「やるかやらないか」の壁を越えた起業家とともに歩む、サムライの矜持とは

蟹瀬賢者の選択Leaders、ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

ドーキンズドーキンズ英里奈です。

蟹瀬今回は世界を変えようと挑戦する起業家に出資し、事業展開を全面支援する、あるインキュベーターの取り組みに迫ります。

起業家に出資し 事業展開を全面支援する あるインキュベーターの取り組みとは?

榊原「できるできない」ではなく、「やるかやらないか」で世界は変わるということをお話しできればいいかなと思っております。

「やるかやらないか」で世界は変わる。榊原が唱える、シードステージからのインキュベーションプログラムとは?

ドーキンズそれでは、本日のゲストをご紹介します。本日のゲスト、株式会社サムライインキュベート、榊原健太郎さんです。よろしくお願いいたします。

榊原よろしくお願いいたします。

蟹瀬どうも、よろしくお願いいたします。イスラエルのほうでも活躍されているということで、私も先日、イスラエルに行ってきたのですが、日本で新規の起業がなかなか立ち上がってこない、その答え、なぜ、そうなのかというのも、随分、向こうに行っていらっしゃると、分かったと思うんですね。今日はその辺もじっくりお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

ドーキンズよろしくお願いいたします。

榊原よろしくお願いいたします。

今回は都内にあるフリースペース、賢者屋、東京新宿店で収録。賢者屋は年間7万人以上の学生が利用する学生限定のフリースペースで、東京と大阪に各1拠点ずつあり、経営も含め、すべて学生が自主運営をしている。

サムライ魂、社名に込めた思い

ドーキンズさて、まずはじめにお伺いしたいのですが、サムライインキュベートという社名にはどのような思いが込められているのでしょうか?

榊原そうですね。一番最初の先頭と後ろで、サムライとインキュベートで分かれていると思うのですが、まず、サムライという名前をなぜ使ったかと言いますと、盛り上げるというか、一体感が結構、好きでして、たとえば、スポーツだとサムライブルーやサムライジャパンという形で、唯一、日本人が一つになって、まとまる言葉がサムライかなと思っていて、ビジネス業界でサムライジャパンみたいな形でまとまりを作りたいなということでサムライという言葉をつけました。

それと、どういった方をまとめたいかなと思ったのは、これから起業していくとか、すでに起業されていて、世の中を変えていこうというビジネスマンをひとくくりにして、サムライジャパンで世界を良くしようよみたいなイメージで、サムライインキュベートという名前をつけた感じになります。

蟹瀬僕らの世代だと、サムライって聞くと、新渡戸稲造の「武士道」を思い出すのですが、あのへんの価値観というのも入っているのですか?

榊原そうですね。まさにおっしゃる通りで、うちも行動規範で8つのサムライ魂があるのですが、それはまさに新渡戸稲造さんから活用させてもらっている感じです。

蟹瀬義とか礼とかね、見事に8つの漢字(義・礼・勇・誉・仁・誠・忠・挑)で、人間に必要なものが表現されていますものね。しかし、そもそもこういう会社を立ち上げるにあたっての経緯というのはどういうことから始められたのですか?

立ち上げの経緯

榊原もともとは医療機器の会社で3年、営業をしまして、そのあとに今で言う、ミニミニ楽天、ミニミニAmazonみたいな感じの会社の立ち上げをやりまして、ちょうど2000年ごろに関わったのです。しかしやはり、インターネットの革命というか、すごい流れが来ていて、その中で僕は医療機器の会社から、全然関係ない分野に来たわけなのですが、何も経験とか、知見とかなくても、頑張れば世の中を変えられるという意識がわきまして。ゼロからイチを作るのが起業家なので、何もできないできないと考えるのではなくて、新しいこと、やれることを僕も体験したので、それを皆さんに伝えられればいいかなと思って作ったのが、今の会社ですね。

蟹瀬ベンチャーキャピタルって、今は当たり前の言葉になりましたけれども、なかなかお金を集めるというのは起業では一番大変な部分ですよね。そのへんにやはり着目されました?

榊原そうですね。実は、最初のサムライインキュベートを立ち上げるときは全然、違うモデルでして、営業代行みたいな会社を最初、やりまして、いろいろなスタートアップの商品を売っていたのですが、それだけではなかなか起業家さんの悩みは解決できないかなと思いまして、やはり、一番後押しするところでいうと、「お金が一番必要だ」ということで、たまたま前の会社に投資を頂いていたベンチャーキャピタルさんにまた久しぶりにお会いしまして、彼に言われたのは、起業家を育てることが一番の社会貢献になる。

起業家を育てることが一番の社会貢献になる

榊原どういうことかというと、たくさんサービスを皆さん、使われて、たくさんのお金を家庭に給与として戻すということで、たくさんの人が幸せな家庭ができる。ということで、起業家をたくさん育成したほうが、僕があと50年とか、40年ぐらいの人生の中で一番社会貢献ができるかなと思ったので、自分で事業をやるというよりはたくさんの起業家を生み出すほうが、効率がいいかなと思って、始めたというのもあります。

サムライハウスという独自の投資スタイル

榊原それで、実際の投資の仕方は、僕らは昔はサムライハウスって家を一棟借りしまして、そこで起業家と一緒に住んでいたんです。住みながら、それこそ、人格もそうかもしれませんけれども、ビジネスがゼロから一に生まれるアイデアの段階から、逆にアイデアが生まれたタイミングで会社のミッションをどうするかとか、会社の行動規範をどうするかとか、売り上げ計画とか、販売計画とか、製品計画とか、いろいろなところのフレームワークとかも、生産していただいて、一緒になって、もちろん、将来的にはIPOとか、どこかの会社にM&Aするとか、世界で成功するとかって目標を決めて、一緒になって、アドバイスをし続けるところが僕らの仕事ですね。

こちらは株式会社エニドア、代表取締役、山田尚貴さん。世界中にいる85,000人のバイリンガルユーザーに仕事の依頼ができるクラウドソーシングサービス「Conyac(コニャック)」を展開している。

山田うちが創業したのが2009年。2009年って、リーマンショックの翌年、直後で、かなり景気としては悪い状態。で、うちとしては創業しました。事業を伸ばすためにまずは資金を集めないといけない。ベンチャーキャピタルやインキュベーターのような方々に資金を入れていただいくというところで、事業を成長させたかったんですけれども、まったく見向きもされず。
1年ぐらい経ったときにちょうどイベントで記事に取り上げられて、「こういうサービスをやってます」というところで、翌日ぐらいに榊原さんからメールが来まして、「面白いビジネスなので投資させてほしい」。なんか怪しいところから連絡来たぞっていう形だったんですけれども(笑)
その後、お会いさせていただいて、いろいろ話させていただくなかで、この人と一緒にやっていけるなら、投資を受けるのもありなのではないかというところで受けさせていただきました。
いろいろ新しいことを教えてくれたり、あとは、こういう形ですれば良いのではないかなどの仮説提案とかもそのタイミングでいろいろしてくれて、一緒に動いてくれたんですね。口を出すだけではなくて、自分でも動いてくれていたので、それはやはり、大きくて、単純に一緒に行くだけではなくて、榊原さん自身が一人で行って、話を聞いてきてくれたり、足を使って動いてくれたところは大きかったですね。

サムライインキュベートでは起業家のインキュベーションのほかに起業家と大手企業をつなぐオープンイノベーション事業を行っている。

オープンイノベーション

榊原今まで日本の大企業さんって、自分たちだけでやって、クローズドイノベーションという形で、自分たちだけで、R&Dセンターを作って、自分たちで考えたのが今は本当にVRとかARとかMRとかあとはブロックチェーンとかサイバーセキュリティー、いろいろな自分たちができないキーワードが一気に増えてきまして。やはり、自社だけでは難しいので、それを取り組んで、いわゆる、クローズでやっていたものをオープンにする戦略が主流になってきて、という感じですね。

オープンイノベーションについて、サムライインキュベートとともにベンチャー企業と事業連携をしている企業の方にお話を聞いた。

関係者この何年か、日本郵便の中でもオープンイノベーションの取り組みを進めてきたのですが、今まではオープンイノベーションをテーマとしたイベントに参加していくとか、出店するとかというのがベースになっていたんですけれども、より具現化までのコミットを強めた手段をしていく必要があるなと思って、こういったオープンイノベーションプログラムが必要だなと感じていたんですね。

もちろん、いろいろな社員がいますし、いろいろなアイデアを出せる社員がいて、そういった中での動きもあるんですけれども、やはり、すでに技術を持っているとか、ソリューションを持っているところに行くと、うちはメーカーではないので、スタートアップというところはやはり、今後、連携していく相手先としてはすごく注力していくべき企業群だと思っています。

日本郵便側からの視点からすると、彼らと接することによって、やはり、中の人たちがすごく刺激を受けるところがあって、中の組織自体がよりイノベーティブに変わっていければいいなと思っています。今回はプログラムとして、採択させていただいていますけれども、プログラムの採択企業以外のスタートアップさんとも魅力的な企業さんが多かったので、連携をもっとしていきたいですし、今後はスタートアップの連携は必要不可欠だと思っていますので、今回のプログラムで小さくてもいいので、まずは結果を出して、次につなげていきたいと思っています。

忍耐力

蟹瀬しかし、いろいろな若い、若いとは限らないですが、いろいろな年齢層の方が「こんな会社を作りたいです」って応募をしてこられると思うのですが、これを審査するのは相当難しいと思うんですね。審査基準というのはどのように意識されていらっしゃるのですか?

審査基準

榊原そうですね。僕がインキュベーターとして気にしているのは、どんなプロブレムを解決するのかというところだけです。「それは本当にプロブレムなの?」というところで、「最初に言われた、このプロブレム、ありますよ」って言ったときに、「あっ、確かにあるよね」って言ったときにはかなりの角度で当選する確率が上がりますね。

蟹瀬なるほど。

ドーキンズ具体的に、いらっしゃった起業家さんたちの何を見て、この人たちには投資しようって思うのですか?

榊原人となりの話になると思うのですが、やはり、過去にどれだけ苦労をしていて、その苦労を具体的に自分で考えて、解決したかというところを一番見ますね。起業して、一番大変なのはやはり、ストレスに負けてしまって、うつ病になってしまったりとか、睡眠障害になってしまう方が多いので。なので、過去にどれだけつらい経験をどう乗り越えてきたかというところが一番、起業家にとって必要なので、そこはかなり見ますね。

蟹瀬ストレスを見極める極意というのはあるのですか?

ストレス体質の見極め方

榊原やはり、たとえば、幼少期から親御さんが自営業の社長さんをされているとか、会社の社長さんをされているとか、一方で、大きな会社の重役をされている方、ご両親の苦労されている姿をどれだけ日々見ているかという、そこも結構、注意して見ています。

ドーキンズとなると、良いアイデアをどれだけ持っていても、人となりが良くないと、なかなかうまくいかないということですか?

榊原おっしゃる通りですね。すべての課題を解決できたらいいなって思うのですが、やはり、そこで耐え抜けられなくて失敗してしまうとか、巻き込む力とか、本当にそれは自分自身でやり遂げたいことなのかというところを、腹をくくれるかどうかというのは結構、大きいかなと思います。

蟹瀬やはり、忍耐力なんですね。

榊原僕はそこだと思いますね。

対応力

ドーキンズストレスに対する強さ以外の部分で、何か審査の基準にされていることって、ありますか?

審査基準

榊原基本的にはメールのレスポンスが遅い方というのは考え過ぎてしまう方が多いので、結局、レスポンスがとても速い人ほど、仕事ができるというところで。なので、悩まずに、たとえば、メールが来ても、難しい問題だなと思って、「じゃあ、分かった。ちょっと考えるから、もうちょっと待って」みたいな返事が来るだけでも、能力が高いかなというのは見ています。

ドーキンズとりあえず、すぐに返事をするほうがいいということですね。

蟹瀬今度、申し込むときは、そうしよう。

ドーキンズはい。

榊原(笑)

蟹瀬これまで事業をなさってきて、実績というのはどれぐらいあるのですか?

これまでの実績

榊原いわゆる、起業家同士のイベントもそうですし、起業家と投資家とか、マッチングするような取り組みをミートアップって言いますけれども、イベントが過去10年間で、千回以上はやっています。実際にその中から、僕らが投資した会社が今、140社ほどありまして。それで、今、イスラエルがその中で30社ですね。日本が110社ほどです。その中で、いわゆる、M&Aされた方、イグジットされた方が16社ありまして、まだこれは希望的観測なんですけれども、今はIPOの準備をしている会社が2020年までに多数あるという形なので、これからかなというところではあるのですが。


ただ投資するのではなく、起業家の人間性を見る。
ただ投資するのではなく、その事業が社会に役立つかを見る。
それが、榊原が目指す真のインキュベート。

コンサルタントは語る!「失敗から何を学んでいるか」の重要性

松田今回は、岡島社長の会社、プロノバにお伺いしております。ここでじっくりといろいろなお話を聞いていきたいと思います。岡島社長、よろしくお願いいたします。

岡島よろしくお願いいたします。

松田まず、お聞きしたいのはプロノバの社名なのですが、これはなんでしょうか?

社名の由来

岡島これは、「プロの場」なんですよ。

松田やはり、そうなのですか(笑)

岡島プロフェッショナルの場という言葉を縮めてプロノバというのが、一応、もともとの名前の由来です。あと、ノバはラテン語でスターという意味なんですね。スターを作っていくということも掛け合わせて、プロノバという名前にしたんです。なんか、リクルート的な名前の付け方みたいな感じです。

「プロノバ=プロフェッショナルの場」「ノバ=ラテン語でスターという意味」――社名の由来

松田なるほど。まず、最近書かれた本「40歳が社長になる日」。
タイトルを最初、見たときに、私は「40歳の社長って結構、いるんじゃない?」と……。たとえば、ベンチャーの世界では20代で起業して社長になる方も多いですし、実際、読んでいくと、そういう会社ではなくて、大企業、ラージコーポレーション、こういった会社の社長ということなんですね。

岡島はい。2025年に、数万人の企業で40歳の社長を創るということを書いた感じですね。

今回のテーマである「リーダー論」について、著書の中で岡島は、世界の変化が予測できない今の時代、これまでのカリスマ型リーダーではなく、新しい時代に合ったリーダーが必要だと述べている。

新たなリーダー論

岡島今まではアメリカに追いつけみたいなところもあったと思いますし、全体がある程度見えていて、そこにどう追いついていくかみたいなことが主流で来たと思うんですけれども、複雑性も増して、あいまいでとても先が見えにくいという時代になってきたときには、今までのように目指す星、ビジョンですね、ここをなにかカリスマリーダーが見つけて、そこにみんなを引っ張っていくということが、この星自体が結構動いていて、決めきれない時代になっていると思います。
それで、お客様のニーズもすごく多様化しているし、経営者の意思決定しなければいけないことの複雑性はもっと増している。そのときにビジョンを「これだ!」って決めるカリスマリーダーだと、もう……もたない、というところが今回、本を書かせていただいていることの一つ大きく根底に流れているところですね。

松田そういう時代だからこそ、ますます経営者が「これだ!」と、一つを決めるのが、……決めるのはあまり意味がないという考えなのですか?

岡島おそらく、市場というか、顧客のなかに、私は答えがあると思っています。もちろん、短期のサイクルの中でいうと、顧客の代表であるリーダーが「自分はこういうものが欲しい」と思ってやるのは、全然ありだと思っています。
なので、ベンチャーを否定しているわけではないんですけれども、顧客インサイトにとって、言い古された言葉なんですけれども、それを引き出していくことをしないと、非連続な成長の柱は作っていけないと思っている感じですね。

松田なるほど。言うは易しなのですが、どうやって、顧客インサイトを引き出せる組織を作ればよいのかというところに、常に葛藤があるわけですけれども……。

岡島リーダーの仕事は何かというと、もっともお客様から引き出せる人たちを一番フロントに集めて、そして、その人たちに権限委譲をして、そして、意思決定をしていくことです。
会社の中のありとあらゆるリソースを使って、それをお客様と一緒に作っていく環境を整備するということがリーダーの仕事だと思っています。そうでもしない限りは情報が入りきらないと思うんですね。
なので、リーダーは一番後方から……、「追い込み漁」とか「羊飼い」と話していますけれども、環境設定をして、時間軸も切って、スピーディーに仮説検証をしていくということをできるリーダーが、グーグルやピクサーなどでも、どんどんそうなっているんですけれども、日本企業でも出てきている感じです。

近年、リーダーたちが唱え、実践している現場主義。実はこの取り組みにも、大きな認識の違いがあると岡島は言う。

現場主義という考え方

岡島本当かというと少し違っていて、現場に丸投げするという話でもなければ、やはり、なんらかの仕組みとして、そこでイノベーションが起きるように、つまりバイアスを外すということなので、イノベーションって言っているのは。
もしかしたら、これをやり始めると、このサービスをやり始めたり、このビジネスモデルをやったら、うちの会社の本体でやっていることとカニバってしまうことについても、よしとしていかないといけないので、今の延長戦上にあるところで権限委譲している話とはまったく違う話なんですね。

松田なるほど。枠から飛び出すために、組織、環境を整えていかなければならないということなのですね。それが「破壊的イノベーション」とおっしゃっていることなんですね。

日本を支える!「顧客満足を超えた、顧客感動を目指す」の心意気

福井まずはじめにお伺いしますが、日進機工は一言でいうと、どのような会社なのでしょうか?

当社はプラントのドクターであり、プラントメンテナンスの専門医です。

蟹瀬具体的にどういうお仕事をなされているのか、今日はじっくりお話を伺いたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

福井日進機工は創業から50年以上経ちましたが、どのような経緯で創業されたのでしょうか?

創業時代

私の父、先代の社長が1965年に創業したのですが、ちょうど1965年というのはいざなぎ景気がちょうど始まった頃だと思うのですが、やはり、人手不足というか、洗浄機器を販売するのはよいのですが、いろいろな機器を洗浄するという、そういった仕事をやってくれないかという要望があったところから、洗浄メンテナンスと我々は呼んでいますが、そういった仕事をやるようになりまして、それで今に至っているというところですね。

水鉄砲

福井さて、この番組では日進機工の今を象徴するものをお持ちいただき、番組を進行させていただきます。今日はどのようなものをお持ちいただいたのでしょうか?

はい。今日はこういった昔ながらのアレ……水鉄砲を持ってきました。

蟹瀬いや~、なつかしいですね。僕が子供の頃はこれを作って学校で、実際に水を飛ばして遊んだことがありますけれども、福井さん、知っています?

福井私は小さな頃に祖父が作っていて、それを見せてもらったことがあるという思い出がありますが、プラスチックになっていましたね、私たちのときは。

蟹瀬そうですね。ところで、この水鉄砲がなぜ、日進機工を象徴するものなのですか?

ウォータージェット工法

はい。当社のメイン技術になるんですけれども、ウォータージェット工法というのがありまして、そのウォータージェットというものが、まさにこういった、言ってしまえば、水鉄砲を使った工法になるわけなんですね。

ウォータージェット工法とはモーターやエンジンの力をピストン運動に変えることで、超高圧水を発生させ、それを噴射させて、様々な作業を行う工法。ウォータージェットの破壊力、衝撃力を使うことで、今まで作業が難しかったプラントやそのほか、様々な設備のメンテナンスや加工が可能になったという。

蟹瀬原理はこの水鉄砲だけど、これがそれだけの仕事をするようになるということですね。

はい。

福井これは実際に水の力を使ってメンテナンスを行うというのは、具体的にはどういうことなのですか?

水の使い方によって、いろいろなことができるのですが、主に我々がやっていることは、洗う、はつる、切ることができますので。

水の力

これは製鉄所の中のコークス炉というところなのですが、そこにある設備にいろいろ、コールタールとか、そういったものが設備に付着したりするものを水の力で洗い落としているところです。

蟹瀬これは水の力だけでこれだけ洗い落とせるものなのですか?

そうですね。

福井へぇ……。すごい、霧のようになっていますね。

水で洗う

蟹瀬すごい圧力ですけれども、これは、このほかにもいろいろなところで使えるわけですよね?

工場の中で言うと、やはり、いろいろな配管がありますので、そういった配管の中の洗浄とかが多いですね。

福井でも、配管の中って、なかなか見えないと思いますけれども、見えない配管をどういうふうに洗浄していくのですか?

人間で言うと、胃カメラのようなカメラを通して、中を確認して、洗浄する場合もありますし、フレキシブルホースという柔軟性のあるホースの先にいろいろな形のノズルをつけて、それで洗浄するのですが、前方に水が出るノズルと後方に水が出るノズルといくつかあります。
たとえば、「中が詰まっている状況だな」というと前方の水の勢いを強くして、詰まりを抜いていって、あと、後方の水というのは結局、それによって、ノズルが自分で中に走っていってくれたりしますので、それで中のほうにノズルが入っていって、最終的にはそれを人手になりますが、引っ張り出すときに洗いながら汚れを全部かき出して、もってくるといった形になります。
配管の中では少し曲がったりしている部分などをちょっと先のほうでホースをこう……、ホースを回したりすることで、ノズルの角度をうまく変えていって、中のほうに入っていったりとか……ということができるのは熟練の方でないとできないかなと思います。

水ではつる

蟹瀬そして、続いてはこれ、「はつる」という言葉ですけれども……。

はつるというのは建設土木関係の専門用語になるのですが、コンクリートをよくブレーカーとかで、道路のコンクリートを砕いたり……。

蟹瀬ドドドドドっていう……。

あれをはつり作業というんですけれども、ブレーカーとか、機械でコンクリートを壊していくと、どうしてもすごい、要はコンクリートの砂埃とか、粉じんがすごく立ちますので、作業環境が非常に悪くなってきたり、実際に街中で工事をやろうとする場合には周りに対する影響も大きいわけですけれども、それを我々は水の力を使って、やるという……。こうやって、水の力でコンクリートを……。

蟹瀬これ、コンクリートなのですね。

はい。コンクリートを削り取っていく、壊し取っていくわけなんです。
続きましては、こちらが今、見ていただいてお分かりかと思うのですが、コンクリートをはつっているのですが、中に入っている鉄筋がありましたけれども、選択的はつりという言葉を使いますけれども、あれをきれいに、そのまま元の状態のまま残すことができます。

選択的はつりとは水圧と水量を調整することで、内部の鉄筋はそのまま残し、コンクリートだけを破砕する工法。この工法を使用することで、コンクリートの老朽化した弱い部分だけを破砕し、まだ十分に強度が保たれている部分だけを残すこともできる。こうした選択式はつりもウォータージェット工法の大きなメリットの一つ。

たとえば、我々がやった仕事なんかですと、高速道路などのトンネルの屋根の上の部分、こういったところのコンクリートが劣化して、たとえば、落下してきたりすると、大事故になりますので、補修作業をやります。
まず、ウォータージェットをバーッとかけていって、それで弱くなったところだけを取り除いていく。それで残っている部分はまだ生きている(強度が保たれている)部分なので残しておいて、それに対して補修をするといったことをやったりもします。

蟹瀬全面補修することを考えれば、そういう意味では非常に工期も短くて済みますし、コストも安く済むということになるのですかね?

コストというより、工期の部分が非常に、まあ……、結局コストにつながると思いますけれども、大きいかなと思います。

水で切る

蟹瀬三つ目の「切る」という作業ですけれども、具体的にはどういうものを切っていくのでしょうか?

古くなった設備を解体したり、撤去したりするといったときに、ウォータージェットで切断して、解体するといった工事をよくさせていただいております。
これは配管をウォータージェットの力で輪切りにしているところですね。

福井へぇ……すごい……。

蟹瀬これは水の力だけで、ああいうものが切れてしまうのですね。

コンクリートとかでしたら、水の力でも簡単に切れるのですが、さすがに鉄はちょっと水の力だけでは切れないので、鉄などの金属をカッティングするときには、研掃剤と呼んでいるのですが、ガーネット……宝石にもありますが、砂状の粒ですね、それをウォータージェットとノズルの先端で水と研掃剤ガーネットを混ぜて、それを鉄に打ち付けていますので、切るというより、ある意味、水が当たった細かいところを削り取っている感じですね。

蟹瀬今、映像で拝見したのは、割と小さめの配管でしょうか、そんな感じのものでしたけれども、実際にはこれはガスタンクみたいな大きなものを切られるときもあるのでしょうけれども、これはどうやってやるのですか?

我々がトラバーサーと呼んでいる装置がありまして、そういったレール上のものをタンクの周りに取り付けていって……。

蟹瀬いわゆる、ガイドみたいなものですね。ガイドがあって、それに沿って切っていくと……。

そういうことですね。あとは、映像を見てお分かりかと思うのですが、水のカッティングで非常にきれいに切断することができますので、解体とかではなくて、たとえば、配管にちょっと横穴を開けて、新しい配管をつなげたりとか、タンクに新しい点検口というか、穴を開けたりとか、そういった場面でも水を使うことが多いですね。

福井なるほど……。切るという作業でいいますと、高熱高温でパッと切断するというやり方ももちろんあると思うのですが、水を使うメリットというのはどこにあるのですか?

石油コンビナートとかはコンビナート自体が当然のことながら火気厳禁区域になりますので、そもそも火を使うことができないということがありますので、そういった場面ではウォータージェットでのカッティングが採用されることが多いですね。

時代やニーズを先取り!「変化なくして進化もない」の発想力

ドーキンズまずはじめにお伺いしたいのですが、株式会社タカラレーベンはどのような経営ビジョンを掲げられているのでしょうか?

島田ビジョンは「幸せを考える。幸せをつくる。」を掲げております。

宮川幸せということが重要なキーワードということですね。

ドーキンズさて、この番組ではタカラレーベンの今を象徴するものをお持ちいただき、進行させていただきます。今日は何をお持ちいただいたのでしょうか?

島田はい。こちらです。

宮川これは……社章ですか。

島田はい。創業、立ち上げ当時の社章ですね。

宮川そうですか。これは真ん中に「宝」という字が……。

島田今はタカラレーベンという社名ですけれども、当時、宝工務店という、漢字で宝工務店なのですが、その宝の社名をバッジにそのまま漢字で表現しています。

宮川この頃はどういう事業展開をしていらっしゃったのですか?

創業当時の事業

島田工務店といいながら、業態としては不動産業ですね。東京板橋の中板橋という東武東上線の駅の前で創業して、沿線上の不動産を分譲したり、開発したり、新築一戸建ての開発から販売、中古住宅の買取りをして、リフォームをして、再販するというようなことを中心にやっていました。

マンション事業参入

島田1980年代後半ですね、1990年前後にまったくマンション事業をやったことのない会社がマンション事業をやってみようということでやった経緯はありました。あったんですけれども……。バブル崩壊後、2年ぐらい、非常に厳しい時期があって、不動産としての根幹である、土地の仕入れもできない状況の中で、あるきっかけがあって、従来の戸建てからマンション事業に本格参入したと。

宮川今、タカラレーベンというと、マンションというイメージなのですが、これは、転換するときには何があったのですか?

島田創業者、当時、社長の同級生の会社が建設会社だったんですね。もちろん、そこの会社もマンション事業をやっていました。で、そこと共同で事業をやれることで、1994年に新たな展開として、マンション事業に本格参入したということなんですね。

マンション事業戦略

宮川地域的にはどこを中心にやられていたのですか?

島田もともと創業時から都心中央部というよりは、その周辺部、もしくは、埼玉、千葉、郊外部ですね。郊外部で初めて、不動産を買う方、住まいを買う方をターゲットにしてきました。そういった取得者向けの実需のマンションを供給していこうということはブレずに行こうっていうのもありまして、エリア展開として地方都市に行きました。

屈指のリーダーシップ!「一人の熱狂から全ての創造は始まる」の決意

白石はじめまして。

藤田こんにちは。はじめまして、よろしくお願いします。

白石早速なんですけども、サイバーエージェント、この社名に込められた思いというのは。今日の社長の服装のように、カジュアルな気持ちで作られたって感じなんですか?

藤田カジュアルというか、適当に作ったんですけど。

白石適当ですか(笑)?

藤田最初ゼロから立ち上げるときに、できるだけ怪しくない名前。

怪しくない(親近感のある) 社名にした

藤田今ではなんか結構、「社名かっこいい」とか言ってくれる人もいるんで。

白石まずそこからだったんですね。

藤田まあそうですね。

サラリーマンとして学んだこと

白石藤田社長は、サラリーマンを経て起業されましたよね?

藤田はい。

白石起業しようと思われたきっかけというのは、どんな思いだったんですか?

藤田1回就職して 1年経って、将来起業しようと思ってたんですけど、なかなか、周りにはみんな起業するっていう若い子がいたんですけど、本当にする人がいないんで、自分がやろうと。

白石そのサラリーマン生活の1年では、どんなことを学びました?

サラリーマンとして学んだこと

藤田やっぱりその1年があって、本当にいろんなものがショートカットできるぐらい様々なことを学んだんですけど、やっぱり会社っていうのはどのように回っていて、みんながどのような気持ちで働いていて、あとビジネス社会の常識とかマナーとか、そういうものが結構短時間で学べました。

白石基礎となるところを 1年で学ばれたということですね。

藤田そうですね。そこで学んだものを自分が会社作るときに生かしましたし。だから学生からいきなりやるよりは、ずいぶん早かったと思いますけど。

白石でもなぜこのIT業界に目をつけていたんですか?

IT企業を目指した理由

藤田目をつけたというか、まず会社を作ることを決めて、自分たちでも通用しそうな産業、業界って考えたら、やっぱりまだ新しいインターネットというのがいいんじゃないかと。もっとみんなやればいいのにと思うかもしれないんですけど、僕が起業するときはインターネットなんていうのは学術的な目的で作られたもので、そういうビジネスには向いてないというふうに言われてたんですよね。

1年のサラリーマン生活を経て、藤田は1998年にサイバーエージェントを設立。以来躍進を続け、 IT業界のトップを走り続けている。

サイバーエージェントの「今」を象徴する物とは? Ameba→Abema

藤田もともとこういうアメーバマークみたいなのが、結構あれ見たらアメーバと思えるぐらい普及したんですけど、 10年経った区切りで全然違う、この犬だか猫だか熊だかわからない生物に変えたというか。

白石この子、正体はなんていう?

藤田これAbemaくんという。

白石Abemaくんですか?

藤田Amebaの順を並べ替えただけなんですけど。

白石そうなんですね。こちらはどういったコンセプトで作られたキャラクターになってるんですか?

Abemaくんのコンセプト

藤田会社全体としてクリエイティブに力を入れていこうと。今までインターネットって、ガラケーと言われている昔の携帯とか、パソコンの世界とか、あまりクリエイティブが重要じゃなかったんですよ。それがスマートフォンになって、クリエイティブがそのまま世界的にも通用するような競争力になる環境に変わったので、クリエイティブの強い会社になるぞ、という気持ちで、古いそれなりに浸透したロゴを捨ててリフレッシュしたという。

白石結構、前のロゴの印象がすごく強かったんで、すごくびっくりしました。

藤田そうですか。

白石はい。

藤田インターネットの世界ってやっぱり古い、オワコンとかいう言葉を使う人多いんですけど、終わってるコンテンツ。やっぱりちょっと古いものにされてしまうと、あっという間にはやりが廃れてしまうので、やっぱりこれからスマートフォンで新しいものをまたどんどんやっていくんだというような気持ちを込めて、このロゴに変えました。

白石スマートフォンに変わって、引きが強くないとみんなが勢いよくついていかないという感じがする世界かなと思うんですけど。

スマートフォンの登場

藤田スマートフォンになる前は、例えば動画を再生したりとか音楽を聞いたりするのも、ガラケーとか想像したらわかりますが、あれで動画を見ようとはなかなか思わないし、パソコンもやっぱり目の前にキーボードがあるのであまり動画を見るのに向いてなくて、スマートフォンの場合、それがそのままオーディオプレイヤーみたいな位置付けになるので、実はいろんなものをガラッとスマートフォンが変えたんですけど、使ってる技術はインターネットで一緒だから、なんかそんな大きな変化が起きたように思ってないかもしれないですけど、実はすごく大きな変化。

白石そうですよね。

(動画)定額制音楽配信サービスAWA

白石今、新たに進められてる事業というのは、どういったものがありますかね?

藤田今、方向性としては、このAbemaくんを象徴して、音楽とか映像の事業に参入してるんですけど、もうすでにAWA(あわ)という、音楽配信サービスをリリースしていて、これはエイベックスとの合弁で作った会社なんですけど、定額で聴き放題のサービス。

白石こういった事業やろうと思われたきっかけは、どういった思いだったんですか?

AWA誕生秘話!?

藤田これはきっかけはもうしょうもない、しょうもないってこともないですけど、エイベックスの松浦社長と釣り仲間なんですけど、ずっとその音楽の定額配信の事業に参入したいけど、技術力がないとか海外との交渉がうまくいってないとか悩みを聞いていたときに、「じゃ、うちがやりましょうか」ということになって始めたんです。

白石そういった中で新事業を始められたということで、どうですかね?

生き残るサービスとは?

藤田やっぱり生き残るサービスというのは、例えばプラットフォームと癒着できているとか固定したユーザがいるとかじゃなくて、これまでのインターネットの歴史から、やっぱり最もいいプロダクトを作った会社がそのままwinner-takes-allというんですけど、1社頭一つ抜けてそのまま10個抜けるという展開になると思ってるので、そういう意味ではAWAはプロダクトベースでは負けていないと思ってますから、今、曲数を年内に 3,000万曲まで増やし、細かい検索の精度を上げていったり、今サービスを磨き上げてる最中です。派手なことをやるというよりは、ひたすら地道に磨き上げることが 一番大事だと思っています。

渋谷である意味

白石サイバーエージェントは創業以来、ずっとここ渋谷に拠点を置かれてますよね?

藤田はいそうです。

白石何かそれは理由があるんですか?

藤田やっぱり若者が多く働いているんですよ、うちの会社も。若い人に日本橋と渋谷でどっちが働きたいかって言ったら、やっぱり渋谷に来るんで、渋谷のほうが人を集めやすいというか。

白石そうですよね。とてもそれはわかります。皆さん先ほどもおっしゃいましたけど、働く方がお若いとおっしゃいましたけども、そういった若い社員の方とのコミュニケーションというのはどうやって取られているんですか?

社員とのコミュニケーション

藤田もう社員数3,500人なんで、細かく取っていくのは難しいんですけど、ただ僕、日常的にブログとか 755(人気アーティストや著名人同士のトークを自由に閲覧コメントができるスマートフォン向けアプリ。リアルタイムで有名人と会話ができるなどの特徴がある)っていうサービスとか Facebookとか、いろんなところで発信してるので、おそらく相当身近には感じてくれてると思いますね。

白石じゃ、発信して、社員の方からの反応というのもやはり早いですか?

藤田社員もみんな SNSで発信してるので、そういうものをわっと僕が見て、やる気があるんだなとか悩んでるんだなとか、やる気があることをアピールしてるなとかですね。

白石そういったコミュニケーションの取り方というのもあるんですね。

藤田これは新しいですけど、昔の組織のリーダーはなかなかできなかったと思うんですよ。そういう会社の方針をブログとかに書いて、なぜそうなったか経緯を説明したり、何かを変えるときになぜ変えるのかという説明できるというのは、そういう意味では新しいですよね。

進化し続けるIT業界の中で、競争力を高めるためには変化を恐れない。
トップ自らが常に発信し続けることで目指すべき道が社員に示される。
技術が進化しても、決して忘れてはならないのはコミュニケーション。

社員のモチベーションはどのように上げているのか?

社員のモチベーションはどのように上げているのか、社内を案内してもらいながら話を聞いた。

白石すごく開放的なスペースですよね?

藤田まあそうですね。レイアウトはフロアによっていろいろなんですけど。

白石実際、サイバーエージェントで働いてみていかがですか?

社員1やっぱりすごいみんな前向きで、すごく志が近い人がたくさんいるので、刺激をお互いしながら切磋琢磨して働くことができてるかと。

白石 すばらしいですね。

社員2人間関係のところで本当にストレスがないので、それが多分一番。
ちょっと仕事がやっぱり遅くなっちゃったりとか少し量が多いなと思っても、やっぱり周りの人がサポートしてくれたりとか、相談できる人がいるので、あんまり思った以上に仕事を重く感じないというか。

白石いいですね。でもやはり全体的に見て、皆さんお若いですよね?

藤田そうですね。大体平均年齢30ぐらいですけど。

白石そうなんですか。これだけ若い方が働いていらっしゃいますと、モチベーションを保つということ、とても重要だと思われますけども、そういった点はどういうふうにされているんですか?

藤田社員総会というのを半年に1回やって、それはすごいお金も時間もかけた演出で、ほんとグラミー賞みたいな表彰をするんですけど。一応それで「壇上に立つ!」みたいな、「表彰されたい!」みたいなのもあります。

白石そういったことがあるとうやる気にもつながりますよね?

藤田そうですね。あと毎月1回そういう、その月のMVPを表彰したりとかっていうのとか。意外とそういうのがわかりやすいモチベーションになるのはあると思います。

白石なるほど。

サイバーエージェントでは、女性マネジメントの活用に力を入れており、2014年10月に新卒入社7年目の女性社員が、初の女性執行役員に就任。また新たな人事制度として2014年にマカロン(macalon)パッケージを導入、これはママがサイバーエージェントで長く働くという意味が込められており、会社全体でママ社員を支援している。

社員を育てる

白石モチベーションはそういったことで上がりますけども、やはり若い人の才能というのを早くから見極めて、育てていくということもとても重要だと思いますけども、そのへんはいかがですか?

藤田育てるというのは、本当、経験すればみんな育つんですけど、経験できないと育たないので、早めに抜擢して重要な役職につけてしまうと。

白石それはどういった役職ですか?

藤田例えば子会社の社長とかですね。

新卒社長。新卒社長とは、新卒としてサイバーエージェントに入社、そして若くして子会社の社長に就任する社員のこと。その狙いとは?

新卒社長

藤田社長になるのを学びたい人というのは、やっぱり本を読んだり研修を受けたりMBAみたいな授業を取るより、何より早いのは、もう社長になってしまうことなので、それを早くから経験させて、そういう経営者人材を育成しています。

白石なかなかないですよね?

藤田インターネット業界だからできるというのもあるんですけどね。ほとんど先行投資がかからずに、頭にあるアイデアとパソコンがあれば形にして事業が始められたりするので、それを実際にやってもらいプレッシャーを背負ったりしていく中で、経営者として経験を積んでもらっていく。

白石トップに立つと視界もまた変わってきますからね。

藤田そうですね。

白石そこで見れるものというのは、大きいのではないでしょうかね。

藤田目線も上がるので、社員としてどうというよりは、経営者から考えると仕方ないんだよ、みたいなのがわかってくれたりする。

白石藤田社長の思いというのが。

藤田社長も大変なんだと。

白石(笑)共感できるというわけですね。

藤田はい。

社員のモチベーションを高め、思い切った人事で経験を積ませる。それが会社が成長し続ける原動力となる。
そして藤田が目指すサイバーエージェントの未来とは?

不可能を可能にしたい

藤田不可能を可能にしてしまいたいと思ってます。

賢者の文(ふみ)

白石さて、番組では賢者の文と題しまして、いつも心に留めているお言葉を一筆書いていただければなと思うんですけども。

賢者の文「熱狂」

藤田親しくしてもらってる幻冬舎の見城社長のお言葉で、『全ての創造はたった一人の熱狂から始まる』という言葉を聞いたんですけど、やっぱり僕もブログ事業をAmebaで立ち上げて、世界的にもブログ事業を収益化した会社って実はないんですけど、僕はブログがそうなると思っていたし、自分自身もブログに熱狂してたし、それを会社でいろんな人を結果的に巻き込んで、最終的になんとかしちゃったんですけど、またその原動力って何かというと、やっぱり熱狂、やっぱり何か新しいものを作り上げるとか、会社自体もそうですけど、やっぱりたった一人の熱狂から全ての創造は始まるということで。熱狂!みたいなタイプのではないんですけど。

白石確かに(笑)。

藤田心の中では熱狂して。

白石心の中では、もう「よー!」というような感じですか?

藤田はい。

白石熱狂、大切ですね。

藤田はい。

白石藤田社長、今後の展開はどのように考えていらっしゃいますか?

今後の展開

藤田来年の春に、AbemaTVという事業をスタートするんですけど、今それの準備にものすごく時間使っているんですけど、一応今まで言ったことをちゃんと形にしたし、成立させたということで、結構みんな信用してくれるんで、この勢いで、もう不可能を可能にしてしまいたいと思っています。

白石これからもIT業界だけではなく、日本の企業のリーダーとして新しいものを次から次へと。

藤田いえ、恐れ多い。

白石見せていってください。本日はどうもありがとうございました。

※出演者の会社名・役職など掲載情報は、収録当時のものとなります。
※著作権保護の観点から、動画の無断転載・流用などを禁じます。

苦痛の先には楽しさが待っている「NO FUN NO GAIN!」の真髄とは?!

蟹瀬改めまして。今日は、お見えいただきましてありがとうございます。

松田こちらこそ。ありがとうございます。

蟹瀬松田さんと言えばみなさんご存知だとは思いますけども、タリーズコーヒーを日本に持ってこられて大成功されたと。

松田いやいや。

蟹瀬それだけでは飽き足らなくて、どんどんいろいろなことをやっているのですね。今の肩書ってどういうふうになっているのですか?

松田今ですね、引き続きタリーズコーヒーの方を海外でやっておりまして……。

蟹瀬インターナショナル?

松田そうですね。タリーズコーヒー インターナショナル ファウンダーをさせてもらっています。あと、もう一つはですね。最近始めたんですけれども、エッグスンシングスインターナショナルさんのCEOをさせてもらっています。

蟹瀬もうちょっと言いやすい名前だと良かったのにね。

松田そうですね。

石田エッグスンシングス。

松田そうですね。エッグスンシングス。

蟹瀬それはあれでしょうか?向こうにあったものを持ってこられるような?

松田そうですね。

蟹瀬ビジネスってことですよね?

松田はい。そうですね。エッグスンシングスインターナショナルは、元々エッグスンシングスというハワイにお店があってですね。そちらの権利をいただいて全世界展開をこれから始めようというところですね。

蟹瀬このエッグスンシングス、英語で言った方が良い?

松田発音素晴らしいですね。

蟹瀬これどういうお店なのですか?

松田もともとですね。ハワイのオアフ島に35年前から1店舗だけあったブレックファーストコンセプトのお店なんですね。

蟹瀬一つしかなかったのですか?

松田一つしかないんです。

石田朝食を主に作っているというと…。

松田そうですね。

石田どういうお店なのでしょうか?

松田朝食のメニューがグランドメニューでありまして、オールデイブレックファーストと言いまして、1日中何時でも営業時間中は朝ごはんを食べられるというお店ですね。

蟹瀬夜でも?朝ごはんっていうのは、ちょっと意外なコンセプトですよね。

松田そうなんです。例えば、海外に行かれてホテルに入られてルームサービスとか頼むときに、よく行かれると思いますけどもブレックファーストメニューがあって、24hoursって書いてあるところがあると思うんですけども。

蟹瀬24時間オーダー。

松田24時間、オーダーが出来ます。っていう、そういう感じですよね。

石田なるほど。

蟹瀬朝だけじゃなくてね。ああいうメニューってちょっと食べたいなって思うときがありますが、中々食べる場所が無いっていうのはありますよね。

松田そうですね。

蟹瀬その辺が非常に僕は面白いところかなと思う気がするのですけども。いつ頃オープンしたのですか?日本では?

松田日本ではですね、3月10日にオープンしました。

2010年3月9日、あいにくの霙となったオープン前夜。なごやかな雰囲気の中で最後のミーティングが行われていた。率直に意見を交わす松田とスタッフ。新しい食文化に挑戦している松田のこだわりは料理はもちろんのこと、実に隅々にまで及ぶ。タリーズコーヒーを成功に導いた松田は、このビジネスの勘所をしっかりと掴んでいて、スタッフが一つにまとまっていく術を熟知しているようだ。そして、オープンから一カ月経った今でも、連日店の前には行列が出来、順調な滑り出しを見せている。ハワイ情緒に溢れている店内、これもまた魅力の一つである。

蟹瀬今、日本ではだいたいどのくらいの規模で、これから展開していこうという風にお考えなのですか?

松田そうですね。丁度、1号店を3月に出したばかりなんですけど、将来的には50店舗まで広げていきたいと思っています。

蟹瀬やはりタリーズの頃のノウハウというか、そういうモノは今回も上手く利用できそうな感じなのですか?

松田そうですね。十分に利用できると思います。

蟹瀬日本でこれ、展開するってフランチャイズなのでしょう?

松田はい。あの基本的に直営店とフランチャイズ、両方やっていきたいと思っているんですが、初めは直営店を何店舗か出して行きたいと思っています。

蟹瀬それは、どうやって手に入れられたのですか?

松田権利ですか?

蟹瀬ええ。

松田あの権利はですね。たまたま権利を取得されたご夫妻から連絡いただきまして。

蟹瀬それは日本の方ですか?

松田日本の方です。その方々に、もしよろしかったら日本でやっていただけませんか?というお話をいただきまして。

蟹瀬初対面だったのですか?その方とは?

松田そうですね。友達を介してご紹介いただきまして。ただ、私は15年前からハワイのエッグスンシングスのに行っておりまして、ファンの一人だったんですね。それで大好きで、実は6、7年前に1度当時のオーナーさんに、もし日本での展開をお考えでしたらやらせていただけませんでしょうか?という交渉をしたことがあったんですね。

石田自ら動かれたわけですね。

松田そうですね。

蟹瀬それが伏線になっていて、今回そういう話が実現したんだなという気がします。

松田かもしれないですね。

蟹瀬全く知らないで急にというのは、なかなか僕は難しいと思うんですよね。

松田そうですね。何かのご縁があったのでしょうね。

蟹瀬お店のコンセプトっていうのは、先ほど伺ったように朝ごはんっていうのは分かるのですけど、それ以外にもコンセプトはあるのですか?

松田基本は朝ごはんなのですが、中でも特にパンケーキが非常に人気があります。

石田パンケーキ。女性が……。

蟹瀬好きでしょう?

石田大好きです。

松田おすすめのパンケーキ。ボリュームある朝食のラインナップ。これもこだわりの一つ。

蟹瀬これを日本で展開しようっていうふうに決断された、その辺の理由というのはどのあたりにあったのですか?こういう食べ物屋さんって無いことはないですよね?

松田そうですね。ダイナースな文化とかあるので、似たようなものがあると思うのですが、ただ私自身が実はブレックファーストが大好きで、海外に行くと、どうしてもルームサービスでブレックファースト系を頼んじゃうんですね。それが、日本にはまだまだ無いなと思っておりまして。例えば、仕事でもアメリカ人っていうのは朝はブレックファーストを食べながら会議をすることが多いんですね。

蟹瀬ブレックファーストミーティングね。

松田そうです。

蟹瀬日本人にとっては辛いんだよね。

松田そうなんです。

蟹瀬朝早くっていうのは。

松田そうなんです。実は、先日ですね。私の友達の会がありまして、いつも夜やっているものですから一度朝やろうよという提案をしたんですね。それが「何時からやるんや」と言われましたので、朝7時くらいから朝食を食べながらやろうと言いましたところ、皆に凄く叱られまして。ゴルフじゃないんだから、そんな朝早く行けないよと。でも私は、朝に朝ごはんを食べながら皆と会議をするっていうのが非常に目も覚めますし、しっかり1日を有効に使えるということで、良いんじゃないかなと思っているんですね。

蟹瀬僕もね、外資系のメディアにいたのです。だからブレックファーストミーティングってしょっちゅうあったのですよ。それで研究者によると人間の脳って、朝の八時頃が一番シャープなんですって。その一番いい時間を我々は無駄に使っていることが多い。良いとこに目を付けられたなっていう。

松田ありがとうございます。

石田これからドンドンね、取り入れられるかもしれませんね。ブレックファーストミーティング。

松田嬉しいですね。そうなれば。

今年3月10日に東京、原宿でオープンしたエッグスンシングス。朝食をコンセプトにした料理は、なかなか人気があるようだ。シェフに料理についてのこだわりを聞いてみると。

従業員はい。ハワイに研修に行かせていただいて、ハワイで実際に作って食べて学んで帰ってきて、そういう同じものを同じクオリティで出せるようにやっています。あと、一応日本のキッチン道具とアメリカのハワイの道具が違いまして、やっぱりパンケーキ、ワッフル、一つ一つ料理の作る時間とか工程とか変わってきたので、そういうことが苦労したところです。

従業員はい。そうですね。一応、来ていただいて何度も食べて、ダメなものはないかとか常に同じものが出ているかとか、ちゃんとチェックしていただいて、どのお客様にも同じものが出せるようにチェックしていただいています。

松田も細かくチェックを行っているようだ。朝食をしっかりと。という松田の狙いは、まさにピッタリとハマったようだ。

従業員よく会社ですとかお店ですとか、社員のことやアルバイトのことをスタッフ、クルーとかいう表現をしたりするんですが、我々はそれを敢えてオハナという表現に変えました。やはり、皆さん家族とっていうイメージで皆と働いていきたいと。皆で一致団結して働いていきたいっていう気持ちがありましたので、家族ぐるみみたいな雰囲気でオハナというような表現で我々は呼び合っております。松田さんも一緒にですね、我々と一緒にお店でアロハを来て一緒に働いてお客様をご案内したりしておりました。やはり、いろいろな細かいところに気が付くので我々も松田さんに聞いたり、松田さんも含めて一緒に、オハナと一緒にディスカッションをしたりしながら改善をしておりました。

蟹瀬もちろん、オープニングの時はたくさん人が来るわけで、もう一回来てくれるかどうかっていうところですよね。その辺は、何か仕掛けっていうか考えていらっしゃいますか?

松田もうそこはですね。本当に、普通にですね。とにかく味にこだわって、サービスにこだわって、ホスピタリティーにこだわってやっていくしかないと思うんですね。そこのベーシックな部分を徹底するっていうのが、飲食店にとって一番重要であると思っています。

蟹瀬それから、オハナっていう言葉。呼び方ですか?

松田そうですね。オハナというのは、ハワイの言葉で家族とか仲間っていう意味なんですね。実は、以前タリーズでコーヒーを展開した時にタリーズを愛してくれている従業員は、アルバイトだろうが部長だろうが課長だろうが、皆一緒の気持ちを持ってやっているんだからセロと呼ぼうと。セロとは英語で仲間という意味なのですが、そういう名前を使って、全従業員の総称として使わせていただいたんですけれども。今回、オハナというハワイのコンセプトですから、ハワイの言葉を使わせていただいたと。

蟹瀬いいな。

石田服装もハワイの格好でしたし、やはりオーダーとかもハワイ語でなされたりするんですか?

松田オーダーは、日本語ですね。ただ、いらっしゃった時はアロハとかハワイの言葉を使うときはあります。

蟹瀬そういう一つの仕掛けですよね。それで従業員の心が一つになっていく。この辺の発想っていうのは、松田さんはいつも考えていらっしゃるのですか?

松田そうですね。やはり、あの気持ちを一つにしないと飲食事業って大変ですから、仕事が非常に大変になることも多いので、皆でチームワークをとにかく大切にしないとダメなんですね。そのような言葉を使うことによって、皆の気持ちが一つになれば良いなといつも思っています。

情熱的に生きるキーワードは「INSPIRE」マーケティング本当の意味に迫る!!

魚谷どうも。こんにちは。

蟹瀬どうも。お忙しいところありがとうございます。持っていますね。

魚谷やっぱり、これを持たないとですね。はい。

蟹瀬世界一、コカ・コーラの似合う男って言われていますね。どうぞ、おかけください。

魚谷どうも、ありがとうございます。

日本のコカ・コーラシステムは、製品の原液の供給と企画開発。そして、広告などマーケティングを行う日本コカ・コーラ株式会社と、製品の製造販売を行う全国各地域のボトラー社とで成り立っている。魚谷会長は長年、日本コカ・コーラで企画開発を手掛けたマーケティングを担ってきた。

蟹瀬コカ・コーラは調べたら120年も歴史がありますね。

魚谷はい。

蟹瀬それなのに、ブランドとして全然色あせてないですよね。これは、あんまり例が無いかなと思うのですよね。

魚谷そうですね。今でもよくブランド価値調査とかってグローバルのそういう調査があるんですけど。9年連続世界一の価値に認められています。

蟹瀬普通、企業でも40年もてばいいっていうくらいで、企業そのものは無くなってしまうとか。アメリカの広告会社みたいなのはあるけれども。アメリカを代表する商品としてのこのコカ・コーラですよね。我々が青春時代は、アメリカ文化の象徴っていう感じだったのですけどね。

魚谷スカッと爽やかな言葉に代表されるようなですね。皆さんに大変受け入れられていただいて。日本でも既に1957年からですから、50年以上の歴史があります。

蟹瀬だから、その商品そのものの価値もあるのだけれども、魚谷さんが得意となさっているマーケティング。この力というのが実は物凄く強いのですよ。そこのところを今日は、包み隠さずお話を伺いたいなと思っておりますけれども。まず最初に……。

魚谷じゃあ、さっそく失礼して。

蟹瀬あ、一杯いきますか?

魚谷はい。やっぱりこれを飲まないとエネルギーが出ませんので。

石田魚谷さんは、日本コカ・コーラに1994年に入社されて、そして、2001年に社長に就任なさいました。2006年には会長になられ、その間、缶コーヒーのジョージアをはじめ数多くの製品のマーケティングを手掛けられたそうなのですね。

蟹瀬本当に、成功の連続をなさってこられたっていう方なのですよね。今日、番組冒頭からなのですけど、実はちょっと書いていただきたいものがあって。ビジネスを展開する上で指針や哲学になっていると。こういう数字なのです。これを一つお願いしたいと思います。

魚谷ずばり、1です。

蟹瀬1ということは、どういう意味だって聞きにくいのですけど。1番ですか?これ。

魚谷1番とか、1番シェアが高いとかっていうふうに思いがちなんですけれども、そうではなくて。
マーケティングには、1番手の法則というものが非常に重要だと思っておりまして。たくさんの製品ですとか、サービス、情報、もう氾濫していますけれども。
その中で自分たちがお客様に提供したいと思う価値を新たな価値として、1番先にお客様の頭の中に入れていただくと。
結果として、我々のブランドがオンリーワンの存在になると。これこそ大事なことじゃないかなと。結果として、それはビジネスの中でシェアが高くなって1番になるかもしれませんし、大きく伸びることがあると思います。まずは、お客様にとってのオンリーワンの存在。

蟹瀬なるほどね。

魚谷これが1番大事だと思っています。

蟹瀬僕はてっきりナンバーワンだと思ったわけです。シェアナンバーワンだとかね。某ライバル社と、常に戦いの歴史があるわけじゃないですか。

魚谷はい。

蟹瀬だから僕は、その1番かと思ってしまいました。そうではなくてオンリーワンだと。コーラと言えばこれだと、そういう存在になりたいと。だけど、それには、やはり商品が良いっていうことやお客様に好かれるっていうことが大事でしょうけども。マーケティング、その売り方というか、そのあたりのポイントというのは何なのですか?

魚谷今の話にも関係すると思うんですけれども。私たちは、やっぱりお客様があってのビジネスですから。例えば、日本でビジネスしていれば1億2千万人の生活者の方。こういう方々に私たちの提供したい価値を分かっていただいて、理解していただいて、楽しんでいただいたり感動していただいたり、というふうにお客様を巻き込んでいきたいわけですよね。我々のビジネスに。

蟹瀬なるほど。

魚谷その時に、非常に重要だと思っていますのは、そのビジネスに関わる人たち。当社の社員であったり売っていただくお店であったりですね。そういう人たちが同じようにビジネスの楽しさだとか醍醐味とか、そういうものを感じて巻き込まれていかないと、お客様には伝わらないと思うんですね。

蟹瀬その辺は、僕もなんとなく理解ができます。ですが、それを実際にやっていくときの戦略と言いますか、そういうのがあるんだと思うのですね。これは良いものだからお客様に広げていく。社員が一丸となってやっていく。これは、どこの本を読んだって出てくるわけですよ。たぶん魚谷さんは、それより1歩進めたところを考えてらっしゃるわけでしょうか?

魚谷と言いますか、そこに関わる人たちが、いかに本当に自分の気持ちを一つにして一緒にやっていけるか。そのためには、リーダーになる人は、こういう方向に行きたいんだ。こういうことにチャレンジしようというものを、いわゆるビジョンっていうんですかね。こういうものは、なるべく分かりやすい言葉にして、分かりやすい表現で皆に示して、みんながそれに対して納得をしてくれる。そういう中での、僕らはよくいう Internal Brandingって呼んでいるんですけど。こういうプロセスにしっかりと時間とエネルギーと情熱を、リーダーはやっぱり注がなければならないんじゃないかなというふうに思います。

蟹瀬魚谷さんの場合だと、例えば、部下の方いらっしゃいますよね。どういうふうにおっしゃるのですか?

魚谷私たちのような、こういう消費財のマーケティングの仕事をしていると、いつも思うんですけど、やっぱり24時間、常に考えるってことが大事だと思うんですね。これは社員の方によく言っているんですけど。生活の中に我々の製品、ブランドの価値ってありますから。やっぱり、どういうことを求めているお客さんがいるだろうか?何故こういうふうなことをするんだろう。電車に乗っている時も、テレビのコマーシャル、いろんな業界の広告を見ていたりとかですね。番組を見ている時なんかでさえも、そういう視点で見ようと。そこかに必ずヒントがある。そんな考え方です。

蟹瀬今回もなにか新商品を出されるわけですよね?

石田そうですよね。魚谷会長は日本コカ・コーラで様々な商品のマーケティングに携わってこられて、ヒット商品を生み出してこられました。その一つに2009年に発売15周年となった爽健美茶もあるのですよね。

大型リゾート施設ハウステンボスが何故、破綻したか?その原因と再建に迫る!!

蟹瀬どうも、お久しぶりです。

澤田お久しぶり。こんにちは。

海外旅行部門では、業界トップレベルの株式会社エイチ・アイ・エス、澤田秀雄会長は、グループ約5000人を率いるリーダーである。

蟹瀬澤田さんは、いわゆる旅行だけじゃなくて金融だとか、証券だとか、いろんな分野で会社やグループ会社を作って活躍されていると。これ相当お忙しいと思うのですけれども、そのビジネスをやっていく上で一つの指針になっている数字があれば、お見せていただけますか。

澤田はい。

蟹瀬7という数字ですね。どういう意味なのですか?

澤田事業やっていても、人生も、僕は運だと思うんですよ。やはり運が非常に大切ですのでラッキーセブン。

蟹瀬やっぱりラッキーセブンなのですね。

澤田ラッキーセブンというのは、やはり運なわけですよね。だから、勝ち番号。且つ、運の番号だと思うんですよね。僕は、是非運を大切にしたいと。運によって随分変わりますから。一応、7ということで、7を書きました。

蟹瀬ハウステンボスと言えば、オープンしたのが1992年の春でしたよね。あの時は、東のディズニーランド、西のハウステンボスと。

澤田そうですね。

蟹瀬物凄く高い評価を受けていましたが、今はそれがもう2度も破綻したわけですね。この再建に澤田さんは手を挙げられたわけですけれども。

澤田はい。

蟹瀬この2度の破綻というのは、おそらく相当慎重に私は分析されたと思うんですね。

澤田はい。

蟹瀬どういうふうに読んでらっしゃるのですか?

大型リゾート施設ハウステンボスが何故、破綻したか?その原因を澤田会長が分析する。

澤田ハウステンボスというのは、非常に設備というかハードは立派なんですね。大きさもディズニーランドの1.6倍あって非常に素晴らしいハードなんです。

蟹瀬私も何回か行っております。

澤田言い方を変えれば非常に経費が掛かる、大きい、維持費がかかるということで経営では非常に大変というのが一つありますね。それから、ディズニーランドとよく比較されるんですけど、ディズニーランドと根本的に違うのは商圏の大きさですね。ディズニーは関東、成田、羽田を含めた商圏はべらぼうに大きいわけですね。

蟹瀬たくさんの人が来る可能性があると。

澤田もう中心。それでアクセスもわずか東京から15分から30分でだいたい行けるところにありますから。方や、九州の端にあるとアクセスの悪さもありますし、商圏の小ささがある。だけど大きさだけは1.6倍あるということが大きな原因じゃないですかね。それから、やっぱりディズニーのノウハウ、長年培ったノウハウと、そして設備投資、そしてそのアミューズメントの多さから比べたら比較するに値しないんですね。1度は行ってみようという雰囲気のある素晴らしい設備なんですけど、だけどリピーターに非常になりづらい。その割には、値段が高い。あまり面白くないというとこがあったんじゃないですかね。

蟹瀬今のお話を伺っていると全てマイナスですよね。どれもこれも、もちろん破綻したのだからそんなにプラスは無いわけだけれども。それにも関わらずこの再建を引き受けられた。この理由は、どのあたりにありますか?

何故、澤田会長は、そんな難しい案件を引き受けたのだろうか?澤田会長が再建に乗り出したハウステンボスを調査すべく石田紗英子は、長崎に向かった。

石田なんか今、一瞬見えた。

長崎県佐世保市にあるハウステンボスは、オランダの街並みを再現して作られた日本最大級のテーマパークである。ハウステンボスの園内は、360度どこを見てもヨーロッパ。まるで、海外旅行に来たような景観が広がっている。

石田これだけの施設、維持していくのは大変なのではないかと私も思います。

1992年に開園。業績が伸び悩み11年目の2003年に会社更生法の適用を申請したが支援企業の登場で生き延びた。しかし、その6年後の2009年2月またも経営破綻。ふたたび会社更生法の適用を申請。負債総額、約2289億円という大型破綻となった。

従業員7年経って、残念ながら皆様の期待に応えることが出来ず、こういった形になってしまったことは大変悔しいと思っています。

従業員いらっしゃってくださるお客様を、大変不安にさせて心配をかけたことは申し訳ないと思っております。

従業員澤田会長から行為者の話をいただいて、これからまた旅行業界の会社ということで、どのように発展していくかとても楽しみにしております。

しかし、市民の中にはこんな声もある。

佐世保市民地元としては、とてもありがたいことだと思っておりますけれどもね。いつもなんですけれど国とか地方でも大きい、そういう企業さんとかがピンチに陥ると政治とか経済界も協力して救済する方向に動くんですけどね。規模が小さくなるにしたがって自分たちでやってくれみたいなことになりますから。公平な勝利ではないなということは普通に感じますよね。

ホテル支配人海外旅行の大手でいらっしゃいますから国内のお客様に限らず海外のお客様の誘致が見込めるんじゃないかなと期待を持っています。

佐世保市民ハウステンボスに人がたくさん流れてきたからと言って、他のお客様方が佐世保市内に入ってきてお買い物をしたり、お食事をしたりというのは現実的に自分が旅行者であってもあまり目を向けないかなと思うので。

佐世保市民佐世保市民ですけども、そんなに頻繁に足を運ぶことが無かったので、これを機会にもっと足を運べるような施設になってくれたら良いなと思いますけどね。

佐世保市民私たち佐世保市民、とにかく期待しています。どういう形でこれを再建していただけるのか。

モノづくりは「人類に欠かすことの出来ない創造的な営み」と唱える男のチャンレジ!

田丸今回のゲストは、サンディスク株式会社の小池淳義社長です。どうぞ。

蟹瀬どうもよろしくお願いします。

小池よろしくお願いします。

蟹瀬さて、こちらの方に大変綺麗な丸いものがありますが、これは何なのですか?

小池私どもが、ウエハ(半導体チップの製造に使われるシリコンの基盤)と呼んでおりまして、この半導体のチップを一変に製造するためのシリコンの基盤でございます。

蟹瀬この小さく四角く見えているのが、いわゆるICチップといわれる物なのですか?

小池はい。

蟹瀬これ一個一個……。

小池この後、切り出しまして一つ一つパッケージを行うことで皆さんがお使いになっている、いろんな製品になっていきます。そういう形になっております。

蟹瀬これは、直径何センチですか?

小池300mm、30cmです。

蟹瀬以前は、20cmだったそうですね。

小池はい。20cmで吊るしたわけでございますけれども、私どもはコストを下げるために口径を大きく致しましとたくさんのチップが取れる。コストが下がるということでございまして、絶えず口径を大きくする努力をしてまいりました。

蟹瀬その技術の中心人物が実は小池さんです。その辺の300mmを作るご苦労を今日は是非伺いたいと思います。

田丸伺いたいと思います。

様々な機器や家電製品に使われている半導体、小池が目指したのは世界に先駆けた技術改革。直径300mmのウエハによって、日本の半導体産業は新たな一歩を踏み出すことに。

今年1月、東京秋葉原でBCN AWARD 2010が行われた。この賞は、大手家電販売店など24社のデータを集計し、昨年最も販売実績のあったメーカーに贈られる。そのメモリーカード部門で3年連続受賞したのがサンディスク株式会社である。
携帯電話やデジタルカメラに使われるフラッシュメモリを使ったメモリーカードの設計から製造に至るまで一貫して行っている。このメモリーカードの中に組み込まれているのが半導体チップ。現在、大半の家電製品にも使われている。2007年、サンディスクは、東芝と合同で三重県四日市に世界最大級となるフラッシュメモリの製造工場を設立。今後のデジタル市場を牽引するであろう注目メーカーの一つである。

蟹瀬まずは、サンディスクという会社について大まかに教えていただけますか?

小池私どもの本社は、アメリカのカリフォルニアにございまして、創立して20周年を迎えたのでございますけれども、主にフラッシュメモリをベースとしましたカードをですね、皆様がお使いになっておられますデジタルカメラや携帯電話等に適用しております。

蟹瀬シュッと差し込むあれですね。

小池はい。あれをメインに作っておりまして。そういったものを一貫して作っている。製造開発から最終製品まで一貫して作っている会社でございます。

蟹瀬今、横のパネルに貼らせていただいたのですけれども。

小池上の方がコンパクトフラッシュと申しまして、大きな専門用の一眼レフのカメラなどに使われるカードでございます。

蟹瀬カメラ。

小池2段目にありますのが、一般の皆さんがお使いになっておられるデジタルカメラですね。最後は、USBメモリでございますけれども、こういった形のものでございます。

蟹瀬これはパソコンをお使いになる方であれば日常的に使われていますけれども。小池さんは、半導体生産の申し子と。

小池はい。

蟹瀬こういうふうに呼ばれていらっしゃると伺っていますけれども。この半導体の生産に目を付けられたのは、どういうキッカケだったのですか?

小池そうですね。日立製作所に前におりまして、まずそこに入社致しまして。ちょうど半導体が大きく成長していくという時代でございました。これからは半導体の時代だと。

蟹瀬これだと。

小池そういう形で、その中でも生産技術、日本人の得意な物作りに特化した半導体の生産技術というのをやっていこうということで進めてまいりました。

蟹瀬なるほど。その辺の詳しいお話を是非ともこれから伺ってまいりたいと思います。

1952年、千葉県に生まれた小池。小学生の頃、父親の転勤に伴い広島県呉市に移り住み、高校を卒業するまで呉市で過ごした。

蟹瀬小池さんは、お子さんの時から物を作ったりだとか、そういうことが大好きだっだのですか?

小池そうですね。物心ついた時から物作りというのが非常に好きでございまして、いろんなものを組み立て、バラしたりしておりました。

蟹瀬具体的には、どんな物を作られた記憶がございますか?

小池それこそ、ミカン箱を何回も崩して組み立てたりしていました。当時、流行っていたロボットを組み立てたり、今思えば小さなモーターを付けて、それで動かすことが出来るんじゃないかと。そう思って一生懸命トライしておりました。

蟹瀬ほぼ同じ世代なんです。だから、気持ちが良く分かります。僕は、ミカン箱にタイヤを付けて自動車を作っていました。

田丸そうなんですか。

蟹瀬さすがにエンジンは、付けられなかったですけれども。そうすると当時、大人になったらこんなことやりたいなっていう職業ですね。これは、どんなものを思い浮かべていらっしゃったのですか?

小池やっぱり、物作りが好きだったものですから、将来は大工さんになりたいと思っておりました。

田丸やはり器用でいらっしゃったのですね。

小池そうですね。比較的、得意でございました。

蟹瀬中学生の頃には、あることに相当夢中になられたと伺っておりますけれども。

小池はい。アマチュア無線をやってみようという形で、当時は国家試験が必要だったのですが、それにトライ致しましてアマチュア無線に熱中した時期がございます。

蟹瀬田丸さん、アマチュア無線って分かる?

田丸あの、聞いたことはあるんですけれども、ちゃんと説明は出来ないです。

蟹瀬今はね、インターネットの時代になりましたから。当時、シーキューシーキューっていうのを僕は覚えていて、あれはやりたかったですね。

小池はい。そうですね。

田丸シーキューシーキューっていうのは何なんですか?

蟹瀬コールサインみたいな。

小池そうですね。皆さん応答してくださいというサインなんですけれども。

田丸はい。

小池世界中の人たちと無線を通じて会話が出来るという形で、非常に魅力的なものでございました。

これこそベンチャー!「決めたらリスクをとって一歩を踏み出す」迫力

津島今回の賢者は、イー・アクセス株式会社の千本倖生(せんもとさちお)会長兼CEOです。ご存じの方のほうが多いと思いますけれども、千本さんが創業されましたこのイー・アクセス、これはADSLで日本のブロードバンドを世界トップクラスへと牽引(けんいん)してきた会社なんですね。そんな千本さんに最初に一言お伺いしたいんですけど、今はベンチャーというとたくさん会社ありますけども、実際にベンチャーを立ち上げていく、そしてそれを成功させるときにこれが大事だというのは?

千本非常に大きなことは、やっぱりどれくらいその新しいマーケットがあるのか、あるいはそのマーケットをつくれるのかというのが一つね。もう一つは、やっぱり一旦決めたらリスクをとって果敢に、うじうじしては駄目なんですね、やっぱり決めたらリスクをとって一歩を踏み出すと。

蟹瀬思い切ってやると。

はじめて、真面目に忍耐心をもってあきらめずにやる

千本それから三つめは、やっぱり今のいろいろなところを見ていても実業から程遠いベンチャーが多いので、というんだけれども、やっぱり真面目に、忍耐心をもってあきらめずにやると、この三つですかね。

蟹瀬それは本当に大事なポイントばかりですね。

東京、虎ノ門に本社があるイー・アクセス。創業は1999年、『すべての人に新たなブロードバンドライフを。』という企業理念を掲げ、ADSLの普及を通じて、日本をブロードバンド大国に押し上げた。また子会社には携帯電話のブロードバンド化を目指すイー・モバイルがある。イー・アクセスは2004年11月に、創業5年目にして事実上史上最速で東証一部上場を果たした。売上高は579億円を超える。
1942年大阪に生まれ、すぐに疎開し奈良で育つ。そして1962年、京都大学工学部電子工学科入学。

蟹瀬千本さん、疎開なんて言葉も最近はなかなか聞かなくなりましたけども、お父さまも仕事を立ち上げた、要するに起業家でいらっしゃった?

少年時代に培われた起業家精神

千本いや、起業家ほどのあれではないですけど、もともとはエンジニアで工業高専で航空機なんかのエンジニアやったんですよ。だから昔の秘密の飛行機をつくったりする技術者だったんですけどね。

蟹瀬じゃ、最先端のものをつくってらっしゃった?

千本戦時中ですからね。それで奈良で密かにつくってた。だからそれの会社が第二次大戦で負けて平和産業に変わって、そこの役員なんかやったんですけど、その会社が、例の朝鮮戦争のあの動乱のときに倒産したんですよね。

蟹瀬そうですか。

千本で、中小企業、まさに零細企業を自ら立ち上げた。だから僕が小さい頃っていうのはよきサラリーマンのときから、それからゼロから自分と2、3人で会社始めたんだと思うんですけど、それで税務署に追いかけられたりお金がなくなったりとか、そういう意味ではやっぱり中小企業の苦労というのを目のあたりにして、その中でどのようにしてよじ登っていってるのかというのを見てましたからね。だからそういう意味ではアントレプレナーシップという起業家精神というのは、結構アメリカで見ても、自分の親父が自家営業の人がものすごく多いんですよ。

蟹瀬そうですよね。だからもう子供の頃からそういう意味では……。

千本見てましたね。

蟹瀬起業していく姿……。

千本姿、苦労ね。

蟹瀬苦労している部分、それからそれが結実して何らかの形になる……。

千本親父の場合は結実してないですけどね。

蟹瀬(笑)そうなんですか。

千本中途半端に死んでしまったんですけどね。

蟹瀬でも千本さんご自身はどんなお子さんだった? お勉強のほうは随分できたというお話伺ってますけど、成績は。

古都の高校に学ぶ

千本まあ田舎の進学校ですから、奈良高校とかね。奈良県立奈良高校なんてのは東京の開成とかあんなのから見たら、本当に田舎っぺだから。だけどそういう学校で古都の静かな町で勉強させてもらって、やんちゃ坊主だったけれども。あんまり僕勉強しなかったんですよ。勉強しなかったんだけど、成績だけ良かった、田舎でね。そういうの、時々いるじゃないですか。

蟹瀬いやいや、だけどそれはやっぱり本物が、中身が優秀だという意味だと思うんですけれど。

千本いや、本物ではないんだけれど。だからそういうので、でも結構学芸会なんかで主役を回されると、絶対やらない、その他大勢、後ろでコーラス歌っているという。

蟹瀬へえー。

千本皆さん、今になると信用しないんだけど結構引っ込み思案なんです。

蟹瀬だけど奈良、京都、特に奈良という日本の伝統をずっと受け継いできている町で育って、考古学にもご興味があった?

考古学への興味

千本そうですね。だって私が育ったのはなんと七大寺の一つの、だから今はもうないですけども、そこの境内の遺跡の跡に。今の奈良市なんてもう遺跡の上に建っているような町ですから、だから千数百年とかっていうような歴史というのは、常に目の周りにあるわけですよね。だから東京に来て、うちの家内東京っ子なんですけれども、彼女らの古いというのは鎌倉時代が古いわけ。僕らからいうと……。

蟹瀬(笑)尺度が違う?

千本違う。「何言ってんの」と。「そんな新しい時代物は古いと言わないんだ」と。だから僕らにとって、やっぱり1200年とか白鳳(はくほう)とか天平(てんぴょう)とか、そういうものがいつも身の回りにあった。

蟹瀬だけどそういう環境で育った千本さんが、言ってみれば現代よりも未来を見つめるような先端的なところへ進んでいったというのは、なんかそこに一つのエネルギーというか反発心というか、なんかそういうものがあったんですか?

最先端への興味

千本結構やっぱりそうですね。やっぱりああいうところは非常に伝統でいろんなつながりがありすぎてね。

蟹瀬しがらみもありますもんね。

千本そう、そういうものからやっぱり解き放ちたいということあったでしょうね。

津島大学の電子工学科の中では優秀な成績を収めていた千本さんなんですが、この後大学院進学か就職かで悩んだ結果、就職を選択することになりました。

1966年、日本電信電話公社(現NTT)に入社。1967年、フルブライト留学生として、フロリダ大学大学院修士課程に留学。1968年、日本電信電話公社に復職。1969年、フロリダ大学大学院博士課程留学。1971年、フロリダ大学大学院、博士課程終了、日本電信電話公社に復職。そして1983年、日本電信電話公社退社。

蟹瀬先ほどもありましたけど、その進学か就職かという選択、これはやっぱり相当その当時は大変だったんですか?

大学院進学か就職か

千本いや。当時はアメリカの教育なんか僕結構関心あったですから、周りで結構アメリカに留学してた人もいたので。

日本は「学部」中心の教育だった

千本日本はまだ学部中心の教育だったんです、大学院というのは付け足しでね。アメリカの場合には、大学院がもうその頃メインで、学部というのはその準備過程。だから大学院教育が高等教育の中心に移っていた。ところが日本の、京都大学、東大を見ていてもまだ学部で、大学院のほうは付け足しで先生が教える。そういうのを見ていて、これは大学院行くとしたら日本ではないなと、アメリカにいずれ行けなければいけないなと。そういうこともあって、当時まだ貧乏な学生でしたから、ともかく一遍(いっぺん)就職してみようと。で、世の中をちゃんと一応は見て、それから大学院に行くのがいいのではなかと。

蟹瀬電電公社という会社を選ばれた。もっとそういうメーカーへ行くのかなと思ったらそうでもない?