高齢者への「感謝」と「創新」で壁を乗り越え、品質を守り続け本当の笑顔へ

蟹瀬賢者の選択リーダーズ。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

ドーキンズドーキンズ英里奈です。
 
蟹瀬今回のテーマは、コアコンピタンス。コアコンピタンスというのは、ビジネスの中でも同業他社がいくら頑張ってもなかなか追いつけないような独自の能力とか、あるいはその技術、これを核にしているビジネスのことを言うのですけども、日本の場合は精密機械なんかが多いかもしれませんね。

ドーキンズこの番組にゲストでいらっしゃった方の中にもそういう独自の能力やノウハウを使って、その会社の価値を上げているという方もたくさんいらっしゃいますよね。

蟹瀬そうでしたね。ただ、このコアコンピタンスを考えるときには、これをさらに向上させていくような資金の投下の仕方だとか、あるいは人材の育成、こういうのがとても大事になっていくのです。それをやっていかないといつの間にか同業他社に追い抜かれてしまうというようなこともあります。そこで今回は、このコアコンピタンスを活かして、21世紀の日本が抱える大きなテーマに臨む、ある高齢者のお食事サービス専門会社の取り組みに迫ります。

ドーキンズ本日のゲスト、株式会社ナリコマエンタープライズ、代表取締役社長、竹内美夫さんです。よろしくお願い致します。

竹内どうもこんにちは。

蟹瀬どうも。よろしくお願い致します。

ドーキンズまず始めに、お伺いしたいのですが、ナリコマエンタープライズが掲げられている理念を教えて下さい。

竹内お食事を通して、高齢者の皆様方に、生きる喜びを感じてもらいたいというところでございます。

蟹瀬私も他人事じゃない。もう67歳ですからね。今日はじっくりお話、お伺いしたいと思いますので、よろしくお願い致します。

竹内よろしくお願いします。

ドーキンズよろしくお願いします。

父の背中

ドーキンズさて、冒頭のVTRでもご紹介しましたが、ナリコマエンタープライズの前は大衆食堂ということで、どんな食堂だったのですか?

竹内そうですね、うちの親父がね、戦後、裸一貫で帰ってきて、食べるにこと欠いて、大阪に出てなんとか食い扶持を稼ごうということで始めました。よそ様の軒先を借りて、うどん屋さんを始めたのですよね。その頃の大阪って、戦後間も無い時期だったので、まだ焼け野原がけっこう多くて、どの方も貧しくて、食べるに、本当にこと欠くような毎日だったと聞いています。

蟹瀬そして、60年代ですか? 給食事業というところに進出された。これはどういった経緯からですか?

竹内ちょうど戦後の復興期だったのでしょうね。工場と言いますか、町工場の職人さんの食事に、お弁当を持ってきてくれないかと、それにお答えするような形でお弁当をお届けしていたようですね。とりあえず貧しかったので、仕事があれば何でもしますというところじゃなかったのですかね。

石炭からストローまで。ニッチのプロがシナジーをつくる100年企業の戦略

蟹瀬 賢者の選択リーダーズ。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

ドーキンズ ドーキンズ英里奈です。

蟹瀬今回のテーマは事業ポートフォリオ。事業ポートフォリオというのは、企業でいろんな多角的経営する場合に限られた経営資源、これをどういうふうに配合するのかという戦略になってくるのですよね。だから経営者にとっては、とても重要な選択。

ドーキンズ今までいらっしゃったゲストの方の中にも、本業とは違った分野でも「成長しそうだなと思ったら、進出する事は大切だ」とおっしゃっていた方もたくさんいらっしゃいますよね。

蟹瀬そうですね。特に資源関係の企業の場合、資源の価格っていうのは非常に変動が激しい。それからもう一つ、輸入をする場合には、為替変動を考えなければいけないのでしょうね。というわけで、長期的な視点、戦略というものが求められてくるのです。そこで今回は、資源ビジネスを中心に多角的に事業展開をする、ある企業の戦略に迫ります。

ドーキンズ本日のゲスト、三井松島産業株式会社、代表取締役社長、天野常雄さんです。よろしくお願い致します。

天野こんにちは。本日は、よろしくお願い致します。

ドーキンズまず初めにお伺いしたいのですが、三井松島産業が掲げられている理念を教えてください。

天野非常にシンプルなのですけれども、「人と社会の役に立つ」を経営の基本理念に掲げています。

蟹瀬これは、いつの時代も本当に必要な考え方ですよね?

天野そうですね。

蟹瀬いろいろなお話をお伺いできるのを楽しみにしています。よろしくお願い致します。

石炭と共に

ドーキンズさて、冒頭のVTRでもご紹介しましたが、三井松島産業は1913年に創業されて100年が経ちました。どのように歩んでこられたのでしょうか?

天野はい。長崎県の松島、大島、池島、というところです。創業以来一貫して炭鉱経営を続けて参りました。その後、現在も、海外において炭鉱の探査、開発、創業、これを行なっておりまして。産出された石炭を、日本の事業家の皆様に安定してお届けしております。

蟹瀬よく子供の頃は、暖房って言うと、やっぱり石炭だったし、いろんな形、豆炭とかね、身近なところに石炭ってあったの。ドーキンズさんの場合はもうちょっと違うかな?

ドーキンズそうですね。テレビの中で、SLのシーンで登場するっていうイメージはあります。

天野あの、今の若い方は、石炭の実物を見られたことがないのではないかと思いまして、今日は、石炭のサンプルをお持ちしております。

蟹瀬私も最近見てないですよ。

ドーキンズわー!こちらですか?

天野はい。こちらなのですけれど、3つあって、みんな同じように見えますけれども、こちらは結構古くて、古生代の二畳紀、2億5千万年から3億年前の地層から採掘された石炭です。こちらの2つは、結構若くて、新生代の第三紀ですから、5千万年から6千5百万年前の地層から採掘された石炭です。

蟹瀬今でも石炭は、採掘されているのですか?

天野世界的に、だいたい年間に80億トンくらいの石炭が生産され、消費されているのですけれども、日本では、残念ながらすべて輸入の石炭に頼っているというふうに考えていただいていいかと思います。

蟹瀬ただ、今でも石炭は重要なエネルギー源ですよね? 日本にとっては。

天野そうですね、はい。

蟹瀬どんなところに主に利用されていると考えればよいですか?

天野そうですね。石炭を用途別に分類しますと、大きく分けて3つになるのですけども、原料炭、一般炭、無煙炭という形になります。原料炭というのは、呼んで名のごとし、製鉄用の原料となる石炭です。一般炭。これは、火力発電所や大きな工場の自家発電署のボイラー。こういったものの燃料になる。最後は無煙炭というものがあるのですけれども、これは先程お話に出ました練炭、豆炭になるものなのですが、ざっといえば、原料炭と一般炭というふうに分けていただいていいかと思うのですが、石炭は、世界的にまんべんなく賦存しておりますので、いわゆる地政学上のリスクも小さいですし、比較的安価なエネルギー源ですので、日本においても、一次エネルギーの4分の1、25%を賄う主要なエネルギー源ともなっています。

蟹瀬掘れる量というか、何年分くらいあるのですか?

天野技術が進めば進むほど、深いところであるとか、そういったところも掘れるようになりますので、ふんだんにあるというふうにお考えいただいたら良いかと思いますね。

蟹瀬では古いエネルギー源じゃないということですね?

天野そうですね。まだまだ新しいというふうには思っていただいてもいいかと思いますね。

分かり易い言葉で仲間と事業創造。人生も仕事も「出会いは最大のレバレッジ」

宮川賢者の選択リーダーズ。ナビゲーターの宮川俊二です。

福井福井仁美です。

宮川今日のテーマはエンターテインメントです。人を楽しませるとか娯楽とかというものになりますね。私の小さい頃は娯楽の王様というと映画だったんですけども。テレビの時代そして今様々な分野に広がっているようですね。

福井映画で言いますと3Dから今は体験型、香りがしたりとか動いたりとかそういう時代がやってきましたし、インターネットもかなり当たり前の時代ですから。世界中の方々とゲームで一緒に対戦したりという本当に時代は進化していますよね。

宮川そういったテクノロジーの進歩によってこのエンターテインメントの世界、まだまだ無限の世界が広がっていると言ってもいいと思います。テレビもですね、可能性は十分あると頑張らなきゃいけないわけですけれど。

新しいエンターテインメントの形を創造し映像配信で新サービスに取り組む企業戦略とは?

宮川そこで今回はですね、新しいエンターテインメントの形を創造し映像配信で新たなサービスに取り組むある企業の戦略に迫ります。

株式会社NTTぷらら 板東が目指す総合ライフエンターテインメント企業とは?

福井本日のゲスト、株式会社NTTぷらら代表取締役社長板東浩二さんです。どうぞよろしくお願いいたします。

宮川よろしくお願いします。

板東お願いします。

福井まず初めにお伺いしますがNTTぷららはどのような理念を掲げられていらっしゃるんでしょうか。

板東弊社の企業理念は「お客様中心主義」ということでございます。

お客様中心主義

板東常にお客様の意見要望を吸い上げて満足度の高いサービスを提供するということです。

宮川それをじっくり伺っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

福井よろしくお願いします。

板東よろしくお願いいたします。

翼の再生を納得する「フィロソフィ」の中身とは? 元操縦士の挑戦と行き先

蟹瀬賢者の選択Leaders、ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

白石白石みきです。今回は日本の空の玄関の1つ、東京羽田空港の近くの天王洲アイルからお送りしております。

蟹瀬羽田空港と言いますとね、国際便がものすごく増えて、白石さんもよく使うでしょう。

白石そうですね。よく使わせていただきますが、国際線というと、韓国や中国、台湾など比較的近い海外へ行くイメージが今まであったのですけれども、最近ではアメリカやヨーロッパへ直行で行ける便が増えてきて、大変便利ですよね。

蟹瀬実際に国際便の羽田での離発着の回数は、年間6万回だったのですが、今はその1.5倍の9万回と、すごい数ですよね。

白石増えましたよね。世界を回るビジネスマンにとっては、とても便利になったといえますよね。

蟹瀬乗るわれわれにすると、とても便利なんですけれども、航空会社、航空業界のことを見れば大変競争が激しくなっているということが言えると思うんですね。

白石最近ではLCCなど格安航空会社など参入してきていますからね。

蟹瀬そういう激しい競争の中、しかも2010年の経営破綻を乗り越えてですね、今元気に頑張っている、日本の航空会社があるんですね。今回はそちらに注目いたします。

白石それではゲストの方をご紹介させていただきます。日本航空株式会社、代表取締役社長の植木義晴さんです。よろしくお願いいたします。

植木よろしくお願いします。

蟹瀬よろしくお願いします。JALといえば、もう4年半前ですかね、経営破綻という大変な苦しいところを抜けて、今どうなんでしょう、見事に復活されたと申し上げていいのでしょうか。

植木そうですね。おかげさまで業績面ではかなり回復をすることができたというふうには思っています。

蟹瀬どのあたりが変わったのですか。

植木一言で申し上げれば、血の通った会社になった。経営破綻以前と今日のJALとでは、全く違う会社になったというふうに感じています。

白石ということで、番組では3つのキーワードで進行させていただきますが、まず最初のキーワードは何でしょうか。

植木「JALフィロソフィ」です。

蟹瀬哲学。

植木義晴は1952年京都府に生まれる。1975年航空大学校を卒業。同年日本航空株式会社に入社、パイロットとして35年間乗務する。グループ会社のジェイエア副社長を経て、日本航空の経営破綻後に執行役員、運航本部長に就任。その後、専務執行役員、路線統括本部長を経て、2012年代表取締役社長に就任、現在に至る。

白石早速なのですが、植木社長のお父様は、昭和の映画スター、片岡千恵蔵さんということで、大変有名な方でございますけれども。

蟹瀬大スーパースターですよ。

白石そうですよね。お父様と同じ俳優業ではなくて、パイロットの道を選択されたのは、どういうところからなんですか。

織田信長家臣から始まる400年企業の、「従業員」と歩んだ変革の歴史とは

白石賢者の選択リーダーズ・ナビゲーターの白石みきです。

中谷初めまして、こんにちは中谷彰宏です。

白石今回のテーマは変革と成長です。やはり企業は成長していくにあたってどのように変革してどのように成長していくかということがとても大事な鍵となっていますよね。

中谷まあ企業というのは現状維持では生き残れない。かと言って変化の勝負に出なければいけないんだけれどもそれが当たりかハズレかで生き残れるか生き残れないか別れてくるという。

白石そうですよね。やはりインターネットなどITが当たり前のことに。

中谷まあ一昔前に比べたらはるかに時代の変化が早く、さらにその前これから時代はどうなっていくのかを経営者で見抜いていかないといけない。

白石常に先を見てどう変化していくかが大事ですよね。

「変革と成長」を繰り返し400年以上継続するある長寿企業の戦略とは?

白石はい。ということで今回は常に次世代を見据えて変革と成長を繰り返して400年以上継続し続けてきたある会社の戦略に迫ります。

綿半ホールディングス株式会社〜綿半が唱える変革の精神とは?

白石本日のゲスト、綿半ホールディングス株式会社代表取締役社長野原勇さんです。よろしくお願いいたします。

野原こちらこそよろしくお願いいたします。

白石早速なんですが綿半ホールディングスどのような理念を掲げているんですか?

野原弊社はですね、信頼に対して貢献をもって応えるということを理念として掲げております。

雇用の「三方よし」がある社会へ!「とらわれず」進める手法は「社内国会」

蟹瀬ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

白石白石みきです。

蟹瀬働くっていうことは私たちにとってはね、こう日常的な当たり前のことなんですけども、まあ今回の東日本大震災が起きて働くっていかに大変か仕事を見つけるってことがいかに大変なことかっていうのを実感しています。
特にそれだけじゃなくて今不況がずっと続いてますよね。そうすると白石さんのように若い人たちがなかなか仕事を見つけられない。深刻な状況ありますよね。
まあそうした中でこれからどういう風に日本の雇用を変えていけばいいのかあるいはどういうのが適正なのかそういうことをですね、あらためて今じっくりと考えてみるときじゃないかという気がするんですね。というわけで今回は雇用人材派遣という観点から起業した会社に焦点を当てましてベンチャービジネスが変革する雇用働き方、そしてそのベンチャースピリットこれを見ていきたいと思います。

白石はい、それではさっそくゲストの方をお招きいたしましょう。株式会社パソナグループ代表取締役グループ代表の南部靖之さんです。よろしくお願いします。

南部よろしくお願いします。

白石はい、よろしくお願いします。あのこの番組では企業の変革を象徴する3つのキーワードで進行させていただきます。南部代表最初の変革そのキーワードは何でしょうか?

社会の問題点を解決する

南部「社会の問題点を解決する」。

蟹瀬さあ、どういう解決方法があるのかね、伺ってまいりましょう。さて南部さんは大学生の時に起業されてますよね。これなんかきっかけっていうか思いっていうのはあったんですか?

南部これはね、ちょうど就職活動なかなか決まらないんですよね。もうどうしようかなと思ってね。それで50社、100社と回ってもういいかと思っていたらね、僕の親父がね、「就職どうだった」と。「ダメダメ」っていったらね、何か感じたことはあるかって、思ったことはあるかと聞くもんだから。「いろいろあるよ」って。それで「それはなんだ」って言われたものだから、僕は僕以上に女子大生が大変だと。その女子大生以上に会社に入った女性たちもみんな、なかなか大変だけれども、辞めた後がもっと家庭の主婦の再就職が難しいとこういう話をしたんですよね。そしたら親父がねそれ自分で何かこう解決してみたらどうだと。僕は「えーっ!」と思った。冗談でしょと。
では「NPOでやるから」と思ったら、親父が「NPOはダメだ」と。「どうしたら?」っていったらね、いや、「すごくいいんだけども、こんないいことをやりますからお金ください、もしは支援してくださいっていえばその範囲でしかできないぞ。だから会社を起こして自分で得たその会社、資金を持ってやりたいことやれ」と。こういうことで、学生の時に会社起こすことを決めたんですよね。

蟹瀬じゃあそのお父さんの一言というのは一番大きな要素だったわけですね。

南部大きいですよ、ものすごく大きい。

蟹瀬その当時のことがやっぱり今の仕事の基盤になってると。

南部そうですね、僕の親父が言うには、「会社というのは利益と社会貢献とこう両輪あいまって車は前に進むんだ」と。だからまず関西、僕の親父も大阪・神戸で関西人だから。「三方良しというのを知っとるか」、というわけ。

「三方良し」を知っているか

南部3方って、何だろうなと思ったらね。

「売り手良し」「買い手良し」「社会(世間)良し」

南部一方は売り手良し、と。そのまた一方は、買い手よしと。もう一方は、まあいわゆる社会よしと。それでみんながWin-Winというか、こういう状態であるべきだ、そいうことを頭に入れとけということでした。それで僕は事業を起こそうと、こう決意したんですよね。

蟹瀬そこから、その派遣というコンセプトも出てきたわけですよね。

南部就職活動しながら、人事のいろんな方々に聞いてみたんですよ。なぜ雇わないんですかと。今忙しいから、暇になったら会ってあげようというわけです。ゆくゆく聞くと企業には忙しい時期と暇な時があると、にもかかわらず、ずっと一人の人を正社員で雇わなければならない。学生の自分から見れば忙しい時期だけ雇えばいいのになと。

蟹瀬一番合理的ですね。

南部そう、合理的ですよね。そこからこの仕組みを考えたんですよね。

蟹瀬今年は東日本大震災が起きました。南部さんは阪神大震災もご経験なさって、一つの仕事においての、あるいはご自身の感覚においての、改革のきっかけになったという風に伺ったんですけども、そのあたりちょっと教えていただけますか?

南部改革って言ったら16年前になりますけどもね。僕はやっぱり世の中というのはほんとにあの頃ってリストラ、リストラで。
大会社がリストラすると、銀行がお金を貸そうと。リストラするとエクセントカンパニーだと、こういう風に言っていたわけですよね。でも僕は逆に、阪神大震災の場合は雇用しなければならない、ということからですね。

労働集約型ビジネス

南部労働集約型ビジネス、これをどうすればいいだろう、どういうものが雇用をいっぱい生むかと、雇用することに挑戦したんです。地震の後に西武デパートさんが神戸から撤退をしたものですから、そのあと僕は引き受けてデパートを作ったり、それからちょうど神戸と大阪を結んでた定期船があったんですよ。レストラン船。

神戸コンチェルト

南部これを譲り受けて、神戸の湾をずっとクルージングしながら食事をするという。そこで雇用をもっと生もうと。それから1坪ショップとかね、何かワゴンで売ってもいいから、そこで雇用を生むとかね、そういう形で雇用創造に挑戦してましたね。
雇用の仕組みをいろいろ考えてみたけれども、やっぱり法律ってものがある。我々は神戸で斡旋という許可なかったから。だからやっぱり労働省の方からそういうことしちゃいけない、と。無料でもダメなんですかとやりとりして。みんな困っているのにって、いやダメだとか・・・。その中で自分でできるデパートを作って雇用しようとかね、苦肉の策ですよね。

蟹瀬今回の東日本大震災の場合は、そうするとどういう形で就業支援というんでしょうか、そういう形がでできたんですか?

南部最初の頃は、ワークレスキュー隊といいました。それからボランティア隊を組んで、我々の者が現地に行って、現地だけではなく日本中の仕事のお世話を紹介をする、ほかにも悩みの相談ですよね。子供がいる、あるいはご両親が年を取った方々を抱えている、あるいは兼業で農業をやりながら、など。
それをずっと1対1で聞きながら仕事に就いてもらうことを考えていたんですよね。今はもう長期戦ですからね、それ以外のいろんなことを考えています。たとえばね飛び地政策とか。

社員との関係がお客様との関係を作る。エステ業界に新風を起こす女社長の手法

津島今回の賢者の選択は、女性の夢である美しさを叶えてくれる、株式会社シェイプアップハウスの下村朱美社長です。

蟹瀬下村さんといえば、ご自身で本当に会社を小さいところから立ち上げられて、現在に至ってらっしゃるわけですけれども、ズバリ成功の秘訣っていうのはどのあたりだと思われますか?

大好きな社員たちと働けること

下村大好きな社員たちと働けることです。

蟹瀬やっぱりそれが一番重要な要素?

下村それが一番ですね。会社に行っても、サロンに行っても、好きな社員たちがいれば、それだけでうれしいですから。そういった気持ちっていうのが、お客様を優しく温かくお出迎えできる、そういうふうなものにつながってきているのではないかと思います。

蟹瀬ただ、実際のところは相当苦労されたようですよ。

津島そうなんですね。

蟹瀬そのへんじっくり伺ってまいりたいと思いますけども。

津島はい。そんな下村さんが、いかにして成功を収めたのか、その秘密に迫ります。

東京、大阪、名古屋に本社をかまえる、株式会社シェイプアップハウス。五感を満たすおもてなしを掲げ、技術面だけではなく、思いやりや気配りといった、客の体と心が喜ぶ全てのことを形にしている。そのため、接客を行うエステティシャンには、華道や茶道から受け継がれるおもてなしの精神を養わせるなど、人材の育成には特に力を注いでいる。

下村エステティックというのは美学ですから、美しいことを感じる心がないといけませんので、オペラを見たりとか、バレエを見たりとか、そして生け花をしたりとか、お茶を習ったり、いろんなこと、文化的なことにたくさん触れて、いらっしゃるお客様たちが少しでも豊かな気持ちというのになれるように、そんなエステティシャンをつくろうとしています。

その結果、人気ナンバーワンのエステティックサロンに選ばれるなど、高い支持を受けている。現在、女性のエステティックサロンを54店舗、メンズエステを63店舗、その他にも、心と体が喜ぶリラクゼーションを提供するシェイプアップハウス。連続売上高は128億円に上る。

津島休日はガーデニングに精を出し、自宅だけではなく、会社の生け花やガーデンも手掛けていらっしゃるという下村さん。そんな下村さんが、これまでにどのような人生を歩んでこられたのか、年表にまとめましたのでこちらをご覧ください。1957年、鹿児島県種子島に生まれます。1972年、種子島高校入学。1975年、池坊短期大学家政科入学。1979年3月、池坊中央研修学院教養科A修了。4月、カリフォルニア州立大学ヘイワード校語学留学、ということです。

蟹瀬お生まれが種子島ということですけれども、種子島っていうと私、記者の頃にロケットを打ち上げるたびに取材に伺っていた場所なのですが、お仕事はどういうことをご家庭はなさっていたのですか?ご実家のほうは。

下村父は、製糖工場に勤めておりまして、母は家を守っておりました。

蟹瀬ということは、サトウキビとか、そういう?あちらですと。

下村そういうふうな、サトウキビとかサツマイモを向こうはつくっておりますので、そういった工場がありまして、そこに勤めておりました。

蟹瀬じゃあ、サラリーマンのご家庭ということでいいわけですか?

下村そうです。

蟹瀬ご兄弟は?

下村一人っ子です。

蟹瀬じゃあ、お父さんもお母さんも、もう可愛くて可愛くて仕方がないという。

下村随分、大切に育ててもらったと思っています(笑)。

蟹瀬 津島(笑)。

下村田舎ですから、やっぱり家にはおじいちゃんがいたりおばあちゃんがいたりというのが当たり前だったのですよね。祖父のほうは田舎の旦那さんでして、とっても物知りな人で、いつも焼酎を飲んで、読書をしてっていう毎日だったのですけど、何でも分からないことはおじいちゃんに聞けばいいのだっていうので。

蟹瀬例えばどういうことを教えてもらったのですか?子どもの頃。

下村例えば、学校で話題になって、子どもはどこから生まれるのだとか。

蟹瀬おっと!

下村大丈夫、私がおじいちゃんに聞いてくるって(笑)そんなことまで聞いていました。それで、京都とか奈良に行った話をよくしてくれまして、私はその当時から京都に憧れるようになっていました。

蟹瀬なるほど。絶対京都に行きたいなっていう気持ちは、もう子どもの頃からあったのですか?

下村ええ、小さい頃から。

蟹瀬実際には、とても活発なお子さんだったのですか?

下村そうですね。なんか、変に正義感がありまして、小学校の頃も、女の子が男の子にいじめられると「私が行く!」とか言って、本当にけんかしに行くんですよね。

蟹瀬あら。

下村あとは、中高とかずっとテニスをしておりまして、高校はテニス部のキャプテンとかもやっていたり。それから、応援団長も高校のときはやっていました、恥ずかしい(笑)。

津島珍しいですね!

下村恥ずかしいのですけど。

蟹瀬応援団長って、こういう?

津島振り付きのですね(笑)。

下村そう。笛を吹いて、1、2、3とか言ってやっておりました。

蟹瀬意外ですね。

下村体育会系ですよね、全くの。

蟹瀬学校自体は、進学校ですよね?

下村そうですね。

蟹瀬種子島でも有名な学校だと思うのですけど。

知財分野で世界を視野!「ビジネスとクリエーション」の両輪で日本再生へ

蟹瀬賢者の選択リーダーズ、ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

福井福井仁美です

蟹瀬今回は知的財産権というのがテーマなんですね。

今回のテーマ 知的財産権

蟹瀬私たちが生み出したこの素晴らしいアイデアや商品。これらをどうやって守っていくのか、ということなんですね。まあ例えば具体的な例で言うとね、特許それから著作物なんかもありますよね。
こういうものをきちんと守りながらビジネスを反映させていこうという考え方なんですね。

福井例えばどういうことかと言いますと、実際にこうインターネットで何かをダウンロードする時、同意を求められたりだったりとか、これが有償か無償か選んだりしますよね。そう言ったことなので、実際に生活にかなり身近に接している権利ですね。

蟹瀬そうですね。それとともに、このビジネスの世界においても、非常に重要な仕事をしているのがこの権利なんですね。というのは、例えば交渉していく中で二つの会社が何かひとつのものを作ろうという時に、お互いどういう風に分け合うのかなど。元々独創的に作った商品をどういう風に守っていくのか。

これまでにない発想で知的財産権ビジネスを展開するある企業の戦略とは?

蟹瀬というわけで、今回はエンタテインメント業界おいて、これまでにない発想で知的財産権ビジネスを展開する、ある企業の戦略に迫ります。

福井本日のゲスト、株式会社ディー・エル・イー代表取締役CEO&founder椎木隆太さんです。どうぞよろしくお願いいたします。

椎木よろしくお願いします。

蟹瀬まずはじめにお伺いしたいのですが、ディー・エル・イーを一言で言うとどのような会社なのでしょうか?

知的財産権を駆使して、様々なジャンルにアイデアを仕掛けるプロデューサー集団

椎木私たちは、知的財産権を駆使して、いろんなジャンルに仕掛けるプロデューサー集団でございます。

蟹瀬まあ今の一言だと具体的なものがなかなか見えない感じがするんですけど、これからじっくりお話しが参りたいと思います。よろしくお願いいたします。

椎木よろしくお願いします。

紙芝居

福井さて、この番組ではディー・エル・イーの今を象徴するものをお持ちいただき、進行させていただきます。今回お持ちいただいたのはこちらですよね?

秘密結社鷹の爪

椎木はい。秘密結社鷹の爪のフィギュアです。

福井私、実は好きなキャラクターなんですけれども、蟹瀬さんはご存知でしたか?

秘密結社鷹の爪

蟹瀬映画の本編が始まる前に出てくるような気がするんですよね。

椎木そうですね。おっしゃる通りです。映画館でいろんなものを紹介するキャラクターとして、もう10年ほど活躍させていただいてます。

秘密結社鷹の爪 世界征服をたくらむが、何をやっても失敗ばかりの鷹の爪団と、正義とは名ばかりの乱暴者のヒーロー・デラックスファイターとのやりとりを描いた、世界征服コメディ

蟹瀬でもこれ動いてるのは、何かアニメーションのようでもあるけど…。紙芝居みたいにコマごとしてるかな、そんなイメージなんですが、ジャンルとしてはどこになるんですか?

椎木これはフラッシュアニメーションというジャンルですね。

パソコンなどで使うソフトウェアで作成された簡易アニメーション–秘密結社鷹の爪

椎木最近、インターネット時代に合わせた、手軽に個人レベルでも作れるようなアニメーションの制作手法が生み出されまして。その技法を用いて、我々は紙芝居型のところで差別化を図っているという感じです。

知的財産権ビジネス

蟹瀬これが御社を象徴するというのはどういうことになってますかね?

椎木はい、我々はIT知的財産物を生み出して、それをテレビや映画館で見せることによって、だんだん認知と人気を高めています。それによって、他の企業が、それだったら我が社の商品の宣伝に使いたいようというようなことでお金を頂いたりもしていますね。

蟹瀬利益が入ってくるということですね?

椎木はい。ですのでキャラクターの吉田くんとかは毒舌なんですよ。思ったこと全部言っちゃうんですけど。なので、企業が「この新商品出した、お前ら買え!」見たいな、なかなかその企業が言えないことを言うんです。言えないじゃないですか。買えって。
そういう企業の方にとってもありがたい、そして消費者にとっても笑ってくれて、その性格付けをしっかりすることで、キャラクターがいろんなものを「代弁できる」ということで活用いただいているのが現状です。

スピード革命と模倣の心配

福井真似できてしまいそうな感じも正直あるんですけども、その辺りはどうなんでしょうか?

椎木そうですね。おっしゃる通り真似できるんじゃないか。ある意味、腕のいい人なら「俺ならもっと簡単に作るよ」という人たちもいっぱいいます。なので参入してから一年後とか、下手すれば半年後とかにあるかもしれないと思ってたんですけれども、やはりその今までと違うのはスピード革命が起きたことですね。
今まで1ヶ月ぐらいかかっているものを三日でできるようになったり、1000万かかってものを80万でできるようになったり。非常に大きな格差がありました。

声優を起用せず作者が全ての声を担当

コスト削減 スピードアップ 独自のビジネスモデル

椎木大手からすると、そこにうちも参入できるよ、と参入したら、彼らが守っていた「価格体系」がガラガラと崩れてしまうんです。

蟹瀬なるほど。

椎木我々はそのテレビ局さんとか映画館とかに信頼を獲得してビジネスをやってるので個人も寄ってこれない大手は来ないというとこで、ずっとなぜかまだ10何年間ブルーオーシャンが続いているというのが現状です。

ブルーオーシャン=競争のない未開拓市場–独自のビジネスモデル

蟹瀬通常こういう世界って本当にレッドオーシャンで、もう競争相手がいっぱいいて、お互いに食い合うという世界ですよね。だけどこのキャラクターの特性というのは、本当に上手く出さないと成功しない話ですよね?

椎木そうですね。

蟹瀬その辺のクリエイティブというのはもう要になってくるんですか?

キャラクターの特性

椎木プロデューサーが、ビジネスのお題をクリエイターに提供する。そして、クリエイターが世の中をあっと言わせたり、感動させるようなものを、コンビネーションで生み出していく。そうでない限り、いろんなことが突破できないですね。

生活の代弁者として提案するアイリスオーヤマのアイデアの源泉とは

津島今回の賢者の選択は、19歳の時、父親の経営していたプラスチック成型の工業所代表となり、その後、園芸用品やペット用品などで規模を拡大していきました、アイリスオーヤマ・大山健太郎(おおやまけんたろう)社長です。

蟹瀬アイリスオーヤマは、ガーデン、ペット、そして収納用品など、総アイテム数、およそ1万3,000点の生活用品を提案なさっています。社長に冒頭ですけどもズバリお伺いしたいのは、ビジネスをいろいろやっていく上で成功と失敗、繰り返しがあると思うのですが、成功の秘訣というのはなんですか?

ユーザーイン発想

大山そうですね。常にユーザーイン発想、生活者の目線で商品開発なり、あるいはサービスの提供ということが一番大事だと思います。

蟹瀬なるほど。

宮城県仙台市に本社がある、アイリスオーヤマ。会社は1971年に大阪で設立された。現在社長の大山健太郎が父親の経営していたプラスチック成型の事業所を継承、現在はガーデン用品、ペット用品、収納用品など、およそ1万3,000点の生活用品を製造し、ホームセンターに卸している。生活者の視点に立った商品開発で、多くのオンリーワン商品を提案、アメリカや中国にも展開しているグローバル企業である。グループ売上高はおよそ1,610億円。

津島グローバル企業として成功されている大山さん。大山さんの選択と決断に満ちた人生を年表にまとめました。ご覧ください。1945年、大阪府布施市に生まれます。1958年、父、森佑(もりすけ)氏が大山ブロー工業所を創業。そして1964年、大阪府立布施高等学校卒業ということです。

家庭環境

蟹瀬大山さんは8人兄弟ということを伺っておりますけども、ご兄弟8人いると、これは大変だったでしょうね? ご長男だったのですか?

大山上に姉がおりましたけど、ですから2番目で長男ということで、大体二つ違いずつで、兄弟がおりましたので、まさに兄弟をお互いが面倒見合うことで、家族が成り立っておったと、そんなような家庭だったですね。

蟹瀬そしてお父さまですけども、中学生のときに会社を立ち上げられたと?

大山そうですね。父親はそれまでいろんな事業をしていたのですけど、その当時プラスチックというのは新資材でありましたので、大阪はプラスチックというか軽工業の街でごさいますし、家電メーカーとか機械メーカーがたくさんおられましたので、そういうことで、そのプラスチックの下請け工場やらないかというところから、自宅の裏にあったのですが、そこを壊しまして工場を建てたというとこからのスタートでございますね。

蟹瀬じゃあ子供の頃はそこが遊び場だったわけですか?

大山そうなんです。ですから逆に言うと遊び場がなくなったのですけど、逆に工場がまたある意味での遊び場っていうよりか、家族経営ですからね、休みの日だとか忙しいときには借り出されてお手伝いをするというような環境でしたね。

蟹瀬でも、今振り返るとどうなのでしょうかね? アイリスオーヤマで作っていらっしゃるいろんな製品、プラスチックのものもありますよね? 子供の頃に、やっぱりそういうプラスチックっていうものが、いろんな形に変わっていく、それをご覧になっていたっていうのは、やっぱり今につながっているような気もしますね。

大山そうですね。そういう点では非常に父親はいい業種を創業いただいたと、このように思っていますし、逆に鉄工所であれば多分こんな会社になってなかっただろうと(笑)このように思いますね。

高校時代は映画研究部

蟹瀬なんか高校時代は、ものすごく熱中したものがあるというふうに伺っていますけど。

大山そうですね。映画にはまってしまいまして、本当に毎月のように見ていたのですが、ピークになると月に50本近く。で、これは映画の研究部っていう、学校にクラブがありましてね、そこの代表をさせていただいたおかげで、いろんな映画を見ては書評を書いて、それを東大阪の高等学校等に配信していましたので、一種の職業みたいな感じですね。

蟹瀬本格的だったのですね。

大山そうですね。ですからおかげさまでその当時どこの映画館でも、私の所属することを話せばただで(笑)だだで(笑)。

蟹瀬(笑)そうですか?

大山それだけでは……。

津島いいですね。

蟹瀬今、さらりとおっしゃったけど、月に50本って、一月って30日しかないわけですよね?

大山そうなんです。

蟹瀬1日に1本以上?

大山それは一番ピークのときですから、大体20本近く、日に2、3本立ての時代がありましたしね。

蟹瀬そうすると、やっぱり自分が映画監督になってみたいとか、映画関連の仕事に就きたいとか、そういう思いはなかったのですか?

大山事業っていうよりも憧れですね。やっぱり映画っていうのは総合芸術ですからね。演劇があり音楽があり、あるいは写真がありということで、若い者にとってみれば、そしてきれいな女優さんとも近付けるということで(笑)。

蟹瀬だけど進路の選択ということになったときに、どういう方面を目指されたのですか?

大山私は本来は理系が好きだったのですけど、いずれ社会に出て経済活動をしなきゃならないのだと思って、その当時経済学部と思っていたんですけど、心の中ではやっぱり映画監督になりたいなと、父親に相談すると「ばか!」(一同笑い)一喝されまして。

普通の男が大胆な決断! 人生のスイッチを捉えて上場企業の社長に

蟹瀬井上さんが経営されているネクストは、日本最大級の不動産情報ポータルサイトなんですね。不動産の情報を全国でインターネットを使って共有するという、不動産情報の革新をされたというわけなんですが、それを成功させた要因というのは、ご自身で考えられてどのあたりにあったというふうにお考えですか

井上私自身は至って普通の人間だと思ってますので、本当に一歩一歩確実に階段をのぼってきたという感じですね。たまたま少しスタートするのが早かったというのが成功のポイントかもしれませんけれども。

蟹瀬ということは、誰でもそうやって地道にやっていけば成功する可能性が高いということですね?

井上はい。この前、本も出したんですけれども、誰でも一歩一歩やれば必ずできるという内容の本になっています。

蟹瀬井上さんは先ほどから、僕はごく普通の若者だった、そしてごく普通にこつこつ努力してきてこうなったんですとお話されています。随分謙遜されているなという気がするんですけども。

井上いえ、謙遜じゃないです。

蟹瀬ご家庭はごく普通の家庭だったんですか?

家庭環境

井上どこにでもある普通の一般の家庭で、父親は、上場企業ではありましたけど普通のサラリーマンでしたし、郊外に一戸建てがあって親と3人の兄弟のどこにでもある一般的な家庭です。

蟹瀬いわゆる典型的な中流家庭、お父さんが例えば「おまえ、これしろあれしろ」っていろいろ言ったとかそういうことはなかったのでしょうか?

井上あまりなかったですね。言われた覚えはないです。

蟹瀬反抗期とかはなかったのですか?

井上不思議となかったですね。

蟹瀬割と従順に?

井上はい。結構目立たない子で、あまり前に出るようなタイプでもありませんでした。

蟹瀬習いごとは当然親としてはさせたいと思いますが、何かされていました?

井上していました。引っ込み思案だったので自信付けさせようということで、母親が少年野球のチームに入れたんですけど、これが嫌で嫌で。

蟹瀬リトルリーグですか?

井上いえ、普通の軟式の町の野球チームです。練習が嫌いで2回に1回は「お腹が痛い」とか「頭が痛い」と言ってずる休みしていました。情けないです(笑)。

蟹瀬何に興味があったんですか? 子どもの頃は。

井上何もなかったですね。でも父親に教えられた日曜大工とかは結構好きでやってましたから、将来大工さんになりたいとか、そんなことは子どものとき言っていました。

兄の影響

蟹瀬それから随分お兄さんから影響を受けたという話を聞いているんですが。

井上年子で1歳年上の兄だったのですごいライバル心があったんですけど、兄のほうが全く優秀な人間で、学級委員長やったりとかバンドを組んでドラマーやってたり、すごく活発で頭も良くて友達も多くて。彼を追い抜かすにはどうしようということは一時期考えてましたね。

蟹瀬だけど自分は割と引っ込み思案で、学級委員に立候補したりすることは得意じゃなかった?

井上いや、クラスの友達に「井上君が学級委員いいと思います」なんて言われようもんなら恐ろしいので、率先して飼育係とか図書係とか、そういうのに立候補してました。

蟹瀬だけどそういう優秀なお兄さんがいて、これをなんとか追い越したいという気持ちは強かったんですよね?

井上ありましたね。

蟹瀬具体的にはどういうことを考えられたのでしょうか。ターニングポイントというのはなかったんですか?