けガイドラインとなっている。厚生労働省当局は、水際での検疫によって撃退し侵入を防ぐことに比重を置いている。これに関連して、専門家諮問委員会委員長の尾身茂氏(WHO理事に内定)は5月28日の参院予算委員会で、検疫は侵入を防ぐことではなく遅らせることが目的だった、と述べている。しかし国立感染症研究所の疫学調査では、兵庫県内での2次感染による新型インフルエンザの最初の発症は5月9日だった。成田の検疫で患者が発見されたのは5月8日だったので、検疫で発見されるよりも前に、新型インフルエンザが国内侵入していた可能性が高い。水際撃退作戦そのものに限界や無理があることを知る必要がある。

WHOも当初から「封じ込め」不可能、めざすは「被害の軽減」を強調

2)風評被害
厚生労働省のさまざまな言動とメディアの報道が、水際作戦での阻止が可能かどうかということを抜きに、阻止しないといけないという「規範」を国民に伝えてしまった。空港での検疫のものものしい姿と、(疑わしい人を検査のため隔離状態に置く)停留という人権制限を伴う措置が、新型インフルエンザに対する国民の恐怖心をあおった。水際での撃退という、そもそも無理なことを「規範化」して、目標とするように見せたことがかえって国民の不安をかきたてた。そして、インフルエンザと診断されると行政、住民から迫害されると思わせた。結果として、それらがインフルエンザを隠すことを奨励することになった可能性がある。

3)感染拡大後の被害を少なくするための対策に遅れ
WHOは当初から「封じ込め」は不可能、めざすべきは「被害の軽減」だとアナウンスしてきた。しかし日本国内では、水際作戦が優先されたためか、水際作戦のために(さまざまな現場が)疲弊したためか、結果として、感染拡大後の被害を小さくするための体制づくりが遅れ、現場が混乱した。

4)サーベイランス(感染の拡がりの系統的な調査)
サーベイランスがなされなかった。今なお、国内での実態が十分につかめていない。現場医師から伝え聞くところ、多くの地域で診断確定のためのPCR検査が、海外渡航歴、関西への旅行歴のある患者に限定されている。このため国内発生があっても把握しにくい状況にある。実態がわからないので、根拠にもとづいて方針を変更することができない。

厚生労働省の医系技官に課題、医学よりも法を優先し判断ミス誘う

<厚生労働省の抱える原理的な問題点>

1)行政官としての医系技官の問題
医系技官は行政官であり、医学よりも法を優先しなければならない。科学的な見地から実情を観察して現実的な対策を考えるよりも、過去の法令にしばられる。行政官は、過去の法令に科学的な合理性があるかどうか、その法令を現状に適用することが適切かどうかを判断しない。医師免許を持っていても、医師としての良心よりも法律が優先されてしまう。科学と医師の良心という判断の砦(とりで)を原理的に持てないので、メディアや政治などの影響で判断が揺れ動く。

2)政治によるチェック
厚生労働省の行政官は政治の支配を受ける。政治は行政官を通じてしか、科学的な知識を得る方法がなかった。政治家は、インフルエンザの封じ込め政策が、科学的に可能であり、正しい政策だという行政官からの情報に裏打ちされて、無邪気に、あるいは脅迫観念に駆られて検疫を推し進めた可能性がある。

3)科学によるチェック
新型インフルエンザ問題は、原理的に、科学によって対応すべき問題だ。ところが日本の学者は伝統的に政治に距離を置いてきたが、その一方で、行政の支配を安易に受け容れてきた。研究費、研究班の班長職、審議会委員などが行政による科学支配の手法、手段として使われてきた。

日米で危機管理に差、学ぶべきは米国の「事故は起きることを前提に対策を」

以上が、虎の門病院の小松秀樹氏の分析だが、さすが医療の現場におられる人だけに、ポイントを突いている。問題指摘に全面的に納得する。そこで、私も「新型インフルエンザ対策の問題点」を提起してみたい。

結論から先に申上げれば、5月7日付の36回「感染拡大が懸念の新型インフルエンザで危機管理策が一気に課題に」というコラムの最後の所で言及したが、危機対応や危機管理に関しては、水際作戦に大きなエネルギーを費やすよりも、起こることを前提に国内での感染予防対策にウエートをかけることが必要だ。その際、私は、米国と日本の原子力発電所事故に対する危機管理意識、対策の打ち方が全く異なること、端的には日本では原子力に対するトラウマもあって、原発事故はあってはならない、起こしてはならないという前提に立ち、行政当局は厳しい規制を加えているのに対して、米国の場合、原発事故といえども事故が起きないということはあり得ない、むしろ起き得るものとして、それに見合った危機管理体制を組む、という違いを上げた。

日本のように、事故は起きてはならないという前提で、行政が法規制し、現場もそれに沿った対応していると、もし事故が現実になると、あってはならないことが起きたとパニックに陥りやすいのだ。

現に、今回の新型インフルエンザで問題が起きている。水際作戦で5月9日にカナダから帰国した大。阪府の高校生ら初の感染者が成田空港で発見されたが、厚生労働省専門家のフォローアップ調査では、最も早い発症者は神戸市の高校生で、それも5月5日だったことがわかった、しかもこの高校生には海外渡航歴がなく、別の感染者からうつった、とみられている。水際作戦が現実問題として、功を奏さなかったことになる。

渡航歴のない高校生が感染者で関係者パニック、ネットでの中傷も大問題

ところが、5月9日以降、成田空港はじめ関空など主だった空港での検疫調査の形での水際作戦に多大なエネルギーが投入され、国内での感染拡大予防体制づくりが遅れた。そればかりか、渡航歴もなく入国者と接点もない高校生を中心とした感染拡大が全く想定外だったため、現場は右往左往するばかり。

そのうち感染者が出た学校がネットなどで誹謗(ひぼう)中傷を受けたり、さらには関西から出張や旅行で戻った人までが「近づくな」「寄り付くな」といった調子で過剰な扱いを受けたりと、信じられない事態が相次いだ。まさにパニックに近い状態だった。
そればかりでない。厚生労働省が地方自治体に急きょ、予防を兼ねた早期発見のための「発熱外来」という窓口を設けて医師を交代で常駐させるように指示したが、現場にさまざまな混乱をもたらした。医療の現場の人の話で知ったことだが、「発熱外来」という発想は日本だけのことだ、という。

いずれにしても、空港などでの水際作戦を含め、厚生労働省の発想は「未然に防ぐべきだ」「ウイルスといえども侵入は防ぐべきだ」ということに、大半の人的、物的エネルギーを投入するが、今回の経験で、その戦略にミスがあった、と言って過言でない。「失敗の研究」という点で言えば、この戦略ミスを繰り返さない、ということでないだろうか。

次は欧州金融危機の顕在化、早くストレス・テスト(不良債権特別検査)を EU連合体の弱さが危機対応遅らせる、破たんリスクある中東欧向け融資も火種

怒涛(どとう)のごとく押し寄せ世界中を大混乱に陥れた世界のマネーセンター、米国の金融危機も最近になって、やっとパニック状態から離脱したように見える。理由は、バンク・オブ・アメリカなど米金融大手10社が公的資金注入からまだ時間がたっていないのに、米財務省に資金返済を申し入れ、それを財務省が容認したためだ。しかし、まだまだ楽観は許されない。傷みに傷んだ金融市場の再構築には時間が必要だし、世界中の投資家らの信頼を取り戻すにはもっと時間がかかる。それよりも、今、とても心配なのは、米国金融危機の陰に隠れて大きく表面化しなかった欧州の金融危機だ。

国際通貨基金(IMF)が今年4月に公表した「国際金融安定性報告書」によると、世界の金融機関の損失は2007年から2010年までの3年間の累計で、何と4兆540億ドル、円換算で約400兆円にのぼる。
このうち、問題の米金融機関の損失が2兆7120億ドルだったが、欧州も負けず劣らず1兆1930億ドルという巨額数字。これに対する日本の金融機関の損失は1490億ドルで、いかに欧米金融機関の傷みの度合いがひどいか、この数字だけを見てもわかる
IMFはこの報告書で、金融システムの安定化のために必要な金融機関の資本増強額を同時に公表している。

まず米国の金融機関は2750億ドル~5000億ドル、そして欧州のうちユーロ通貨圏のドイツやフランスなどの金融機関は3750億ドル~7250億ドル、ユーロ圏に属さない英国は1250億ドル~2500億ドルというケタ外れの資本増強が必要というのだ。

ECB公表のユーロ圏金融機関の不良債権処理必要額は何と28兆円

ここで、米国の数字を見て、おやっと思われたかもしれない。米中央銀行にあたる連邦準備制度理事会(FRB)が5月に公表した米金融大手19社に対するストレス・テスト(不良債権特別検査)では、10社が750億ドルの資本不足、9社が資本に問題なしという検査結果だったからだ。IMFの資本必要額の推定数字との間に、かなりの開きがある。特別検査がかなり甘かったのでないか、という疑念を抱かせると同時に、米金融危機はまだまだ続くのだ、ということを印象付けたのは間違いない。

さて、今回は、米国の問題よりも欧州の金融危機顕在化が間近かだ、ということを取り上げたいので、そちらに話をしぼろう。
数字ばかり出して恐縮だが、欧州中央銀行(ECB)が6月15日に公表したユーロ圏の金融機関の損失や不良債権処理必要額の数字は参考になる。それによると2007年から2010年までの累計の損失額が最大で6490億ドルという。前述のIMF見通し数字と開きがあるが、欧州の金融機関を直接、間接に見ているECBだけに、実体に近いのかもしれない。

それにしてもケタ外れの数字だ。しかし、ここで注目しなくてはならないのは2009年から10年にかけて最大2830億ドル(円換算約28兆円)の不良債権処理が必要だ、としている点だ。われわれは、金融危機が表面化してから、さまざまな数字にマヒし始めているが、欧州に、まだこれだけの厄介な不良債権の数字の塊(かたまり)の数字があるのは驚きで、裏返せば、金融危機は長く、そして深刻な事態になることを意味している。

米投資銀が売りつけた証券化商品は巨額、IMFも米国より欧州の危機を懸念

複数の金融専門家が口をそろえて指摘する欧州の金融危機の厄介さ、危うさについて、興味深い話をいくつか紹介しよう。まず、米国のリーマン・ブラザーズなど旧投資銀行が崩壊する前に欧州の年金基金などに売りつけた証券化商品が巨額にのぼり、しかもその損失確定が出来ておらず、一種の時限爆弾を抱えているようなものだ、という。これに関して、アジア開発銀行の黒田総裁も最近、東京での講演で、「米国を起源とする証券化商品の損失の半分近くが欧州の金融機関に保有されていると見られている。IMFは米国よりも、むしろ欧州の金融危機に危惧を抱いている」と述べ、専門家の話を裏付けている。

問題は、それにとどまらない。欧州共同体(EU)という27カ国による共同体、連合体が意外にも障害になっているのだ。欧州各国の連合体として、共通通貨ユーロをもとに経済共同市場を形成し、各国間の経済障壁が事実上、取り払われてモノやおカネが比較的自由に動き回るようになって経済成長を押し上げる要因になっていたのは間違いないが、今回の金融危機局面ではリスクの連鎖がきわめて速く、あそこの銀行が危ない、といった話が出ると、あっという間に広がって、危機が増幅されてしまう。つまりは水際(みずぎわ)で防ぐ手立てがない。

ところが、その半面、EUに現地法人や支店網を展開する金融機関に悩ましい問題が起きている。仮にオランダの銀行が不良債権の多いさに身動きがとれず、本国オランダのみならず現地法人化している出先の国々に同じように公的資金の注入要請したとしよう。オランダ政府は自国の金融機関の問題なので、当然、公的資金には前向き対応する。ところが、問題は周辺のドイツやフランスでは、それぞれの国民の税金、財政資金を使って、なぜ、オランダの銀行の資本不足の面倒を見なくてはならないのか、といった反発となって、金融機関の不良債権処理がスムーズに進まないのだ。EUという共同体をつくっていても、加盟各国のお家事情で、危機対応が遅れる、という問題があったわけだ。

ECB軸に共通金融政策が可能だが、財政政策は利害錯そうし危機対応できず

金融政策に関しては、前述のECBが加盟各国にニラミをきかすため、共通政策をとることが可能。ところが財政政策に関して、統一もしくは共同の財務省のようなものがない。このため、今述べたような金融機関への公的資金の注入といった財政支出が伴う政策に関しては、各国の利害が出てきてまとまらず、危機が広がってしまう。もちろん、EUには欧州委員会があり、金融機関への資本注入や銀行間取引などに関する政府保証について、協議のうえで承認して政策の実行に移す役割を果たしている。しかし、金融危機がきっかけで、EUのマクロ経済運営に意外な弱みの部分があることが判明した形だ。

その点で、私は、欧州委員会か、EU首脳会議が主導して、米FRBが行った金融機関の不良債権の実体をチェックするためのストレス・テストを早急に、欧州でも行うのが先決だと主張したい。10年前の日本の金融危機でも、金融機関の不良債権の実体を浮き彫りにするため、徹底した金融検査を行い、問題解決に近づけた。今回の米FRBのストレス・テストは、当時の日本と違って、スピードの時代に対応してか、極めてスピーディに行った。

その点は極めて評価できるが、前述したように、巨額の不良債権の実体にどこまで迫ったのか、どちらかと言えば、検査が厳しすぎて金融市場に不安感を与え、実体経済への悪影響も出かねないとの政治的な判断から、甘い金融検査に終始したのでないか、とみられている。

欧州はストレス・テストに消極的、とくにドイツ財務相は経済への悪影響を心配

ただ、欧州の場合、そのストレス・テストそのものが手つかずであり、何としても金融危機の度合い把握のためにも勇気をもって取り組むべきだ。今のところ9月に実施するという話だが、9月では明らかに問題先送りだ。今すぐに実施して、世界中に情報開示すべきだろう。ところがロイター通信が報じたところでは、ドイツのシュタインブリュック財務相が早期実施、そして検査結果の情報開示の双方に関して、極めてネガティブだ、というのだ。理由は、金融機関の不良債権に関するマイナス情報がマーケットなどで厳しく受け止められ、それが投資家の投資行動のみならず消費者の消費行動などに悪い影響となった場合のことを危惧するためだ、という。

時限爆弾という意味では、欧州の金融機関には、もっと大きな爆弾がある。それは中東欧向けの不良債権の問題だ。最近の例でいえば、バルト3国の1つ、ラトビアの経済・金融危機がわかりやすい。投資バブルによる不動産ブームで年率10%超の高い経済成長を記録したが、米国発の金融危機のあおりで、海外からの投資資金が一気に水が引くように引き揚げたため、一転、ピンチに見舞われ、今年1-3月の実質国内総生産(GDP)は驚くなかれ年率換算40%のマイナス成長になった。問題は、北欧スウェーデンを中心に欧州の金融機関がラトビアの金融機関に融資をしていたため、これらの融資に焦げ付きという形で不良債権化してしまったのだ。

これは、ラトビアにとどまらず隣接するリトアニア、エストニアのバルト諸国のみならずポーランドやハンガリーなどの東欧諸国にも同じような問題が及び、欧州の金融機関にとっては、不良債権の巨大な塊となっている。これらの国家に、万一、支払い不能という形で破たんのリスクが現実化した場合には、巻き込まれる欧州の民間金融機関の影響は想像に難くない。

欧州の金融危機の問題は、米国の危機の陰に隠れて、これまで大きく表面化も顕在化もしてこなかった。しかし、これからはマーケットや投資家の目が欧州に向き、ちょっとしたはずみで危機が増幅されるようなことになると、欧州からロシアへと危機の連鎖が広がるリスクがある。

えっ?日本経済は底入れ?正しくは「景気最悪期離脱し奈落の底に落ちないだけ」 L字型の時間かけての回復に、今こそ低成長でも活力ある経済になる仕掛けを

日本政府は6月の月例経済報告で景気底打ちを事実上、宣言した、とメディアが一斉に報じた。
えっ、本当に日本の景気が底入れしたのだろうか、経済実感にほど遠い、どういう根拠でマクロ政策判断をしたのか、といった受け止め方が多いはず。

確かにそうだ。実は、4月鉱工業生産などマクロ経済指標がプラスに転じたのが根拠になっているのだが、現実は、景気が最悪期を脱しただけ、つまりは果てしなくズルズル落ち込むリスクが小さくなくなってきたので、景気の底にたどりついた、と判断しただけのことなのだ。

だから、景気が底打ちしたと言っても、反転してV字型に山を一気に駆け上がるという力強さはない。
むしろローマ字のLに例えて、タテ一直線で落ち込んだ景気がやっと底にたどりついた、しかし世界の成長センターともいえるアジア、中でも中国に期待が持てる半面、米国や欧州の経済リスクが依然消えておらず、日本の経済は底にたどりついたあとも、欧米経済の影響などを受けて、今後は底を這うような形でテンポの遅い回復パターンのL字型回復になる、と見て間違いない。

メディア報道では景気底打ち政府宣言、という見出しが踊ったが、これは厳密に言うと正しくない。政府の6月月例経済報告では、景気の基調判断について、「厳しい状況にあるものの、一部に持ち直しの動きがある」とし、昨年12月から使ってきた「悪化」という表現を7か月ぶりに削った。そして与謝野経済財政担当相が経済関係閣僚会議後の記者会見で「楽観はできないが、輸出や生産活動が上向きになり消費者マインドも少し改善されつつあり、それらを考え合わせると1-3月が景気の底だったのでないかと強く推定される」と述べただけ。これらをつなぎ合わせて、メディア的に「事実上の景気底打ち政府宣言」となったのだ。

景気底入れ宣言が政治的思惑で行われるリスク、過去に政権浮揚と絡め問題に>/h2>

しかし政府宣言という場合、常識的には閣議での同意もしくは承認を得て、経済財政担当相なり内閣官房長官が節目の記者会見で表明するのが一般的だ。その点で思い出すのが、デフレ脱却宣言だ。

安倍元政権時代の2007年春に、前年06年10月には戦後最長の景気拡大局面に来ていて、その動きが07年に入っても続いていたため、宣言チャンスがあった。当時、尾身財務相が「今の経済状況でデフレ脱却を宣言しないことは不自然だ」と、政治家独特の政権浮揚に結び付けようとの意識丸出しの言動があった。ところが、担当の大田経済財政相が宣言発動には慎重で、消費者マインドに弱さがあるなどのいくつかの理由から、最終的に先送りした。このデフレ脱却宣言は、その後もタイミングをつかめないまま、米国発の金融危機に遭遇し、現在も日本はデフレ経済状態が続いている。結果オーライだった。

余談だが、尾身財務相はそれ以前の旧経済企画庁長官時代に、景気回復判断に関して、政治的な思惑で「桜の咲くころに景気回復する」と発言を行った。当時、現場で取材していた私は、経済実体から見てもほど遠い状況だったため、記者会見で厳しくかみついたのを憶えている。
そして現実問題として、景気回復は遅れた。ところが尾身財務相は当時、「桜の開花は何も東京だけで見るものでない。開花時期が北上し、私の選挙区の群馬県で開花ということもある」と弁解発言したため、私が会見で再び「マクロ政策の景気判断する担当大臣がそういったアバウトな言い方はまずいのでないか。
マーケットの時代に、マーケットをもミスリードする。問題だ」と批判した。
大事なことは、マクロの政策判断を政治的な思惑で行うのは慎むべきだ、ということだ。

浅生首相は「経済に強い麻生」の成果強調したい?メディアも広告対策で悩み

そういった意味で、今回の「事実上の景気底打ち政府宣言」も現在の政治状況を勘案すると、政治的な思惑があったのかな、という感じがしないでもない。
なにしろ、麻生政権にはさまざまな問題が噴出して内閣支持率が急落している。麻生首相としては、「経済に強い麻生」を売りにしており、09年度予算での経済対策、そして09年度補正予算での追加経済対策の効果が、主要国の中でも最初の景気底入れに結び付いたことをアピールし、政権浮揚につなげたいとの気持ちがあるのは間違いないからだ。与謝野経済財政担当相がそのあたりの政治的思惑に配慮し、記者会見で意識的に「1-3月が景気の底だったのでないかと強く推定される」と発言し、メディア誘導したのでないかとも言えなくもない。

実は、メディアの現場にも、同じように悩ましい問題がある。今、新聞もテレビも昨年来の景気の落ち込みで企業の広告が大きく落ち込み、それぞれの経営圧迫要因となっている。
新聞は、そこに若者中心の「活字離れ」で購読部数の低下傾向が顕著になっている。そういった中で、メディアが、政府の「事実上の景気底打ち政府宣言」に連動して紙面を大きく割き、経済の流れが変わりつつある、といった論調にすれば、企業家心理も変わっていき、仮に企業収益の好転といった事態につながる。

そうすれば企業からの広告出稿も増えるのでないか、といった思惑が働きかねない。もちろん、編集は、広告や販売の営業とは一線を画し、編集権の独立があるのは間違いないが、メディア各社が広告の急激な落ち込みのもとで、編集姿勢はどうなのか、検証してみる必要はある。

金融市場に誤った政策シグナルでミスリードすると相場形成に混乱も

繰り返すが、マクロ政策判断が仮に政治的な思惑に利用されたりすると、マーケットの時代に、株式、債券、為替、短期金融などの金融市場をミスリードし、誤った政策シグナルでもって、相場形成にもさまざまな混乱や課題を残す。そういった点で、恣意(しい)的な政策判断は厳に慎まねばならない、ということだ。

ところで、私の実体経済判断は、冒頭に申上げたように、先行き不透明な米国経済と違って、日本の経済は一方的に悪い方向にズルズルと落ちて行くことはなく、その意味で最悪期を脱したのは事実だ。しかし、まだまだ力強い回復につながるような状況でない、と思っている。これは、私自身、企業経営者やマーケットエコノミストなどを含めて、取材の現場でさまざまな人たちに出会って聞いた結果だが、ここで、ぜひ、ご紹介したいのは内閣府の景気ウオッチャー調査だ。これが意外に参考になるのだ。

この景気ウオッチャー調査は、作家で経済評論家の堺屋さんが旧経済企画庁長官時代に現場担当官に指示してつくりだしたものだ。当時の堺屋長官によると、行政は毎月あがってくるさまざまなマクロ経済指標だけを見て一喜一憂していてはダメだ、経済実感を探ることが必要で、そのためにはタクシー運転手やデパートの売場の人たち、居酒屋の亭主、不動産屋の経営者ら経済を皮膚感覚でつかんでいる人たちからナマの声を毎月、定点観測の形で収録し、マクロ政策に反映させろ、というものだった。
ジャーナリストも同じ感性で現場を走り回っているが、当時、この堺屋長官の発想については、素晴らしいと思った。

景気ウオッチャー調査で「回復速度遅く前年並みに戻るのは今秋以降」の声も

その景気ウオッチャー調査では、今、5か月連続で景気が改善の兆しを見せている、という。そこで、直近の5月調査結果を見てみた。参考になるので、ぜひ、紹介させてもらおう。「新型インフルエンザの影響で修学旅行、観光旅行、企業出張のキャンセルが続出した。
それにスポーツ観戦や観劇など人の集まる場での催しに関しても団体予約が中止になった」(旅行代理店現場担当者)、「全体の物件量は依然増えない。

ただ、中止や延期となった物件の工事が再開したり、時期がずれて着工になった物件もあって、全体として下げ止まりの感がある」(家具製造業経営者)、「ハイブリッド車の受注好調を受け車載用電子部品にからむ製品の出荷が持ち直すなど、一部に明るい材料がある。最悪期は脱したと思われるが、全体として回復の速度は遅く前年並みの水準に戻るのは今秋以降」(化学工業経営者)、「夏のボーナスは軒並み前年よりも減額になるとのお客の話を聞くなど明るい材料はない。低迷した状況から、しばらく抜け出せない」(タクシー運転手)といった具合だ。

バラマキ的な財政出動ではなく、戦略性感じさせる日本パラダイム転換の政策を

これらウオッチャーらの経済実感で見ても、経済の最悪期を脱しているものの、回復には相当の時間がかかりそうだ、という印象をもたれただろう。そこで、問題は、災い転じて福となすではないが、危機をチャンスに切り替え、日本経済をタフで骨太かつ活力あるものに持って行くことが何としても、必要だ。

そこで、ぜひ、申し上げたい。「経済に強い」と自負する麻生首相の指示で、政府は、ケタ外れの財政支出で経済対策を実施した。非常時には、確かに、機動的な財政出動による需要創出の政策判断は正しい。しかし、コラム39回の「どこかおかしい政府の経済対策」でも指摘したように、行政官僚の政策劣化なのか、縦割り行政組織の縄張り争いの弊害なのか、打ち出す政策に構想力、戦略性が感じられない。とりわけ09年度補正予算で見られたような思いつきの政策にバラマキ的な財政出動では、それこそ一過性の対処療法的なもので、いわゆる経済政策というにはほど遠いものだ。

私が指摘した「エコポイント」政策の問題点に関しても、5年後、10年後の日本の姿をイメージづける、もっと言えばわれわれ国民のみならず世界の人たちに、「日本は面白い国になる」「先進モデル事例だ」といった政策の方向付けをすることが重要なのだ。まさに日本のパラダイム転換が行われつつある、といった政策メニューを出すことだ。

この話になると、あれも言いたい、これも申し上げたいということがあるが、また別の機会にレポートする。今回は、「事実上の景気底打ち政府宣言」に関連して、何が重要かそのメッセージだけ伝えたい。繰り返しで恐縮だが、こういった非常時にこそ、バットを長く持って、少し先に、間違いなく経済に活力を生み出すような政策のさまざまな仕掛けが重要だったのでないか、と思っている。

「個性を磨け、愚痴を言うな」 ゴッド・ファーザーからの遺言

個性がぶつかり合った60年

野田一夫氏が1962年夏、マサチューセッツ工科大学(MIT)での2年間の研究生活を終えて帰国した時、日本は池田内閣が打ち出した「所得倍増計画」による力強い経済成長過程にあった。長い占領下で散々苦しんだ旧財閥系諸企業も、元気一杯の新興企業ソニーやホンダも、それぞれが競い合い、力強く戦後日本経済の成長を先導していた。

「その現実に接し、私の頭の中に『企業成長論』と名づけた発想が自然に生まれた。それに最初に共鳴してくれた毎日新聞『エコノミスト』誌の協力で、1962年4月から12月にかけ週、毎週5~6ページにわたって連載された『企業成長の決定的瞬間』が研究者としての私の新しい出発点となった」

「毎週、一定の基準に基づき各業種から厳密に選出された急成長企業一社を選び、その最終意思決定者から、企業成長の決定的なカギとなった発想から輝かしい実績達成に至るスリルに富んだエピソードを存分に伺えた。『企業成長』を終生の研究対象にすると決心した私には、何よりの勉強であった」

野田氏は出光興産の出光佐三、西武百貨店の堤清二、ソニーの井深大、石川島播磨重工業の土光敏夫、松下電器産業の松下幸之助などそうそうたる経営者37人と次々に会った。
この連載でエコノミスト編集部の若手記者で、その才と人柄を買われて野田氏の助手になったのが高原須美子さん(第一次海部内閣の経済企画庁長官)だった。
雑誌エコノミストの連載で野田氏は「革新的成長企業こそ一国の経済成長の実質的牽引力」という確信を固めた一方で、学者として企業を外から見るだけでなく、その中にも入っていった。それが野田氏の真骨頂だった。

「企業成長をその牽引者である最高意志決定者の回顧談からのみ学び取ったことに多少不安を感じた私は、先方からの要請があれば、非常勤ではあったが、企業成長を内部からも観察したんだ」

「記憶に強く残るのはソニーと伊勢丹。ソニーは創業者の一人・盛田副社長から、伊勢丹は山中常務(共に当時)からそれぞれ依頼され、3年ずつ勤めた。ソニーは猛進撃中の新興電機メーカー、伊勢丹は(進駐米軍による接収解除後の)ハンディを早期克服しつつあった百貨店。実に働き甲斐を感じたものだ。改めて振り返ると、立教の専任講師時代に日本鋼管(現在のJFEスチール)の依頼で数年間非常勤で働いた。その経験は、後にMITに招かれて国際プロジェクトに参加した際、実に役立った。幅広い業種の会社での実体験こそ経営学者としての僕の宝だ」

多くの会社を社内外から見る過程で、個性あふれた経営者らを間近に見続けた。

非連続さが時代を大きく変える

「本田宗一郎さんが一升瓶を下げて通産省(現経産省)に乗り込み、自動車課の前で『バカヤロー、お前たち官僚が日本を弱くしている』と怒鳴ったエピソードは有名だ。当時ホンダは二輪車から四輪車への参入を狙っていた。
一方、通産省が自動車会社の統合や新規参入規制で競争力を上げようとしたことが本田さんには気に食わなかった。若い社員は自動車を作りたかったので、社長の行動で意気が上がったに違いない。素晴らしい物語だ」

松下は本田とは違った形で社員掌握に努めたようだ。1964年の東京オリンピック前後、日本経済は明から暗へと転じようとしていた。販売店の在庫が増え始めていた。何とか苦境を打開しようと販売店会社社長らを集めて開かれたのが「熱海会議」だった。

「松下さんは熱海会議で『共存共栄の心を説きながら、それを忘れ、経営悪化を招きました。今日から松下電器は生まれ変わります』と涙ながらに頭を下げた。それが功を奏し、販売店と一丸となって経営立て直しに向かうことができた。経営者が自分で考え、決断し、会社をまとめていった。」

1960年代から70年代は戦前、戦後の創業経営者が活躍した時代である。

「サラリーマン経営者は会社に一兵卒で入って、結果的にリーダーになった人たちだ。それに比べ創業経営者は小さいながらも最初からリーダーの役割を果たしてきた人たちだ。そこが大きな違いだ」

だが当時、サラリーマン経営者にも魅力的な人たちがいた。連載記事「企業成長の決定的瞬間」にも土光敏夫や田代茂樹(東レ)ら大企業のサラリーマン経営者も多く登場する。

「終戦は非常に大きなショックだった。多くの経営者がパージされ表舞台から消えていった。その時、誰に後事を託すか、と考えたとき、年功序列では選ばなかった。土光さんもまだ工場の課長クラスだった。会社を去る社長は、能力主義で後事を託す人材を見つけていった。だからあのころの優秀な若い経営者には創業経営者と同じように腹が座った人が多かったのだろう。戦前から戦後への変化は不連続だったから、がらがらとトップ人事も変えることができたのだ」

野田氏が30歳代に親交を深めた経営者らは言葉の達人でもあった。多くの宗一郎語録の中にも哲学性を感じさせるものが多い。「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である」などは理念と行動の関係性を言い得ている。

「松下さんも本田さんも尋常小学校しか出ていないが、教養がないとか、下品だとかみじんも感じさせなかった。一升瓶で通産省に乗り込んだ本田さんも粗削りだけれど下品ではなかった。創業経営者らの言葉は自分の生活の中から身に付いたもの、あるいは心の奥底から生まれ出た経営活動の中で身に付いたものだったと思う」

壮年期を迎えた企業グループが「志」をもって次に打つ一手、バイオ事業とは

諸星賢者の選択リーダーズ。ナビゲーターの諸星豊です。

白石白石みきです。諸星さん、いきなりですが2015年はどのような年にしたいですか?

諸星僕がしたいというよりはなって欲しいか。やはり政治的には平和な国に、世界になって欲しいと思いますね。いわゆる過激派と言われる方々。この連中がその国みたいなものを作っちゃって、どこで何やるかわからないじゃないですか。すごい怖い世界になってきたと思うんですよね。結構世界中行くじゃないですか。

白石はい。

諸星感じるんですよ。緊張するんですね。

白石そうですよね。

諸星みきさんどう思う?

白石私も海外に行っていてそう感じますよね。

諸星そうですよね。

白石だから自然に心から笑顔になる世の中と言うか、そうなってほしいと思いますよね。

諸星そうですよね。さて日本の経済のことをちょっと考えてみると円安になりましたよね。

白石はい。

諸星そうすると輸入してくるものが高くなります。物価が上がり始めました。ところがお給料は上がらないよね、なかなか。ということでどうも消費者心理としてはなんとなく暗いものがあるという感じがありますよね。そういう厳しい経済環境の中にあって今回は企業の体力をとにかく強くするということに努め、厳しい経済環境を乗り越えてきた企業のリーダーにおいでいただきました。

インターネットの爆発的な価格破壊力を武器に金融業界で急成長を遂げてきた企業グループがある。創業16年目を迎えたSBIグループである。

金融サービス事業 / アセットマネジメント事業 / バイオ関連事業

北尾創設する時に考えてたことがほとんど具現化してきたと。

北尾成長産業に投資する。あるいは日本においてそういうものを作らないといけないと思うところに投資する。

北尾いろんな種をまいてきたバイオ事業です。これをなんとか花咲かせたい。

3つのコア事業でさらなる飛躍を目指すSBIグループを率いるリーダー北尾吉孝に迫る。

白石本日のゲスト、SBIホールディングス株式会社代表取締役執行役員社長の北尾吉孝さんです。よろしくお願いいたします。

北尾よろしくお願いします。

白石早速なんですが、SBIホールディングスの特徴を一言で言いますとどのような会社ですか?

北尾21世紀の成長産業を形作っている会社。

諸星成長産業のモデルって言うんですか?

北尾モデルも作ってますしそして産業自体も作っていると。

諸星自信がすごいですね。

白石ということで番組では企業を象徴する3つのキーワードで進行させていただきます。最初のキーワードは何でしょうか?

100年企業を目指す 「継承の美学」

ファンの夢をつなぎたい
「ジャパネットたかた」の創業者、髙田明氏はこの春、サッカーJ2「V・ファーレン長崎」の再生に向けて、陣頭指揮を執り始めた。68歳での新たな挑戦である。通販業とは異なる事業の再生を請け負うことに迷いはなかったのだろうか。

「引き受けさせていただいたのは巡りあわせただと思います。望んだわけではありません。県民の地元サッカークラブに存続してほしいという切なる願いや夢をつないでいきたいと思ったのです。佐世保が本拠地のジャパネットたかたは長崎県や県民の方に大変お世話になっています。巡り合わせとは言いましたが、サッカークラブへの支援は必然でもありました」

髙田氏は2015年1月に長男の旭人氏に社長を譲り、ジャパネットの経営からは身を引いていた。サッカークラブの再建のため、ジャパネットのチームに対する持ち株比率を19%から100%に引き上げ、全面的に責任を持つ。ジャパネットにとっても大きな決断だった。

「支援については旭人社長と話し合いながら決めました。持ち株比率が100%になることでサッカークラブの再建が難しくなっては、ジャパネットにも大きな影響が及ぶ。ジャパネットからいい人材をクラブに出したいが、本体の経営もおろそかにするわけにはいかない。社長が『誰にやってもらおうか』と言うので、私がやるしかないと考えたのです」

しっかりクラブを再建しなければ、長男に任せたジャパネットの経営は揺らぐ。自分でできることなら一肌脱ごうと考えるのは髙田氏が言うように「必然」だったろう。

スポーツとビジネスミッションは同じ

「ジャパネットの拠点は長崎県北部ですが、クラブは県央の諫早にある。さらに県南も含めて長崎全体で盛り上げていきたいと考えています」

30年近くカリスマ経営者として通販会社を引っ張ってきた経験はサッカークラブの経営に生かせるのだろうか。髙田氏は野球のほかテニスやサッカー、フィギュアスケートなどスポーツ観戦は好きだが、これまでスポーツに深くかかわってきたわけではない。

「スポーツは通販事業と異なる業界ですが、私が30年間働いたビジネスの世界とミッションは共通しているのです。スポーツはただ単に強くなるためだけにやっているのではありません。強くなり、ファンに感動してもらい、喜んでもらうのがミッションです。ジャパネットが30年間求めてきたのも、商品の先にある感動をお伝えし、商品を手にしたお客さまに幸せをお届けすることでした。利益はその結果にすぎません。スポーツもビジネスも目指すものは同じなのです」

2016年度に過去最大の赤字に陥ったサッカークラブをどう再生させようとしているのか。

「前のチームにも強くなりたいという夢はあったと思います。確かに夢は必要ですが、目の前の課題を解決するということができていなかったのではないでしょうか。ジャパネットでは年間、一歩、一歩ずつ、その日にしなければならないことをやり続けてきました。残すものは残すし、断捨離もする。決断する時はスピード感をもってやる。チームの再建も同じことだと思います」

引退後も続く挑戦「明はまだ生きている」

30年間 一歩、一歩ずつ

サッカーチームのミッションとビジネスのミッションは同じだとしても、サッカーチームの経営は髙田氏にとって未知の世界だ。他のクラブチームの視察や観戦に全国を回る日々だ。取材の翌日は、湘南べルマーレとのアウエー戦の観戦に神奈川県平塚市に向かった。今では月の半分以上が出張となった。

勉強に次ぐ勉強です。そもそもテレビ出演をやめた2016年1月以降、私の生活は大きく変わりました。それまでは番組の収録のために90%はスタジオのある佐世保で働き、佐世保の外に出ることはあまりありませんでした。テレビ出演をやめてからは講演などを引き受け、全国いろんな地方にお邪魔することが多くなりました。その先々で学んでいます」

髙田氏はジャパネットの社長を退いた2015年1月、「A and Live」という会社をつくった。
「Aは髙田明のA。「明はまだ生きている」という意味だと髙田氏は冗談を言う。妻には「あなたが講演?やめた方がいいのでは」と言われながらも、新会社を拠点に全国を講演で回るようになったのだ。

「岡山の井原市に初めて行って、地元産業のデニムに触れて、これはいいと感動しました。日本中にまだ広く知られていない商品を発掘して紹介する『おさんぽジャパネット』で井原のデニムは売れないかと考えたりするようになりました。講演で初めて訪れた土地も数多いです。今では日本地図を見なかが勉強し、楽しんでいます」

ジャパネットの出演を辞めた後も髙田氏は「おさんぽジャパネット」の出演は1、2か月に1度ぐらいは続け、地方の活性化に力を注いでいる。

それに今度はサッカーチームの視察が加わりました。ファンとの交流の在り方、地元自治体との連携、スタジアムの運営方法など参考にさせていただくことはたくさんあります」

「資産運用を バリアフリーにする」 日本の個人投資の変革目指す

企業へのきっかけはフィンテックの米国ニュース

海外の経済ニュースに目を通す日々が続いていた。それは甲斐真一郎氏が外資系投資銀行で金利デリバティブ取引のディーラーをしていた2015年の初頭だった。顧客はヘッジファンドが中心であったため、海外ニュースを常にチェックしていた。そこには見慣れない「Fin Tech(フィンテック)」という言葉が溢れていた。日本ではまだ金融機関の人間でさえもほとんど知らない言葉だった。甲斐氏は「おもしろい」と直感し、新たな金融分野における技術革新の可能性を調べ始めた。甲斐氏は06年に外資系投資銀行のディーラーとなり、10年目に入っていた。ディーラーの働きぶりも08年のリーマンショックを経て大きく変わった。ディーラーに求められる役割も徐々に変化し、甲斐氏は小さな違和感を持ち始めていた。新しいビジネスの種を見つけたくなっていた。

「日本の金融が抱えている課題を新しいテクノロジーを使って解決し、新しい金融産業が生まれるのではないか」

甲斐氏はフィンテックに期待を寄せた。日本の金融の課題とは何だろうか。預貯金は1000兆円もあるのに証券投資に向かう個人資産は限られている。高齢化社会に突入し、効率的な資産運用が求められるはずなのに、現実は低金利の預貯金に甘んじている多くの消費者たちがいる。「日本人は投資リテラシーがない国民なのだろうか」と自問自答した。

日本人は投資嫌いではない 仕組みが分かりにくいだけ

国民的娯楽であるパチンコがある。ビットコインもFXも日本の個人投資家がけん引している。先物取引を発明したのは大阪商人。「日本人は投資嫌いだ、というのは事実なのか。顧客が悪いのではなく、サービスプロバイダーや金融商品そのものに問題があるのではないか」。甲斐氏はそう確信した。誰もが使いやすいプラットフォームと金融商品を革新的なITで作り上げれば、投資家は増えるはずだと考えた。

「資産運用をバリアフリーにする」

進むべき事業のコンセプトが固まった。起業への動きは素早かった。新事業を考え始めて半年後には会社を退社し、本格的に起業の準備に入った。
投資銀行時代の友人やそのまた友人に声をかけていった。

「使いにくい、分かりにくい仕組みをテクノロジーで変えていく。証券会社をゼロからつくるプロシジェクトだ」

技術者にはワクワクする開発テーマである。その中のメンバーの一人がその後、現在FOLIOでプロダクトマネージャーを担当する広野萌氏だった。広野氏は日本最大級のハッカソンで最優秀賞を取り、ヤフーに入った逸材。顧客が使いやすくデザインするUIや顧客体験の面白さを高めるUX(ユーザー・エクスペリエンス)の専門家だった。

奇跡だった 凄腕デザイナーの獲得

共同創業者8人で起業したのは12月。

「UIやUXの何たるかも知らなかった僕ですが、広野を獲得したことが奇跡でした。『資産運用をバリアフリーにする』という目標を実現するには彼なしには難しかった」

と甲斐氏。友達の友達が芋づる式に集まり、すごいエンジニア集団が出来上がった。
FOLIOが17年7月から始めたオンライン証券サービスの特徴は①10万円という小額から株式投資ができること②個別企業の株を売買するのではなく、「ドローン」「人工知能」「サイバーセキュリティ」などのテーマごとにFOLIOが独自のアルゴリズムで選んだ銘柄をまとめて売買できることなどだ。

投資家が応援したいテーマ、関心のあるテーマの関連株をまとめて売買できるので投資が最適分散され、リスクは減る。証券投資を安心して始められるのだ。また小額投資を実現するために、一株から売買できる「単元未満株制度」を活用しテーマごとにまとめて売買、管理する独自のトレーディングシステムを作り上げた。

webサイトもユニークだ。買いたい株のテーマが決まれば「カート」に入れるプロセスを導入し、ECサイトで買い物をするような感覚で株を買えるようにした。オンライン証券としては全く新しいUXを実現したのだ。
ワクワクするようなUIやUXを高めるためにサイト上の文章やアイコンの色、デザインはすべて社内のデザイナーが制作した。美や健康などのテーマなら清潔感が出るような色で統一するという。

金融・証券会社がwebサイトをつくる場合、大半は外部のデザイナーやソフト技術者に委託するのが一般的だが、FOLIOは自社制作にこだわっている。その理由を甲斐氏はこう説明する。

「金融サービスのUI/UXの構築は、非金融サービスと比較して非常に難しいんです。専門用語がちりばめられ、プロダクトが多岐に渡り、お客さまが誤解しないようにしっかりと説明を果たさなければならない。きれいなだけではダメ。使いやすいだけではダメ。複雑に絡み合う論点を全てクリアして、全てのお客さまに満足して頂くサービスを創りだすには、非常に深く濃い議論が必要なんです」

システムを内製しているため即時性のあるテーマにも柔軟に対応できる。例えば「火蟻」というニュースが出れば、それに対応したテーマも数日で組成できるという。またwebサイトの書き込む金融取引についての注意事項などもデザイナーが文章を書く。

「金融知識を学んだデザイナーが読みやすいフォントを選び、分かりやすい語句を使って、文章を練り上げるから、とても読みやすくなる」と甲斐氏。

確かに銀行や証券会社のwebサイトをみると注意事項が細かい字で書かれていたり、難しい金融用語が使われていたりで、金融商品を正しく購入できているのかと心配になる。そんな不安を取り除けば、もっと投資にお金が回っていくのかもしれない。

「経済圏」にある金融商品を「生活圏」に持ってくる

甲斐氏は「経済圏」と「生活圏」という言葉を使う。経済の専門用語がび交う経済リテラシーが必要な世界とそうでない世界という意味だ。

「日本では消費者に経済リテラシーを教育して、経済圏にある金融商品を買わせようとしている。大人になって勉強を押し付けられても。やるなら経済圏にある金融商品を分かりやすくして生活圏に引き直してあげる方がいいのでは。FOLIOはそれを目指している」
課題解決の具体策を提示し、実行しようと動くのが甲斐氏の流儀である。

つまり甲斐氏は①日本の金融市場にある課題を明らかにする②消費者のペイポイント(困り事)を見つけて掘り起こす③具体的に解決する、というサイクルをとどんどん回してきたのだ。

「ずっとそう考え、行動してきたら自然にこうなった」

一見、ユニークな事業に見えても当然の成り行きだと言いたげだ。
60人ほどの社員のうち大半はデザイナーを含めたエンジニア集団だ。一方、法学部卒だが「がっちり理系です」と自任する甲斐氏は起業するまでの間、ディーラーとして働いた金融の専門家。社内の会議は「ものすごく議論する。すごいエンジニア集団である彼らをとっても尊敬しています。彼らの提案は自分の考えと違うことも多いが、論理的に議論を戦わせ、どっちの提案に納得感があるかを考えると、みんなが合意できる方向に向かっていく」

甲斐氏は言う。「自分たちの商品に自信を持ち、仲間を尊敬し、作り上げた商品を好きになることが大事ではないでしょうか。そうすれば自ずと最良の結果となり、ゴールに近づけます」

もちろん上場を目指している。「過去になかったようなすごい上場をしてみせます」。FOLIOが金融界の革命児になるのを早く見たい。

宇宙ビジネス拡大へ 「衛星との通信支える黒衣になる!」

小型化・コスト減で拡大見込める宇宙ビジネス

宇宙から地球を眺めればいろんな情報が得られる。例えば気象のきめ細かい変化を捉えれば、より正確な天気予報ができる。災害を予知し、人命を救うこともできる。一方、人工衛星の小型化で1基あたりの製造・打ち上げコストはかつての数百億円からその100分の1にまで下がってきた。宇宙ビジネスのニーズとシーズかが重なり合い、一気に拡大しそうな雲行きだ。
米国の起業家、イーロン・マスク氏、日本でも元ライフドア社長の堀江貴文氏らが宇宙ビジネスに多額の投資を始めている。人工衛星や打ち上げロボットの開発が熱を帯びる。

宇宙ビジネスのベンチャー企業、インフォステラ(本社・東京)も拡大する市場に参入しようとしている企業だ。だがインフォステラが目指すのは、多くの企業が開発に鎬を削っている人工衛星や打ち上げロケットの開発分野ではない。インフォステラ代表取締役の倉原直美氏はインフォステラのメインサービス「Stellar Station」(ステラステーション)は、「地上で宇宙産業を支える分野です」と言う。

宇宙ビジネスには人工衛星、それを打ち上げるロケット、そして地上側で衛星がとらえる情報を受け取る衛星運用ビジネスの三つがある。どちらかと言うと派手な分野が人工衛星づくりやロケットの打ち上げ。それに対し、地上での運用ビジネスは地味でプレイヤーも少ない。倉原氏が大学の研究者だったころやりたかったのはやはり「衛星」だった。

だが、今後、宇宙空間に数多くの人工衛星を打ち上げてもそこで得られた情報が地上に伝えられない、あるいは伝えるにはコストがかかる、という事態が予想されるという。
赤道上空3万6千kmを飛ぶ静止衛星ならば地球上の同じ地点からいつでも見ることができる。しかし静止衛星は大型で打ち上げコストが巨額になる。一方、今後成長が見込める小型衛星は高度400〜1000kmの低軌道を飛ぶ周回衛星だ。地球上をぐるぐる回っているから同じ地点からは常時、捕捉はできない。

人工衛星からの情報は地上のアンテナが受け取る。衛星がアンテナ上空を飛んでいる間しか通信はできず、その時間は約10分。一日に4回ほど地球を回るので通信可能なのは1日に約40分だけだ。
人工衛星を打ち上げた会社(あるいは大学や研究組織)がアンテナを地上に1基しか持っていないとすれば、衛星から得られる情報は40分
で通信できる分。それでは人工衛星もアンテナも不稼働な時間が多く効率が悪い。地球上に40〜50基のアンテナを設置すれば常時、通信はできるが、コストがかかりすぎる。1基数百万円〜数億円程度のアンテナを世界各国の法律や規制をクリアしながら建てるのは至難の業だ。

地上との通信コスト 宇宙ビジネスの制約要因

倉原氏は「宇宙ビジネスにとって、地上との通信が制約要因なのです。この課題を解決しなければ宇宙ビジネスのサービス価格は高いままで、利用は広がりません。私たちはこの課題を『アンテナのシェアリング』という考え方を取り入れて解決しようとしているのです」と話す。

世界の人工衛星運用会社が持っているアンテナをシェアすれば、宇宙と地上との間で効率的に通信をするプラットフォームができるというアイデアだ。一つのアンテナは1日に40分しか稼働していない。残りの23時間20分を他の多数の人工衛星との通信に使い、その時間をそれぞれの人工衛星運用会社に提供すれば、人工衛星運用会社も、アンテナ保有会社も効率的な運営が可能になり、サービス価格を下げることができる。
倉原氏は目指す世界をこう説明する。

「インターネットが登場し、いつでもどこでも情報がやり取りできる世の中になりました。その結果、様々なサービスが生まれ発展した。比喩的に言うなら、宇宙ビジネスに『インターネット』のようなプラットフォームをつくり、ユーザーの裾野を広げたいのです」

その昔、インターネットにつなぐには一回ごとにダイヤルアップ接続をしていたが、常時接続が可能になり、一気にサービスが広がった。宇宙ビジネスでもいつでもどこでも人工衛星から情報が得られる仕組みができれば、飛躍的な利用拡大につながると倉原氏は見ているのだ。
倉原氏が「アンテナをシェアする」というアイデアを思いついたのは、10年ほど前。九州工業大学大学院で人工衛星の研究をしていたころだった。欧州宇宙機関(ESA)が主導したプロジェクトに参加した。各国の大学生が連携して人工衛星のための地上局ネットワークをつくプロジェクトだった。それぞれの大学が持っているアンテナをシェアしてお互いに助け合おうという狙いだった。

「当時からアンテナ問題を解決しないと宇宙利用は広がらないという問題意識は共有されていました」と倉原氏は振り返る。

その後、博士号を取り、東京大学特任研究員となった。小型衛星開発プロジェクトの地上システム開発マネージャーを務め、地上運用システムの構築を担当した。「地上派」として活躍し始め、13〜16年まで衛星管制システムで世界最大手のインテグラルシステムズの日本法人に就職。ここでも放送衛星、通信衛星を地上で支える役回りを演じた。
この間もずっと「アンテナをシェアする」事業の可能性に思いを巡らせていた。世界最大手の衛星管制システム会社にいたが、収益が確実に見込めると保証できない事業の立ち上げは難しそうにみえた。

すごく面倒くさい だから誰もやらない

ロケットや衛星の黎明期はすぐ目の前なのに、宇宙ビジネスの地上側の課題は未解決のままだった。だが世界各国の多くのプレーヤーたちに「アンテナをシェアしませんか」と声をかけ、それを運営する仕組みを作り上げるという事業には誰も踏み出せずにいた。また学生時代に関わった国際プロジェクトはボランティアべースの取り組みで、プラットフォームを長期的に維持するための組織には発展していなかった。

「すごく面倒くさい仕事なのです。だから誰もやらない。でも必要な仕事です。実現するには自分で起業するしかないと覚悟を決めました」

2015年の春ごろだった。倉原氏は知人の紹介でベンチャーキャピタルの専門家に相談したり、宇宙関係の知り合いに「一緒にやりませんか」と声をかけたりし始めた。
CEO(最高経営責任者)の倉原氏に加えて、共同創業者になる石亀一郎・COO(最高執行責任者)と社外取締役の戸塚敏夫さんが自己資金で会社を設立したのが16年1月だった。
「起業は未知の世界だった」(倉原氏)。石亀さんには起業経験があり、戸塚さんは会社経営者だった。事業計画づくりなどでは助けてもらったが、「何から何まで大変だった」と言う。

外部から合計8億6000万円の資金調達をし、今では17人の陣容に。国内外から優秀で英語が堪能な技術者たちが集まった。
「グーグルを辞めたソフトウエア技術者らが来てくれました。最小限の人数ですが、横断的なコミュニケーションを取って、助け合いながら仕事をこなす態勢をつくりました」。倉原氏は、最少人数で大きな夢を実現しようと知恵を絞る日々だ。
倉原氏の宇宙への憧れは、小学生のころから。1990年にソビエト製の宇宙船に乗り込んだ秋山豊寛さんをテレビで見て、宇宙飛行士になりたいと思った。航空宇宙工学科を目指したが、第一志望に落ちて、九州工業大学へと進む。だが「ラッキーでした。九州工大で人工衛星の研究室に入り、今につながりましたから」。大学進学で思い通りにいかなくても、倉原氏は夢を追い続けた。

17年末、東京・渋谷のインフォステラ社内は熱気を帯びていた。年早々のサービス開始に向けてシステムづくりが佳境を迎えていた。倉原氏も海外の客との折衝で世界を飛び回る。米国でも同じようなサービス提供を目指す会社が生まれた。急がねばならない。

「できるだけ早くサービスを立ち上げ世界で一番手になります。3年ぐらいのうちに宇宙ビジネスを手掛ける会社はみんなインフォステラをプラットフォームとして使っているという立場になりたい。みんな使っているけれどもインフォステラの名前は知らないというような黒衣になるのが夢です」。あくまでも縁の下の力持ちを目指す倉原氏である。