アメリカからロシア料理にも!?
「万能調味料」醤油で開く
「挑戦」の経営

蟹瀬ターニングポイント賢者の選択。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

石田アシスタントの石田紗英子です。

蟹瀬私は仕事柄世界各国ねまることがあるんですけどもそんな時にねこの日本製品があってよかったなと思うものがひとつあるんです。世界のいろんなところでいろんな料理を食べるんですがお醤油をかけた途端にね美味しくなる。醤油という伝統的な調味料がですね、グローバル、つまり世界にどうしてこんなに広がっているのか、ここのところ今日はですね是非じっくりと伺って参りたいと思っております。今回は日本の醤油をどのように世界の味へとして行ったのか、そのグローバル経営についてキッコーマンのあの方にお聞きします。

石田それでは今日のゲストです。キッコーマン株式会社代表取締役会長CEOの茂木友三郎さんです。

茂木ありがとうございます。

蟹瀬どうもはじめまして。今日はよろしくお願いいたします。茂木さんって言うとねビジネス界で知らない方いらっしゃらないかと思います。本当でしたら天下国家の話もね実は伺いたいとこなんですが、今日はやっぱり世界の味となった日本のキッコーマンの醤油の話をですね、じっくりとお伺いしたいと思うんですけれども、まずはプロフィールをお願いします。

石田はい、ご紹介いたします。キッコーマン株式会社代表取締役会長CEOの茂木友三郎さん。1935年千葉県でお生まれになりました。1958年に慶應義塾大学法学部を卒業後、キッコーマン株式会社に入社、入社後アメリカのコロンビア大学経営大学院に留学されて、1961年に経営学修士課程を卒業。主に海外事業部門を担当され1995年2月に代表取締役社長CEOに就任。2004年6月に代表取締役会長CEOに就任。になります。

蟹瀬この経歴拝見してますとね、1961年に既にアメリカでMBAを取られて、80年代なったらみんなMBAMBAってなったんですけども、61年でMBAってもう草分けですよね。

茂木コロンビアのMBAとしてはですね日本人で初めてなんですね。

蟹瀬そうなんですか。

茂木当時ね、ビジネススクールという言葉が日本で通じなかったんですよ。

蟹瀬そうですよね。

茂木私がねビジネススクールに留学するといったら、友達がタイプ習いに行くのか?と。

蟹瀬タイプライター。今、タイプというのも死語になりつつありますけどね。

茂木そういうことやろうとしたね。私は慶応大学2年の時にピータードラッカーさんのザ・プラクティス・オブ・マネジメントという本。あれがね現代の経営ということで日本語に訳されたんですね。その本を読みましてね。アメリカの経営学は素晴らしいなとということで感激しました。それでもう一つね、3年の時にノースカロライナ大学というのがありましてね。そこの教授で、今でも名前覚えているんですけど、ホワイトヒルさんっていう交換教授ですね慶応に見えたんですよ。それで1年間講義されたんですね。その時聞きましてね、ますますアメリカでビジネス勉強したいなという気になったんですね。

蟹瀬それまでビジネスっていうのは商売だったんですよ。学校で勉強するもんじゃなかったんですよね。

茂木それはやっぱりそういうひとつの科学って言いますか、ディスプリントして考えられるようになったってのも凄いことなんですよ。

蟹瀬まあ、なり始めですよね。

茂木日本ではね。

蟹瀬はじめっていう点ではですね、キッコーマンというお醤油もこれ明治からですか?もうすでにあの海外に進出されてる。

初めての輸出は明治元年

茂木明治元年ですね日本から初めての移民船がハワイに出て行ったそうですよ。その時に私どものキッコーマンブランドの醤油がね、かなり大量に樽詰めで船積みされたという記録があるんですね。

蟹瀬これだけは持って行きたいというのがあったんですかね。

茂木その後日本からの移民が増える、あるいは日本人が外国に住むと、それに従って私どものの醤油もだんだん輸出が増えていったということなのですが、輸出はするけれどもお客さんはやっぱり日系人、日本人だったんですね。

蟹瀬そうでしょうね。

茂木それが戦後変わったわけですよ。

蟹瀬なんでそんなに変わったんですかね。

アメリカ人 醤油と出会う

茂木それはね、戦後アメリカ人がたくさん日本にきましたね。これはビジネスマンもいましたし、ジャーナリストもいましたし、役人もいましたね。学校の先生もいた。日本の街の中に住んでしばらくして醤油の味を覚えたわけですよ。これをねその日本料理に醤油使うの当たり前なんですけどね、アメリカ料理に醤油使い始めたんですね。彼ら彼女らが。それで当時の先輩たちが見てまして、これならばねアメリカ人のなかにも潜在市場があるんじゃないかということを感じたんですね。それでアメリカでアメリカ人を対象に商売しようと、言う事になりまして。

蟹瀬だけどそれってすごく決断としてはリスクがある決断じゃなかったですか?

アメリカ進出の背景

茂木それはねあったんですけど、実はね、実はねその昭和30年頃になってですね、日本の国内で醤油の需要が伸び悩んできたんです。それはなぜかと言いますとね、途中に他の業界も同じですけどね、その原材料が不足するとか、あるいは労働力が不足すると、いうことでね、生産がガタ目に減ったんですね。昭和20年代はそれを回復する時期ですから、作れば売れたんです。ところが昭和30年ごろになると、有名な経済白書の言葉にもはや戦後は終わったという表現がありますよね。醤油業界も戦後終わりましてね、戦前の生産力に戻ったんですよ

蟹瀬なるほど。

茂木そうするとね、醤油というのは日常必需品ですから、そんなに増えないわけですね。人口の伸びぐらいしか増えない。ところが一方ね、日本経済どうだったといいますとね、高度経済成長期の前夜ですよ。日本が非常に明るい、みんな希望に燃えてたんですね。そんな中でね、私どもは主力商品の醤油、当時売上の8割は醤油です。その醤油の需要が伸び悩むというのはこれはもう一大事ですよね。

キッコーマン2つの戦略 ①多角化 ②国際化

茂木当時の経営者がいろいろ考えて、2つの戦略を考えたわけですね。1つはその醤油が売れなければ他のものを作って売ろうよと、もひとつは国内で醤油が売れなければ海外で売ろうよと、国際化戦略ですね。この2つですね。国際化戦略を展開するためにアメリカでマーケティングを始めたと。

蟹瀬実際にそのアメリカから来られた片が醤油の味を覚えて帰られたとかありますけど、商売としてマーケットとして考えた時に、これが行けるっていう判断はどの辺りがキーポイントなったんですかね?

SNSの可能性。mixiの未来展望から読み解くグローバル戦略の重要性とは

蟹瀬ターニングポイント、賢者の選択。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

石田アシスタントの石田紗英子です。

蟹瀬最近は、インターネットを使ってですね。いろんなビジネスが行われていますよね。

石田ええ。

蟹瀬まさに花盛りって感じですけども。その中で注目されているのが実はSNSというものなのですね。

石田はい。ソーシャルネットワーキングサービスのことですよね。

蟹瀬友達の友達は、友達という。人の輪が本当に広がっていく面白いシステムなのですが。実は、それがビジネスも生んでいるのですね。これからどういうビジネスが広がっていくのか。まだ見えないところがたくさんあるのだと思います。ですから、今回のゲストはこちらの方に来ていただきました。

石田株式会社ミクシィ。代表取締役社長の笠原健治さんです。

笠原こんにちは。

蟹瀬どうも。こんにちは。よろしくお願いします。今は、インターネット上いろんな情報が飛び交っていて、まだまだおもしろいのでしょう。

笠原そうですね。まだまだ面白い。

蟹瀬いろんな可能性がある?

笠原いろんな可能性。そうですね。その、特に最近ではSNSまわりというか。ソーシャルネットワークまわりにおいて、いろいろ新しいサービスが出てきたり、そことの連携が始まりつつあるっている感じですかね。

蟹瀬今日は、是非その辺のところを教えてもらいたいです。

石田よろしくお願いします。

石田では、まずは笠原さんのプロフィールをご紹介します。笠原さんは、1975年大阪生まれです。1994年大阪府立高等学校を卒業後、東京大学に入学。1997年求人情報サイトFind Job開設。1999年有限会社イー・マーキュリー設立。インターネットオークションサイトを立ち上げるなどして、2001年東京大学経済学部経営学科卒業。2004年にミクシィを開設されました。そして、笠原さんは随分、水泳がお得意だとお聞きしています。

笠原一応、中高と水泳部におりましたので。はい。

蟹瀬何を隠そう、僕も遠い昔に水泳部にいたことがあるのですけどもね。

石田そうですか。

蟹瀬今日は、水泳の話じゃありませんので。教えていただきたいのですけども。まず東大にいた時に既に会社を作られたですね。

笠原そうですね。

蟹瀬起業したと。これどういうきっかけでやられたのですか?

笠原大学3年生の時だったんですけど。経済学部の学生で、入ったゼミが経営戦略のゼミだったのですね。いろんな業界のケーススタディやる機会があったのですけども。中でも自分として興味が惹かれたのがIT産業というか。マイクロソフトとかアップルとか、インテルとかデルとか。そういう会社が非常にやっぱり魅力的に感じたのですね。

というのは、その19歳とか20歳とか自分と変わらない年代の人たちが立ち上げた会社なんだけれども、既に世界的な企業に成長していっていて。こうダイナミックな競争を繰り広げていて、さらにまだまだデカくなっていきそうだと。でも、元を正せば19歳、20歳の人たちが1人、2人で自宅の寮とかガレージで作った会社にすぎないと。そういうストーリーに惹かれるものがあって、自然とIT系の会社を調べる機会が増えていったのですね。新聞とか雑誌とか本とか読む機会が増えていったのです。

ある時、その新聞とか読んでいた時にどうも最近は、マイクロソフトとかアップルとかいう会社に交じってネット系の会社が世の中に出始めているのだなということに気付いたんですね。まあ、ちょうどアメリカで言うとアマゾンが会社を作って、上場をその年の初めに果たしていて、まだまだ大赤字なんだけれども市場では高い評価を受けて、高い株価を付けて、それを元に拡大投資を続けていっていますと。もしくは日本では、ヤフージャパンが始まって、ちょうど1年くらい経って、ようやくそのネット系の会社として日本でも収益があがる会社が出てきたかもねという話が出てきたり。若しくは、楽天とかサービスは始めていなかったのですが、ただ起業されていて、そういう大企業を歩んできた、エリート街道を歩んできた人も辞めて、ネットベンチャーを起こしている人もいるという話が出ていたりとか。

インターネット産業っていうのが水面下で出てきはじめているのだなと。1970年台、80年代にパソコン産業が起きてきたのと似たことがインターネットという分野に起きはじめているんじゃないのかなと。そこに大きなチャンスがあるわけで。そこに何か自分も出来ることないのかなというのを考え始めたのが一番最初のきっかけです。

蟹瀬その資本金とか、そういうのは未だ高かった頃…。

笠原最初は、そうですね。有限会社は、300万円が必要な時期だったのですね。それで、さすがに300万円も無かったので最初は本当に法人登記せずに、あくまで個人として「Find Job!」というサービスを立ち上げたというのが1番最初ですね。

蟹瀬Find Job!というのは?

笠原それは、その……。

蟹瀬求人サイトみたいな?

笠原そうですね。ネットサービスの中で何が良いかなということを考え始めていて、最終的には求人サイトをやろうというのでFind Job!という求人サービスを立ち上げたっていう感じですね。

M&Aの成功例・失敗例 シナジー効果を高める企業買収を成功に導く仲介者の信念

津島今回の賢者の選択は、中堅、中小企業を中心にM&A支援サービスを行い、東証一部への上場を果たしました、株式会社日本M&Aセンター・分林保弘(わけばやしやすひろ)社長です。

自分が利益を得ようと思えば他人にまず利益を与えてから

蟹瀬さて、分林さんはもう数多くの企業のM&A、ご支援なさってきたと思うのですけど、そういう目でご覧になったときに、まず最初にお伺いしたいのは、やっぱり企業経営の中で一番大事だなと思われることはなんだというふうに思われますか?

分林そうですね。私は昔から好きな言葉は自利利他という言葉が一番好きなのです。ですから自利とは利他をいうと、自分が利益を得ようと思えば、やっぱり他人に対して利益をまず与えてから、ということをずっとサラリーマン時代を通じてやってきたので、やっぱり非常にいい言葉だと思っているのですが。

蟹瀬そうですよね。これまでの偉大な経営者のかたがたは、結局やっぱりそういうことを考えて成功なさっていたケースが多いですもんね。

分林そうですね。

津島はい。そんな分林さんが、どのようにしてM&Aの支援を志し、成功を収めてきたのか、その秘密に迫ります。

Mergers&Acquisitions、いわゆるM&Aとは、企業の合併、買収のこと。日本で行われているM&Aは、公表されているものだけで、年間およそ2,700件、未公表分を合わせると、およそ4,000件にものぼるという。日本M&Aセンターは、会社を売りたい、または買いたい企業に対する仲介や、経営計画のコンサルティングなどを行い、2007年には東証一部に上場、これまでにおよそ500件のM&Aを成立させている。

津島分林さんは、これまで数多くのM&Aを成立させてきました。そんな分林さんにビジネスの秘訣をお伺いしていきます。

蟹瀬分林さん、M&Aといいますと、ここ数年、かなり頻繁にニュースになると。で、われわれのイメージとしては、どうしても非常に強引に、ある会社が別の会社を乗っ取ると、こんな感じですよね。でも実際のところはどうなのですか?

分林実際に新聞紙上で取り上げるのは、敵対的なものしか原則取り上げないのですよね。

蟹瀬そうですね。片や自分のほうは売りたくないだけども、ダーッと来てお金にものを言わせて「買っちゃうぞ!」と言って買ってしまうというケースですよね?

分林そうなんですよ。ですからご存じのように、当たり前のことなのですけども、新聞とかマスコミさんは珍しいから取り上げるのであって、多分年間10件あるかないかだと思うのですよ。

津島そうなんですね。

分林それもほとんどが、じゃあ本当に会社にとって敵対的M&Aかというと、私から見たら、現経営者にとっては敵対的かも分からないけども、会社にとっては逆じゃないかなというケースは結構あるのです。

99パーセントは友好的M&A

分林99パーセントがもちろん友好的M&Aだというふうに思っていただいたほうが。

蟹瀬お互いに納得して……。

分林お互いにやっぱりプラスになるというのが、やっぱりM&Aなのです。

蟹瀬なるほど。

津島はい。分林さんが今までどのような人生を歩んでこられたのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。1943年、京都府京都市に生まれます。1962年、京都府立朱雀(すざく)高等学校卒業。立命館大学経営学部入学。そして1965年、アメリカへ能楽紹介旅行に行くということです。

蟹瀬ご自宅のほうは京都御所のすごく近くだというふうに伺いましたけど。

分林京都御所のすぐ近くで、小さいときはいつも京都御所で遊んでいた口なんですよね。

能楽師の家に生まれる

蟹瀬で、お父さまは?

分林ずっと観世流(かんぜりゅう)の能楽師をやって、兄も観世流の能楽師を継いで、兄の長男が今、継いでいるのですけども、お袋は茶道の師範をずっとしていたと、そんな感じです。

蟹瀬背中がまっすぐなったまま育ったかなという感じですけどね。

分林いや、そうでもないです。

蟹瀬そうすると、ご自身もやっぱりお能はやられてこられたわけですか?

分林そうですね。やっぱり5歳ぐらいのときから、能の場合は子役だといわずに子方というのですけども、大体毎週ぐらい京都だけでなしに、名古屋へ行ったり広島へ行ったり、プロの子どもですからやっていました。

少年時代

蟹瀬小さい頃のお話から伺いたいのですけど、どういうお子さんだったですか、一口で言って?

分林ものすごくやっぱり好奇心が強かったのですよね。それと、小学校のときの論文が残っているのですが、ちょっと生意気だったので、『朝鮮動乱と徳義問題について』なんて書いて……。

蟹瀬小学生で書いたのですか?

津島すごいですね!(笑)

蟹瀬もうその頃から、なんか人前でビッとやると?

津島おありだったのですね。

分林いや、なんかでも……。

蟹瀬ご自宅には舞台もあったでしょうし。

分林ええ。そんな感じだった、非常に好奇心が強かったです。

2%台という平均空室率を叩き出した不動産投資の新しいビジネスモデルとは?!

白石本日のゲスト、株式会社ボルテックス代表取締役社長の宮沢文彦さんです。よろしくお願いいたします。

宮川どうぞよろしくお願いいたします。

宮沢こちらこそよろしくお願いします。

白石早速なのですが、社名のボルテックス。社名に込められた思いというのはどんな思いですか?

宮沢これは英語で「渦」ですとか「旋風」という意味がありまして。一つには不動産の流動性をイメージしたのと、もう一つは不動産業界における旋風を巻き起こしてやろうという考えですね。

白石強い思いが込められているのですね。ボルテックス、一言で言いますと、どのような会社なのでしょうか?

宮沢不動産投資にイノベーションを起こしている会社です。

白石イノベーションということですね。

宮川新しいビジネスモデルということですね。

白石はい。本日は詳しくお伺いしてまいりますのでよろしくお願いいたします。

宮沢こちらこそです。

白石それではここで宮沢社長のプロフィールをご覧ください。

株式会社ボルテックス代表取締役社長宮沢文彦は、1965年群馬県で生まれる。1988年早稲田大学商学部卒業後、ユニバーサル証券株式会社、現在の三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社に入社。1995年同社を退社後、不動産投資会社で営業担当として従事。1999年独立し、株式会社ボルテックスを設立、代表取締役社長に就任、現在に至る。

白石さて、ボルテックスはオフィスビルの区分所有という新しい不動産の投資のビジネスモデルを展開されていますが、企業が不動産を保有するということはどういった意義があるのですか?

不動産を所有する意義

宮沢私共の事業系オフィスビルの区分所有という商材は、限られた製造業とか限られた大企業だけが、特殊な不動産であったり、大きな不動産を取得できるという状態から、それを細かく切っていくことによって、たくさんの企業が何十億もお金を出さなくても、ある程度のビルを保有できるという形を実現できています。

2億円ぐらいで、例えば通常のビルを買うとなると、どうしても小さいビルしか買えないわけですけれども、私共の商材というのは、例えば20億円のオフィスビルの10階建てでしたら、そのワンフロアを2億で買えるわけです。そうすると同じ2億円でも規模的には10倍のサイズのものを買えますから、おそらく長い年月の中でビルの価値として、通用している期間が長くとれるわけなのです。

ですから、賃料とかマーケットの中でいろんな競合を受けたとしても乗り切りやすいわけです。結局長い企業なり、ある程度国が繁栄していく時、いろんなアクシデントというのはありますから、そのアクシデントの時に、どうしても基となる、処分できる土地というか、固定資産ですね、こういったものがどうしても必要になってくるはずでして。ですから、非常に多くの長期存続企業は相当量の不動産を保有しているのがやはり歴史的にも証明されています。私共としてはそのお手伝いをしているという企業ですね。

宮川いろんな発想があると思うのですけれども、こういう宮沢さんの考え方、その発想の源というのは?

独特の感覚

宮沢そうですね。私はかなり物心ついた頃から屁理屈を言う子どもでして。かなり大人と言いますか、先生の言う事とかを疑ってかかるような、非常にかわいくない子どもだったんですね。

宮川(笑)そうですか。まあ、クラスにはね、時々……。

白石いらっしゃいますけど。例えばどんな感じだったのですか?

宮沢例えば、先生が出す答えに対して真っ向から疑うというかですね。「本当かなあ」っていう考え方をけっこう持っていましたね。

白石じゃあ、1+1は2じゃなくて……。

宮沢2ではないのではないか。というような考え方をよくしてました。

自分の価値観の中で物事を決めていく――独特の感覚

宮沢やはり自分の価値観の中で物事を決めていく、そういう考え方をしていたので、例えば漢字を覚える意味があまり小学生の時にわからなかったんですよ。あれほど複雑な書き方で一文字に時間をかけるのが非効率なんじゃないかなって、子どもの時思っていたんですよ。だから平仮名で書いていたんですね。ですから、かなり大人になるまで、まあ今もそうなのですけど、比較的漢字が書けません。

白石漢字のテストの時とかは?

宮沢もうめちゃめちゃ悪かったですね。

白石でも宮沢社長はプロフィールを拝見いたしますと、早稲田大学に入学されてちゃんと卒業されてますよね。その時の勉強法というのはどんな感じだったのですか?

「駐車場から始める都市計画」。日本の街と経済を変えるオウムガイ導線?

蟹瀬賢者の選択リーダーズ。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

ドーキンズドーキンズ英里奈です。

蟹瀬今回のテーマはインフラ。

インフラ

蟹瀬インフラはねこの番組で何回も取り上げたと思うんですけども、今回は変わった分野なんですね。それは駐車場です。え、駐車場?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども。現代のようにモータリゼーションが発達してたくさんの車が使われるようになると、駐車場というのも立派なひとつのインフラなんですよね。

ドーキンズまぁ確かに駐車場って、初めていく土地だと「駐車場どこだろう?」って探すのが大変なことがあったり。大きなモールだと駐車場が広すぎて、空いてるはどこなんて困ることは結構私あります。

蟹瀬僕もねぇ車運転するの好きですからね駐車場を探すのを大変な思いを何回もしてるのですが、まあ景気のほうも少し上向いた感じでね、駐車場業界も右肩上がりではあるんですけれども。まだまだこの慢性的な駐車場不足続いてるんですね。

駐車場事業で社会を支えることを目的に事業展開をするある企業の取り組みとは?

蟹瀬そこで今回は駐車場事業で社会を支えることを目的に国内のみならずグローバルに事業展開をするある企業の取り組みに迫ります。

ドーキンズ本日のゲスト、株式会社駐車場綜合研究所 代表取締役会長兼社長執行役員 大嶋翼さんです。よろしくお願いします。

蟹瀬こんにちは、よろしくお願いします。

ドーキンズまずはじめにお伺いしたいのですが、駐車場綜合研究所とはどのような理念を掲げているのでしょうか?

すべては「ありがとう」の一言のために

大嶋すべてはありがとうの一言のためにという理念のもとにですね、お客様それからオーナーの皆様、それから関係者の皆様、それから社員の皆様、それから最後に自分に対してありがとうというような会社になったら素晴らしいなという風に思っております。

蟹瀬まあその感謝の気持ちがね、どういう形で事業に現れているのか、今日はしっかりとお話をお伺いしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

大嶋よろしくお願いいたします。

57歳の決断

ドーキンズさて大嶋会長のプロフィールを拝見しますと、駐車場綜合研究所は57歳の時に設立されました。以前はサラリーマンをされていたということなんですけれども定年前に企業というのは何か思うことがおありだったんですか?

定年前に起業

大嶋全く思っておりなさんで、成り行きで起業ということでしたね。

蟹瀬成り行きというのはどういうことなんですか?

大嶋成り行きはですね、ある日、役員会に呼ばれまして、私その頃、常務取締役やったものですから。僕はクビだという宣言が役員会でなされまして。

蟹瀬急にですか?

大嶋急にです。それで退職になったというのが経緯でございます。

蟹瀬何かその辞めさせられる理由というのは心当たりがおありだったんですか?

大嶋それがですね、あまり自分としてはなくってですね。結構成績を上げてましたし、思うとちょっとやりすぎたかなというのはありますね。

ドーキンズやりすぎた?

蟹瀬どういう意味ですか?

大嶋出る釘は打たれるじゃないですけど、成績を上げたんですけど、ちょっと違うんだろうという心に触れたということは、今思えばですけど、それぐらいかなと思いますね。

3億年生きる

ドーキンズさてこの番組では、駐車場綜合研究所の今を象徴する物をお持ちいただき、進行させていただきます。今日はこちらですか?

大嶋はい、これ。ご存知の方も多いと思いますがオウムガイです。

オウムガイ

蟹瀬そうですね。

ドーキンズオウムガイは生きた化石と呼ばれるもので3億年ぐらい今でも生きてる貝でございますから、会社もですね、安定的な継続的に成長できる企業にありたいなという思いを込めてオウムガイを。

蟹瀬これがしかしなぜ、駐車場と事業と関連があるんですか?

大嶋これはですねまあ例えばですね、ちょっとお二人に質問をさせていただきたいのですが、今自走式の立体駐車場、普通上がれるスムーズに行くはず設計しているつもりなんですが、どっかで渋滞している。スムーズに行くのとそのようになってるのはどこがどう違うのか?

問題 一階から屋上階まで渋滞なしで上がれる駐車場と常に渋滞している駐車場の差は何か?

蟹瀬いきなり難しい質問ですね。

ドーキンズ曲がり角がちょっと分かりづらいとか。

蟹瀬中が暗いとか。

大嶋うん、それもありますね。

ドーキンズそれぞれの階に入りづらい。

大嶋だんだん近づいてきましたけど、何か遠ざかってるとも言えます。

蟹瀬近づいてるけど遠ざかってる、これはちょっとわかんないぞ。教えてください。

大嶋一言で言うと導線です。

「成功につながる失敗」とは?三自の精神から始まるクリエイティブな革命たち

賢者の選択 A Shrewd Man’s Choice

津島今回の賢者の選択は、キヤノン時代にVTRや複写機など、さまざまな製品を研究開発した、キヤノン電子株式会社の酒巻久(さかまきひさし)社長です。

蟹瀬酒巻さんは、親会社のキヤノンに30年以上いらっしゃったということで、まず私ちょっとお伺いしたいなと思うのは、今、経団連の会長なさってる御手洗さん、どういう方ですかね?

酒巻ゴルフがうまいというのが一番目ですね。それから勘が鋭いですかね。

蟹瀬勘?

酒巻勘というのは天性ですよね。同じようなテーマを3種類ぐらい言うと、自分が迷っていると相談に行くと、不思議と当たるんですよね。これは別にお世辞ではなくて、その勘の鋭さっていうのは天下一品ですね。

蟹瀬酒巻さんご自身も今、経営者なさってて、やっぱり座右の銘というものおありだと思いますけど、ご紹介いただけますか。

受けた恩は石に刻め。与えた恩は水に流せ

酒巻受けた恩は石に刻めということですね。それと与えた恩は水に流せと。これは疲れたときに、長野のほうのお寺さんに行ったとき、入り口にそれがありまして、それがヒントになりましたね。要するに、部下を面倒見てるのに、結構裏切るというのは、自分はこんなに面倒見たのに返ってくることが違うってありますよね?

で、これが結構多いんですよね。そうすると、結局自分としてはこういう人間関係ができないのではないかという悩むときが必ずあるんです、技術系の場合はですね。で、そのときにこれを見て、そんなに聞いて、ああ、私は間違ってたんじゃないかと。やっぱり自分がそんなに指導したから、やったからと言っているから、それに期待をしているので、最初から期待しなければですね(笑)。

蟹瀬なるほど。

津島期待しないでですね。

蟹瀬その姿勢が経営にどういうふうに生かされてるのか、お話伺ってまいりたいと思います。

津島はい。ビジネスに関する著書が多数おありな酒巻さん、その経験をどのように培ったのか、この後詳しくお伺いしていきます。親会社のキヤノンから、赤字だったキヤノン電子の会社再建を任され、見事に黒字転換を果たした酒巻さん、これまでにどのような歩みがあったのか、年表にまとめましたので、こちらをご覧ください。
1940年、栃木県佐野(さの)市に生まれます。1963年、芝浦工業大学工学部電子工学科卒業。そして1967年、キヤノン株式会社入社、研究開発部門に配属ということです。

蟹瀬1940年お生まれということですと、私とちょうど10年違いまして先輩なわけですけれども、資料を拝見すると、お父さまとお兄さまは職業軍人でいらっしゃった?

酒巻そういう感じですね。

蟹瀬相当、そうすると厳しいご家庭だったんですか?

酒巻いえ、そんなことないです、自由で。

生い立ち

蟹瀬子供の頃はどういうことを言われながら酒巻少年は育ったんですか?

酒巻子供の頃は、とにかく母親しかいませんので、母親がとにかくこれから世の中で、そういう戦争とかいろいろあるときに、絶対に生き延びなければいけないと。そのためには何をやるかというと、全部自分でものができなければいけないということ、それを教わりましたね。ですから、縫い物ですね、私、いまだにズボンの修理から全部自分でやってしまいますよね。

蟹瀬意外ですね、裁縫ができるんですか?

酒巻ええ、ボタン付けなんか左手で、電話しながら左手でやってますね。

津島頼もしい、うらやましいです(笑)。

酒巻ズボンの広げたり縮めたりするのも全部自分で、それは親から全部教えられてたものですね。他にもご飯も炊き料理、お菓子づくりから、徹底的に、とにかくどこへ行っても生活ができるようにと教わりました。それと、一つを上手になるよりも、たくさん上手になりなさいって。

蟹瀬オールラウンダー?

酒巻ええ、だから水泳ができなければいけません、走るのもある程度速くなければいけない。要するに逃げるときに(笑)絶対に水があったら逃げられないとか……。

蟹瀬そういうことのないようにと?

酒巻ないように、全部ができるようにというのがあれですね。

蟹瀬それと、随分本を読めと言われて……?

酒巻ええ。本は読みなさいですね。

本が好き

酒巻漫画本でもなんでもいいから子供のときから本だけは読みなさいと。

蟹瀬どんな本をお読みになりました?

酒巻子供の頃ですから、一番学校でいけなかったと言われたのが『金色夜叉』ですね、中学校のとき読みました。

蟹瀬尾崎紅葉(おざきこうよう)の?

酒巻ええ、これが意外と面白くて。高校のとき一番好きだったのは田山花袋(たやまかたい)ですね。田山花袋の『田舎教師』、このシリーズが大好きでして。田舎が似ている所なんですね。ちょうど私も住んでる頃の所がバックグラウンドになっていますので。

蟹瀬そして電子工学科という、また随分、僕らから見ると分野の違うところへ進まれたんですが、もともとこういう理科系はお好きだったんですか?

芝浦工業大学 工学部 電子工学科 卒業

酒巻それは昔のあれというのは、意外と先生と兄弟の上の者とか、そういう周囲の人の影響って受けやすかったんです、情報が今ほどないですからね。
私の小学校の先生が電気が好きで、まずそのモーター、そういうものがあるものをつくる、電車をつくる、そういうのをずっと放課後教えてもらって。
自分でも電車をつくってみようというので電車をつくったり。それから鉱石ラジオですね。フィードバックが返ってくるラジオなんですが、今はそんなのありませんけど、そういうのを自分でつくるという、そういうのに熱中してましたね。

蟹瀬キヤノンという会社を結局選ばれたというのは、どういう関係からなんですか?

キヤノン(株)入社

酒巻他に行くところがなかったという(笑)。

蟹瀬(笑)それはご謙遜だと思いますけれども、他にも動機は当然おありだったと思いますが。

酒巻ここは、今亡くなった前の社長が来ないかっていうことで、かなり食事までごちそうして呼んでくれたもので、じゃあ行くかなってそういう気持ちで行きましたね。

蟹瀬今そうおっしゃってるけど、われわれの調べでは、日本で初めて完全週休2日を導入したから遊べると思って行った、そんなことかないですか?

酒巻それが本当ですね。

(一同笑い)

津島そちらでしたか、本音は(笑)。

蟹瀬これはあまり言いたくないことだったんですか?

酒巻やっぱりメンツがありますので(笑)。

津島あえてそこを。

蟹瀬社員の方も見てますのでね。

酒巻そう、後でですね。

蟹瀬なんだうちの社長は、ということになるとですね。

酒巻そう、まずいですからね(笑)。

蟹瀬だけどやっぱりそういう意味では先駆的な会社だったということは間違いないわけですよね?

津島はい、そうですよね。

酒巻そうです。キヤノンは土日休みになった最初ですよね。だから非常によかったですよね。

蟹瀬そこから発想も生まれると。

津島はい。この後、酒巻さんはさまざまな製品の研究開発を行います。

津島1967年から1987年、VTRの基礎研究、複写機、ファックス、ワープロ、パソコンなどの開発に従事します。
1987年、システム事業部長に就任。1989年、取締役システム事業本部長兼ソフトウェア事業推進本部長に就任。1991年、取締役総合企画担当兼ソフト事業推進本部長に就任。1992年、取締役生産担当兼環境保証担当兼生産本部長に就任。そして1996年、常務取締役生産本部長に就任ということです。

蟹瀬この年表拝見してますと、なんとか兼なんとか兼なんとか、酒巻さん以外に仕事をしてる方いらっしゃらなかったのかな?と思ってしまうぐらいですけどもね。

酒巻いえ、そんなことないんですけどね。

蟹瀬先ほどお伺いしたところによれば、週休2日だから入ったという社員だったんですよね?

酒巻そうですね。

蟹瀬それでこれだけお仕事をやってる、実際入られたときはどういう社員だったんですか?

キヤノン社員時代

酒巻いろいろありますが、どっちかというと自分の思ったように、やりたいようにしかやらない社員でしたね。

蟹瀬使いにくい社員ですね。

酒巻それはそうだと思いますね。だから時々、今でも部下に私も怒ってるけど、私もどっちかというと不良社員に近くて。

津島あらま!

酒巻それで、気が向かないと絶対仕事しないタイプなんですよね。

津島怒られてしまいますね。

酒巻「今日は酒巻くん、機嫌がいいか聞いて来い」と言ってました。

(一同笑い)

津島普通、逆ですよね?お互いの関わりが。

酒巻で、機嫌がいいというと、「じゃあ呼んでこい」っていくんですね。結構、自分が気に入らないとやらないという、そういう、どっちかというとわがままな社員だった。

ワガママな社員だった。今の部下には許さないけど

酒巻本当にわがままな社員でしたね。私は今の部下には絶対許しませんけど。

蟹瀬立場が変わるとそんなものですね。

津島そうですか。

酒巻そう、だから昔の人は意外とおおらかな人が多かったということですね。

蟹瀬だけどそんな中で、さまざまな研究開発をやってこられたわけですよね。

酒巻ええ。

蟹瀬当然成功したものもあれば、失敗したものもあると思うんですけど、大失敗したのってどんなのがあったんですか?

「懐かしい教育未来をつくる」理念を実現するサービスは、個に向き合うこと

蟹瀬賢者の選択Leaders、ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

白石白石みきです。

蟹瀬今回のテーマはこれまで何回か取り上げましたけれども、教育なんですね。教育のあり方やり方、これは時代と共にずい分と変わってきました。私の若かったころは、これは高度成長期なんですけれども、とにかく詰め込み、そういうのが教育のあり方だったのですけれどもね。白石さんはどうでしたか。

白石私は丁度、詰め込み教育からゆとり教育へ移行する時期でしたね。ですので第二土曜日が学校お休みでしたし、ほどんどの生徒は大学進学を希望していましたね。

蟹瀬僕らの時代は知識偏重、たくさん覚えたほうが勝ちみたいな時代ですけれども、今の教育というのはどちらかといえば、多様性だとか個性をどうやったら出していけるか、このへんに重点がおかれているんですね。ですから、学校だけではなくて、学習塾にも注目が集まっているんです。というわけで、今回は徹底的な生徒目線で、ビジネスを展開する、ある学習塾の戦略に迫ります。

講師一人に対して少人数の生徒
1985年の創業以来、個別指導スタイルの学習塾

この個別指導スタイルをいち早く取り入れ、創業以来変わらず続けている学習塾がある。株式会社東京個別指導学院。今回は徹底した生徒目線で、個別指導スタイルを展開する、東京個別指導学院のLeaders齋藤勝己の新たなる戦略に迫る。

白石本日のゲスト、株式会社東京個別指導学院 代表取締役社長・齋藤勝己さんです。よろしくお願いいたします。

齋藤よろしくお願いいたします。

白石早速なのですが、東京個別指導学院は一言で言いますと、どのような会社になりますか。

齋藤一言で言いますと、誰もが主役になれる塾です。と言いますのは、私どもは生徒が主役であると考えています。そしてそこで働く講師も、教室長も脇役で、そしてそこを支える本社の社員は、裏方のスタッフであるというふうに考えています。

一人一人が輝けるステージを用意するのが使命

蟹瀬教育の現場の理想を伺った感じがしますけれども、私も大学の教員をやっていますので、今日はビシビシお話を伺いたいと思っています。

齋藤お手柔らかによろしくお願いします。

白石よろしくお願いいたします。

白石早速なんですが齋藤社長のプロフィールを拝見いたしますと、東京個別指導学院に入社される前は富士屋ホテルで働いていらっしゃいましたよね。若いころはサービス業に興味があったのですか。

原点はサービス業

齋藤私が大学の頃のアルバイトの影響が、とてもあると思うのですけれども、初めて見る社会ですし、そんな中で接客のアルバイトがとても多かったのです。そういった仕事をしていくと、人のためにお客様のために何か働きかけて、そしてお客様が笑顔になってくれて、とてもうれしいことではないですか。そんなこともあり、人が人に思いやりを持って接することで価値が生まれる。そんな温かいシーンに働く価値を見出して、サービス業を志しました。

蟹瀬それだとホテルがいいだろうと、いうことになったわけですね。その富士屋ホテルで、こんなことを学んだなという点は、どのようなことなのですか。

富士屋ホテルで学んだこと

齋藤富士屋ホテルで仕事をしていく中で、今でも私自身の中で大切なものとして残っているのが二つあります。
一つはお客様との信頼関係です。何かサービスをして差し上げたりですとか、言葉を掛けて差し上げるような場合でも、そういった一つひとつのサービスはもちろん、お客様にとってはうれしいのですが、むしろその裏側にあるお客様のことを思う気持ち、その人に対する信頼関係が、大きな価値を生むということを実感いたしましたので、一つは人と人との信頼関係です。もう一つはチームの力ですね。

蟹瀬確かにですね。

齋藤ホテルのようなところでやっていると、自分でできることって限られるんですよね。

蟹瀬ホテルの裏側を僕なんかも取材させてもらったことがあるのですが、大変ですからね。チームワークというものがないと、いろいろな問題が解決できないですよね。

齋藤チームでお客様のために何かをやるとしたときに、このチームの力は何を大切にするか、誰のために仕事をするのか、そういった思いが一つになったときに、チームの力というのは大きくなりますので、そのことも学ばせていただきました。

蟹瀬普通ならばホテル業に入って、世界のトップのホテルマンになってみようとか、そういうふうになるのが普通かなという気がするのですが、なぜ別の道へいかれたのですか。

転職の理由

齋藤ホテルでの仕事はとてもやりがいがあったのですけれども、ホテルでよく見かけるシーンで、家族連れというのがあるじゃないですか。そのときの子供の笑顔はとてもいいですし、それから子供の笑顔を見る親御さんの笑顔もとてもいいですよね。でもこの笑顔がずっと時間軸で長く続いていくためには、どうすればいいんだろうと考えたときに、丁度今の私が勤めているこの会社に巡り合いました。

白石この番組では3つのキーワードで進行させていただきます。まず1つ目のキーワードはなんでしょうか。

齋藤「未来を笑顔にする」です。

蟹瀬未来を笑顔にするというのは、とても響きがいいし何となく教育にマッチングがいいなという気がしますけれども。

齋藤ありがとうございます。

蟹瀬改めてどういう思いがそこにこもっているのでしょうか。

未来を笑顔にする

齋藤今の子供たちが将来、社会に出ていくときには、言うまでもなく社会に大きな変化があると思うんですね。でも一瞬一瞬を自分らしく生きていくということは、とても大切だと思っていまして、そのためには子供たちがポジティブに前向きに生きていく未来をつくるために、今どんな経験を子供たちに提供してあげられるか、これが私たちの仕事だというふうに考えています。

蟹瀬やはり思いを実現するためには、個別形式がよい、個別指導の優位性といいますか、目的といいますか、そのあたりはどういうふうにとらえていらっしゃるのですか。

個別指導の優位性

齋藤生徒一人一人やはり学力が違う。それから個性も違う、目的が違います。目指すべきところですね。ですから生徒が成長していく、いわゆる道のりというのは、みんな違ってきますので、まずやることは、子供一人一人の学力を正しく把握するということです。これは一人一人の学力を確認する方法がありますのでします。それからもう1つは目的ですね。例えば受験だったりとか、それから受験ではなく内部進学されるような方もいらっしゃるので、いろいろな目的が違いますので、目指すべきゴール、ここを明確にします。そして現状と目的の、この間のこの道筋をきちんとカリキュラムでつくることができるんですね。ここが個別指導の優位性だと、このように考えています。私が今の会社に入った頃は、まだ個別指導というもの自体が、あまり知られていない時代でした。私も子供の頃はありませんでしたし、蟹瀬さんもないですよね。

蟹瀬僕は団塊の世代のしっぽのほうですから、1学年10組はいて、名前も覚えてもらえないみたいな感じで、そんな感じでした。

齋藤一人一人が自分らしく成長し、自分らしく輝くためには、一人一人個性も能力も違いますから、一人一人とキチンと向き合うことから始める、この個別指導のスタイルというのは、子供たちの未来をつくってあげられるかなと、そんなふうに思ってこの仕事をずっと続けてきました。

白石私なんかの時代は、個別指導の塾というのが出始めた頃だったんですね。私が小中学生のときに、別の塾なのですが個別指導の塾に通っていまして、というのも大勢の中で手を上げて意見を言うというのが、とても苦手だったので、そういった塾に通ったのですけれども、それによって先生との距離がとても身近で、何でも話せるという、分からないことがあってもすぐに先生に質問できるというのが、とても私には合っていましたね。

齋藤そうですよね。そういうお子さん、今たくさん通っていただいています。

蟹瀬割とヨーロッパなどは少人数で、徹底的に議論するということが子供のころからあるわけですよ。日本ではなかなかそれは難しいですよね。

白石いろいろな子がいるわけですから、その子の性格に合わせてというと、難しくはないですか。

「平和産業」小売りの雄だから見据える、アジアから世界への社会貢献とは

Leader & Innovation・賢者の選択、特別ナビゲーターの呉四海(ウー・スーハイ)です。

白石白石みきです。

私は上海テレビ国際チャンネルで、中国初の日本語によるニュース報道番組のキャスターを務めています。テレビの中日の架け橋を16年間、上海で務めています。今回のLeader & Innovation・賢者の選択は、2012年日中国交正常化40周年にちなんで、日中開発経済の架け橋となり活躍されている方をゲストに、特別編としてお送りします。

白石改めてご紹介させていただきます。イオン株式会社名誉会長相談役の岡田卓也さんです。よろしくお願いいたします。

岡田よろしくお願いします。

白石本日は、企業の原点を象徴する3つの言葉で進行させていただきますが、まず最初のお言葉は何でしょうか。

岡田小売業の原点というのは平和であると思いますね。

岡田卓也 企業の原点① 小売業の原点は平和

白石それは具体的に言いますと。

岡田私は大正生まれですからね、だから、日本が戦争に負けて全く何もなくなった。その時にまだ学生。軍隊から帰りまして、また学生に戻ったわけですけれども、家業が古い250年も続いた呉服業だったんですね。これがすっかり焼け野原になってしまって。
しかし一つだけ残ったものがございまして、それは古い土蔵だけが焼け残ったわけです。その中から大福帳とか昔のそれが出てきたんです。みんな墨で書いたようなものなんですけどね。しかしそこに私の生涯の商業の原点が一つあるというふうに思いました。

大福帳から学んだもの

岡田一つは貸借対照表。それが当時は見競勘定(みくらべかんじょう)と言ったんです。企業の原点っていうのは、バブルがはじけたときに、バランスシート・リセッションと言われたんですね。いわゆるバランスシートがきちっとしているということが一つ原点であると。それからもう一つは、その大福帳の中に個人の商店なんですけど、ずっと経費が書いてあるんですね、お店の経費が。お店の経費の少しおいて、やっぱり隅で書いてあるんですが奥小遣い。個人の支出、生活費が別枠であるんです。
これが何を現わしているかといえば、その個人の商店でもお店の経費と、個人の経費とをはっきり分けていたと。そういうことの公私の別と言いますか、今で言えば。これが明確に書かれておったと。それは元々日本の商業の原点である近江商人から伊勢商人に渡ってきて、そして私どもの先祖の小売業の中にも、それがずっと伝わってきておったということで、私はこれが一つの原点であるというように思いますね。

商売の原点は、最初から公私混同ではなくて、最初から公と私とはっきり分別してやるということですね。

岡田昔から、国家も企業も倫理観が無くなった時にそれが滅びるというふうに言われているんですね。私どもも、現実にそういう企業をこの長い企業生活の中でいくつか見てまいりましたですね。

そしてそこからですね、岡田屋ということで呉服から始まったわけですね。そこからまた色々拡大してジャスコにつながったということが言えるでしょうか。

岡田はい。それで私はその頃に、アメリカの優れた近代小売業を見学に参りました。それはまだプロペラの時代です。ウエイクで給油をして、ハワイで給油をして、サンフランシスコまで行くと。30時間かかる旅でございました。
それでアメリカの近代的な企業を、キッチン宿に泊まりまして、そして1か月ぐらい勉強いたしました。そして日本に帰って将来は日本の小売業も、もっと近代化すべきだというように考えて、そして次々と新しい小売業の形を、何であろうかと考えながら展開していったわけです。

当時会長他、早稲田の大学生と社長、それから学問と商売の両立が大変難しいんですけれども、会長が小さいころにお父様を亡くされたにも関わらず、この商売のノウハウとかはどうやって学ばれたんですか。

岡田私どもの古い歴史の中には、色々な家訓がございました。一つは「大黒柱に車をつけよ」っていう。昔の商店はお店の真ん中に非常に大きな大黒柱という柱があったんですね。それの下に車をつけとけということなんです。ということは、時代の変化、あるいは立地の変化というようなものについて、変化に対応していきなさいというのが大黒柱に車をつけよと。
もう一つが、私の父親の時代に対象大暴落っていうのがございまして、一挙に物価が下がった。その時に、父が取った対策は「上げに儲けるな、下げに儲けよ」っていう家訓なんです。どんどんインフレでものが上がったり、そういう形で儲けたのは、それは儲けじゃないと。それはそうじゃなくて、下がっている時にいち早くお値打ちなものをお客様に提供すると、それが信頼につながるんだと、お客からの。という家訓がありますね。そういうものをきちっと守って、私はやってきただけに過ぎないと思うんです。時代の変化なりお客様の変化なりに、直ちにどうやって対応していくかということなんですね。

あの頃に実際、この家訓から最初に実践した、何か商戦はありますか。

成長の鍵は家訓にあり

岡田私どもは戦前の焼け野原の中でありますので、どこへお店を作るとかも何もないんです。でいち早く昭和21年にやっと材料をいくつか集めて40坪の店を作ったんです。それがかつて戦前にあった場所、戦前ではそこがまちの一番中心だったんですね。そこへ作った。
ところがすっかりまちが変わってしまったんですね。そして新しい道、諏訪新道というところがお客様が一番通られるようになって、そこに露店商が並んだりしたものですから、そこへ先祖伝来の土地と、資金がなかったものですからそこの地上権と交換して店を移動したんです。
ところがまた、3年も経たないうちに、駅が移転をしたんですね。そうしますとそちらが中心になって、またそこの駅前に店舗を移転したという、それが昭和の20年代に続いて、3度立地を変えているんです。お店っていうのは、お客様のためにあるのであって、お客様に便利なところにお店を移動するというのが私は原則だと思うんです。

本当に20年単位というか30年単位で岡田屋からジャスコ、ジャスコからイオンへと変化してきたんですけれども、その背景にはどのような関係があるのでしょうか。事業戦略があるのでしょうか。

岡田時代が変化をしていく中で、それに対応していくことが普段は原点にあるわけですね。先ほどの大黒柱に車をつけよと同じことなんですが、だいたいもう一つはその変化っていうのはどれぐらいの期間で変化していくだろうかと。企業の寿命はよく30年と言われますね。私が操業してからついに25年経ってきたと。20年くらい経ってきたときにちょっと危機感を感じてきたんです。どうあとあるべきかと。それで、歴史を調べましたら、企業って言いうのは合併の歴史だっていうことがね。

「たじろがずに自分をかえていく」200年企業が次に乗り越える時代の潮流

蟹瀬ターニングポイント賢者の選択ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

石田アシスタントの石田紗英子です。

蟹瀬最近本屋さん行きますとね、長寿企業なんて長いこと経営を続けてらっしゃる企業が結構目につくんですね。考えてみますと我々日本人は世界でも一番長生き。それから、それだけじゃなくて企業の寿命という点でも世界一のレベルなんですね。しかしそれだけ長く経営が続くということにはおそらく何か秘密があると思うんですね。というわけで今回は港湾物流事業を中心に事業を展開する老舗企業に焦点を当てまして時代への対応、そして変革などについてお話を伺って参りたいと思います。

石田それでは今日のゲストです。鈴与株式会社取締役社長鈴木与平さんです。

蟹瀬今日はどうもお世話になります。よろしくお願いします。

石田どうも今日はよろしくお願いします。

鈴木よろしくお願いします。

蟹瀬あのちょっとプロフィール拝見していましたら、静岡高校のご出身ということで、静岡高校っていろんな人を輩出されて文武両道の学校ですよね?

鈴木はい。

蟹瀬どんな高校生だったんですか?

鈴木私ですか?

蟹瀬もうその辺から興味が。

鈴木ごく普通の高校生でございまして。高校時代はバレーボールをやっておりました。これがまた静岡高等学校のバレーボール史上を最弱のチームで。今でもOB会に行くと鈴木さんの時が一番弱かったとか。お前の時が一番弱かったとか。いじめられるんで。どうも体育会系というのはそういう意味では弱いと大変なことになります。

蟹瀬でもそういう方が今も大活躍なわけですからね。今日はもう楽しみにしてます。

鈴木恐れ入ります。

石田ではまずは鈴木社長のプロフィールをご紹介いたします。鈴与株式会社取締役社長鈴木与平さんは7代鈴木与平会長のご子息として1941年8月に静岡で誕生。県立静岡高校卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学。1965年卒業。1967年東京大学経済学部を卒業。鈴与に入社後、日本郵船に出向。1977年鈴与の社長に就任され現在に至ります。ちなみに鈴木社長はJリーグの清水エスパルスの球団会長も兼任されています。

蟹瀬まあエスパルスの話は後ほどちょっと私も個人的関心があってお伺いたいなと思いますけれども。代々繋がっている企業のなかでね、しかもお名前まで同じ名前を継いでくるわけですよね。これは自分はその仕事しなきゃいけないていう気持ちと、いやもうこういうんじゃなくって全然違うことやりたいなという気持ちと言うのは若い時に交錯しなかったですか?

鈴木そうですね。もうおっしゃる通りです。

働き方改革も支える!「決断のスピード」で世界のITインフラの中心的存在へ

賢者の選択Leaders

蟹瀬賢者の選択Leaders。ナビゲーターの蟹瀬誠一です。

福井福井仁美です。

蟹瀬今回は、情報のセキュリティやデータ管理に特化し、IT環境を整えることで働き方改革に貢献する、ある企業の取り組みに迫ります。

AvePoint

アブポイント・インク。2001年共同設立者及びCEOであるテンイー・ジャンとシュンカイ・ゴンがアメリカ・ニュージャージー州で設立。現在はマイクロソフト社のパートナーIT企業として、全世界で1万5千社以上、600万人以上のクラウドユーザーに対し、データの移行、運用管理、保護を提供している。その功績により、2014年にはマイクロソフト社が選ぶパートナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。その後2017年まで4年連続で受賞をしている。

TJお客様に新しいものに慣れて頂くのではなく今までの使い慣れた環境そのままに仕事のやりやすさを目指しています。

環境を整えることで働き方改革に貢献する。アブポイントが掲げる、情報時代のニーズに応じたソリューションとは?

福井それでは本日のゲストをご紹介します。アブポイント・インクCEO、テンイー・ジャンさんです。どうぞよろしくお願いいたします。

蟹瀬よろしくお願いします。

TJよろしくお願いします。どうぞ私のことはTJと呼んでください。

蟹瀬ありがとうございます。TJさん、今はもうITというのは僕らの生活にも、あるいは仕事場でも、とても不可欠な物になっているわけですけれども、その辺のIT環境というのはどういう風に作り出していくのか、あるいは変化していくのか、今日はじっくりお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。

運と努力

蟹瀬さて、TJ。このアブポイントという企業、世界的に展開されているIT企業ですけれども、具体的にどんな事業をなさっているのですか?

TJ国境やカルチャーを乗り越えてデジタルトランスフォーメーションを実現する企業をサポートする会社です。クラウドへのデータの移行や運用管理・保護、コスト削減やデータの利活用の促進など、顧客ニーズに合わせて包括的なサービスを提供しています。

福井先ほどお名刺をちょっと拝見させていただいたのですけれども、このアブポイントのロゴがとても印象的だったのですが、こちらは何か思いを込められて作ったのですか?

TJこのロゴは共同創業者であるシュンカイ・ゴンがデザインしました。山の上に昇る朝日、そして頭を垂れてお辞儀をしている人間を同時に表しています。大きなビジョンを持ち、太陽のように情熱的に目標を追い求めつつ、同時に謙虚に学び続けるというアブポイントの姿勢を表しています。

蟹瀬会社を作る上で経緯があると思うのですけれども、どのような経緯でこの会社というのを作られたのですか?

TJ実は、私はアブポイントの立ち上げ前はウォール街で働いていました。ドイツ銀行やリーマンブラザーズでシステム研究開発を担当していました。9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起きたとき世界貿易センターの40階で働いていたのですが、サウスタワーへの飛行機の追突をこの目で見て人生観が一変してしまいました。それを機に博士課程に入学し、機械学習の研究を始めることにしました。そのときITバブル崩壊のために転機を迎えていたシュンカイ・ゴンと共に会社を立ち上げることを決めました。運命に翻弄されるのではなく、自分たちで運命を切り拓いていこうと起業しました。

蟹瀬I see. 事業を始められた当初から結構順調に進んだのですか?

TJ起業から3年は全くビジネスになりませんでした。(笑)よく「起業をするなら3年は利益が出ないと思え」と言われますが、まさにその通りになってしまいました。最初の3年間の利益は何とゼロでした。(笑)大きい会社であれば、すべてのチャンスをつかめなくてもまだ次があります。しかし、まだ歴史も信用もない小さな会社はそうではありません。チャンスをつかまなくては、来月も自分たちが存在しているかわかりません。だからこそ顧客の信用を得るのも難しいというジレンマに直面しました。小さなスタートアップ企業は同様の状況を乗り越える必要がありますが、毎月毎月がサバイバルで、非常に困難な時期でした。

蟹瀬しかし、どこかでやっぱりターニングポイントがあったわけですよね。それはどの辺りだったのですか?

TJビジネススクールに入ると、まず叩き込まれるメンタリティが「運と準備ですべてが決まる」というものです。私たちもそのメンタリティで3年間必死に準備をしました。そしてついに運が訪れてくれました。2003年に米国マイクロソフトが新プログラムを発表しましたが、それに移行できるツールを提供できるのがアブポイントだけだったのです。利益を生み出せなかった3年間懸命に準備していた移行ツールが誰も触れようとしなかった分野の先駆的存在となり、成果を生みました。このツールの存在がきっかけとなり、アブポイントの存在を一気に表舞台に押し上げてくれたと言えるかもしれません。