これこそベンチャー!「決めたらリスクをとって一歩を踏み出す」迫力

津島今回の賢者は、イー・アクセス株式会社の千本倖生(せんもとさちお)会長兼CEOです。ご存じの方のほうが多いと思いますけれども、千本さんが創業されましたこのイー・アクセス、これはADSLで日本のブロードバンドを世界トップクラスへと牽引(けんいん)してきた会社なんですね。そんな千本さんに最初に一言お伺いしたいんですけど、今はベンチャーというとたくさん会社ありますけども、実際にベンチャーを立ち上げていく、そしてそれを成功させるときにこれが大事だというのは?

千本非常に大きなことは、やっぱりどれくらいその新しいマーケットがあるのか、あるいはそのマーケットをつくれるのかというのが一つね。もう一つは、やっぱり一旦決めたらリスクをとって果敢に、うじうじしては駄目なんですね、やっぱり決めたらリスクをとって一歩を踏み出すと。

蟹瀬思い切ってやると。

はじめて、真面目に忍耐心をもってあきらめずにやる

千本それから三つめは、やっぱり今のいろいろなところを見ていても実業から程遠いベンチャーが多いので、というんだけれども、やっぱり真面目に、忍耐心をもってあきらめずにやると、この三つですかね。

蟹瀬それは本当に大事なポイントばかりですね。

東京、虎ノ門に本社があるイー・アクセス。創業は1999年、『すべての人に新たなブロードバンドライフを。』という企業理念を掲げ、ADSLの普及を通じて、日本をブロードバンド大国に押し上げた。また子会社には携帯電話のブロードバンド化を目指すイー・モバイルがある。イー・アクセスは2004年11月に、創業5年目にして事実上史上最速で東証一部上場を果たした。売上高は579億円を超える。
1942年大阪に生まれ、すぐに疎開し奈良で育つ。そして1962年、京都大学工学部電子工学科入学。

蟹瀬千本さん、疎開なんて言葉も最近はなかなか聞かなくなりましたけども、お父さまも仕事を立ち上げた、要するに起業家でいらっしゃった?

少年時代に培われた起業家精神

千本いや、起業家ほどのあれではないですけど、もともとはエンジニアで工業高専で航空機なんかのエンジニアやったんですよ。だから昔の秘密の飛行機をつくったりする技術者だったんですけどね。

蟹瀬じゃ、最先端のものをつくってらっしゃった?

千本戦時中ですからね。それで奈良で密かにつくってた。だからそれの会社が第二次大戦で負けて平和産業に変わって、そこの役員なんかやったんですけど、その会社が、例の朝鮮戦争のあの動乱のときに倒産したんですよね。

蟹瀬そうですか。

千本で、中小企業、まさに零細企業を自ら立ち上げた。だから僕が小さい頃っていうのはよきサラリーマンのときから、それからゼロから自分と2、3人で会社始めたんだと思うんですけど、それで税務署に追いかけられたりお金がなくなったりとか、そういう意味ではやっぱり中小企業の苦労というのを目のあたりにして、その中でどのようにしてよじ登っていってるのかというのを見てましたからね。だからそういう意味ではアントレプレナーシップという起業家精神というのは、結構アメリカで見ても、自分の親父が自家営業の人がものすごく多いんですよ。

蟹瀬そうですよね。だからもう子供の頃からそういう意味では……。

千本見てましたね。

蟹瀬起業していく姿……。

千本姿、苦労ね。

蟹瀬苦労している部分、それからそれが結実して何らかの形になる……。

千本親父の場合は結実してないですけどね。

蟹瀬(笑)そうなんですか。

千本中途半端に死んでしまったんですけどね。

蟹瀬でも千本さんご自身はどんなお子さんだった? お勉強のほうは随分できたというお話伺ってますけど、成績は。

古都の高校に学ぶ

千本まあ田舎の進学校ですから、奈良高校とかね。奈良県立奈良高校なんてのは東京の開成とかあんなのから見たら、本当に田舎っぺだから。だけどそういう学校で古都の静かな町で勉強させてもらって、やんちゃ坊主だったけれども。あんまり僕勉強しなかったんですよ。勉強しなかったんだけど、成績だけ良かった、田舎でね。そういうの、時々いるじゃないですか。

蟹瀬いやいや、だけどそれはやっぱり本物が、中身が優秀だという意味だと思うんですけれど。

千本いや、本物ではないんだけれど。だからそういうので、でも結構学芸会なんかで主役を回されると、絶対やらない、その他大勢、後ろでコーラス歌っているという。

蟹瀬へえー。

千本皆さん、今になると信用しないんだけど結構引っ込み思案なんです。

蟹瀬だけど奈良、京都、特に奈良という日本の伝統をずっと受け継いできている町で育って、考古学にもご興味があった?

考古学への興味

千本そうですね。だって私が育ったのはなんと七大寺の一つの、だから今はもうないですけども、そこの境内の遺跡の跡に。今の奈良市なんてもう遺跡の上に建っているような町ですから、だから千数百年とかっていうような歴史というのは、常に目の周りにあるわけですよね。だから東京に来て、うちの家内東京っ子なんですけれども、彼女らの古いというのは鎌倉時代が古いわけ。僕らからいうと……。

蟹瀬(笑)尺度が違う?

千本違う。「何言ってんの」と。「そんな新しい時代物は古いと言わないんだ」と。だから僕らにとって、やっぱり1200年とか白鳳(はくほう)とか天平(てんぴょう)とか、そういうものがいつも身の回りにあった。

蟹瀬だけどそういう環境で育った千本さんが、言ってみれば現代よりも未来を見つめるような先端的なところへ進んでいったというのは、なんかそこに一つのエネルギーというか反発心というか、なんかそういうものがあったんですか?

最先端への興味

千本結構やっぱりそうですね。やっぱりああいうところは非常に伝統でいろんなつながりがありすぎてね。

蟹瀬しがらみもありますもんね。

千本そう、そういうものからやっぱり解き放ちたいということあったでしょうね。

津島大学の電子工学科の中では優秀な成績を収めていた千本さんなんですが、この後大学院進学か就職かで悩んだ結果、就職を選択することになりました。

1966年、日本電信電話公社(現NTT)に入社。1967年、フルブライト留学生として、フロリダ大学大学院修士課程に留学。1968年、日本電信電話公社に復職。1969年、フロリダ大学大学院博士課程留学。1971年、フロリダ大学大学院、博士課程終了、日本電信電話公社に復職。そして1983年、日本電信電話公社退社。

蟹瀬先ほどもありましたけど、その進学か就職かという選択、これはやっぱり相当その当時は大変だったんですか?

大学院進学か就職か

千本いや。当時はアメリカの教育なんか僕結構関心あったですから、周りで結構アメリカに留学してた人もいたので。

日本は「学部」中心の教育だった

千本日本はまだ学部中心の教育だったんです、大学院というのは付け足しでね。アメリカの場合には、大学院がもうその頃メインで、学部というのはその準備過程。だから大学院教育が高等教育の中心に移っていた。ところが日本の、京都大学、東大を見ていてもまだ学部で、大学院のほうは付け足しで先生が教える。そういうのを見ていて、これは大学院行くとしたら日本ではないなと、アメリカにいずれ行けなければいけないなと。そういうこともあって、当時まだ貧乏な学生でしたから、ともかく一遍(いっぺん)就職してみようと。で、世の中をちゃんと一応は見て、それから大学院に行くのがいいのではなかと。

蟹瀬電電公社という会社を選ばれた。もっとそういうメーカーへ行くのかなと思ったらそうでもない?

ローマ法王にも愛された! 日本発!! 世界に負けないブライダルデザイナーの裏側に迫る

蟹瀬桂由美さんは、日本に初めてブライダルという言葉を紹介し、現在世界的なデザイナーとして活躍されております。桂さん、もう数々の、今日はお伺いしたいことがたくさんあるのですけども、まずは最初にいろいろなアイデアが出てくる源泉っていいますか、そのあたりはどこにおありなのですか?

そうですね。オートクチュールとしては、やっぱり自然というのが多いんですね。例えば、私もう43年間このバラっていうのは、もうユミカツラのバラ。例えば森英恵さんというのは昔、蝶蝶だったようにね。シンボルマークになっていますけれど、だから自然のやっぱり花とか緑とかっていうのがありますが、この前初めてダイビングの資格を取ったんですけど、それで海の世界に魅せられて、その年のテーマはこれだ!と思って海の色とか海の動物とか、それを例えば辻が花をね…。

蟹瀬お着物?

それを、海の風景、魚が泳いでいるところに絞ってもらってドレスをつくったんですよ。すごく評判になりましたけど。

蟹瀬やはり自然に、その源があるということですね。

津島そうなのですね。そんな桂さんが、いかにしてデザイナー人生をスタートし、どのようにして成功をつかんだのでしょうか。お知らせを挟みまして、その秘密に迫ります。

東京港区に本社がある、ユミカツラインターナショナル。現在世界で活躍する桂由美は、1964年にブライダル総合専門店をオープンし、ブライダルファションデザイナーとしてスタートした。オートクチュールやプレタクチュールだけでなく、メンズフォーマルやゲストフォーマル、和装など、レンタルも含めブライダル関連品をトータルに取り扱う。一生に一度しかないイベントである、美しくエレガントな結婚を実現している。パリオートクチュールコレクションには、日本人としてただ一人参加している。

津島桂さんは、世界中の花嫁たちに幸せをプレゼントしたいというお考えをお持ちです。そんな桂さんが、どのような人生を歩んでこられたのか年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。

年表

津島1930年、東京都江戸川区に生まれます。1942年、共立高等女学校入学、1952年、共立女子大学被服学科卒業、母の経営するファッション専門学校で講師を勤めます。そして1960年、パリのオートクチュール専門学校へ留学ということです。

蟹瀬桂さんが、もうお生まれになったときに、お母さまはファッションのそういう専門学校を経営なさっていたということは…。

塾みたいなものですけどね、最初は。

蟹瀬生まれたときから、そういう意味では身の回りにファッションっていうのは、ごく自然にあったのですか?

はい。

蟹瀬お父さまはどういうお仕事をなさっていたのですか。

今の郵政省ですか、昔の逓信(ていしん)省官吏(かんり)だったのです。

蟹瀬お役人?

だから全然違う仕事で、母とはですね。

蟹瀬幼い頃って、お父さまが言われることと、お母さまが言われることって結構違ったのではないですか?

普通のうちと全く逆で、うちの父は大体一人息子でお坊ちゃん育ちだったらしいんですよ。だから文学青年で文学全集ずらっと並んでてっていう。それで母のほうが少しビジネス的な才能があったのか、ともかくそういうことで、事業が好きだったんですね。だから私はちょっと両方のDNAを引いていると思うんですけど。

蟹瀬幼いときは、そうするとご両親の教育というのはどんな感じだったのですか?

それは…。

蟹瀬どちらが厳しかったとか?

それはもうやっぱり母ですよね。

蟹瀬母親?

ええ。

蟹瀬そうですか。

それで父は日曜日休みですよね、土曜日半日で帰ってくるわけですけど、本当に子煩悩ですから甘えてべったりという感じで。で、私、ものすごく小さいときから

おとぎ話大好きの女の子で、うちの母がよくこぼしていましたけど、絵本でうちがつぶれると、毎日1冊すぐ読んでしまうわけですよね。それで翌日また「買って」って言うわけですね。

蟹瀬ということは、白雪姫だとか。

そうです。

蟹瀬シンデレラだとか。

人魚姫だとかね。

蟹瀬中、高、大学、共立女子へ行かれて、その頃没頭されたことっていうのはどういうことございます?

中学、ちょうど2年のときに日本が戦争破れたわけですけれど、一番美しいものに憧れるときじゃないですか、中学1年2年というのはね。
焼け野原になったわけですから、東京ほとんど全部ですね。そしてもう、今まですごく憧れていた、私は海軍士官江田島(えだじま)なんてのすごく憧れていたわけだけど、その凛々しい海軍士官の人たちが尾羽打ち枯らして(おはうちからして)汚い格好で街中歩いているし、浮浪児はいっぱいいるし、それで毎日の新聞紙上はストライキの記事ばかりですよ。
ともかく外を見るのが嫌だったのですね。だから私、共立にもの、すごく夜遅くまで残っていたんですけど、学園の外へ出て、その世の中のそういうものを見たくないっていう感じで。そうするとドラマをつくるっていうことを考えたわけですよ。だから演劇部長を10年間やっていたんですね。

蟹瀬それで演劇へ入られて、文学座まで受験をされているのですよね。やはり舞台に立ちたいという、そういうお気持ちが強かったのですか?

というよりは、やっぱりドラマをつくりたいっていう、だけどあの頃はもう本当に最初は俳優修業をしないと演出もできないし…。

蟹瀬しかしその後、お母さんが経営されている専門学校の先生になられていますよね?

はい。

蟹瀬これはやはり、この選択というのはどういう理由でなされたのですか?

権利は武器だ! その権利で武装しろ!! 知的財産の大切さと今後のあり方について問う

蟹瀬山本秀策特許事務所は、知的財産問題に関して国際的に高く評価されている特許事務所の一つなのですね。山本さん、業務を進めていく上では、いろいろな決断あるいは選択をなされると思うのですけども、賢い選択って一言で言うと、どういうことですか?

国際的視点で先を予測する

山本国際的視点で先を予測するということですね。大切なことは、間違ったと思ったら躊躇(ちゅうちょ)なく引き返して、すぐにまた別の道を考えるということです。

蟹瀬なるほどですね。

山本もう少し言えば、私は直感でむしろ進めていると言うほうが、正しいか分かりませんね。

津島はい。そんな山本さんが、いかにして弁理士として成功を収めたのか、その秘密に迫ります。

大阪、中央区に本拠を置く山本秀策特許事務所。1979年に代表の山本秀策によって創立された。知的財産とは、特許、商標、実用新案、意匠、不正競争など多岐にわたる。事務所では、これらの権利化手続きやライセンス取得、相談サービスなどを行っている。スタッフは、高度な知識を持つ弁理士、弁護士、バイオ、情報通信などの専門家で構成されている。クライアントの9割は、米国をはじめとする海外からの依頼であり、世界的な信頼が高い。年間依頼件数は7,000件を超えている。

津島山本さんは、常に国際的な視点を持って仕事に臨んでいるそうです。そんな山本さんが今までどのような人生を歩んでこられたのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。1943年、奈良県奈良市に生まれます。1962年、大阪府立茨木(いばらき)高等学校卒業。1966年、大阪大学工学部醗酵工学科卒業、キッコーマン株式会社入社、第九工場配属ということです。

蟹瀬山本さんは、大変エネルギッシュでいらっしゃるのですけれども、お父さまは大変固いご商売なさっていたと? ご商売と言うと怒られるかもしれませんが。

山本そうです。

家庭環境

山本正直、真実一路の男でしたし、役人をしておりました。裁判所に父は勤めていたんです。

蟹瀬そうですか。そうすると山本少年は、そのお父さんから相当いろいろ厳しくしつけられたわけですか?

山本怖い父でした、すごく怖い父でした。ただ、生まれてみると、いつもおばさんたちが山ほど周りにいるんです。なんだ?と思ったら、姉なんです、姉が4人上におりまして、5番目で初めての長男でしたから、かわいがってもらったんですけど怖い父親で、母が大変優しかったです。

蟹瀬子供の頃、そうすると夢中になられたことは、どんなことがあったのですか?

山本そういうわけですから、幼稚園とか学校に行ってしまう、家が誰もいなくなる、両親はいますけど。それで近所のお兄ちゃんお姉ちゃんも学校なんかに行っていない。玄関出たところに水道のメーターのボックスがあるんですけど、鉄でできた、そこにいつも座って空を見ながら、1日が長いな、どうしてこんなに長いんだろうなってずっと思っていた子どもだったんですけど、夕方になると、お兄ちゃんとかおじちゃんが将棋をしていたんですね。

蟹瀬そうでしたね。あの頃は縁台将棋とか、外でさしていましたよね。

山本でしょう? それを見ているうちに将棋が好きになりまして、将棋に夢中になって、そのうちそのおじちゃん、お兄ちゃんを負かすようになりまして、もう将棋に本当に夢中になりました。小学校6年のときに、父が将棋の台と将棋を買ってくれて、こんなうれしかったことはないですけど。それが実は後日、大学に入ってから、今度は父が囲碁の四段だったものですから。

蟹瀬有段者?

山本ええ。で、いつも父が羽織袴で座布団に座って囲碁の前で、一人でパチッパチッと打っているのを子どもながら見ていたということもあって、大学に入ったときに、今度は囲碁を勉強した、そういうことが結局は先を何手か読むという、ビジネス上に非常に役に立っているんじゃないかなと思っています。

蟹瀬よく言われますよね、やっぱり碁とか将棋とかやっている方は、その戦略とかものの考え方が自分の仕事でもすごく役立っていると。

山本そうですね。一瞬にして何十手をそれぞれの一つの道、こうなったらこうなってと何十手、また別の道はこうだと、それが非常に多分役立っているんじゃないかと思いますけどね。

蟹瀬究極の選択をしていくという作業ですもんね。

山本そういうことです。

蟹瀬しかも複数のいろんな道のりを考えなければいけないという。

山本はい。それも直感というのが大変重要で、論理的に詰めていっても結論は直感の結論と一緒という、よくありますでしょ?

蟹瀬そうすると、そのお父さまの姿を見て、自分もじゃあお父さまのようになりたいなと、裁判官になりたいなとか、そういう感じだったのですか?

山本ええ。父は裁判官ではなかったんですけど、母が私に言っていましたことは、司法試験に挑戦していたようなんですね、父も。ところが、胸を患って断念したと。父は相撲、村の横綱だったりしてものすごく元気な大きな男だったんですよ。私は母の話を聞いて、裁判官はいいなって、よく分からずにそんなことをいつも思っていた時代があったんです。ところが時代はエンジニアの時代で、誰もが、少し数学、物理あたりができればエンジニアという時代でしたので。

蟹瀬花形でしたよね?

山本はい。で、私も当然、そういう道なんだろうな、と思って行きました。

蟹瀬もともと理科系というのは得意な科目だったのですか?

山本ええ、数学とか物理とか科学が得意だったもんですから、何も考えずにエンジニア。その裁判官の話があったにもかかわらず、はい。

蟹瀬これ、大阪大学工学部醗酵工学科という、これ醗酵工学って、われわれはあんまり聞かないところですけど。

山本そうですね。当時としては本当にマイナーな学問だったと思いますね。

蟹瀬これを選ばれた理由っていうのはどういうことだったのですか?

山本単に科学、物理、数学が好きで、

信じられないほど多い宮崎口蹄疫の教訓、篠原農水副大臣が率直に指摘 超過密畜産が被害を拡大、獣医師がペット産業に傾斜し家畜医不足も深刻

一時は大問題になった宮崎県での牛や豚の口蹄疫(こうていえき)も、やっと感染の恐れがなくなった、として東国原英夫宮崎県知事が8月27日に終結宣言を出すという。そんな中で、篠原孝農林水産副大臣が最近、農政ジャーナリストの会で、この口蹄疫問題の危機管理面での教訓と畜産再建の問題に関して、率直に反省の弁を述べると同時に国としての取組み課題を語った。とても重要な課題が多いのに、メディアはなぜか、あまり取り上げていない。その危機管理の教訓がとても参考になるので、「時代刺激人」ジャーナリストの立場で、それら教訓から何を学ぶべきか、レポートしてみよう。

篠原農林水産副大臣は、口蹄疫問題が再燃し始めた6月9日に農水省官僚OBの経験が評価の対象になり急きょ、副大臣任命と同時に口蹄疫問題の現地対策本部長を命じられて現場で陣頭指揮した。私が毎日新聞経済記者時代に農政を担当した際の取材対象の1人で、長いつきあいだ。官僚現役当時から、ズバズバと問題指摘する異色の存在で、官僚社会では「変わり者」扱いされていたが、私はその問題意識の鋭さを率直に評価していた。今回も、そういった意味で、問題の所在が何かを十分にわかったうえで発言しており、今後の課題解決への取組みを期待したい。

88回コラムでは赤松農水相(当時)の危機管理意識の希薄さを問題視
 私は88回のコラムで、この問題を取り上げた際、3月31日に宮崎県都農町で口蹄疫の疑いのある水牛が見つかったのに、この程度は大丈夫との楽観が現場で先行し、危機対応が後手後手に回るという初動体制に問題を残したこと、しかし決定的なミスは、赤松広隆農林水産相(当時)という担当大臣の危機意識の希薄さにあったこと、端的には赤松農水相は4月27日に宮崎県からの緊急支援要請後も外国訪問案件を優先し4月30日から5月8日までキューバなどを訪問、口蹄疫問題が噴出する5月ゴールデンウイーク中も日程を繰り上げて帰国するわけでなく、危機管理に問題があったことなどを指摘した。
前回コラムでは、現場を踏まずに東京などでの取材だけで問題を取り上げたことをお断りしたが、今回、篠原農林水産副大臣の話を聞いてみると、宮崎県の口蹄疫問題に関して、終息宣言を出す所まで至ったとはいえ、信じられないほど数多くの問題や課題が山積していた。現場重視のジャーナリストから言えば、現場を踏まなかったことは反省しきりだ。その点で、ぜひチャンスをつくって、畜産の現場を見てみたいと思うが、現場で陣頭指揮した篠原農林水産副大臣の話は生々しさがあり、聞いてよかったと思っている。

日本は地震災害に迅速対応だが、人畜共通感染症などへの準備は心もとない
 さて、篠原農林水産副大臣は行政の責任などを踏まえて、何が問題や課題と指摘したか、さっそくご紹介しよう。まず、大きなくくりでの日本の危機管理という点について、災害対応に関しては、日本は地震被害や水害など過去の対応の学習効果で、世界に誇れるほど迅速に対応できる。ところが、それ以外は危機管理の課題が多い。たとえば安全保障がらみでは防衛関係者が敏感なのも異常ながら、それ以外の官や民はともに驚くほど鈍感。また感染症に関しては鳥インフルエンザなどに一時的に大騒ぎするが、問題が鎮静化したりするとけろっと忘れてしまう国民的な体質があり、危機ノウハウが一般的に蓄積されていない。今後の問題としては人畜共通感染症という重要な問題があり、バイオテロや細菌テロへの備えが必要になって来るのに、その備えが不十分で、心もとない。日本と違って他の国々との国境が陸続きとなっている欧州では家畜を使ったテロにはさまざまな予防・警備体制がとられており、学ぶべきものが多い。危機管理の行政課題については、首相官邸に危機管理対策本部がつくられるようになったとはいえ、霞ヶ関では依然として省庁横断的な問題に関してタテ割り組織の弊害が目立ち、機能しているとは言い難い、という。

人や車がウイルス運ぶのに「なぜオレの新車に消毒剤散布するのか」と無理解も
 この総論的な問題提起を踏まえて、篠原農林水産副大臣が次に指摘したのが本題の宮崎県での牛、豚の口蹄疫問題だ。まず感染ルートの解明に関しては、いまだに特定が出来ていない。10年前の2000年に同じ宮崎県で口蹄疫問題が発生し、当時は中国産の麦わらでないかと見られたが、決め手を欠いた。今回もアジア地域から人やモノの移動に伴ってウイルスが運ばれてきた可能性が高い。ただ、篠原農林水産副大臣は「問題が表面化してから、ウイルス感染が広がるのを抑えるため、人間の立ち入り禁止措置のほか、乗用車、トラックなどの消毒剤散布したが、『なぜ、オレの新車に散布するのだ。牛や豚の世界の話でないか、迷惑だ』といった無理解さが横行した。危機が広がり、さすがにそういった反発はなくなったが、東国原知事ら県の幹部も当初は同じ意識レベルだった。とくに県幹部らは10年前に最小限の被害にとどめたという成功体験があって、当時、うまくやれたのだから今回も大丈夫、との楽観論が先行したようだ」と述べた。

10年前に同じ宮崎で最小限被害にとどめた「成功体験」が判断ミスの遠因
 まさに地元の県当局サイドに「成功のワナ」という問題があったのは間違いない。ご記憶だろうか。前回コラムで、宮崎県のある獣医師のテレビインタビューでの発言を紹介したが、「宮崎県で10年前に口蹄疫の問題が発生した際、危機意識が強かったのか、先手先手の対応がとられ、家畜感染は今と比べものにならないほど、わずかで済んだ。感染力の強い豚の殺処分を素早く行って牛に感染波及するのを抑えたのが成功したのだが、今回、豚への感染が見つかってからも当局の対応にもたつきが見られ、その楽観対応で、豚の感染が膨れ上がり、連鎖する形で牛の感染が広域に広がった」と述べていた。何が原因か特定できていないが、今のように外国人観光客やモノの往来が活発になるグローバルな広がりではリスクは増大している、ということを理解しなかったのでないかと篠原農林水産副大臣は言いたげだった。

超過密畜産で殺処分牛の埋却地確保難など課題、欧州のように広域放し飼いも
 それよりも篠原農林水産副大臣が指摘した危機管理の教訓の中で、極めて印象的だったのは、今回の宮崎県の場合、鹿児島県などと並んで畜産業が盛んな県であり、その超過密畜産という事態がさまざまな問題を引き起こしてしまった、という点だ。それだけ感染リスクは増大するのは当然で、今後に課題を残している。それに日本の家畜伝染病予防法では、もし牛や豚がウイルス感染した場合に殺処分する必要が出るが、その埋却地の確保はそれぞれの畜産農家の義務となっている。
しかし借金苦でギリギリの状況で経営する畜産農家には土地拡大の余裕がない上、今回の場合、埋却地の確保が大幅に遅れたりして感染リスクを高めてしまった。篠原農林水産副大臣は行政の課題としては、北海道や欧州のように、広大なスペースで放し飼いして隣接する畜産農家への感染リスクをなくすことが必要になる。欧州の場合、1ヘクタールあたりわずか2頭の成牛、豚は10頭が飼育の限度、しかも糞尿公害など環境対応も必要になっており、日本はこの機会に抜本対策が重要になる、という。

ペットブームで伴侶動物獣医師が増えるが、公務員、産業動物獣医師は増えず
 ところで、これまた重要な教訓だと思ったのは、獣医師、それも家畜衛生などにかかわる公務員獣医師、それに牛や豚などの診断・治療にあたる産業動物獣医師が決定的に不足していることだ。今回、問題が大きく広がった際、口蹄疫症状チェックのために、政府はこれら公務員獣医師、産業動物獣医師に宮崎県への応援を求めたが、なかなか集まらなかった。酪農学園大学獣医学部長の林正信さんが7月8日付の毎日新聞コラム「これが言いたい」で述べているのを参考にさせていただくと、現在、登録している獣医師は全国で3万5000人。このうちイヌやネコのペットを扱う伴侶動物獣医師が全体の約37%、公務員獣医師が約26%、また産業動物獣医師が約13%、そのほか民間の大学などの獣医師が約12%、あとはその他という分類だ。率直に言って、ペットブームの時代の流れに乗って、女性が伴侶動物獣医師となるケースが急速に増えており、今回のような場合には対応しにくい。何とも悩ましい問題だ。

広域に感染リスク及ぶ事態あっても改正家畜伝染予防法が対応できず
 また、篠原農林水産副大臣によると、今回のような宮崎県にとどまらず広範に被害が広がった場合に備えて、広域予防策を講じるのは国であり、国がすべての責任を負うようにすべきだ。ところが、改正された家畜伝染病予防法では、カッコ書きがあって、「知事など自治体の長が予防区域を指定すれば、国は口出しをしない」という項目があり、これがネックになって、今回も山田正彦農水大臣と東国原宮崎県知事との対策をめぐる対立が事態の対応を遅らせたという。篠原農林水産副大臣は「広域におよぶリスクを考えれば国がすべての対策の責任を負うべきだ。しかし地域主権の問題が大きな政治課題になったため、政府は法改正の際に地方自治体に配慮してカッコ書きを加えたのだ。地方重視の姿勢は大事だが、ケース・バイ・ケースだ。これが今回、事態の機敏対応を遅らせた」という。地域主権は大きな時代の流れながら、こういった問題対応には、むしろ地域や地方自治体のエゴなどが前面に出て、あとでとりかえしのつかない問題を引き起こす。今回の宮崎県のケースで言えば種牛の殺処分を例外扱いにするかどうかの問題がそれだった。

宮崎県の事例をもとに「失敗の研究」を行い今後の対策につなげるべきだ
 篠原農林水産副大臣は、このほかにかなり多くの課題を率直に挙げたが、いずれも解決には難題が多い。しかし地元宮崎県の東国原知事の「終息宣言」をしても、これからが課題解決の始まりであり、政府は抜本的に取り組むべきだと思う。とくに、再発防止のために、今回の宮崎県口蹄疫問題を1つの失敗の研究事例にして、詳細分析レポートを公表することも必要だ。
だが、現実問題として、民主党政権は、足元の民主党代表選で政治空白、行政空白をつくりかねない状況で、マクロ政策も動きようがない状況にある。この口蹄疫問題がもたらした危機管理がどう生かされるのか、心もとない状況だ。

「野心ではなく志を」。志で考える、世界の日本、世代交代、後継への引き際

宮川リーダーアンドイノベーション賢者の選択、ナビゲーターの宮川俊二です。

白石白石みきです。

宮川インターネットで金融サービスを受ける。一昔前ですとちょっと考えられなかったですけども今は自宅と銀行そして保険会社、証券会社。私もつい先日ローンが住宅ローンがですね、繰り上げ返済、インターネットでやりました。

白石インターネットで?

宮川ということでまあ非常に身近になったんですけれども。今回は利便性の高い総合金融サービスの提供に特化した企業に焦点を当てまして、その成長戦略に迫ります。

白石それでは早速ゲストの方をお招きいたしましょう。SBIホールディングス株式会社代表取締役執行役員CEOの北尾吉孝さんです。

宮川ようこそ、よろしくお願いします。

北尾どうもよろしくお願いします。

白石北尾さん早速なんですけれども、SBIホールディングスは一言で言うとどのような会社なんですか?

北尾投資とそれから様々な金融サービスを提供する総合金融グループといったところですかね。インターネットで提供するというところがポイントになるかと思います。

宮川それをインターネットでやっていると。

白石素晴らしいですよね。この番組ではですね、企業を象徴する三つのキーワードで進行させて頂きますがまず最初のキーワードは何でしょうか?

北尾そうですね。時流に乗るということですかね。

変革のキーワード①時流に乗る

宮川時流ですか?北尾さんと言いますと色々な場面でこれまでも時流に乗って来られましたので、まあその辺のところを後ほどゆっくり伺いたいと思います。

白石よろしくお願いします。

北尾吉孝。1951年兵庫県出身。1974年慶応大学経済学部卒業後、野村證券株式会社に入社。1995年孫正義氏に招聘されソフトバンクに入社。1999年ソフトバンクインベストメント株式会社現在のSBIホールディングス株式会社代表取締役執行役員CEOに就任。現在に至る。

宮川SBIグループと言いますとどんどん拡張してるといいますか、いろんな分野に伸びていらっしゃるんですけれども。現在はどのような形になってらっしゃるんですか?

北尾一応銀行それから証券、保険、その他送金関係だとか決済関係だとかほとんどの金融関連のサービス事業を網羅しておりましてね、そういう意味では一応生態系としてグループは完成したと。
いわゆるインターネットベースの金融コングロマリットはほぼ完成形になったという風に思ってるんですけれど。まだ10年かかりましたよここまでやるのに。

宮川これはどういう風にして?

北尾一社でスタートするのではなくて早々からたくさんの会社、一つの生態系として形成しようと思ったんですけどね、それは昔私が勉強していたところで複雑系の科学というものがありましてですね。これは二つの重要な命題があるんです。

原発の水素爆発も想定外って本当? 政府の事故調査委聴取で東電証言

多重の防護壁があるので絶対に安全、と東京電力が終始述べていた福島第1原子力発電所(原発)で、なぜ水素爆発事故が起き、放射能汚染が深刻化したのか。原発事故で苦しむ被災者のみならず、世界中の人たち、それに原発現場の人たちが最も知りたい点だ。

そんな矢先、政府の「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)が東電の吉田昌郎福島第1原発所長ら現場幹部はじめ作業関係者から行っている聴取内容の一部を、毎日新聞が8月17日付朝刊で報じた。これが何ともショッキングな内容なのだ。世界中を震撼させた重大事故なので、全容解明されるまでは訳知りのような、勝手な判断は許されないし、むしろ専門家の客観かつ冷静な分析判断を聞かせてほしいのは言うまでもない。だが、聴取内容は一部とはいえ、率直に言って「えっ、本当か」と思わず言いたくなるものなのだ。

毎日新聞が報道、「ベントの手順書なく手間取った」との証言も
毎日新聞が報じた記事によると、東電の現場は、3月12日午後3時36分の原発1号機での水素爆発事故当時、爆発を事前に予測できていなかったと証言していること、また長時間の全電源喪失という異常事態のもとで、原子炉の格納容器を守るために行うベント(排気)作業に必要なマニュアル(手順書)がなかったため、ベント作業に意外に手間取ったこと――などがポイント部分だ。

事故調査委員会の性格から言って、調査には慎重さを期すため、途中経過などをなかなか口にしないはずなので、こういった取材は難航を極める。毎日新聞は、よくポイント部分の聴取内容をスクープ出来たなと思う。他の新聞各紙が追っかけをしないのは、関係者が途中過程だとして事実の確認を拒むためなのか、定かでない。しかし毎日新聞記事では事故調査委員会のヒアリング経過メモが詳しく出ており、まず、間違いないと信じる。

米国は原発事故起きること前提に対応策、
日本は危機管理見直し必要
今回のコラムで、この問題をぜひ取り上げたいと思ったのには、実は理由がある。日米間で原発事故に対する危機管理に大きな差があり、私は、その点に関して、米国方式の方がいいのでないだろうかと、日ごろから問題意識を持っていたが、この事故調査委員会の聴取内容を見て、それを確信した。

結論を先に申上げよう。日本は、原発事故を絶対に起こしてはならない、という立場で、法規制を厳しくしている。それとは対照的なのが米国で、原発事故ゼロは絶対にあり得ない。むしろ事故は起きるものだという前提で、事故対策のマニュアル(手順書)づくりはじめ、さまざまな対策を講じておく考え方なのだ。私は躊躇なくこの米国方式をとる。
事故を起こしてはならないのは当たり前だが、完璧な事故ゼロはあり得ない。その意味で、事故調査委員会の厳しい検証を待ちたいが、今回の毎日新聞報道を見る限りでは今後の原発危機管理の見直しが必要なことは明白だ。米国に学ぶべき先例があるなら、日本は再発防止のためにも、米国方式から必要なものを学びとるべきだと考える。

多重防護で爆発「予測せず」か、「予想外に早く起きたのか」不明
日米の原発事故対応の危機管理の違いから何を学ぶべきか、を述べる前に、事故調査委員会の聴取内容のポイント部分を、もう少し詳しく引用させていただこう。
まず、東電福島第1原発の現場では水素爆発事故を予測していなかった、という点。報道によると、「東電側は、原子炉や格納容器の状態に気をとられ、水素が原子炉建屋内に充満して爆発する危険性があったということを考えなかった、との趣旨の発言を行い、『爆発前に、予測できた人はいなかった』などと説明している」という。

これだけでは、どういった点で「予測できなかった」のか判断が難しい。原発には強固な格納容器など多重防護壁があるので、水素爆発はあり得ないという意味で、全く予測できなかったということなのか、あるいは最悪のシナリオを考えていたものの、こんなに早く事態悪化が進むとは予測できなかった、という意味なのか、この点は定かでない。

ベントをめぐってもヒアリングメモでは現場の混乱が浮き彫りに
ガス抜きの形で放射能を大気中に放出せざるを得ないベントに関しても、意外な問題が明らかになった。報道によると、「3月12日未明にかけ、炉心損傷を認識した吉田福島第1原発所長がベント準備を指示した。(ところが)マニュアルがなく、現場で設計図などを参照しながら措置を検討し、弁操作に必要なバッテリー調達などから始めた。ストックを把握していなかったため、構内を探したり本店に調達要請、と手間取った」という。

何とも危なっかしい話だ。最悪の事態を想定して、事前にベントのための手順書を準備しておくのが常識なのだろうが、その基本が出来ていなかったため、現場が混乱したことが読み取れる。ヒアリング経過メモには、さらにこんなくだりがある。
「最終的にベントが成功したかどうかは確認できていない」、「ベントや注水に必要な資材が福島第2原発などに誤搬送され、第1原発から取りに行く人員を割かれるなど、本店のサポート体制は不十分」、「海江田万里経済産業相のベント実施命令には違和感が強い。意図的に(現場が)グズグズしていると思われたら心外」といった生々しい証言だ。

2008年原発シンポジウムで米国危機管理に学習対象ありと認識
さて、ここで本題だ。日米の原発危機管理に大きな差があるうえ、9.11の同時多発テロリスクを含め、さまざまな事例をもとにした危機管理先輩国の米国には学習の対象にすべき点があり、日本は米国からノウハウを学ぶべきだ、という点について述べたい。
実は、2007年7月に起きた中越沖地震による東電柏崎原発事故の問題で、日本と米国、フランスの原発関係技術者ら専門家を交えた国際シンポジウムが現地の柏崎市で翌2008年2月に開かれた際、私は興味があったので現地に出向いて参加したが、今回の原発危機管理にからむ問題ですごく勉強になったことがあったのだ。
当時のシンポジウムでの議論、さらに終了後に補則取材した中で、米国の専門家が日米の原発危機管理策の差に言及して発言した点がとても参考になる。取材メモをもとに、私なりに整理してポイント部分を申上げれば、次のとおりだ。

米国は原発事故が起きると想定、
日本は起こしてはならぬと厳しい法規制
米国は長年、テロリスクやハリケーン、さらには移民社会に潜在化する危機などを抱えており、危機管理に関しては、日本よりもはるかに過敏に対応してきている。原発危機管理もその1つだが、日本とは考え方が異なる。米国の場合、1979年のスリーマイル島の原発事故の教訓で、法規制だけでは十分でないことを強く感じとった、それ以降、原発では事故が起きるものだという前提に立って、さまざまな予防的な対策を講じてきた。このため、危機対応が素早く、いわゆる即応体制が出来ている、という。

このあとがポイントだ。米国と対照的なのが日本で、原発事故を起こしてはならない、という1点に問題を限定させ過ぎる。法規制も監督規制も厳しく行って一種のがんじがらめの状態のように見える。法規制はもちろん重要だが、事故を起こしてはならないことに比重がかかり過ぎているため、いざ原発事故が現実化した際の対応が十分出来ていないように見える、といった趣旨の発言だった。

米国の危機管理に試行錯誤あるが、危機対応は敏感で素早い
シンポジウム参加の別の米国専門家は、「米国の原発関係者にとって危機管理のきっかけはスリーマイル島の問題だが、2005年8月のハリケーン・カトリーナも危機対応モデルの再構築に役立った」と述べた。中越沖地震のように突発で起きる自然災害のケースと違って、ハリケーン・カトリーナが米国沿岸に押し寄せるまでに時間的な余裕もあり、沿岸の原発危機管理や非常用ディーゼルなど予備電力対策の手を打てた、というのだ。

危機管理と言っても、米国の対応がベストかと言えば、もちろん、そうとは言えない。2001年の9.11同時多発テロの際も、米国の専門家の間では、テロ対応の早期警報システムが脆弱で、1993年の貿易センタービルへのテロ攻撃の教訓が生かされなかった、という反省意見が多かった。その結果、米国当局は空港での警備体制強化など、法規制をぐんと厳しくしたことも事実。米国の危機管理に試行錯誤もあり、すべて学習の対象とは言い切れないが、危機対応に敏感で、即応態勢がすごいことは間違いない。

「想定外のリスク」対応は必須、
やはり東北電力の元副社長判断はすごい
ただ、今回の東電福島第1原発事故を見た場合、米国の危機管理に学ぶべき点が間違いなくある。原発事故は起きるものだ、という前提で危機管理策を講じる点だ。地震大国の日本に、しかも今回のような大津波で被害が常に想定される沿岸地域に、原発を立地することのリスクを考え合わせれば、法規制も重要だが、まずは電力会社が、原発事故が起きることを前提に、事故への即応体制策を平時から準備する、国も民間の事前対応をバックアップする、という米国式の危機管理策を取り入れることが重要だ、と考える。

143回コラムで原発再稼働問題にからめて、私は、電力会社経営の危機管理策にからめて、「想定外のリスク」にも対応出来る原発の安全確保策を電力経営に義務付けることが重要だ、と問題指摘した。その時に事例紹介したが、東北電力の女川原発が大津波で奇跡的に大惨事を免れたのは、実は故人の副社長が役員会で孤立しながらも過去の大津波災害を教訓に原発の高さを14.8メートルにまでかさ上げすることを強硬に主張して譲らなかったからだ。巨額の設備投資額が経営に過重な負担となる、予測不能のリスクに経営は対処できないとの反対論に対し、元副社長は押し切ったのだから、すごい経営判断だ。
東電の清水正孝前社長が記者会見で「想定外の大津波による事故」と、不可抗力の大津波だった、とエクスキューズしたのは、この東北電経営の事例を見ても許されない。

「原発は多重防護で安全と言った手前、
危機対応訓練が十分出来ず」
ある電力関係者が今回の東電原発事故後、私に述べた言葉は、今後の電力会社の原発危機管理対応という意味でも重要だ。
「われわれは多重防護策を講じて、原発は絶対に安全ですから信じてください、と言ってきた。原発立地の段階から自治体や住民のみなさんにも、そういった説明をした手前、原発サイトで事故を想定した大訓練をひんぱんに行うわけにもいかなくなった」「むしろ情報開示を積極的に行うことで、透明性を示しているのと同じで、突発の危機への対応という形で、住民を交えてひんぱんに訓練を行えばよかった、という反省がある」と。

重ねて言おう。原発事故は絶対に起こしてはならないが、起きることもあるという前提での危機管理などの対応が改めて重要になったということでないだろうか。それと、米国に限らず危機管理策に関しては、各国で情報を共有し、グローバルに事故を引き起こさないことが大事だ。

グローバル化の先が見えない韓国 格差拡大の一方で、農村は高齢化

前回コラムで、貿易依存度の高い韓国が生き残りのため、自由貿易協定(FTA)を戦略的に活用し、エレクトロニクスや自動車産業が輸出に特化すると同時にグローバル展開を進めていること、他方で、海外からの輸入攻勢で被害が避けられない農業に関しては、財政面で国内対策を講じるほか、競争力のある農業分野には、輸出団地化で支援といった、したたかな戦略対応をしており、日本も学ぶ点がある、という話を書いた。

そこで、今回は、韓国の首都ソウルでの急速な都市化の状況を見聞するのみならず、農村の現場に入り込んでの約1週間の取材の旅だったので、ジャーナリストの目線で見た韓国の抱える問題や課題について、レポートしてみよう。

グローバル社会化のメリットと同時に、デメリットが拡がる
結論から先に申上げれば、韓国は自らの生き残りのためにFTA戦略を基軸にグローバル対応を進め、社会システムもそれに合わせて大きく変えていこうとしているが、現実は、グローバル化の先に、どんな国家像や社会システムがあるのか、よく見えない。

それどころか、所得格差が都市と農村との間を含め、さまざまな分野で拡がってきて、アンケート調査でも所得の安定という項目がトップに躍り出るほど、国民の間では所得格差の是正が大きな社会問題になりつつある。また、若者を中心に、ソウルへの人口集中が進み、その反動で農村部は日本と同様、高齢者ばかりが結果的に増えて急速な高齢化のひずみが出てきている。要は、グローバル化が韓国経済にメリットを与えている半面、経済社会にはさまざまなデメリットももたらしている、ということだ。

まず、今回の韓国旅行中に聞いた話で、とても興味深かったものの1つに、「名誉退職」というキーワードがある。わかりやすく言えば、企業における早期退職のことで、日本でも定年制度とは別に、半ば一般化しつつある制度だ。ところが、韓国の場合、グローバル化に伴う競争社会化が進み、日本とはケタ外れのテンポで、制度化と同時に、早期退職年齢のバ―がぐんと引き下げられているのだ。

競争社会化が進み55歳定年前に名誉退職、40歳台後半も
複数の韓国企業関係者らに聞いた話では、韓国政府は、高齢社会化に対応するため、出来るだけ長く企業で働けるようにと、60歳定年制の定着を目指しているが、現実は、55歳定年が平均的で、大半の企業がほぼ、この年齢を定年年齢としている。

ところが、ある韓国人の話では、韓国企業のホワイトカラーが経験する体感的な定年退職年齢というのは、もっと繰り下がって、何と48歳ぐらいでないか、という。そればかりでない。「45停」と「56盗」の2つのキーワードもある、というのだ。ちょっと横道にそれるが、韓国の場合、日本で言う定年は、「停年」と呼ぶそうだ。定年という場合、日本語的な語感からすれば、定年の延長に含みを持たせる面があるが、韓国の停年という言葉から受けるイメージは、そこでストップの感じがあるように思える。

「45停」や「56盗」で締め出し?
高齢社会の制度設計中の日本とは大違い
それよりも、興味深いのは、この「45停」という言葉だ。要は、やや若くて45歳を、韓国社会では定年と意識し始める年齢であるため、皮肉っぽく使われるのだそうだ。そして「56盗」は、想像がつかれることだろうが、55歳定年が平均の韓国で、仮に56歳まで企業で働いた場合、給料泥棒視されるばかりか、後進に道を譲らずにポストにしがみついたり、若者のポストを半ば盗ってしまうと受け取られ、やや冗談半分に、そういうのだそうだ。何とも味気ないどころか、殺伐とした社会だ、と日本人には映るかもしれない。

日本のように、高齢化社会の「化」が次第に抜け落ちて、高齢社会になりつつある国では、体力、知力の面で余力のある高齢層の再雇用化や企業内における雇用延長化、さらには新たなキャリア開発化などが、高齢人口社会に対応した制度設計課題になっている。

韓国はグローバル社会での熾烈な競争勝ち抜きが企業課題
それと対照的なのが韓国社会の今の現実だ。つまり企業がグローバル化に対応するには、企業の現場で常に競争力を確保する必要があるため、若手中心に、かつ低い給与でも企業の現場で対応してくれる若手社員を主戦力にする必要から、名誉退職という形で、本来の退職金以外に割増退職金などのインセンティブをつけて、世代交代を急がせる。考えようによっては、競争社会の冷酷なルールで、グローバル社会化が進む韓国のカゲの部分とも受け取られかねない。

しかし、韓国の場合、それによって熾烈なグローバルレベルでの競争に勝ち抜くことが企業課題なのだ。現に、サムスンエレクトロニクスは10月1日、不振が続く液晶パネル部門のトップを事実上、更迭し、同時に組織再編も行った。今年1-3月期に8四半期ぶりの赤字を出し4-6月期も同じ赤字見通しが明らかになったため、オーナーで最高実力者のイ・ゴンヒ会長の経営判断で、任期途中の部門トップの更迭人事に踏み切った、という。実力本位、業績など経営結果がすべてで、グローバル競争に勝ち抜くにはこの大胆さが組織に緊張感と活力をもたらす、という考えなのだろう。虎視眈々と後がまを狙っていた他の役員にチャンスを与えたのかもしれないが、何ともすさまじい国だ。

名誉退職者は年金支給の65歳まで割増退職金で必死に不動産投資
今回の農政ジャーナリストの韓国農業取材の旅で通訳を務めてくれた韓国の中年女性の話が興味深かった。その女性によると、韓国の場合、公的年金の支給開始年齢が65歳なので、早めの名誉退職をしたりすると、その人は年金を受け取るまでの期間、仮に他の仕事に再就職することが難しい場合、生活のやりくりが極めて厳しくなる。

そこで、多くの人たちが共通してとる行動が退職金から生活資金を除いた部分を不動産投資に充てる、という。当然ながら、転売した場合の値上がり益を見込んでのものだが、いい投資物件を買うために銀行借り入れを増やして、背伸びするケースも出て来るが、新たなローン負担が発生し、生活苦に陥るケースもなきにしもあらず、という。

さきほどの名誉退職のことで話を聞いた韓国企業関係者によると、韓国は、日本と違って、不動産バブルが崩壊して不動産価格が大幅に下落といった経験が過去に皆無のため、表現がよくないかもしれないが、かつての日本のような、狭い国土のもとで、需給関係に狂いが生じて値下がりすることはなく、常に値上がり傾向が続くという不動産神話があるため、国民の大半が特に、人口集中する大都市のソウル、さらに周辺地域で不動産投資に熱を上げる、というのだ。

都市と農村の所得格差も拡大、世論調査では所得安定がトップ
もう1つ、ぜひレポートしたいのは、今回の取材の旅で、随所で聞いた話の1つに所得格差の拡大があった。政府系の農業関係研究機関の幹部の話では、農業者と都市生活者、それに専門家の3つの人たちを対象に行った今、最大の関心事は何か、という世論調査で、極めて現在を映し出す結果となったという。具体的には、農業者の関心事は、所得の安定が第1、続いて後継者の育成だった。ところが都市生活者も第1が所得の安定で、第2が生活環境の改善だった。それに対して専門家は後継者育成をあげた。その研究者によれば、今、農村社会のみならず大都市部でも所得格差の拡大に対するいら立ちが強まり、異口同音に所得の安定を口にする、という。

その幹部によると、1970年代から90年代までは都市と農村の間では所得の均衡が続いていたが、アジア通貨危機が起きた1997年の2年前の95年ごろから所得格差が拡大し始め、農家所得は都市勤労者の所得の67%まで落ち込んでいる。さらに2007年ごろから、農家所得は低迷どころか減少に転じて、都市生活者や勤労者との格差が一段と広がり、政治問題化するリスクが高まっている、という。

若者の大都市への人口流出で農村の高齢化が重大危機に
問題は、この所得格差だけにとどまらない。韓国社会、とりわけ農村社会の高齢化も大きな政治課題だ、という。NPO組織の韓日農業農村文化研究所の玄義松代表理事は「農村での高齢化のスピードがすさまじく早く、農業の担い手となる後継の労働力が都市に流出し、あおりで農村の集落基盤が崩壊の危機にある」と述べている。

玄代表理事は笑うに笑えない話をしてくれた。それによると、韓国の人立ちにとって、キムチの主たる原料のハクサイと並んで重要なトウガラシに大問題が起きた、という。農業現場の高齢化で作付けが極度に落ちたうえに、運悪く大量の雨が降り続いたことで生産量が激減し、市場価格の高騰につながった。降雨量は気候変動によるが、高齢化の問題は構造問題のため、生産の不安定は長期化するリスクが高まっている。

別の農業関係者は「中国には、今や韓国の農業関係者がハクサイのタネごと持って行き、生産したものを開発輸入の形で韓国に、そっくりそのまま持ち込んでいるが、今後はトウガラシも中国での生産ということになる。ただ、韓国人は中国からの農産物は農薬などが大丈夫かと神経質になる。キムチは韓国の生命線みたいなものだから、大変だ」という。

ソウルなどがグローバル化に対応する社会システムづくりで課題残す
私にとって、韓国の旅は初めてのことで、いろいろ見聞することが驚きのことも多かったが、その1つにソウルに異常なほどの人口集中があることも驚きだった。韓国の4800万人口の何と4分の1の1200万人がソウル市に定住し、しかもその周辺都市の人口も合わせれば、特定の地域に以上に集中することのリスクが大きいのでないか、というのが実感だった。

都市化に伴うインフラ建設が進んでいるが、半面、年金や教育、医療などの社会インフラの制度がどうなっているのか、また物価高もかなりのものだった。とくに、ウオン安に伴う輸出競争力というプラスの半面で、輸入物価が割高になり、その分、国内物価を押し上げている。

また、自動車の保有台数がソウルでは異常に多く、朝夕のラッシュ時の交通渋滞は日本の東京などの比ではなく、慢性的な事態だ。これも巨大都市化したソウルのまさに都市問題だと言っていい。

ローバル化に伴い韓国経済にプラスの面も多いが、半面で、社会システムがグロバル化に対応し切れずに、さまざまな問題や課題を残している、というのが偽らざる印象だった。このあたりは、日本の今後のグローバル対応にも課題となりそうだ。

政府から独立の原発事故調査委 東電や政府が怠った責任の検証を

 世界中を震撼させた東京電力福島第1原子力発電所事故がなぜ起きたのか、政府や東電の危機対応にどんな問題があったのか――などを調査分析する政府の事故調査・検証委員会(委員長・畑村洋太郎東京大名誉教授)が12月26日、中間報告を出した。翌27日付の主要新聞を中心に、メディアが大々的に取り上げたので、私はいくつかの新聞記事をむさぼるように読んだ。しかし今回は、この委員会と一線を画する形で政府から独立し、独自の立場で原発事故の調査を行う国会原発事故調査委員会(委員長・黒川清日本学術会議元会長)の問題を取り上げたい。

ただ、その前に、政府の委嘱した事故調査・検証委員会の問題指摘ポイントが何かを見てみよう。報告書は、政府や東電の事故対応、事前のシビアアクシデント(過酷事故)への備え対応、市民や住民の被ばく拡大防止策の4つの問題をテーマに問題指摘している。今後、議論になる重要なポイントなので、少し引用させていただこう。

政府事故調の中間報告
「政府と東電は複合災害を想定せず、対策も講じず」
まず、この重大事故を未然に防げなかったのかどうかの点に関して、「政府と東電は、津波による過酷事故を想定しておらず、同時に自然災害と原発事故の複合災害も想定せず、それらの対策も講じていなかった」という。

とくに、2008年に、東電は有識者の意見を踏まえ津波を試算したところ15.7メートルの津波リスクがあることが判明したにもかかわらず、当時の武藤栄原子力・立地副本部長らが、それは仮の試算であって実際には来ない、(絶対に安全と言ってきた)原発を守るための防潮堤は社会的に受け入れられない、と事実上、無視した。この時点で、東電の清水正孝前社長が事故後の記者会見で「事故は想定外」と述べたことは明らかに逃げであり、ミスリードであったことがよくわかる。これは推測だが、東電経営サイドには巨額の補強工事投資の負担が大きすぎるので、見合わせる、という判断も加わったのだろう。

また原子力安全・保安院の対応も問題だ。報告書によると、震災4日前の2011年3月7日に15.7メートルの津波試算報告を受けていたのに、東電に対しては口頭で再評価を促しただけで、監督当局として、対策工事を求めなかった、というのだ。

東電の現場は原子炉冷却の非常用復水器の作動経験ないなど
驚愕の事実
 東電の現場の事故対応に関しては、これまた驚くべき現実があった。「1号機で、現場の全運転員が原子炉を冷却する非常用復水器(IC)を作動させた経験がないばかりか、過去に訓練を受けたこともなかった」という。さらに「3号機で、高圧注水系の手順を十分に検討せず注水が途切れたことは遺憾。しかも消防車を使っての代替注水の必要性や緊急性への認識が欠けていた」というのだ。

水素爆発に関しても、報告書によると、3月12日午後3時半過ぎに1号機で最初に爆発が起きるまで、現場の運転員、発電所や本店の対策本部のだれもが危険性を認識していなかった。有効な対策がとれず、3、4号機の爆発を防ぐことができなかった、という。
東電が、これまでわれわれメディアのエネルギー担当記者に対して「原子炉は五重の防護壁で守られ、絶対に安全です」と終始言っていた現実がこれだとすれば、愕然とする。

首相官邸、原子力安全・保安院、東電間で
情報共有が出来ておらずとの指摘も
 続いて、政府の事故対応に関しても、報告書は「首相官邸や経済産業省傘下の原子力安全・保安院、東電との間で情報共有や伝達が不十分だった」という。とくに首相官邸地下に設置した危機管理センターでは携帯電話が通じないうえ、官邸5階の菅直人首相ら閣僚との間で情報共有が出来ていないため、混乱に拍車がかかったばかりか、指揮命令系統の一本化ができないことによる事故対応の遅れもあった、という。

また、報告書が問題視しているのは、福島第1原発から5キロ先の事故対応拠点「オフサイトセンター」が機能不全に陥ってしまったことだ。センターの通信インフラがマヒし衛星電話を通じてやっと原子力安全・保安院と連絡をとりあう状況で、応急対策のための中核的な役割を果たしていなかった、という。これまた最悪の事態だ。
政府が新たにつくる予定の原子力安全規制機関、原子力安全庁(仮称)に関して、報告書は「独立性や組織力をあたえるべきだ」とすると同時に、専門知識、最新知見での情報収集が求められる、という。裏返せば、現在の原子力安全・保安院はほとんど機能していないと指摘しているのだ。

国会事故調は政府から独立がポイント、
政府対応に問題あれば厳しく批判期待
 この中間報告を読むと、まだまだ信じられないような問題が数多くあるが、今回のコラムでは、政府の事故調査・検証委員会とは別に、新たに政府から独立して国会に設置された国会東電原発事故調査委員会の問題が本題なので、そちらに移ろう。

前回のコラムで、黒川委員長が12月18日、福島原発事故現場を視察したあとの記者会見で、福島第1原発の原子炉の冷温停止状態が確保されたことを理由に、「原発事故は収束した」とした野田佳彦首相発言に関して、「納得がいかない。(原発事故収束に向けての)第一歩というならいいが、(首相の)言いぶりが、国民の受け取り方とギャップがある」と批判した。この委員長発言だけを取り出しても、私が、政府から独立して原因調査にあたる委員会に対する期待の一端がおわかりいただけるはずだ、と書いた。

政府事故調は政府の事故対応で致命的な欠陥あっても
追及できるかという弱み
 率直に申上げよう。政府の事故調査・検証委員会の委員の方々には失礼ながら、政府から委嘱された委員会の場合、その性格上、政府の原子力政策はじめ、電力会社の原発を監督する原子力安全・保安院の事故対応や組織体質、今回のような重大事故時の危機管理対応などに関して、致命的な欠陥などがあっても、切っ先鋭く問題指摘、抜本改革要求がなかなかやりにくい、という問題がある。

現に、27日付の読売新聞は、「政治家のヒアリングについて、政府の事故調は『周辺の事実関係を詰めてから』とするが、時間の経過とともに記憶が薄らぐことは避けられない。政治家1人あたりのヒアリングは最低限にとどめるといい、『政治家に遠慮していると受け止められても仕方がない』と語る事故調関係者もいる、と報じている。この辺りが、現在の政府事故調査・検証委員会の限界だろう。
問題は、世界中を震撼させた東電の原発事故に関して、あらゆる権力から独立して、事故の真相究明のみならず政府や電力会社、原発周辺自治体などの危機対応や危機管理の面での教訓は何か、さらに、もっと重要なことは安全最優先の再発防止策を講じるには何が必要か、それを海外に積極的に情報開示すると同時に、情報共有し、危機管理の主導的な枠組みづくりで、原発事故を引き起こした日本がリーダーシップをとることなどだ。

黒川委員長
「原発事故の情報や対策を世界に率先開示し問題共有が大事」
 黒川委員長は12月8日の事故調査委員会に関する衆参両院合同協議会の場で、国民、未来、世界の3つの視点で原発事故調査に立ち向かいたい、と述べている。1つは国民視点。政府ではなくて、国民に選ばれた国会が事故調査に踏み込むということは、「国民の国民による国民のための調査」である認識が必要。2つめの未来視点に関しては、過去を知らずに未来は語れない。そのためには政府や行政、業界からまったく独立して事に当たる責務があることを認識することだ。
3つめの世界に関しては、原発そのものが世界的な問題であり、日本は、万が一、原発事故が起きた時にどう対処するか、放射能被害にどう対応するかなどの情報や対策について透明性をもって共有することが大事、そして政府から独立して委員会が出来たことに関しての世界各国からの期待も大きいので、世界に情報発信すると黒川委員長は述べている。まったく、その通りだ。

自民党・塩崎代議士も
「国会事故調は政府や電力会社の失敗を厳しく調査願う」
 同じ合同協議会の場で、自民党の塩崎恭久代議士(元内閣官房長官)がなかなかいいことを言っている。「この事故調査委員会は、日本の新しい民主主義を形作る、また国家の自浄作用を強化するものと考える。委員会は、政府の失敗、政府の監督を受ける電力会社の失敗を、国民の代表たる国会で、国会議員ではなくて、民間の人たちが中心になって調査することだ。大事なのは政府からも原子力業界からも独立して調査することだ」と。
さらに、塩崎代議士は「委員会の独立性を確保するため、各種審議会のような各省庁や関係団体の『ご説明』や政治的な圧力を排除し、委員の議員や利害関係者との接触はすべて両院議長に報告してもらうことにしている。委員会の事務局には民間人を中心としたスタッフを用い、議論していただくので、官僚のシナリオに乗せられることはない」とも述べている。

国政調査権活用し極秘資料提出要求はメリット、
だが党利党略行動の監視必要
 ただ、国会事故調査委員会は、国会議員に専門知識もないので、民間の有識者や専門家に調査を委ねる形をとったが、政府の事故調査委員会と違って、国政調査権を活用して、政府が仮にひた隠しにしていた重要資料の提出などを要求できる。委員会の上部機関として両院合同協議会がその提出要求などを出来る、という。
しかし、私が危惧するのは、この事故調査委員会の場を通じて、事故対応時の政権中枢の責任を問うという形で、党利党略で政争に利用されたりして、国民が求める本来の真相解明、再発防止策づくりなどから大きく離れてしまうリスクがある、ということだ。そこは、問題の方向づけがおかしな形にならないように厳しく監視して行くことが大事だ。

国家レベルの事故などの真相究明のため、政府から独立した調査委員会をつくるというのは、米国ではすでにいくつか事例があるが、日本では全く初めてのことだ。そういった意味でも、今回の国会事故調査委員会を大事に活用していくことが必要だ。

「防災・減災・再生」自然災害の多い日本にITという武器で挑戦し続ける!

白石本日のゲスト、ライト工業株式会社、代表取締役社長の鈴木和夫さんです。よろしくお願いいたします。

蟹瀬よろしくお願いします。

鈴木どうぞよろしくお願いいたします。

白石まず素朴な疑問なのですが、あまり建設業界というと馴染みがないので、不勉強で申し訳ないのですけれども、ライト工業と言いますと、いわゆるゼネコンと呼ばれる会社なのですか?

鈴木あ、ゼネコンは一般に一つのプロジェクトの中で全体を取りまとめる会社と言えますけれども、私共は一つのプロジェクトの中で高い技術を必要とするパートを受け持つ、そういったような会社でございます。

蟹瀬すごく専門的な部分をやっているということですね。

白石そのライト工業なのですが、一言で言いますと、どのような会社なのですか?

鈴木私達は国土の防災、それから強化再生を社の変わらぬ使命として深く認識して、これをコアとして事業展開していると、そういう会社でございます。

蟹瀬本当に日本にとっては大切な事業だという気がしますよね。今日はお話楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。

白石それではここで鈴木社長のプロフィールをご覧ください。

ライト工業株式会社代表取締役社長鈴木和夫は、1953年東京都で生まれる。1978年法政大学大学院工学研究科修了後、ライト工業に入社。2002年技術本部SI事業推進部長に就任、その後執行役員技術本部技術部長などを歴任。2008年取締役に就任、建築事業本部長などを経て、2013年代表取締役社長に就任、現在に至る。

白石早速なのですが、鈴木社長のプロフィールを拝見いたしますと、当時としては珍しく大学院を出られていますよね。まだまだ大学進学率も今ほど高くない時代でしたから、やはり入社されてからはエリートコースまっしぐらだったのではないのですか?

鈴木全くそんなことはなかったですね。

白石そうなのですか。

鈴木ええ。私が入社して初めて配属されたのが、本社は本社なのですけれども、技術本部アンカー工法部工事課という部署だったんですね。当時そこで扱っているアンカー工法っていうのは、まだまだ工法の黎明期でありまして、本社の直轄工事みたいな形で、仕事が出ればそこから、どこへでもその仕事の出たところへ行くというようなシステムだったんですね。

蟹瀬要するに人に任せられないぐらい新しいから、ちゃんとそこへ行って見なきゃいけないと。

鈴木そういうことで、仕事があるところ全国どこでも飛び回っていたというようなことで、ほとんど本社にはいなかったということなのです。そういう意味では、私共本当に高卒とか大卒とかそういうことに関係なく、等しく現場経験からスタートしたということが言えると思います。

蟹瀬しかし全国飛び回られて現場を見て、やっぱり現場から学ぶことって、おそらくおありだったと思うのですけれども、どんなことがありましたか?

現場で学んだこと

鈴木そうですね。若いうちにやはり現場を経験しておくってことは非常に大切なことだと思います。私は若いうちに現場に行って、日本全国の支店の雰囲気を感じることができましたし、また当時多くの支店の方々と知り合いになって顔見知りになれたということは、後々の本当に大きな収穫になりました。現場の経験をするということは、将来例えば工事をやるとか営業をやるとか開発をやるとか、そういう道に進むにしても、やはり基本的なところをということで、これを知っているか知らないかっていうのは、その後の将来の伸びに大きく影響すると思います。そういう意味で若いうちにそういう現場を経験しておくって本当に大切なことだと思っています。

蟹瀬しかしそれだけ全国を飛び回っていらっしゃると、なかなか異性との出会いというのは難しかったのではないですか?

鈴木そうですね。大学の先輩から社会に出たら「この仕事は女の人と知り合いになれる機会っていうのはあまりないから」ということで、学生時代に家内と知り合ったのですけれども。ちょうど私が結婚したのも入社してから一年後だったのですが、当時、上越新幹線のトンネルの現場に入っておりまして、現場から戻って来たのが式の前の日ということで。

蟹瀬前日ですか? 大変だったでしょう?

鈴木髪だけは切って欲しいということで整えて、当日衣装合わせをして。

白石当日に? えーっ!

鈴木それで、式の手順もわかりませんので、ただこう立っていればいいと言われていたんですけれども。新婚旅行なんかも本当に行先決められないんですね。それで式が終わって成田行ったのですけれども、ちょうど6月で飛行機の空きなんかないんですね。とにかくヨーロッパへ行こうということで。それで次の日にようやく空きが出て、コペンハーゲンに行ってきたと。新婚旅行から戻っても、すぐまた二カ月、上越新幹線の現場に戻りました。

白石鈴木さんも大変ですけど、奥様は……。ねえ、素晴らしい方ですよ。

蟹瀬白石さん、どう?こういう……。

白石私だったらまだまだ未熟者なので「どうなっているのよ!」って文句ばっかり言っちゃうと思うのですけれども、奥様は……。

鈴木そういう意味では本当に理解があるというか、ありがたい話ですね。

白石そうですよねえ、陰で支えてくださる。

蟹瀬今はどうなのですか? 奥様その当時を思い出されて。

鈴木大事な時、大切な時はいつもいないって、今も言われていますけどね。(笑)

白石ということで、この番組では三つのキーワードでこれから進行させていただきます。まず最初のキーワードは何でしょうか。

鈴木「守る」です。

メコン諸国の現場レポート3 アジアで日本農業の出番だ、 ライフスタイル変わり高品質ニーズ

「陸のASEAN」のタイ、カンボジア、ベトナム、そしてミャンマーのメコン経済圏諸国の主要都市を歩いて強く感じたのは、すでに現場レポートで述べたように「各国はそれぞれ課題山積だが、間違いなく経済に活気がある」という点だ。とくに経済成長に伴って、都市化が急速に進み新たなライフスタイルへの願望が急速に強まれば、それが起爆剤になってさまざまな消費需要が起こり、経済に弾みがついている点が重要ポイントだ。
成熟国家日本は、数多くの先進モデル事例や「強み」を持っている。このASEANの成長ニーズに積極対応する絶好のチャンスだ、と言える。今回は、閉そく状況に陥る日本農業がアジアでリカバリーショットを打てるぞ、という話をレポートしてみよう。

1970年大阪万博時と同じ、
中間所得層のライフスタイル願望が新消費を誘発
 まず申し上げたいのは、このアジアの光景が、1970年の大阪万博の時によく似ていると思ったことだ。当時、日本では東京オリンピックの高揚感がそのまま大阪万博につながり、中間所得層を中心に、多くの人たちがテレビ、冷蔵庫、洗濯機の「3種の神器」と言われた家電製品を買い求め、新しいライフスタイルへの夢を膨らませた。そして高度成長期に突入した。メコン経済圏諸国では、まだ、その入り口の所という感じだが、新ライフスタイルへの願望の光景が随所にある。その1つが豊かな食生活への動きだ。
一例を挙げよう。ベトナムのホーチーミン市で、日本食がちょっとしたブーム、と聞いたので、日本食レストランがずらりと軒を連ねている地元で有名な地区に行った。いや、驚いた。「寿司」「日本ラーメン」「焼き鳥」などの専門店が多く、どの店もベトナム人の若い男女が数多く入って談笑しながら日本食を味わっている。客単価、つまりメニューにある値段を見てもお客が支払う食事の料金は決して安くないのに、客の入りは悪くない。ベトナム人従業員が日本語で「いらっしゃいませ」と元気のいい声を響かせて日本流おもてなしサービスに徹していたのが印象的だ。

ベトナムホーチーミン市では日本食ブーム、
味や品質のよさ、安全・安心などに人気
 その地区でもっと驚いたのは、日本人の益子陽介さんが経営の「ピザフォーピース」(Pizza 4P’s)というピザ料理店だ。メインストリートから入った裏通りの奥まった場所にある店なのに、予約制で、ほぼ満員だった。こぎれいで、見るからに雰囲気がよく、中間所得層と思えるベトナム人らがかなりいた。運悪く益子さんには会えなかったが、評判を聞いたら「ナポリピザがベースだが、オーナーがベトナム人の好む味を徹底研究する現地化で独自のピザをつくった。味がいいので、口コミで人気が広がっている」という。
この日本食人気はホーチーミン市だけの現象ではない。私が歩いたタイのバンコク、カンボジアのプノンペンなどでも同じだった。日本食レストランに携わる外食関係者の話を総合すると、日本食文化への評価が背景にある。とくに日本食の味のよさ、使う野菜や畜産物、水産物の食材の品質のよさ、安全・安心であること、それにおもてなしサービスのよさが評価を受けていて、それらが総合的な付加価値となって、ブームの域を越えて、今や生活者の間に必須のものという形で定着しつつある、という。間違いなく経済成長に伴う都市化で新ライフスタイル願望が強まり、食生活面でも日本食のよさが、高品質ニーズの高まりと合致した、と言っていい。

ASEAN経済統合で巨大経済圏誕生すれば
食に高度化ニーズ、問題は供給力確保
 そこで本題だ。ASEAN10か国が来年2015年12月に地域経済統合に踏み出すが、関税率の撤廃など「経済国境」のカベを取り外せば6億人の人口をベースにする巨大な経済圏が出来上がる。その際、メコン経済圏諸国の都市部で今、進みつつある都市化が経済圏全体で波及し、たとえば食生活の高度化ニーズに弾みがついたら、農畜産物や水産物、さらには加工した食品へのニーズが一気に高まる。問題は、果たして今のASEANでそれらに対応する供給力が伴うのか、とりわけ味がよくて、低農薬、場合によっては有機の高品質の食材が確保できるか、という問題に直面する。
私が今回歩いたメコン経済圏諸国のうち、タイからカンボジア、そしてベトナムに至る国際道路、南部経済回廊の陸路を車で走った際のことを申し上げよう。いずれも農業国なので、見渡す限りの農地だったが、率直に言って、耕作地のほ場整理、つまり土地の区画整理、かんがい排水などの整備がいきわたっているといった状況ではなかった。どちらかと言えば自然環境にまかせたままという農地が多かった。日本で、ほ場整理がしっかりと出来た農地を見続けている私からすれば、がっかりだが、当然のことながら、農業生産性が低く、増産余力も乏しいのだろうな、という印象だった。

日本農業は優れた生産技術、流通システム持っており
ASEANで活用チャンス多い
 南部経済回廊では牛が荷車を引っ張って農産物を運んだり、中古車のトラックがスピードを落としてゆっくりと農産物や肥料を運んで走る状況だ。物流のシステムが体系化されているとは言い難い状況だ。そればかりでない。都市部に持ち込まれた農産物は、ホーチーミン市やプノンペンでは市内のいくつかのマーケットで売買されていたが、卸売市場というよりも消費者への直売所といった感じだった。今後、想定される都市化に伴う大量の農産物、加工食品ニーズなどに対応した農産物流通システムはなかなか期待しがたい。
そこで、私は申し上げたい。今は、日本の外食企業が、メコン経済圏を含めたASANに進出し、ベトナムのホーチーミン市でのケースのように日本食レストラン街という形で先行して進出しているが、次は、日本の農業そのものが進出する番だ。
成熟市場の日本で培った日本の農業生産技術は、いま申し上げたメコン経済圏諸国での農業環境ではいくらでもニーズがあるように思う。活用も十分に可能だ。とくにIT(情報技術)化した生産技術は、日本と対照的な広大な農地でいくらでも活かせるはずだ。

リスク背負い込むのを嫌がる農業者の背中押すのは
ASEANに意欲的な日本企業?
 また日本では当たり前で、高品質農産物の代名詞の安全・安心の農産物づくりに関しても、今後はASEANでビジネスチャンスとなる。またおいしさをベースにした「売れる農産物づくり」のためのマーケットリサーチ、さらにはマーケッティングの展開も可能だ。さらに、第1次産業の農業者が主導して生産から加工、販売まで主導する6次案業化システムも、ASEANの農業現場に定着させ、事業化を図ることは十分にできる。
問題は、日本の農業者には保守的な人たちが多いため、わざわざ大きなリスクを背負いこんでまでASANには行きたくない、という人たちの背中をどう押すかだ。私は、その役割を日本企業、とくにASEANでの農業のプロジェクト展開に意欲を示す企業に期待したい。いま、日本国内では農業への企業参入や企業の農地保有の動きに対して、農協など既存の農業組織が岩盤のように抵抗しているが、そのカベの打破につなげる1つの手立てとして、ビジネスチャンスにチャレンジする日本企業に期待したい。
具体的には、日本国内で事業欲の旺盛な農業者を探し出して連携し、まずはASANの農業現場でチャレンジ、そしてその成功体験をベースに日本国内で農協などの岩盤にチャレンジする、というやり方だ。

中国の山東省で農業生産にチャレンジした
朝日緑源農業公司は先進モデル事例
 私は以前、中国の山東省で農業生産プロジェクトを展開するアサヒビール傘下の中国現地法人、朝日緑源農業公司の現場を見た際、いいチャレンジだと思ったが、こうした中国での先進モデル事例を参考に、何が成功部分で、課題があるとすれば何かを探って、新たにASEANにあてはめればいいのだ。
この朝日緑源農業公司は、当時のアサヒビールの瀬戸雄三相談役が山東省のトップと話し合って、日本が先端農業技術を駆使して高品質かつ安全性の高い農産物をつくって安全志向が強まっていた中国の消費者ニーズに対応すると同時に、技術移転も図って中国の農業生産の向上につなげる、という目的のためにつくられた。日本側から住友化学などが共同出資したが、アサヒビールには農業生産技術が十分に備わっていなかったため、いろいろな関係者の協力を仰いだ、と当時聞いた。私自身、残念ながら、その後のフォローアップが出来ていないが、安全志向の強い中国にとって先進モデル事例となったはずだ。

ラオスで野菜生産、ベトナムで
日本品種の水稲の試験栽培を始めた日本企業も
 興味深い動きがASEANでも起きてきた。つい最近出会った和歌山県の株式会社河鶴という漬物会社の河島伸浩社長が、新たに長野県など国内で農業生産を手掛けると同時に、ラオスにLAO KAWATURUという現地法人をつくり、20ヘクタールほどの農地に生鮮野菜の試験生産を始めた、という。河島社長によると、市場規模が小さいラオス国内よりもタイやベトナムなどを含めたメコン経済圏市場をターゲットに生産、加工、販売のプロジェクトが展開できるようにチャレンジしてみたい、という。
同じく最近、テレビで取り上げているのを見て、思わず会ってみたいと思った人がいる。岩手県北上市の農業生産法人、西部開発農産の照井耕一会長がベトナムのハノイ市近郊の農業者に依頼して日本の短粒種の水稲の試験栽培を行った、という話だ。ベトナムは日本と違って1年に3回も植え付け、収穫が可能な米作環境のため、味のよさ、収穫量の多さで競争力のある日本のコメがどこまで生産可能かを試してみたい、同時にベトナム人に日本の生産性がある水稲の作付け技術も伝授していき、可能ならばベトナムで現地生産したコメを日本やアジアで販売したい、という。

ASEAN地域共同体化でビジネスチャンス膨らむ、
地域横断的な農産物流通も
 私の友人の新潟のコメ生産農業法人で株式会社化した新潟玉木農園の玉木修社長はすでに台湾で新潟コシヒカリをベースにした品種をもとに現地生産し、台湾市場向けに販売をめざしている。
ASEANが地域共同体化すれば、経済国境が外れてヒト、モノ、カネの往来が自由になると同時に、冒頭から申し上げるように地域横断的に農産物流通などが進んでいく。とくに高品質の農畜産物、水産物、さらには加工食品などへのニーズが高まれば、着実に、先進モデル事例を持つ日本農業にとってはビジネスチャンスが膨らむ。

渡辺JBIC総裁「農業はアジアで成長産業、
農産物は高品質を背景に高価格に」
 日本プレスセンターで最近、メディアとの昼食講演会でゲストスピーカーとして登場した渡辺博史国際協力銀行(JBIC)総裁が興味深い問題提起をした。渡辺総裁が質疑応答の中で、アジアの成長産業は今後、どんなものが考えられるか、という質問に答えたものだが、今回のコラムのテーマにからむ話をしているので、ご紹介しよう。
要は、「これまでアジアでは農産物が生産性の低さと合わせて低価格というイメージが定着していたが、今後は都市化に対応して、中間所得層が着実に増え、その人たちの食へのニーズに沿って高品質イコール高価格の農産物が求められる。当然、農業はやりようによっては成長産業になっていく」というものだ。大いに参考になる考えだ。