アジアは「世界の成長センター」、日本は今こそ内需拡大に積極協力を 麻生首相の「アジア経済倍増計画」は戦略性に欠け「本気度」がポイント

 麻生太郎首相が4月9日、日本記者クラブでの会見で発表した2020年までにアジアの経済規模を今よりも倍増させる、という「アジア経済倍増計画」構想は、着想の面白さがある半面、率直に言って、戦略性や構想力の深みのようなものに欠ける。その構想は、G20金融サミットを受けたアジア首脳会議向けのものだが、どう見ても政権の再浮揚を図る思いつきの構想という面がぬぐえず、今後の「本気度」が試されるところだ。
 ジャーナリストの好奇心もあって、私は麻生首相の記者会見に参加した。その日、日本プレスセンターにある記者会見場は、政局がらみもあってか、新聞社やテレビ局が数多く集まり、ごった返していた。冒頭、麻生首相は、「100年に1度の経済危機だが、ピンチをチャンスに変えることができる国が大きな繁栄をつかむことができる。そこで、この機会に、新たな成長戦略として、2020年までの伸ばすべき産業分野の姿や実現の道筋を示したい」と語り、「日本経済の未来開拓戦略」、そして「アジア経済倍増へ向けた成長構想」という2つにしぼって問題提起した。
このうち、「日本経済の未来開拓戦略」に関しては、新聞のヘッドライン、見出しで言えば「低炭素革命で世界をリードする国」として太陽光世界一プラン、エコカー世界最速普及プラン、「安心・元気な健康長寿社会」として30万人介護雇用創出プラン、地域医療再生プラン、「日本の魅力発揮」としてキラリと光る観光大国、日本のソフトパワー発信といった盛りだくさんなプランだ。
このあたりは、わずか1年で政権を放り出した安倍晋三元首相、福田康夫前首相が政権の戦略プランという形でかつて打ち出したものと大差ない。プランはいずれも実現すれば、日本が面白い国になることをうかがわせるが、問題は、どこまで実効性があるのか、財政面での裏付けはどうかといった「本気度」のところだ。麻生首相が打ち上げた構想にも、そこがよく見えなかった。

アジア広域インフラ整備に日本の民間投資向かうよう2兆円の貿易保険枠設定
 そういった点で言うと「アジア経済倍増へ向けた成長構想」も似たようなところがあるが、麻生首相の構想のポイントはこうだ。
「アジアは21世紀の成長センターだ。この4年間で、人口が1億3000万人も増え日本と同じ人口規模の国が誕生するペースだ。それら人口の中核となる中間所得層が着実に増えつつある。その中間層が安心して消費拡大に取り組めるように、社会保障などのセーフティーネットの充実、教育の充実などが必要だ。日本でかつて、池田勇人内閣が所得倍増計画を打ち出し、高度成長経済へのきっかけをつくった。そこで、日本としてはアジアの内需拡大によって経済を2020年に倍増することをめざし、対等の立場で応援していきたい」と。
問題提起自体は悪くない。それよりも、聞きたいのは、どのようにして、アジアの経済規模倍増に貢献するか、という点だ。  麻生首相は記者会見で、その点に関して、インドのムンバイ――デリー産業大動脈、メコン川流域諸国によるメコン総合開発、インドとメコンをつなぐ産業大動脈、さらにインドネシア、フィリピンなどのBIMP広域開発といったさまざまな地域の開発計画などをつなぎ合わせ一体的に広域インフラの整備などを進めれば、成長の起爆剤になっていく。日本としては、アジアの広域インフラ整備に民間投資資金が向かうように2兆円の貿易保険枠を設ける、と述べた。

アジア域内で広域インフラ整備は進みつつあり 日本提案はインパクト不足
 アジアの内需拡大を図ることが、アジアを「世界の成長センター」として持続させるポイントであるというのは正しい判断だが、麻生首相の主張は、日本として、アジアの各地域で芽生えつつある開発計画や開発地域を連携させるため、物流や港湾、電力、工業団地などのインフラ整備を広域にわたって一体的に進めればどうか。それによって投資が投資を生む形で内需拡大につながっていく。そのため日本からの民間投資がカギを握る。政府としては貿易保険枠でリスク回避のサポートをするので、官民あげてのアジア内需拡大協力も可能、というシナリオだ。
しかし、私に言わせれば、広域インフラ整備の話は、やらないよりはやった方がいいことは事実だが、何とも戦略性や構想力の深みのようなものに欠ける。というのは、この種の話は、すでにアジアでの域内協力の形で進んでいる面もあり、日本が声高に、「アジア経済倍増へ向けた成長構想」という形で打ち出しても、アジアには強烈なインパクトを与えない。むしろ日本はやっと動き出したか、という受け止め方に終わる、と思う。
 1つの例をあげよう。私が数年前、アジア開発銀行のメディアコンサルタントして、さまざまなプロジェクトにかかわった際、麻生首相が記者会見で挙げたメコン川流域諸国によるメコン総合開発に関しては、すでにかなりプロジェクトが進んでいた。具体的には東西回廊や南北回廊といった、さまざまな経済効果を生み出す「経済道路」を建設したり、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、ミャンマー、それに中国という関係国間の税関手続きの簡素化など、ある面で将来のメコン経済圏をめざす取り組みだ。

中国はメコン経済圏の戦略的重要性に気づき、日本と違って攻勢かけるすごさ
 もちろん、日本も政府開発援助(ODA)を通じて、インフラ整備に協力していた。しかし、当時感じたのは、日本は援助の発想しかなかったこと、道路建設やメコン川にかかる橋の建設にかかわっても、その面で、つぎ込む技術力などはすごいものの、逆にメコン経済圏という新しい経済共同市場設立のために、戦略的に、いい意味でのリーダーシップを果たすといった発想や行動があまり見受けられなかったこと、どちらかと言えば、プロジェクトへの資金協力をたまに打ち出すのが印象に残ったぐらいだ。
この点に関しては、第2回のコラムで「日本は現代版三国志型の日米中連携を、アジアの地殻変動を受け止めASEAN(東南アジア諸国連合)ベースの外交戦略軸が重要」という話を書いたので、参考にしていただきたい。しかし率直に言って、日本の対応の遅さはひどい。それに対して、中国はいち早く、このメコン経済圏の戦略的な重要性に気が付き、雲南省の地域プロジェクトを北京中央の国直轄プロジェクトに切り替え、中国のASEANにむけての南下戦略の中核に位置付けて、今やさまざまな攻勢をかけている。

日本はアジア地域経済統合に向け戦略提案も、G20前に事前会合開催すべき
 といった意味で、私が言いたいのは、麻生首相が記者会見で掲げた広域インフラの整備、アジア総合開発だけでは旧来のハコもの整備の発想と同じであること、むしろ戦略的な構想力がアジアにとっては重要であること、政治を切り離して、まずは経済連携で進めること、ハードとソフトを組み合わせたアジア全体の地域経済統合への一環として、経済共同市場づくりには、こういった政策連携の準備があるとか、アジアが強い関心を示すテーマはいくらでもある。問題は、日本が先導的にリーダーシップを発揮できるかどうかだ。
アジアは10年前のアジア通貨・金融危機を通じて、さまざまな「学習効果」をもとに欧米諸国に依存しないでもたくましく成長できるようなアジア域内経済システムづくりに強い関心がある。今回の米国発の金融危機に端を発したグローバルリスクに対しても、アジア独自の成長モデルづくりを考える時期にある。そういったときに、日本が「アジア経済倍増へ向けた成長構想」を打ち出すのはタイムリーだが、現実問題として、戦略性に欠ける点が問題のように思うのだ。
ところが、日本の出鼻をくじく事態が思わぬことが起きた。麻生首相が構想打ち上げを予定していたタイでの東アジア16カ国首脳会議、正確には ASEAN10カ国+3(日本、中国、韓国)+3(インド、オーストラリア、ニュージーランド)首脳会議が運悪くタイの反政府デモ拡大で急きょ、中止になってしまったのだ。このため、アジアの首脳を前にした日本の構想打ち上げは不発状態のままとなっている。まだ、チャンスはあるのだから、麻生首相は、もっと中身のある「アジア経済倍増へ向けた成長構想」にすべく構想練り直しをしたらどうか。
それと、4月2日のロンドンでの金融サミット、G20にはアジアからも日本、中国、韓国、インド、インドネシア、それにオーストラリアが参加した。しかし、残念なことに日本は自らリーダーシップをとって、G20に向けたアジアの主張を束ねる会合を事前に開催するとか、戦略的な提案づくりで中国やインドといった新興国と打ち合わせるといったことなどをやれていない。日本は、そういった意味で戦略的な構想力がないと言われても仕方ないのでないだろうか。私が心配するのはそういったことだ。

週刊新潮は休刊か廃刊でケジメを、大誤報はメディア不信につながる 編集長名「誤報検証」は取材力のなさ証明、確認取材不足や事実誤認は致命的

 新潮社発行の週刊新潮の早川清編集長が4月23日号で「朝日新聞『阪神支局』襲撃事件で『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」と誤報を認め、なぜそうなったかの検証記事を書き、メディア関係者のみならず一般読者に衝撃を与えた。2009年2月5日号から4週間にわたり掲載した「私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した」との実行犯の手記がセンセーショナルだっただけに、それが実は誤報だった、というのは驚きだ。
しかし週刊新潮の問題処理はひどすぎる。週刊誌のお騒がせジャーナリズムのスジの悪さが浮き彫りになる。最近、日本テレビの「真相報道バンキシャ!」の岐阜県の裏金問題に関するスクープ報道が、実は告発発言をうのみにした裏付け取材なしの誤報だったことが判明したばかり。こういったことが重なれば、一般の人たちからメディアは救いようのない存在だとメディア不信につながることが一番こわい。
このコラム30回目でも「スクープ狙い、タイムプレッシャー、巧妙心がメディアの誤報を生む」と問題指摘したが、今回の週刊新潮の報道は4週にわたっていて、その間、当事者の朝日新聞からも報道内容に関して疑義が提起されていたにもかかわらず、「報道がすべて」といった形で対応し強気の姿勢を崩さなかった。それだけに、今になって「私たちは騙されていた」というのは、全くいただけない。週刊誌といえども報道の立場にあるだけに、自分たちが被害者といった位置づけは情けないことだし、許さるべきでない。
私は、新潮社がこの際、責任をとる形で、まず、問題記事を全部訂正し抹消しておわびするという出版社としてのけじめをすると同時に、「週刊新潮」を休刊もしくは廃刊にする毅然とした責任の処し方が必要だ、と思う。

元米大使館職員からの指示されたくだりから雑記記事に違和感
 率直に申し上げよう。朝日新聞「阪神支局」襲撃事件に関しては、私は、朝日新聞と毎日新聞と新聞社が違えども同じ新聞記者経験のある人間の立場からもショッキングな話で、いったい誰がそんなことを、という強い憤りを持っていた。しかし警察当局が徹底した捜査をしても犯人が特定できず、そのまま時効になってしまった難事件。それだけに、実行犯の手記が出た週刊新潮の最初の記事の時は週刊誌の調査報道のすごさかなと、むさぼるように読んだ。
ところが、次の2週目の号で、元米国大使館職員に指示された、というくだりを見てから、犯行動機に稚拙さがあるし、週刊誌報道そのものがうさんくさい感じがあるな、という印象を持った。そして朝日新聞が、この手記を書いた島村征憲氏から週刊新潮に届くかなり以前に、同じような獄中からの手紙をもとに、網走刑務所で島村氏本人に面会して裏付け取材した結果、お騒がせの虚言だと断定した、という記事を載せた。そこで、週刊新潮の報道は信ぴょう性がなく、どうも誤報であることは間違いない、と確信した。
 早川週刊新潮編集長のおわび記事によれば、朝日新聞の抗議だけでなく右翼関係者からも島村氏の言動についておかしい、との連絡があったという。さらに、元米国大使館職員からも、「島村氏と会ったことはあるが、借金の申し入れに応じただけで、犯行指示などあり得ない」と抗議があった、という。最終の4号までの間、いったん休載して、事実関係を再度、検証する時間的な余裕があったにもかかわらず、メンツがあったのか、無視して報道し続けたのは何ともおかしな話。

手記書いた島村氏の否定発言になぜ一時休載し事実再確認作業しない?
 極めつけは、島村氏が毎日新聞などのインタビュー取材に応じ、手のひらを返したように週刊誌での手記とは大きく異なる発言をしていることだ。具体的には「自分は朝日新聞阪神支局襲撃事件当時、北海道にいて、現場には行っていない」「(手記には「私が襲撃した」とあるが、との問いに)週刊新潮記者に『私が質問しますから、このとおりに答えてください』と紙を渡され、テープで録音されながら書いてあるとおりに話した」「最初の記事を見て怒り狂って記者の頬をはたいた。『言ってもいないことを、納得できんぞ』と。だけど、引っ込みがつかなくなった」「後悔なんてもんじゃない。乗ったおれはバカだけど、乗せたやつはもっと許せない」と。
これに対して、週刊新潮編集部の立場もあるので、この島村氏の開き直りともいえる発言に関しての反論コメントをつけておこう。早川週刊新潮編集長は、おわび記事で「島村さん、あなたが『自分は実行犯でない』と周囲に語っている、との情報がある。本当に、そんなことを言ったのですか?」と聞いたところ、島村氏は「ない。天地神明に誓って、そんなことは言っていない」と即答した。しかし、その後も島村氏が他のメディアに「想定問答を読まされただけ」などという事実無根の発言を行っていることには、怒りを通り越して呆れるほかない、と述べている。
このコラム30回目でも書いたが、メディアにとって、スクープ記事によって真実を暴いたり、制度の根幹に重大な問題があることを指摘することは報道機関の使命であり、取材に携わる記者にとっては最も血沸き肉踊る瞬間だ。しかし、そうしたスクープ報道の誘惑や巧妙心狙いなどが先行して、肝心の確認取材を怠り、その結果、さまざまな関係者を傷つけたり迷惑をかけるような事態に陥ることは厳に慎まねばならない。その意味で確認取材は極めて重要なことだ。

「週刊誌の使命は真偽がはっきりしない段階にある事象や疑惑を報道」は間違い
 早川週刊新潮編集長は、おわび記事で「(編集長という立場で)取材班に最初に伝えことが2つある、という。「島村氏はニセ者だという前提で取材し、すべてを疑ってかかること」「確たる証拠がなければ記事にしないこと」の2つだった、という。その判断は極めて正しい。問題はその取材姿勢を貫けたのかどうか、やはりスクープの誘惑が根底にあり、あいまいな部分を確認しきれないまま、大丈夫だろうという気持ちが先行したとしか私には思えない。
というのも、早川週刊新潮編集長は一方で、おわび記事の最後の部分で「週刊誌の使命は、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある」と述べている点に、今回の誤報に至った最大の問題があるのでないかと思うからだ。つまり、この発言を見る限り、週刊誌報道は、真偽がはっきりしない段階にあっても、ある面で問題提起の形で取り上げればいい、という安易さと危うさがある。これは明らかにお騒がせジャーナリズムだ、と言われても仕方がない。
 コラム30回目でも書いたように、過去には朝日新聞、毎日新聞、読売新聞などのメディアの誤報がいろいろあった。最悪なのは確信犯的なスクープ狙いの誤報だが、確認取材を怠っての誤報もメディアにとって重大な責任だ。

ロイター通信では2ソースからの確認取材を義務付け、速報よりも正確さ優先
 私が毎日新聞から転職したロイター通信で学んだことがある。日常の現場取材で、これはニュースと判断する際、必ず2つのニュースソースからの確認取材をすることを厳しく現場に求めていることだ。首相や財務大臣、日銀総裁が話した場合、ワンソースでも問題ないが、ある取材で担当部局でないところの情報ながらニュース性がある場合、ロイター通信では必ず責任部局の担当者、責任者の裏付けコメントをとることを義務付けた。
えっ、毎日新聞ではやっていなかったのかと言われそうだが、もちろん、そんなことはない。現場記者だけの判断だけでなく現場キャップ、さらには担当デスクも、重要なニュースの記事化に際しては、確認取材を重ねた。
ただ、ロイター通信の場合、常に速報性を求められる通信社の宿命があるが、それに振り回れず、まずはニュースの正確性の確保に主眼を置いた。だからマーケットの時代、スピードの時代、グローバルの時代という時代状況のもとで、たとえば為替の動きをめぐって東京マーケットが終わった段階での当局者の取材のあと、ロンドンやニューヨークのマーケットで一段の変動があった場合、追加取材が常識だった。新たな動きに当局の政策判断が変わるからだ。ことほど左様に、メディアの現場での確認取材は鉄則だ。真偽がはっきりしない段階での報道も、といった早川週刊新潮編集長の編集方針は許されないことだ。
 結論から申せば、早川週刊新潮編集長はおわび記事で、誤報に関しておわびしているが、編集長責任に関しては、後任が近々、バトンタッチするというだけで引責辞任する考えはないようだ。ましてや週刊新潮の休刊や廃刊にはいっさい言及せず、論外といった姿勢で、むしろ自分たちは騙された被害者なのだ、という意識でいる。
これに関しては、日本ではすぐにトカゲのしっぽ切りのように、責任者の処分などで問題の一件落着を図るのはおかしい、という議論もあるのは事実だが、過去に文芸春秋の月刊誌「マルコポーロ」が誤報事件で廃刊処分して、けじめをつけている。一般の読者が今回の問題をどう受け止めるかによるが、私は編集責任を明確にすることも必要だと思う。いかがだろうか。

日立製作所など大企業が自己資本増強で公的資金活用の動きはサプライズ 銀行の信用収縮下で政府の救済もやむなしだが、企業はビジネスモデル再構築を

米国発の金融危機のあおりで経営ピンチに立たされる米自動車ビッグスリーへの公的資金注入をめぐって、米国内では国民の税金を使っての企業支援に根強い反発がある。ところが、日本では政府が4月22日に改正産業活力再生特別措置法、略して改正産業再生法を国会で成立させ、自己資本不足に陥っている民間企業の資本増強を支援するための公的資金注入制度を打ち出した。米国と違って、ねじれ国会で自民、民主党の与野党とも賛成で、納税者の国民の強い反発もなかった。
 日立製作所、東芝、パイオニア、それに半導体のエルピーダメモリなどの大企業がさっそく、制度活用を表明した。これら大企業はいずれも瀕死の状態にあるわけでないので、この公的資金活用の動きには驚かされた。なにしろ国の資本参加を仰ぎ、大株主の一角に政府が入ることを事実上、受け入れることになるのだから、よく考えれば大変なことだ。
その一方で、国が公的資金を使って、民間企業の資本増強策に手を差し延べるということについての是非の問題もある。米国の自動車ビッグスリー救済とは一線を画すべきだろうが、国家が民間企業に公的資金注入して救済に動くというのは、国民経済にとっても、また企業自身にとってもプラスとはならない。国民の貴重な税金を無駄遣いしかねないこともあるし、企業の側の問題を先送りするだけということになってしまうケースも多い。だから、私は率直に言って、反対だ。

しかし今、メガバンクを含めた金融機関が、企業向け融資に関して不良債権化しかねない融資によって、自らの自己資本比率悪化を避ける、という理由で信用収縮に走っている極めておかしな現状がある。そうした中で、国が一時的に公的資金で資本増強のバックアップするのは、ギリギリのところ、やむを得ないかもしれない。

今回の企業救済は米国発の金融危機で影響受けた企業に限定だが、、、
 これだけ申し上げただけでも、今回の改正産業再生法がらみで、さまざまな問題が横たわっているのだな、ということがおわかりいただけよう。そこで、今回、ぜひ取り上げてみたいことがいくつかある。
まずは、国が改正産業再生法によって、資本不足に陥った民間企業の自己資本増強のサポートをする問題だ。
今回の改正産業再生法では、グローバルリスクとなった米国発の金融危機の影響で急に業績悪化を余儀なくされ自己資本不足に陥り、雇用リストラなどに手をつけざるを得ないような国民経済的に波及の予想される企業に対象を限り、いわゆる企業の自助努力欠如で恒常的に赤字決算体質を持っている企業は除く、ということになっている。
 早い話が、今回の米国発の金融危機を特別な事態と位置づけ、それら危機の影響を直接、あるいは間接に影響を受けた企業のうち、その企業の取引先企業、下請け企業数の多いさ、さらに雇用している従業員の数の多いさなどを勘案し、資本増強の面で緊急避難的かつ例外的に支援すること、という点に限定していることだ。
現に、支援企業を認定する権限を持つことになった経済産業省の幹部は「認定基準を明確にし、安易な救済だと批判を受けないようにする。少なくとも、資本増強の対象になった企業に万一、不測の事態があった場合、日本経済あるいは地域経済にとって大きなダメージと受け止められる企業に限定する」と述べている。

売上高が前年比20%減など4条件クリアすれば議決権なき優先株で資金
 その経済産業省幹部によると、認定の要件は4つほどあって、主なものは、たとえば金融危機の影響で売上高が四半期ベースで前年比20%以上減少という大きな打撃を被ったこと、連結ベースでの従業員数が5000人以上、あるいは基幹部品の国内シェアが30%以上の供給力を持つこと、といった全体の比重が高い企業などだという。
また、公的資金注入による民間企業への資本増強は、かつて金融システム不安解消のために金融機関に資本注入した際と同様、議決権のない優先株で行われる。裏返せば、議決権行使で経営に細かく介入しない、という。
米国発の金融危機がらみで一般企業への政府支援という点では、政府系金融機関の日本政策投資銀行(旧日本開発銀行)が2008年12月から緊急融資という形で政策的な意味合いを持つ政策金融をしている。その貸付額は1兆円を超すまでになっている。しかし今回のように優先株を通じた企業への出資というのは、金融機関への公的資金注入以外ではまだ例がない。
かつてのダイエーやカネボウといった大企業の企業再生にかかわった産業再生機構の場合、官民の資金で設立され、民間の企業再生プロの手で経営チェック、役員の経営責任を問うたあと大胆に企業再生に取り組むやり方だった。しかし、今回の場合、日立製作所を生体解剖して企業再生を第3者のプロがやるというのではなくて、あくまで米国発の金融危機に伴う資本不足などを公的資金注入で補う、というものだ。

税金を使っての私企業救済には大義名分が重要、産業再生につながることも
 ただ、個別企業への一時的な救済のために、貴重な国民の税金を使う明確な理由がなくてはならない。金融危機の影響で資本が傷んだ企業は、今回の局面でもかなり多くの企業が該当する。そこをどのように選別するのか、なぜ公的資金注入が必要なのか、やはり税金を使っての私企業救済となれば、しっかりとした根拠、理由が必要だし、それによってその企業がかかわる産業の再生にもつながる、という大義名分も必要になってくる。このあたりはとても重要なことだ。
 次に、ぜひ指摘したいのは、企業のビジネスモデル、国家の経済モデルという点で輸出立国型、外需依存型のモデルが半ば崩壊してきており、この際、新たな成長モデルをつくりあげる時期に来た、ということだろう。
今回の米国発の金融危機で興味深いことは、主要国の国内総生産(GDP)ベースで日本の落ち込みが最も大きい、とくに外需の落ち込みが響いたことだ。自動車、エレクトロニクスなどの輸出に比重を置いた企業の対米輸出の落ち込みなどによる収益の悪化はひどい。この自動車やエレクトロニクスなどの大企業にぶらさがった関連部品企業、下請け企業がもろに連鎖的に影響を被っている
日本にとって、輸出先として大きかった米国、中国、東南アジア諸国連合(ASEAN)などの国々が突然、自国の企業再建、雇用対策などから「バイアメリカン」といった形で自国産の生産物の購入義務付け、外国産ボイコットにまで向かう世界の貿易縮小というリスクは皆無と言えない。
それに、米国が今後、どういった経済再生を果たすのか、これまでのようなGDPの70%が個人消費という過剰消費、輸入依存の体質、それに世界中からマネーを吸い上げて経済を動かす金融立国モデルを続けるようであれば、またまた今回に似たような経済危機が再燃しかねない。日本は、むしろ、米国の過剰消費体質に見合った対米輸出依存型のモデルを新しいものに組み替えないと、今回のような同じ問題を引き起こしかねない。
それは中国向け輸出依存に対しても同じことが言える。もちろん、中国は新興国として、まだまだ成長が見込める国で、日本にとっても重要な輸出先市場であることに変わりがないが、かつての対米国輸出依存と同様、過度に対中国輸出依存を強めたままだとリスクだということだ。

米国や中国に過度の輸出依存するのではなく内需主導型「前川レポート」の再検討を
 日本は、確かに今後、人口減少に伴って市場規模が縮小していくため、外需依存をバッサリ削って、内需依存型の経済に100%切り替えなどというのは現実的な選択ではない。しかし、かつて1980年代に「前川レポート」という形で、日本の生き残り、経済のあり方として内需主導の経済に、というレポートを書いたのに、その後20年たっても、ほとんど経済モデル、ビジネスモデルの切り替えが図られていない。
そういった意味で、今回は、間違いなく切り替えを探るチャンスなのだろう。日立製作所などの企業が、この機会に、ビジネスモデルをどう変えるのか、21世紀を生き残るための新型ビジネスモデル、企業成長戦略の構築について、今回の公的資金導入に際して、ぜひ考えてほしいと思う。
 いずれにしても、日立製作所に限らず、企業は、資本不足に陥った原因について抜本的なメスを入れ、ビジネスモデルの再構築に取り組まないと、こういった公的資金頼みでは麻薬を吸い続けるリスクと同じで、ただ問題先送りするだけになりかねない。

金融機関は自己保身型のビジネスでなく産業支援融資を
 最後に、金融機関が信用収縮の形で自己防衛に走ることに関しても、注文を付けたい。日銀の幹部によると、昨年秋からずっと続いた現象だが、われわれがよく知っている大企業が日銀に入れ替わり立ち替わりでやってきて、さまざまな形での金融支援を仰いだ。要は、メガバンクを含めて、金融機関の対応がリスクをとりたくない、といった後ろ向きの姿勢で、この際、日銀からプッシュしてほしい、というものだ
同じことは、いろいろな企業サイドからも直接、聞いたので間違いない。資本市場が傷んでいるため、勢い、間接金融の金融機関に融資を仰ぐが、貸し渋りの形で門戸を狭めるという。
今回の政府による企業向け資本増強のための公的資金注入制度も、そういった民間金融の問題があることと無縁ではない。金融機関がリスクをとらずして、いったいどうするのかと思わず不満を言いたくなる。これは私1人のことでないだろう。

感染拡大が懸念の新型インフルエンザで危機管理策が一気に課題に 「豚インフル」呼称自粛も意外に重要、宗教のからみや食肉産業への影響などで

あっという間に新型インフルエンザが世界的な広がりを見せ、緊迫度を強めている。国連の世界保健機関(WHO)が4月29日夜、緊急会見し、世界的な感染拡大もあり得る、と警戒レベルを最悪レベル一歩手前の「フェーズ5」に引き上げると発表したためだ。目に見えないウイルスがどういった経路で感染拡大して最悪の場合、人の命を奪うのか、予測ができない。それだけに、パニックのような形で恐怖のシンドロームとなることだけは避けねばならず、危機管理策が重要課題となる。
そこで、今回は、新型インフルエンザの問題をきっかけに、いくつか危機管理のテーマが見えてきたので、それを考えてみよう。
意外に重要なのが今回のインフルエンザの呼称だ。当初、「豚インフルエンザ」という名称でメディアに出ていたが、ある日突然、新型インフルエンザに呼称が変わった。お気づきかどうかわからないが、朝日新聞が5月1日付の朝刊から、それまで使っていた「豚インフル」という呼称を新型インフルエンザに切り替えた。毎日新聞、読売新聞、日経新聞など主要新聞が数日前から足並みをそろえて変更していただけに、朝日新聞がいったい何にこだわりがあるのだろうか、と思っていたほどだ。

朝日新聞が5月1日付け朝刊から呼称変え新型インフルエンザに統一
朝日新聞2面の「ニュースがわからん! 新型インフルエンザって何?」で呼称変更した理由をやんわりと問答形式で書いている。参考になるので、そのやりとりを紹介しよう。 ――新型インフルエンザって、どういうものなの? A 人間が初めて出会うインフルエンザのウイルスで、人から人に感染するタイプだ ――豚インフルエンザという呼び方もあるみたいだね。 A 豚が持っていたウイルスが変化したものが、患者から見つかったからだ。インフルエンザは人だけでなく、鳥や豚など多くの動物が感染し、それぞれの動物になじんだものがある。豚は人と鳥の両方のウイルスに感染する性質があり、今回は豚の体内で、豚と人と鳥のウイルスの遺伝子が混ざったようだ。 ――厚労省は新型インフルエンザと言っている。豚インフルエンザじゃダメなの? A 厚労省が呼んでいるのは感染症予防法にもとづいた名前だ。ウイルス自体が最初に見つかったのは人間の患者で、豚ではないため、豚インフルエンザと呼ぶのは学術的にも正しくないのでないかと指摘している。 ――外国ではどう? A 米国でも農務長官が「病気が豚肉で伝染するとの誤解が広がっている」として、(風評被害がらみで)豚という言葉を使わないよう求めた。オバマ大統領も「H1N1」というウイルスの型の名前で呼んでいる。

イスラム教はコーランで豚を食べること禁止、宗教的トラブル避けるのは重要
 豚インフルエンザの呼称が学術的に正しいかどうか、科学的な根拠がどうかは二の次にして、危機管理がらみで言えば、意外に無視できないのは宗教のからみだ。豚はイスラム教コーランで不浄のものとされ、忌み嫌われている。食べることは、もとより禁じられている。ユダヤ教も同じく豚を悪魔の化身のように扱っているが、イスラム教国のエジプトで、この新型インフルエンザ問題をきっかけに宗教対立に発展している。少数派のキリスト教系コプト教徒が飼育する豚35万頭を全部処分する、という政府命令をめぐって警官隊との激しい衝突騒ぎに発展したためだ。複雑な背景があるだけにウオッチが必要だ。
世界最大の宗教人口を擁するイスラム教からグローバルなレベルでクレームがついたりすれば、もっと事態はおおごとになりかねない。ご記憶だろうか。日本の大手食品メーカーがインドネシアで現地生産していた化学調味料に豚由来の酵素が入っていた問題で、イスラム教関係者から強い反発が出て、そのメーカーは一時、苦境に立たされたことがある。
こういったことを勘案すれば、センシティブな問題に首を突っ込む必要はない、との判断が厚生労働省のみならず国際機関でも出てくるのは当然だ。WHOはいち早く呼称を新型インフルエンザに統一した。日本の厚生労働省も同様だった。イスラム移民人口が多い欧州連合(EU)も最近、宗教の問題とは別に、EU域内の養豚、食肉産業に及ぼす風評被害を最小限に食い止めるため、という理由で、豚インフルエンザの呼称を止め、新型インフルエンザに統一しようと呼びかけた。いずれにしても、危機管理という観点でみれば、感染予防対策に素早い対応をするといった問題とは別に、豚インフルエンザという呼称1つをとっても、重要な危機管理テーマがある、ということだ。

厚労省はめずらしく機動的対処、ただ過剰反応による不必要なパニックは回避を
 日ごろは年金や医療などの問題対応で、何かと批判にさらされる厚生労働省が今回の局面ではめずらしく機動的に動いている。世界的に感染拡大が懸念されたこともあって、舛添厚労相が危機感を強め、政治的なリーダーシップを発揮したのだろう。この点は、危機管理面でも重要なことで、率直に評価したい。
舛添厚労相は記者会見で、「危機に陥ってから対処では手遅れになる。その前にあらゆる予防的な措置をとることが危機管理だ」と述べていたが、その判断は極めて正しい。とくに今回のような感染性がどこまで強いのか見極めがつかないものの、確実に広がりを見せている状況に対して、早め早めに対処して、ピークの最悪時に備えることは必要だ。
ただ、俗に言う水際でのチェックという形で、空港などで海外から帰国した旅行客に厳しい検疫体制を敷くのは重要だが、過剰な検査でトラブルを起こすリスクもある。とくに検査で陽性反応が出た人に対して、それがほかのインフルエンザなのか、今回の新型のものなのかの見極めに数日かかるため、空港周辺の施設に隔離する。メディアがこれに過剰反応し大騒ぎしたりすると、場合によっては世の中全体をパニック状態に誘導するリスクが出てくる。この点は冷静な対応が必要だ。

中国のメキシコ人旅行客隔離で外交摩擦に発展、SARSの「学習効果」が災い
 ところが、逆に過剰反応が災いして、国同士の摩擦や対立に発展しかねない事態に陥っているのが中国での対処だ。上海経由で香港を訪れたメキシコ人旅行客の男性の感染が確認され、香港当局が男性の宿泊しているホテルを隔離状態にした。これを見て、中国政府がメキシコ――上海の直行便の到着受け入れ停止を決めると同時に、すでに到着しているメキシコ人旅行客約70人を強制的に隔離してしまった。これに対して、当然ながら、メキシコのエスピノサ外相が「科学的根拠のない差別的な人権侵害は問題だ」と反発した。
中国政府は「WHOの規定にもとづき感染防止のための予防的な措置だ。理解してほしい」と弁明した。中国が水際作戦で神経質になるのは、2002年から03年にかけて広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)の「学習効果」があるからだが、これも過剰反応がもたらした結果と言える。
中国当局はSARSが表面化した当時、社会不安から政治不安に発展するリスクの回避のため、意図的に情報開示を遅らせた面がある。これが被害を大きくし、経済混乱を引き起こした。そういった教訓を生かし、関係国が情報を共有できるようにすべきだ。
今回の局面では、メキシコに別の問題があった。国際報道をもとにしたもので、最終的なチェックは出来ていないが、それら報道によると、メキシコには十分な検疫、病原菌検査体制がなかったため、まず初期対応が遅れたこと、事態の異常さに気づき、急きょ、米国やカナダなど周辺国の検査機関に検査を依頼したが、それまでの間、感染予防体制がとれていなかったことなどだ。
裏返せば、他の新興国でもし、感染力の強い新型インフルエンザが発症した場合、検査体制のみならず危機管理体制にも課題を残すようなことがあるとしたら、空恐ろしい事態にもなりかねない、ということでもある。

発熱外来の窓口開設を要請されても医者不足で対応できないという自治体も
 日本で今回、意外なもろさをさらけ出したのは、厚労省が各自治体に対して、発熱外来という形で発熱して症状がおかしい、という住民の相談窓口をつくって下支えしてほしい、と要請をしたところ、医師不足で対応ができないといった自治体が出てきたことだ。まだ非常事態にはなっていないものの、もし、そういった医療制度のほころび部分が原因で大きな感染を未然に防止できなかった、という事態になったら、いったい危機管理はどうなっているのかということになりかねない。
そればかりでない。東京都内の病院で、発熱などの症状がある患者の診察を拒否されるというケースが相次ぎ、問題になった。毎日新聞が報じたところでは、東京都によると、病院側の対応にはいくつかパターンがあって、1つは患者が発熱したというだけでは診察対応できないこと、2つが感染者の出ていない国からの帰国で発熱したと言われても対応しきれないこと――などだ、という。ある病院関係者によると、新型インフルエンザかどうか、その感染に危惧がある場合には保健所がまず、対応するのが先決、同時に関係機関で必要なワクチン開発に取り組むべきで、発熱外来という形ですべて一般病院が対応するには限界がある、という。
何とも悩ましい問題だが、まだ、水際で何とか食い止めておれる段階でこそ、最悪の事態を想定して、危機管理体制をどうしたらいいか、しっかり検討すべきだろう。

インターネットは情報入手に有効な半面、過度に不安情報が飛び交うリスク
 危機管理面で功罪相半ばするのがインターネットの存在だ。かつて1918年にスペイン風邪で4000万人、1957年のアジア風邪では200万人、1968年の香港風邪では100万人の人たちが大流行で不幸にも亡くなった時期は、必要なワクチンの開発が遅れたりといった問題以外に、関係国間で情報の伝達が遅れたりとか、故意に不利な情報が隔絶されて事態の悪化を避けることができなかったとか、いろいろなことが重なった。
ところが現代のインターネットの時代には、情報がさまざまなルートで行きかうため、情報の入手も早く、当局の対応が遅れていれば、突き上げて最悪の事態回避に持ち込むことも可能だ。しかし、その半面であやふやな情報、不安をあおる情報などが飛び交い混乱に拍車をかけるリスクもある。
それと、さきほども述べたが、中国でのSARS発生時には、中国当局が社会不安から政治不安に発展するリスク回避のために、意図的に情報開示を遅らせたことが被害を大きくしたり、経済混乱を引き起こした問題は、中国にとっては、それなりの教訓となっている。しかし、さまざまな問題を抱える他の新興国で、仮に初期対応が遅れたりとか、事態の重要性に気づかなかったりとか、さらに最悪なのは情報開示を頑なに拒んだ結果、グローバルリスクに発展する。

危機管理の面で日米に大きな差、米国は「事故は起き得るもの」との前提
 最後に、危機管理という面で、興味深い話をしておこう。米国と日本では原子力発電所事故に対する危機管理意識、対策の打ち方が全く異なる。具体的には、日本では原子力に対するトラウマも加わって、原発事故はあってはならない、起こしてはならないという前提に立ち、行政当局は厳しい規制を加える。これに対して米国の場合、原発事故といえども事故が起きないということはあり得ない、むしろ起き得るものとして、それに見合った危機管理体制を組む。
ある原発危機管理シンポジウムで、米国の危機管理専門家が、この日米の違いを指摘して、極めて参考になった。つまり原発事故に限らずさまざまな事故への対応に関して、事故の未然防止に過敏な対応をするよりも、むしろ、事故は起きるものという前提で対応準備をしておくと、仮に事故が起きても機敏に対応しやすい。日本のように、事故は起きてはならないという前提で、行政が法規制し、現場もそれに沿った対応していると、もし事故が現実になると、あってはならないことが起きたとパニックに陥りやすい。
米国はその点、事故後の対応にもさまざまなマニュアルをつくっておくので、あわてず、パニックになることもない、というのだ。さまざまな民族、人種が同居する移民国家だけに、危機管理をフレキシブルにしておく方が対応しやすいということなのだろうか。そういえば、今回の局面でも、メキシコと隣接するにもかかわらず、米国は危機管理の面で柔軟対応でおり、大丈夫なのだろうかと思ったが、そういう背景があってのことだろうか。

経済財政諮問会議はマクロ政策の司令塔放棄?求心力回復は首相次第 何としても霞ヶ関省庁に横串刺して縦割りの弊害崩し族議員政治にも歯止めを

 日本のマクロ経済政策の司令塔を担うはずの経済財政諮問会議の雲行きがおかしい。ここ数年、何度も、政治サイドの横やりや行政官庁の省益優先の露骨な突き上げ行動で、司令塔トップの首相がぐらついて政策の機軸である「骨太方針」、正確には「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」自体に揺さぶりがかかった。しかし、今回はかなり重症だ。私は何としても、この政策司令塔を骨抜きにさせてはならない、と思っている。
 経済財政諮問会議はご存じの方が多いだろうが、もともとは森元首相のもとで発足した。しかしその存在に重みが一気に増したのは小泉元首相の時だ。今でも当時のことを憶えている。2001年5月の経済財政諮問会議で、当時の小泉首相が「構造改革なくして持続的な経済成長はない。政権の所信表明演説に盛り込んだ構造改革政策の大方針を肉付けするための重要な会議にする」と述べたのだ。

小泉元首相が首相当時、構造改革のテコに経済財政諮問会議を巧みに活用
 「自民党をぶっ壊す」と公言していた小泉首相には当時、したたかな計算が働いていたのは間違いない。政策面でアドバイザー役の竹中慶応大教授を政権に取り込んで経済財政担当相に起用したのも、その一環だったのだろう。そして、小泉首相は当時、構造改革を進めるには霞が関の縦割りの行政組織に風穴を開けて役所間の縄張り争いや省庁益を優先させる政策の枠組みを突き崩す、同時に既得権益にしがみつく族議員と言われる政治家にもクサビを打ち込む、それらを実現するには経済財政諮問会議をマクロ政策全体の司令塔にするしかない、と判断した。そこで、最初の会合で、小泉首相は、経済財政諮問会議が今後、すべてのマクロ政策を決めていく、とのメッセージを打ち出したと見ていい。
そんなことは知っている、と言われる方もおられよう。しかし重要なのは、首相の強烈なリーダーシップ、実行力だ。この司令塔がしっかりしていれば人を動かし、組織を動かす。とりわけ岩盤とも言われかねない霞が関の官僚組織、そこと密接に絡む族議員組織にクサビを打ち込む原動力になるのだ
率直に言って、私は小泉首相が進めた改革をすべて評価するわけでないが、当時、「骨太の方針」によって、それまでのマクロ政策の基盤が根底から変わった。現場で取材していた私たちジャーナリストから見ても霞が関の行政官庁の固い、固い岩盤が崩れるのが見えた。その点は素直に評価していい。ところが今、肝心の首相の指導力が欠けているため、経済財政諮問会議に求心力がなくなってしまっているのだ。ある面で、これは日本のマクロ政策の危機だと思っているので、今回のコラムでは、それをアピールしたい。

社会保障費の歳出抑制方針が「選挙が戦えない」という自民党圧力で骨抜き
 経済財政諮問会議がかつてのような存在感を失ったな、と思わず感じさせたのは、政府が今年6月23日の臨時閣議で決めた「骨太方針2009」での社会保障費の歳出抑制方針の撤回に至る政治プロセスだ。
要は、小泉政権当時の「骨太方針2006」で、少子高齢化によって毎年、1兆円規模での社会保障支出の自然増が想定されるため、財政健全化の観点から07年度以降、各年度で2200億円、合計5年間かけて社会保障関係の歳出を抑えると決めていた。そして今回の「骨太方針2009」でも継続案件として盛り込む予定だった。ところが自民党総務会で強い反発が起きて、自民党としては了承しない、という動きになったのだ。
自民党の医療関係の族議員らを中心に「いま、医療の現場では医師不足が深刻な問題になったり、介護施設では高齢者介護にあたる職員が経営のリストラで切られ介護が満足にいく状況でない。そんな現場の苦しみを無視して、財政健全化という財政の論理だけでいいのか。与野党伯仲の総選挙では、自民党はとても戦えない。社会保障関係の歳出抑制の方針を撤回しろ」という声が高まったのだ。

メディア論調は「骨太の時代終わった」「与党押し切りで骨細に」と手厳しく批判
 そして、「骨太方針2009」は、この自民党の反発に押し切られる形で、社会保障関係の歳出抑制の方針を盛り込まなかった。具体的には「歳出改革の努力を継続する予算の概算要求基準を設定し」という当初案が、最終案では「無駄の排除など歳出改革を継続しつつ、安心安全を確保するために社会保障の必要な修復をするなど、安心と活力の両立をめざして、現下の経済社会状況への必要な対応を行う」に変わってしまった。
 この政治の横やりは明らかに問題だ。メディアの論調も「改革後退、針路失う、財政再建目標や社会保障費抑制の骨抜き鮮明」(日経新聞)、「骨太方針 幅きかす族議員、選挙対策口実に押し切る」「歳出圧力増大の懸念、“本丸”陥落、財政再建また後退」(いずれも産経新聞)、「骨太方針での社会保障自然増容認、骨太の時代終った」(毎日新聞)、「与党押し切り骨細に、歳出圧力の次は公共事業、借金体質見えぬ改善策」(東京新聞)といった形で手厳しい。
ただ、私は、もう少し違う問題意識でいる。冒頭から申上げているとおり、マクロ経済政策の司令塔を担っている経済財政諮問会議について、会議の議長である麻生首相が強いリーダーシップを発揮することが今回、決定的に欠けていた。麻生首相は、米国発の金融危機、グローバル経済危機のもとで、現在、日本経済が非常事態、緊急事態のため、マクロ政策の見直しを行う、とメッセージ発信することが大事だったのだ。

首相の指導力こそ問題、今は非常事態、医療制度改革を最優先と表明すべき
 たとえば、非常事態乗り切りのため、財政出動せざるを得ず、一時的に財政再建路線を棚上げする、しかし景気回復が確認されれば直ちに財政健全化に向けての取り組みを再開する、あるいは医療の現場が社会保障支出の歳出削減で削り過ぎによって荒廃現象が起きているのは重大事態だ、この際、医療制度そのものに問題があったので、制度設計をやり直す、これらすべてに関して経済財政諮問会議で論議し、「骨太方針」に盛り込む、これらに関しては政治生命を賭けて実行に移す、といったメッセージを、首相自身が明確に打ち出すことが何よりも重要だった。
当然ながら、自民党などの政党に対しても「骨太方針」決定直前で政治圧力をかけてくるようなことに関して、麻生首相はその際、社会保障支出の歳出削減による医療の現場混乱に関して、経済財政諮問会議で医療制度改革の論議を行い、歳出削減がいいのか、他の制度改革で乗り切るべきかの方向付けを行う、その過程で提案を歓迎する、といった形で、いい意味での指導力を発揮し、政策や改革の大方針を決めるのは経済財政諮問会議であることを強くアピールして、求心力を強めればよかった。そうすれば、「骨太方針」決定直前の大混乱といった、ぶざまな事態は回避できたはず。

組織改革し審議会をすべて傘下に、与謝野経済財政・財務相兼務はおかしい
 それと経済財政諮問会議の仕組みそのものにも注文がある。日本のマクロ経済政策の司令塔にするためにも、この組織の機能強化が重要で、政策立案につながる機能、政策のすり合わせなどの調整機能などをすべて経済財政諮問会議の傘下に置くことで、政策の一元化を図ることが必要だ。
 今、首相官邸には首相への政策アドバイスのための有識者会議などが数多くある。それに財務省や経済産業省などの行政官庁にも昔ながらの大臣の政策諮問機関という形で審議会が乱立している。行政機関の中には大臣の私的諮問機関というワケのわからない私的懇談会がある。こういった機関や組織が無数にあって、それらがアドバルーンの形で答申、報告書として政策提案する。そこへ行政官庁の縄張り争いが出てくると、同じ政府部内でも政策が重複したり、あるいはまったく正反対のものが出てきて収拾がつかなかったりする。こう述べれば、おわかりいただけよう。こういったものは混乱の極みであり、経済財政諮問会議のコントロール下に収めるべきだ。経済財政諮問会議の求心力を高める意味でも必要な点だ。
まだある。経済財政諮問会議自体は、首相が議長になり、とりまとめ役の経済財政担当相、それに財務相、経済産業相、総務相、内閣官房長官の6人の政治家出身大臣、それに日銀総裁、そして4人の民間議員の構成となっているが、ここにもいくつか手直し課題がある。まず、いま、与謝野経済財政担相が財務相と金融担当相の3ポスト兼務だが、利害が反する経済大臣ポストを兼務するのは明らかに問題。経済財政諮問会議での政策調整があいまいになりかねない。

民間議員も改革提案で存在感を、今は「骨太方針」は単なる作文集
 それと民間議員4氏に関して、今、経済界から2人、有識者、学識経験者という形で大学教授やシンクタンク所長がいるが、個別の誰がということは別にして、改革提案などがよく見えない。はっきり言って、政府のマクロ政策を決める司令塔で、政治とは一線を画して、大局的な判断ができるのだからどんどん政策提案すべきだ。かつての小泉元首相時代の経済財政諮問会議の民間議員は仕掛け人がいたこともあるが、存在感があった。
それと最後に、「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」である「骨太の方針」に関して、見ていると、あれも、これもと盛りだくさんに書いてあって、結果的に、今年の改革やマクロ政策の目玉はこれだ、といった最優先テーマがない。悪く言えば、作文集に終わっている感じが否めない。これでは求心力も働かない。
霞が関の官僚や政治の族議員に、政策決定の主導権を奪われないようにするためにも、首相が強い政治的な指導力を発揮し、同時に、経済財政諮問会議の民間議員を含め、大胆な政策提案、改革提案をすることによって求心力を高めないと、いつか来た道に戻ってしまう。それだけは阻止しなくてはならない、と思う。

外務省OB が外交密約認めているのに、政府はなぜ「存在せず」と隠すのか 民主党は政権交代後に原則公開へ、米国のように一定期間後公開し政策評価を

外務省の高官OBたちが、日米間で秘かに交わされていたいくつかの外交密約の存在をポツリ、ポツリと認めるようになってきた。いずれもメディアのインタビューで、やっと認めたのだが、これらの密約自体、実は米国政府がずっと以前に公開した過去の公文書で明らかになっていること。だから、外務省高官OBが密約の存在を認めたことについては敬意を表するが、実は米国の公開文書を追認したにすぎないのだ。
それよりも問題なのは、日本政府、そして担当の外務省が国会答弁や記者会見で、未だに「密約は存在しない」と木で鼻をくくったような答弁を繰り返していることだ。それも、密約に関与した一方の側の米国政府が、一定期間後の情報公開によって密約の存在を明らかにしている現実があるにもかかわらずだ。知らばくれるばかりか、平然とウソをつき通す日本外交のどこかがおかしい。今回は、ぜひ、この外交密約問題を取り上げたい。
 私の問題提起を先に申上げよう。政府、とりわけ外務省はウソをついたりせずに、米国と同様、一定期間が過ぎた外交文書を含めた公文書に関して、情報公開の形で公開し密約の存在をオープンにすべきだ、ということが1つ。そして、日本政府が密約の形で守り続ける国益とはいったい何なのか、誰のためなのか、それは国家益、それとも国民益のためなのかを外務省自身が示し、多くの識者や国民の評価を受けるべきだ。
同時に、当時の日本を取り巻く状況の中で、それぞれの外交密約を行うことが正しかったかどうか、政策評価も受けるべきだ。もし外務省が、外交はプロの自分たちに任せておけばいいのだ、といった開き直りや思いあがりがあるのならば、もはや外務省に外交を委ねる必要などない。むしろ民間から、もっと有能な人材を政治任用で充てるのも一案だ。私だけでなく、大半の人たちがそう思うのでないだろうか。

沖縄返還時の密約報道した毎日新聞記者逮捕は「国策捜査」に間違いなし
さて、日本でいったい、外交密約と言われるものは、いくつあるのだろうか、米国のように外交文書が公開されない限り、われわれには知ることができない。その意味でも25年から30年といった一定期間後に、公文書の情報公開が必要だが、今回、明らかになった外交密約はわずか2つだ。外務省の元アメリカ局長の吉野文六氏が2006年に、沖縄返還時の対米密約の存在を、また元外務次官の村田良平氏が最近、日米安保条約改定時の密約、具体的には核兵器を搭載した艦船が日本に寄港することを事前協議の対象とせず容認するという密約の存在を、それぞれ明らかにした。
 このうち、沖縄返還時の対米密約の存在に関しては、最近出版されてベストセラーになっている山崎豊子さんの全4巻の小説「運命の人」で取り上げられており、ご存じの方が多いはず。私がかつて20年間在籍した毎日新聞で、政治部記者の西山太吉氏が1971年から72年にかけて、密約に関する外務省電信コピーをもとに記事にしたが、西山氏は国家の機密を外務省職員に教唆(きょうさ)して入手し記事にした、と国家公務員法違反(教唆の罪)で逮捕された。当時の毎日新聞は事態を重大視し、報道の自由と「国民の知る権利」で反撃に出たのをよく憶えている。

当時の東京地検は密約をあいまいにする必要、スキャンダルにすり替え世論誘導
 私は、東京地検が当時、西山氏を国策捜査で逮捕、そして起訴に追い込むに際して、密約問題をあいまいにするため、西山氏の私的スキャンダル問題にすり替え、世論誘導する巧妙かつしたたかな国家の意思が働いたと思っている。いわゆる国家の利益、国家の体制維持を最優先にし、「国策捜査」で臨むというものだ。
そして、西山氏が外務省職員の女性と情を通じて機密の電信コピーを入手した、目的のため手段選ばずの取材方法は許されるべきでない、と当時の東京地検は、西山氏の私的なスキャンダル事件にすり替えてしまった。私も当時、「国民の知る権利」を武器に徹底対決の姿勢でいたが、世論は西山氏に批判集中し、密約問題があいまいになってしまった。
この事件を当時担当した東京地検の佐藤道夫氏がその後、参院議員に転じてテレビ討論などで、外交密約の存在が問題になると政治混乱が避けられないこと、言論弾圧と騒いでいる知識層やメディアの論調をかわす必要がある、との判断から突如、女性と情を通じて機密の電信コピーを入手したのはけしからん、という形での世論誘導を思いついた、と述べている。佐藤氏が自慢げに話すのを聞くにつけ、当時を知る私などは、本当に悔しい思いをしたのを今でも憶えている。

沖縄密約問題の真相究明できず、西山氏の報道の仕方に数多くの問題
 この沖縄返還をめぐる密約問題の本質は、返還に際し、米国政府が沖縄の基地などの土地の地権者に支払うべき400万ドルの土地現状復旧費用について、日本政府が秘密裏に肩代わり負担する、という信じられない外交密約を米国との間で取り交わしたことにある。この密約の真相究明は何としても必要だったのに、東京地検の巧妙な世論操作で問題があいまいにされてしまった。
私に言わせれば、西山氏の取材、そして報道の仕方には問題が多過ぎたのは事実。外務省職員の女性との問題だけでない。最初、機密の電信コピーをもとにストレートなスクープ記事が書けたのに、なぜかインパクトの弱い解説記事にとどめてしまったこと、それが無反応だったため、あせった西山氏が社会党代議士に電信コピーを見せ国会追及を画策したこと、さらに決定的にまずかったのは社会党代議士に情報源の秘匿(ひとく)を徹底しておかなかったため、その代議士は迂闊(うかつ)にも電信コピーの情報源の部分を消さずに国会追及し、政府側に手の内をさらけ出す結果になってしまったことだ。

村田元外務次官「核搭載の米艦船寄港は核持ち込みでない、との判断で密約に」
 もう1つの核兵器を積んだ米艦船の日本寄港に関して、日米政府間で事前協議の対象にするとしたはずなのに、寄港を容認するという密約があった、という問題にも触れておく必要がある。密約を認めた村田元外務次官は新聞とのインタビューで明らかにしたところによると、核を日本に持ち込む時には事前協議する、としたのは主に2つの理由があった。米国が、日本の防衛、それに米国の軍事的な戦略行動のために、日本国内に核兵器を恒常的に置く時、あるいは核兵器搭載した米国の艦船がずっと日本の港に常駐する時で、これらは、日本として事前協議の対象にする、とした、という。
ところが、問題が生じた。核兵器搭載の米艦船が、日本の領海を航行している時とか、一時的に寄港した場合も『核持ち込み』に当たる、いや当たらないとの議論になった。そこで、日本側から、寄港は本当の意味での核持ち込みでないので、問題にしないでおこうと言い出し、それが密約になった。口頭了解したものを記録の形で1枚紙にし、歴代の外務次官が外相に報告することにした、というのだ。

河野衆院外務委員長(自民)も「密約ないとの強弁は問題。政府答弁修正が必要」
 村田氏がこれだけ明確に、密約の存在を明らかにしているのに、なぜ、内閣官房長官や外相、それに外務次官らは国会答弁や記者会見で、相変わらず「密約自体、存在しない」といった発言を繰り返すのか、何とも理解しがたい。
そういった中で、最近、ちょっとした変化が政権与党の自民党に起きた。河野太郎衆院外務委員長(自民党)が村田氏の密約容認発言を重視し、直接、村田氏に発言確認をとったあと、7月13日の記者会見で、政府が密約は存在しないとしてきた答弁に関して、修正を求める外務委員会決議を行うというのだ。河野氏は「密約はなかったと強弁するのは、国民に対して誠実でない。これではまともな核抑止の議論もできない」と述べている。
政権与党サイドから、こういった動きが出ることは極めて健全で、率直に評価する。しかし河野氏は自民党の中でも少数派におり、たまたま衆院外務委員会委員長という、外務省にニラミがきく立場だったので、アクションを起こせたが、自民党全体を巻き込めるかということになると、心配になる。
それに対して、民主党は、この問題に関して改革に積極的だ。岡田克也幹事長は記者会見やインタビューで、外交密約文書に関して、「政権交代した場合、政府の情報公開を進める。一定期間を経たものは原則公開するように新しいルールづくりをする」と述べている。その際、岡田氏は「外交文書の公開がいま、外務省の裁量で決められている。役所が勝手に決めるのでなく、客観的な仕組みづくりが大事だ」「外交交渉をすべてオープンにしろとは言っていない。ただ、外交秘密という名のもとに官僚の判断、政治の判断がない。惰性に流されてきたのが問題だ」とも述べている。そのとおりだ。

外務省は密約に至った政策判断を後世代の検証に委ねよ、米国を見習え
 冒頭のところで申上げたが、日本政府が密約の形で守り続ける国益とはいったい何なのか、誰のためなのか、それは国家益、それとも国民益のためなのかを外務省自身が示し、多くの識者や国民の評価を受けるべきだ、と思う。さらに、密約に至った当時の政策判断も30年以上たったいま、時代状況が大きく変わってきており、議論の対象にしていいはずだ。大事なのは、外務官僚が勝手に、かつ都合よく外交文書を秘密扱いにするのでなく、あとあとの世代に対して、あの時の政策判断が正しかったどうか、その判断を後世代も踏襲すべきかどうか、といった材料提供すべきだ。その意味でも、米国のように、一定期間後の公文書を情報公開することは極めて重要だ。
 NHKの報道特集番組「NHKスペシャル」の企画制作にかかわった川良浩和氏が「闘うドキュメンタリー」という著書の中で、米国が情報公開した機密外交文書をもとに日米安全保障条約の改定交渉の舞台裏を描いているが、その中で、外交文書の読み取りなどで取材協力を仰いだ日本の大学教授の言葉を紹介している。これがとても参考になる。
「日本で得た知識や日本的な既成概念は一切、白紙に戻して、徹底的に文書を集め、読んでください。想像もつかないようなアメリカのリアリズムに出会うでしょう。自分の国のことを考えていればよい国と、常に世界を相手にしている国とは、やっていることがケタ外れに違うはずです」
今回の外交密約を頑なに隠して「そんなものは存在しない」とうそつく日本の外務省が井の中の蛙(かわず)状態だと言えないだろうか。

解散総選挙で長~い政治の季節、日本がどこへ向かうべきか考えるチャンス 政治チェックの時間もたっぶり、メディアは正念場、政策報道で争点の浮彫りを

麻生首相の衆院解散によって、この国は8月30日の総選挙投開票まで異例の長~い期間に及ぶ政治の季節となる。グローバルな金融および経済の危機が最悪状態を脱したとはいえ、危機はまだ続いており、危機管理が必要。それなのに、これほど長期の政治空白が続いていいのかという見方は当然ある。しかしここは発想の転換だ。日本がどこへ向かうべきなのか、政治のかじ取りを誰に託せばいいのか、じっくり考えるチャンスだと思えばいい。
与野党とも同じだ。これだけ長期間の選挙ともなると、政党名や立候補者の名前連呼だけでは政治の見識が問われるので、政策をアピールせざるを得ない。出来、不出来が一目瞭然となる。有権者がチェックする時間はたっぷりある。それに、政局報道に明け暮れたメディアも政策報道に徹さざるを得ない。この際、メディアも正念場だ。争点を浮き彫りにして、日本を変えるには何が必要で、重要なのか、有権者が判断する材料を提供すべきだろう。
 今回の総選挙で最大の関心事は、誰が見ても明白だ。政治の劣化に歯止めをかけるために、政権交代して、野党の民主党に日本の将来を委ねるべきなのか、それとも自民党に引き続き政治を委ね新たな改革を任せるべきなのか、といった点だろう。その点でヒントになるのが、直近のメディアの内閣支持率などの世論調査の動向、それに7月12日の東京都議会選での有権者の投票行動だろう。
とくに、東京都議選が参考になる。麻生首相は「地方選挙は国政選挙とは異なる。影響を受けない」と自分への火の粉を払うのに躍起となったが、メディアが投票所の出口調査の際に、有権者に聞いたコメントがポイントを突いていた。今の有権者は政治に何を求め期待しているのか、あるいは政治への不満は何なのかが見えたように思う。

東京都議選での有権者の声、「政治に変化が必要」「政権交代の一点に絞った」
 バランスをとって、朝日、毎日、読売新聞の3紙の紙面に出た主なコメントを紹介しよう。前回都議選で自民党に投じた人が今回は民主党に投じたとか、あるいは前回は棄権したが、今回は投票する気になったなど、投票行動はまちまちながら、率直な声が多い。
「商売人なら自民党と思ってきたが、今回は自民党にお仕置きだ。景気が悪くなって店をたたむ中小企業の仲間も多い。政治に変化が必要だ」(飲食店経営の63歳男性)、「米大統領選を見て、日本でも新しい時代が始まってほしいと思った。不況で大変なのに、政治家はいい加減だ」(派遣社員の28歳女性)、「今の自民党は民意が届かない遠い存在。官僚の声ばかり聞いて、国民との距離が開いている感じ」(会社員の31歳女性)、「政権交代の一点に絞って投票した。自民党政権は首相が短期で何人も代わってうんざり。民主党に一度、政権を任せてみたい」(会社員の37歳男性)  もう少し聞いてみよう。「年金や医療など老後がこんなに不安になるとは思わなかった。米国のオバマ大統領のような政治家が出てほしい」(パート従業員の64歳女性)、「常に政権が代わる可能性があった方が、政治家に緊張感が出るのではないか」(会社員の46歳男性)、「政治が経済の足を引っ張っている。政権が代わらなければ、経済も景気もよくならず、日本は取り残される」(会社員の31歳男性)。

民主党の責任は極めて重い、政権交代で衰退過程にある日本を変えられるか
 これらの声から想定できる総選挙の結果は、今後、よほどの大きな変化が起きない限り、民主党の地滑り的な勝利になる可能性が高い。有権者は、政権交代によって、日本の政治を変えるきっかけをつくってほしい、ということだろう。ハッキリ言って、有権者は、族議員政治の体質が抜けきれない自民党政治には、この国を変革することを求めるのは難しいと判断し、一度、民主党に政権交代のチャンスを与えて、何がやれるのか、あるいはやってくれるのか、試してみようということが、これらのコメントから感じとれる。
そういった意味では、民主党の責任は本当に重い。民主党は、野党の立場で政権批判ばかりを繰り返してきた体質をここで一気に変え切れるのか、これまでマニフェスト(政権公約)の形で訴えてきた政策の中には、新機軸のものもあったが、一方で現実味に欠ける政策もなきにしもあらずだった。
今回のマニフェストで有権者にワクワク感を与える政策をどれだけ準備したのだろうか。単なる受け狙いであって、財源の裏付けが不安になる、といったものはないだろうか、政党支持基盤はさまざまな組織が関与しており、組織のしがらみを抜きにして、しっかりとした方向付けや意思決定ができるのだろうかーーという不安が有権者の間にある。言ってみれば、民主党は果たして、衰退過程にある日本を変えることができるかどうか、期待半分、不安半分といったところが有権者の気持ちでないだろうか。

農業政策で個別農家所得補償政策に異論、バラマキよりも農業の成長策はある
 現に、私自身も、経済ジャーナリストの立場で言えば、民主党が掲げる政策のうち農業政策に関しては、1兆円の戸別農家所得補償に若干、異論がある。これは、米の減反(生産調整)政策に従った生産農家が、仮に生産費が販売価格を上回ってコストを償えない場合、その差額分に面積を掛け合わせた金額を所得補償する、という仕組みだ。もともと民主党は、自民党が行う農協などを通じた補助金農政よりも、農家への直接支払い方式の方が食料の自給率向上にもつながる、という発想だが、私は、下手をすると単なるバラマキに終わり、農業の生産性向上にはつながらない、と思っている。むしろ今の耕作放棄地の増大や農家の後継者難で荒廃していく農業を成長産業にしていくための対策に財政資金を活用すべきで、その手立てはもっといろいろある、と思っている。
 メディアは、これまで解散はいつなのか、といったことや、地方選での自民党敗退を受けて「麻生首相では総選挙は戦えない」といった自民党内の麻生首相降ろしの動きを面白おかしく取り上げたりといった政局報道に終始していた。しかし、これからは、それでは済まされない。むしろ、与野党、端的には自民党と民主党の政策をめぐる争点を浮き彫りにして、有権者に、この国の将来をどの政党に、どの政治家に託すか、という判断材料をしっかりと提供すべきだ。同時に、討論会はじめ、さまざまな政策討議の場を設定すべきだろう。政治にかかわるメディアは、ジャーナリズムにふさわしく政局報道よりも政策報道で競争すべきだ。

民主党は総選挙勝利後も、来年夏の参院選勝利までは現実路線で対応
 民主党は、都議選での勝利を受けて、一気呵成(かせい)に総選挙へ、という感じがあるが、政策にかかわる中枢の所ではどういった動きがあるのだろうか。結論から先に言えば、民主党は急速に現実路線に舵(かじ)を切り替えつつある。
鳩山民主党代表側近の衆院議員は「民主党の政策に関しては、まずは総選挙に向けたマニフェスト(政権公約)をみていただきたい。ただ、政権交代に関しては、今回の衆院総選挙と来年7月の参院選をセットにして、それを実現する、という考えで取り組むのが現実的だ」と述べている。
その民主党衆院議員によると、自民党政権から政権奪取した細川政権が予想外の短命に終わったことの教訓をしっかりと受け止めるべきだ。今回、民主党としては、仮に衆院選で大きな勝利を挙げても、公約している官僚の天下り問題や特殊法人改革を通じて、歳出のムダをなくすことについては、しっかり取り組むが、コトを急がず、まずは改革に取り組む体制をつくること、有権者の人たちに民主党は頼れる存在だという信頼感を得てから、来年の参院選で民主党が安定多数を確保することが重要。衆参両院での安定した政治の力をもとに、本格的な改革に着手する、という。
確かに、この発言を聞いている限り、民主党執行部は、細川政権の「学習効果」を踏まえて現実路線で取り組み、有権者の信頼を確保することを最優先課題にしようとしていることがうかがえる。日本を大きく変えるには、まだ時間がかかりそうな感じがするが、みなさんは、どう受け止められるだろうか。

外資買収の日本企業、アングロサクソン系企業を本当にマネージ出来るか バブル時に米国企業を買い漁りながら経営失敗で転売の「学習効果」は?

 ここ数年、日本企業が米国企業などを大型買収する動きが目立ってきた。中でも金融・経済危機で厳しい経営環境に追い込まれた米国企業のうち、潜在力を秘める企業について、チャンスとばかり日本企業が買収攻勢をかけて傘下に収め、新たなグローバル展開への布石にしつつある。極めて積極的な経営判断で、素晴らしいことだ。
しかし日本はかつて1990年前後、資産バブルで手にした巨額マネーを武器に、円高を活用して米国企業を買い漁ったが、数年後、見るも無残に、買収した企業の転売を余儀なくされた苦い経験を持つ。何があったかは、ご存じだろう。当時、日本経済のバブル崩壊の影響も無縁ではなかったが、実はアングロサクソン系企業のマネージメントに予期せざる難しさがあり、経営断念せざるを得なかったのだ。今回、再び買収攻勢をかける日本企業には、過去の「学習効果」が当然、あるだろうが、本当に、したたかでワイルドなアングロサクソン系企業をマネージ出来るのだろうか、ということが関心事となる。
 そんなことを考えていた矢先、ヒントを与えてくれる凄腕(すごうで)の日本人経営者に出会った。世界最大と言ってもいいコングロマリット、米ゼネラル・エレクトリック(GE)で15年間、グループ企業社長を含めてさまざまな経営に携わり、今またスイス系の製薬大手ノバルティスの日本法人ノバルティス ファーマ社長を務めておられる三谷宏幸さんだ。
実は、その三谷さんにグローバル企業をマネージする秘訣を聞いた私のインタビュー記事が最近発売の週刊エコノミスト誌8月4日号の「問答有用」に掲載されている。ぜひ、ご覧いただけばと思うが、ここでは、そのポイント部分をご紹介しよう。

三谷さん「あうんの経営ではダメ、異文化社会に通用するロジック必要」とアドバイス
 三谷さんのアドバイスは、なかなか鋭い。まず、「GEなどの米国企業は、相手を納得させる論理の組み立てが本当に巧みで、異文化の人や企業を傘下に置いて経営する場合、ロジックを重視する。グローバル展開、とくに異文化コミュニケーションの場合、どうしても経営の意思疎通をはかるようにすることが大事。起承転結がはっきりするロジックがそれで、日本企業は、このロジック部分を見習うべきだ」という。
さらに、三谷さんによると、日本の企業経営者は、そのロジックとは対照的に、どちらかと言えば「あうん」の呼吸で物事を判断したり、行動することが多い。大所高所でモノを言ったあと、突然、個別論、それも細かい話になり、真ん中がないのが、その典型。「あうん」の呼吸で行くというのは、日本のように同質あるいは均質の文化のもとでは、くどくど説明しなくてもわかってもらえる、という点では通用するかもしれないが、こと、グローバル企業展開した場合には、全く通用しない、という。

日本は技術革新力など戦略的強み部分を生かし世界に共通する価値アピールを
 日本の企業経営者の方々にとっては、なかなか耳の痛い話だろう。ただ、日本の戦略的な強み、そして弱みを見てみた場合、こと強みに関しては、環境や省エネの技術のみならず技術革新そのものに関して、素晴らしいものがある。アニメや食文化などのソフトパワーの部分に関しても同様で、これらは、日本が世界に誇る強みの部分だ。
三谷さんも、そうした点は認めており「日本人のモノづくりの技術や品質に対する感性の高さは世界に誇っていいし他の追随を許さない。それに、日本の顧客の素晴らしさも同じ。企業に対して、ここを手直しすればもっと良くなるといった提案を気軽にしてくれることだ。米国では、企業はもとより消費者の側にも、そういったものがない。これは日本企業というよりも、日本の強みだ」と述べている
でも、こういった強みの部分を世界にアピールしていくには、三谷さんが指摘するように「あうんの呼吸」ではダメで、起承転結がはっきりしているロジックを前面に押し出す必要がある。さらには、世界に共通する価値観に持って行く努力を、日本、あるいは日本企業自身が積極的に進めていく必要がある、ということだろう。

GEには世界に通用するグローバル・マネージャーがごろごろいるとは驚き
 三谷さんはこんなことも言っている。「経営者に必要な資質は、どこの国でも実はそう大きく変わらない。少なくとも経営力の80%の部分は万国共通、世界共通。その部分がきちんと出来ていれば、どこの国へ行っても経営的には通用する。私だってあす、米国に行ってどこかの企業経営を任されても、その経営力を発揮できる。そういう鍛えられ方をしているからだが、GEには、そういったグローバル・マネージャーがごろごろいる」という。何とも驚きだ。グローバル展開をめざす日本企業の場合、GEのように、世界のどの地域に送りこんでもタフに経営力を発揮するグローバル・マネージャーがごろごろいるだろうか、そこが気がかりだ。
ところが、三谷さんによると、グローバル経営にとっての問題は、むしろ残り20%部分で、これは単なる経営力ではなく、人脈ネットワーク力といった国別の味付けの所で経営者に差が出てくる。GEの場合、その20%部分でも競争力を発揮するマネージャーが多いという。三谷さんの場合、いまノバルティス ファーマの経営を引き受けてわずか2年だが、その20%部分で経営手腕を発揮している。GE横河メディカルシステムでの5年間の社長時代に培った日本での医療関係の人脈ネットワーク、監督官庁の官僚の人たちとの医薬政策をめぐる議論交流の蓄積、日本の文化などに対する関心度といった部分を生かしたからだ、という。

東芝は買収した米ウェスチングハウスを活用し原発ビジネスで世界に踊り出るか
 日本企業が、米国や英国のしたたかでタフなアングロサクソン系企業をマネージ出来れば、たぶん、他の世界中の企業経営も可能でないか、と思う。そういった点で、私が注目しているのは、原子力発電ビジネスでは世界でトップランクの米ウェスチングハウスを巨額資金で買収した東芝の動向だ。東芝の西田厚聰社長(現会長)が2006年当時、4700億円の巨額資金を投じて買収に踏み切り子会社にした。当時、米ウェスチングハウスは三菱重工と原発機器で連携しており、一方で、東芝は日立製作所とともにGEとの企業連携にあったが、西田社長が、独自の経営判断によってウェスチングハウス買収に踏み切った。経済ジャーナリストからみれば、それだけでもビッグ・ニュースだと思ったが、東芝の凄さは、中国を中心に、世界的に原発需要が急速に高まるとの予測をもとに、この大胆な企業買収によって、原発ビジネスで世界に躍り出ようという経営トップの判断だ。
 ただ、問題は、こうした東芝の積極果敢な経営判断とは別に、冒頭から申し上げてきた問題意識のように、東芝がアングロサクソン系のウェスチングハウスを本当にマネージ出来るのかどうか、という点だった。そうした中で、NHKが2008年にNHKスペシャル番組「日本とアメリカ」で、この東芝のウェスチングハウス買収問題を取り上げた。当時、食い入るように、その番組を見たが、結論から申上げよう。

NHKスペシャルで放映したウェスチングハウス役員会での東芝側役員に不安も
 その番組では、子会社化したウェスチングハウスの月1回の役員会議の場を映し出し、13人で構成される役員会議のうち、東芝側から派遣したナンバー2の上級副社長を含めて2人の役員が議論している光景が印象的だった。私の印象では、東芝の上級副社長が技術系の方で、温厚な性格がにじみ出ているのはいいが、明らかに、ウェスチングハウス側役員を強くリードし経営の方向づけをしているというよりも、東芝側の意向はこうだ、といった説明に終始していて数の力で押しきられるのでないかという不安を抱いたほどだ。その心配が冒頭に申上げたしたたかでタフなアングロサクソン系企業を、日本企業は本当にマネージ出来るのか、という問題意識だが、当時の東芝は、それが現実のものになっているな、という感じがしたほどだ。
 私自身、45歳の時に、毎日新聞から英国系のロイター通信の編集局に転職したが、当初は企業文化の違いにショックを受けたこともある。ただ、私自身の行動力やコミュニケーション力などで次第にロイター通信の企業風土にも慣れ、同時に自己主張が強い一方でロジック先行の経営にも対応できるようになった。そういった意味で、三谷さんの話は極めて参考になった。
東芝も、ウェスチングハウスとの問題に関しては、ある面で社運を賭けたプロジェクトと位置付けているはずで、NHK番組で見た2008年当時と違って、今はウェスチングハウスとは経営戦略も合致し、方向付けもしっかりできていることを期待したい。

米中は思惑含みの「G2戦略経済対話」で急接近、日本は取り残されるリスク 米は中国の大国意識くすぐるが、本音は米国債継続購入などでの中国頼み

米オバマ政権の前身、ブッシュ政権が2006年12月にスタートさせた中国との「米中戦略経済対話」が、今や経済全般のみならず政治や安全保障分野にまで及ぶ、文字どおり「戦略的な課題」を対話しあう関係領域に入りつつある
米国内では、この関係を捉えて「G2」、つまり米国と中国という2つの有力大国で世界の重要課題、秩序を決める枠組みが出来つつある、といった持ち上げ方まで出てきている。かつて、米国は旧ソ連や中国とはイデオロギー面で対立し、相互不信に陥っていた間柄だけに、様変わりというほかない。
しかし率直に言って、私は米国内で急に台頭してきた「G2」には、くみしない。というのも、米国発の金融危機や経済危機を引き起こして経済的なパワーを失った米国にはあせりに似た対中国接近の思惑があるためだ。米国自身、政治や軍事の面で、まだ影響力を残しており、その力を誇示しながら、日本を追い抜き世界第2位のGDP(国内総生産)国になろうとする経済新興大国の中国をうまく活用するのが得策。とくに米国にとって巨額の財政赤字の面倒を見てくれるのは「日米経済同盟」を結んでいる日本よりも、経済的に荒削りながら勢いのある中国だ。そこで、この際、「G2」という枠組みを演出し、中国の大国意識を巧みにくすぐりながら米国債の継続購入など米国経済バックアップを求めよう、という思惑だ。いわば「G2」は見せかけのものでしかない。

中国もドル暴落による保有米国債の損失リスクこわく、米の政策けん制を優先
 ところが、興味深いのは、中国の側にも実は似たような形で米国接近しておく必要があるのだ。中国は2兆ドルに及ぶドル建て外貨準備を持つが、海外での資源買い漁りは別にして、大半のドル資金の運用に関しては、際立った運用先が見当たらず、米国債投資でやらざるを得ない現実がある。このため、米国経済に問題が生じて、仮にドル暴落リスクに巻き込まれたりすると、保有する米国債などドル建て資産の損失を一挙に抱え込む。それはそのまま中国自身の凋落(ちょうらく)につながる。そこで、米国と「戦略経済対話」を続けることによって米国の経済政策をけん制した方が得策という思惑があるのだ。
こうしてみると、米国も、そして中国も互いに利用し合うと同時に、相手側の政策の行き過ぎをけん制したり、場合によっては注文をつけ合う必要性がある。そこで、「米中戦略経済対話」という形で、双方が毎年、交互に相手国を訪問し、経済閣僚を中心に、濃密な議論交流や人的交流を続けておけば、何か突発事態が起きた場合にも、その「経済戦略対話」の場が活用できる、という思惑に至ったということだろう。

2006年「戦略対話」スタート当初は米国主導、人民元切り上げ圧力の場に
 2006年12月の「戦略経済対話」スタート当時から、私自身、 経済ジャーナリストの立場で興味があったので、ずっとウオッチしてきたが、当初、米国経済は今のような金融危機問題などを抱えておらず、力強い米国そのものだった。その米国が「戦略経済対話」という形で中国と経済政策面で話し合いの場、政策対話の場を常設しようとした理由は何なのか、お気づきだろう。
米国にとっては当時、中国との経済関係は貿易収支の面でケタ外れの赤字、輸入超過になっていた。いわば貿易摩擦があった。その原因が、中国の為替操作、つまりは人民元を意図的に対ドルで安く据え置き、為替面での輸出競争力をつけることによって米国向け輸出を増やしているのでないか、との判断が米国にあった。
そこで、人民元の切り上げを求めるには米中2国間での話し合いの場をつくるしかない。急速に国際経済の舞台に台頭してきた中国は、為替政策面のみならず、知的財産保護や外資政策など、経済問題でさまざまな問題を抱えている。当時、世界の経済リーダーを自負していた米国からすれば、経済面で、お行儀の悪い中国を変えるのは自分たちだ、という判断があったのは間違いない。そして、米国主導で中国を話し合いの場に引っ張り出すには、対等の立場を演出する必要があり、「米中戦略経済対話」とした、と言っていい。

原型は1989年の日米構造協議、米国は半ば内政干渉で対日貿易赤字に対処
 これと似たような話がどこかにあったな、と思われるだろう。そのとおり。1989年から90年にかけて、日米間で、日米の貿易不均衡問題を協議した日米構造協議がそれだ。当時、米国は、対日貿易赤字に歯止めをかけるためには、円安ドル高を為替調整で是正するしかないとし、英国やドイツ、フランスを巻き込んだ主要5カ国による「G5」財務相会合を85年に米国で開催、プラザ合意という形で円高に持ち込んだ。
ところが日本は財政、金融政策面で円高対策をとり、同時に日本企業の危機に対応した自助努力もあって、結果として、日米間の貿易不均衡が改善しなかった。このため、苛立ちを強めた米国は、2国間での日米構造協議に切り替え、輸出、とりわけ対米輸出に向いた日本経済のほこ先を国内に向けさせるべく、外交的な圧力をかけて、日本政府に対し10年間で総額430兆円の公共投資を行う基本計画をつくらせたり、土地税制の見直しなど、言ってみれば強引に日本の国内政策に手を突っ込んで構造改革を迫った
米国としては当時、日米安全保障条約をベースにした同盟関係にある日本に対しては、注文をつけるのは当然、という意識があったのだろう。しかし「米中戦略経済対話」では、中国とは同盟関係にあるわけでないため、対等の立場で、政策対話を通じて注文をつけあう、という形にしたのは間違いない。

6月GM破産申請時、訪中優先のガイトナー米財務長官の行動が象徴的?
 ところで、米国が当初、中国の人民元切り上げを含めた通貨改革を強く求めたりする政策協議の場で位置付けていたにもかかわらず、昨年08年秋のリーマンショックに端を発した米国金融危機以降、冒頭に申し上げたとおり、米国はむしろ、中国経済頼みの姿勢に大きく変わりつつある。
そのことを裏付ける象徴的な出来事があった。それは今年6月1、2日という米政府にとって政治的にも経済政策的にも重要な時期を選んでガイトナー米財務長官が訪中したことだ。米自動車最大手のゼネラル・モーターズ(GM)が経営破たんに伴って米連邦破産法11条を正式申請したため、本来ならばオバマ大統領と並んで財務長官が今後の政府対応に関するメッセージ発信、さらには米国債格下げリスクへの対応などで財務長官が陣頭指揮をする必要があった。にもかかわらず中国に足を伸ばす理由は何なのかということが当時、大きな話題になったが、今にして思えば、米政府の最重要課題が中国への対応だった、ということなのだろう。
今回、ワシントンで7月27、28日の両日開催された「米中戦略経済対話」では、中国側は、米国が金融システムや経済の危機対策で財政支出行動に出たのに伴う財政赤字のGDP比率の悪化をどう引き下げる努力をするのか、と厳しい追及があったが、ガイトナー財務長官は「4年後の2013年までに財政赤字を持続可能な水準まで引き下げる措置をとることを約束している」と述べたという。多分、6月の訪中時にも同じようなやりとりがあったのだろう。

オバマ大統領は中国に消費拡大で世界経済への貢献期待表明
 オバマ大統領は7月27日の「米中戦略経済対話」の冒頭、両国関係について「米中間の関係は21世紀を形づくる。世界中のどの2国間関係よりも重要だ」と述べたが、本音は「米国が貯蓄率を高め、中国が消費を拡大することが持続的な経済成長につながる」と述べた部分だろう。つまり、米国がいま、中国に期待しているのは財政刺激で中国の内需拡大を図ること、とくに個人消費が増加すること、それによって中国の消費者が海外からの輸入財の増加に貢献してくれるならば、結果として世界経済の下支えになる。米国もこれに合わせて、貯蓄率を上昇させることで海外へのマネー依存をなくすと同時に、過剰消費体質を改めていく、というメッセージなのだろう。果たして、米国の経済体質を本当に変えることができるのかどうか、中国頼みでいくよりも、まずは米国経済の建て直し策をもっと強調すべきなのだろう。
 ところで、経済ジャーナリストの関心でいけば、中国の方が今後、どこまで米国に攻勢をかけることができるのかどうかという点だ。端的には、中国は最近、通貨政策面でドル基軸通貨制度にゆさぶりをかける言動をすると同時に、その一環で国際通貨基金(IMF)発行債券の購入に踏み切ったり、またロシアとの間でルーブル・人民元通貨スワップなどの話を持ち出したりしている。

中国にとっても人民元高回避の為介入続ける限りドル抱え込みのジレンマ
 現実問題として、ドルが米国経済にリンクして弱さを露呈してくるにしても、ドルに代わるユーロなどの基軸通貨が出てこない限り、ドル基軸体制を維持せざるを得ない。まさに、そこが当の米国のみならず、中国、日本、さらにはロシア、欧州、中東産油国すべてにとってのジレンマなのだ。
そうした中で、中国が本気で国際通貨制度改革に踏み出せるのかどうか。現に自国の人民元通貨についても、中国以外ではアジアの一部で決済通貨として機能しつつあるが、国際的にはまだ信認を得る状況でない。下手をすると、中国は、人民元切り上げ回避のために現在続けるドル買い・人民元売りの為替介入をどこかで歯止めをかける決断をしない限り、ドル買いによってドル建ての外貨準備高は果てしなく膨らみ続ける、そして米国債などドル資産以外の資産運用に本気で手を伸ばさない限り、もっと厳しいドル暴落リスクにさらされるジレンマに陥る。このあたりは、米国と同様、中国も苦悩を続けるしかない。

日本は内向きでいる限り地殻変動に対応しきれず、「現代版三国志」を
 さて、こうした中で、日本は、政治がすっかり内向きになっていて米中双方の地殻変動を感じさせるさまざまな動きに対応し切れていないのが、何とも気がかりだ。私は、以前もこのコラムで申し上げたが、日本、米国、そして中国の3カ国間で「現代版三国志」のような緊張関係をつくることが大事だと思っている。つまり、あるときは日本と米国が連携して中国の行き過ぎに対処、逆に、もし米国に問題があれば日本と中国が連携し、場合によっては保有する米国債を売るぞ、というプレッシャーをかけて自制を求めたり、あるいは世界に先駆けての積極行動を米国にとらせるための引き金を日中で引いて見る、といったことが考えられる。最大の問題は、日本に問題が生じた場合、米国と中国が連携すれば、日本が踏み潰されるリスクがある。だから、日本はそれに備えて座標軸をしっかり持つこと、端的には中国を除くアジアをバックに行動すること、そのためにも、過剰な対米依存を止めアジアにもっと力を注ぐことだ。
こういった問題意識を持たないまま、のんびりしているうちに、ハッと気が付いたら、日本は米中双方から取り残されていた、そしてアジアからも頼りない国として無視されていた、ということが現実のものになりかねないリスクがある。

大組織病化した官僚制度の改革は絶対必要、民主党の官僚的視はリスク 霞が関巨大シンクタンクの政策立案能力は活用次第、問題は政治の指導力

民主党への政権交代が現実味を帯び始めた中で、霞が関の官僚の対応もなかなか素早い。民主党政権ができた場合の政策対応をめぐってのもので、民主党マニフェスト(政権公約)研究はもとよりだが、民主党政治家へあいさつ回りする動きが目につく。もちろん、自民党政権との両にらみのうえでのことで、このあたりがしたたかだが、霞が関の官僚にとっては、民主党がマニフェストで打ち出す政策決定の新たな枠組みがこれまでの自民党政権と大きく異なるため、官僚組織にクサビを打ち込まれかねないことを恐れているのだ。
 結論から先に申上げよう。官僚制度改革は大胆にやるべきだ。というのも、いまの霞が関の官僚組織、行政機構はがんじがらめの縦割りで、各省庁とも「役所益」優先の政策決定の枠組みになってしまっている。このため、省庁横断的な国をあげての戦略なテーマに関しても、信じられないことだが、縄張り争いが先行する。同時に、新しい変化に対応して政策リスクをとる発想も少なく、どちらかと言えば前例踏襲、横並び意識が根強い。典型的な大組織病に陥っているのが現実だ。こんな官僚組織は国民の側から見ても不要で、制度改革によって政策機動的な組織に変えるべきだろう。
ただ、民主党がめざす官僚主導から政治主導への政策決定の枠組みについては、発想は大いに結構。大胆にチャレンジしたらいいが、官僚を敵視し過ぎているきらいがある。官僚を敵に回し組織が動かなくなるのも困る。明らかにリスクだ。霞が関の官僚組織は巨大なシンクタンクで、その政策立案能力は評価するものがあり、そこは活用次第だ。ということで、今回は官僚制度の問題について、ジャーナリスト目線で問題提起しよう。

民主党は首相直属の「国家戦略局」新設し官僚丸投げから官邸主導の政策へ

まず、議論のたたき台として、民主党がめざす政策決定の枠組みを見てみよう。民主党マニフェストによると政権構想の「5原則」、「5策」、そして政策を実行する手順ともいえる「工程表」がある。このうち「5原則」は「官僚丸投げの政治から政権政党が責任を持つ政治家主導の政治へ」「政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下での政策決定に一元化へ」「各省の縦割りの省益から官邸主導の国益へ」「タテ型の利権社会からヨコ型の絆(きずな)の社会へ」「中央集権から地域主権へ」の5つ。いずれも異存はない
続いて「5策」は実現に向けての組織改革だが、マニフェストは細かく書いていて、かなりの量にのぼるので、ポイントの部分だけ述べよう。目玉がいくつかあって、首相直属の「国家戦略局」を設け国家ビジョンや予算の骨格策定を集中的に行うのが1つ。続いて、政府に政治家100人を大臣、副大臣、政務官の「政務3役」、それに「大臣補佐官」の形で送りこみ、政治主導で政策決定するのが2つ。さらに政策テーマごとに関係大臣で政策調整する「閣僚委員会」、天下り法人や霞が関行政機構のムダや不正をチェックし改革につなげる「行政刷新会議」を新設することだろう。

自民党で官邸主導は小泉政権時のみ?大半が与党と官邸の「二元政治」

本来ならば、自民党のマニフェストにある改革案も紹介し、バランスをとりながら比較検討するのがスジだが、今回は、スペースの関係上、霞が関の官僚制度改革と密接にリンクする民主党案にしぼることをお許し願いたい
民主党案を議論する前に、これまでの自民党政権のもとでの政策決定の枠組みがポイントになる。その政策決定の枠組みは、ほとんどが首相官邸の内閣と与党自民党の幹事長や総務会の二元体制だった。官邸主導でコトを運んだのは、小泉内閣の時だけだったのでないだろうか。歴代政権は、官邸主導を標榜しながらも、現実は、さまざまな重要案件に関しては、政権与党の自民党総務会の了承を得るとか、政府と与党の責任者会議で合意を経て閣議での決定にするといった形で、要は、首相官邸は与党の意向なしに政策決定ができなかった。とくに派閥政治のもとで、弱小派閥の領袖がたまたま首相になったりすると、極めて厳しい政治状況が起きる。かつての三木政権などが典型で、常に与党自民党の意向をうかがって政策決定するという悲しい現実があった。

自民党政権のもとでは官僚は「役所益」を代弁する族議員を巧みに利用

こういった状況下では、霞が関の官僚は、首相官邸と自民党の両にらみで、双方に気遣いするが、時にはその2つの政治の力のバランスを巧みに推し量って政策立案しながら、自らの「役所益」を守ることに主たる力を注ぐことがあった。あるいは、逆に政策の流れを継続するという「役所益」を優先するため、あえて自民党の多数派の有力派閥にくみするしたたかさもあった。私がかつて毎日新聞やロイター通信の経済記者として、現場取材した際、何度も経験したことで、事例をあげようと思えば、いくつも出せる。
しかも自民党政権時の政策決定の枠組みで出てきた問題は、農林水産族とか医療などの関係で厚生族といった族議員がはびこったことだ。官僚の側も、「役所益」を代弁してくれるこれら族議員を「センセー(先生)」「センセー」と持ち上げ、時に、彼ら族議員が持ち込む選挙区案件に関して、巧みに予算措置を講じる、という持ちつ持たれつの利害関係を作り上げ、官僚組織の保持に努めたこともある。何ともおかしなことで、明らかに国民不在、もっと言えば行政官僚に一番必要な「パブリック」という公(おおやけ)意識が決定的に欠けてしまっていた。
さて、問題の民主党が「5原則」「5策」で掲げる新たな政策決定の枠組みは、本当に官僚制度にクサビを打ち込むものになるかどうか、これまでの自民党の枠組みを変える画期的なものになるかどうかだ。もし政権交代したら、まずは果敢にチャレンジしてもらいたいが、率直に言って、ジャーナリスト目線で言えば、大丈夫かな、というところがいくつかある。

自民党は政治家100人を「政務3役」の形で政府に送り込み機能するか

たとえば民主党はマニフェストで政府に大臣、副大臣、政務官の「政務3役」に加えて大臣補佐官の形で民主党政治家100人を送り込み、各省庁の官僚には政策サポート役にとどまってもらう。閣議に案件の形で出す政策案件は官僚トップの事務次官会議で決める枠組みも廃止する。これによって自民党のような官邸と与党の二元政治体制、とくに族議員がはびこる政策決定の枠組みをなくす--という。
しかし、いまの自民党政権のもとでも70人近い「政務3役」がいるのに、副大臣、政務官クラスがほとんど機能しなかった。むしろ、お飾り的なもので、選挙区対策のポストづくりに利用されただけ、という現実があったが、民主党は、それら「政務3役」が抜本的に変える力量を持っているのかどうか、政権慣れしていないだけに、結果は自民党政権と同様、官僚任せになってしまうのでないだろうか、という危惧がある。
同じことは、首相直属の「国家戦略局」にも当てはまる。現自民党政権でのマクロ政策の司令塔になっている「経済財政諮問会議」に代わるものだが、局長は閣僚級がつき、経済財政の中長期の政策はじめ、予算編成や予算骨格づくりもこの新設局で行い、財務省から事実上、予算編成機能を外してしまう構想だ。そして、「国家戦略局」が政策の司令塔になるように、政治家、官僚、民間人の優秀な人材を集め、政策運営にあたる、というのだが、構想はよし、としても、実際にどう機能するのだろうか、という危惧がある。
「経済財政諮問会議」もリーダー次第だった。小泉政権の時は、よしあしは別にして、議長役の小泉首相、とりまとめ役の竹中平蔵経済財政担当相(当時)の強烈なトップダウンの指示があったため、機能した。ところが、その後の安倍首相ら3首相のもとでは指導力の欠如で、あまり機能しなかった。その点、過去の「失敗の研究」をしっかりやって、「国家戦略局」の対応を考えないと同じ轍(てつ)を踏むことになる。

武村氏「あんまり官僚に嫌われないように」、藤井氏「官僚をうまくつかえ」と助言

ところで、民主党の政治家の政策立案能力、政治的な指導力も大きな課題だ。その力を発揮すれば官僚もついてくる。たとえば「この問題に関して、私は、こういった政策構想をまとめた。ただ、細部にわたる立法上の問題点の整理などが出来ていない。官僚の諸君で法案作りを頼めるか」といった形で振る舞えば、官僚は「わかりました。対応します」となる。要は、官僚をうまく動かせばいいのだ。   これまで自民党政権のもとでは、漠(ばく)とした政策構想を官僚に示し、事実上の官僚への政策づくり丸投げ、さらには大臣答弁もすべて官僚頼みは当たり前といったケースが多かった。民主党になった場合、100%、その点はなくなると言えるのかどうか、逆に言えば、そのあたりが確実に担保されていないと、民主党がマニフェストで描く「5原則」「5策」の政権構想は絵にかいたモチに終わりかねない。そこが率直に言って、まだ見えてこない。
自民党から政権交代した細川政権時の内閣官房長官、蔵相だった武村正義氏は朝日新聞のインタビュー記事で興味深いことを述べている。「先日、月刊誌への(民主党の)菅直人さんの寄稿を読みました。官僚がコントロールする政治から、政治家中心の政治にするという内容でした。すぐに彼に電話をかけ『あんまり官僚に嫌われないようにしなさいよ』と忠告しました。細川内閣で真っ先に手掛けた人事は、官僚トップの官房副長官に石原信雄さんを留任させたこと、これは周囲に安心感を与え、私たちも安心したものです」と。

なかなか意味深長なアドバイスだが、蔵相経験のある民主党最高顧問の藤井裕久氏も政権交代がらみで話を聞いた際、似たようなことを述べている。「私は旧大蔵省主計官などを経験しているが、官僚は政策立案が仕事だし、彼らの能力はそこそこ優秀だ。民主党が政権交代した場合には、政治主導で、政治が巧みにリーダーシップをとるのは当然だが、官僚の人たちをうまく使うことが重要だ」と述べている。

霞が関の政治官僚群に対峙する民間政策シンクタンクも今後は必要

その点で、冒頭に申上げたとおり、民主党も、官僚を不必要に敵視するのではなく、霞が関の官僚群を政策シンクタンクと見据えて、彼らから政策提案を引き出すような政治的な指導力が重要だ。うまくつかいこなせば民主党の政策能力に厚みが出るかもしれない。ただ、私は、この政策シンクタンクに関しては、別の考えを持っていて、霞が関の官僚政策シンクタンクに相対峙(あいたいじ)する民間の政策シンクタンクをつくるべきだ、という考え方なのだ。その場合、霞が関の行政組織に対しては、情報を独占することなく、むしろ情報開示を求め、制度設計を含めて、民間の政策シンクタンクと政策面で競い合う関係をつくればいいと思っている。
鳩山民主党代表の側近は以前、ある会合で、総選挙で政権交代が実現した場合の政権運営に関して「われわれとしては次期衆院総選挙と来年7月の参院選をセットにして、政権交代を実現する、という考えで取り組むのが現実的だと思っている。民主党は政策的にも十分に信頼がおける、という安心感を官僚のみならず国民のみなさんに持ってもらうことが重要だ」と述べたのが印象的だ。民主党もいまは極めて現実的な対応をしつつあるのだ。ただ、その側近は、「官僚の天下り問題や特殊法人改革を行う狙いは、歳出のムダをなくすことにある。政権交代のメドがつけば、来年中に特殊法人の精査を大胆に行う」ということだけはいい忘れなかった。